シンボリの屋敷から車で揺られること一時間弱。
私たちはちょっとした山に入った先の、広々とした台地に到着した。
山、といっても丁寧に整備されているためか鬱蒼とした暗さはなく、むしろ高台から街全体と海を見渡せる解放感に満ちた空間である。
入り口から見て反対側には、ちょっとした学校程はありそうな建物が構えている。長い廊下にステンドグラス、尖塔が特徴的なそれはあたかも教会堂のごとき有り様だった。
その手前には、これまた丁寧に整えられた芝とダートのコースが広がっている。
院長が自身の知識と技術、そして財を惜しみなく投入して作り上げたそれは、かの屋敷のそれをさらに数段上回る程。もっとも、仮にも教室であるこことあくまで私設の庭を比べるのもどうかと思うが。
そこで駆け回っていた数人のウマ娘の子供たちが、侵入してきたエンジン音に一斉に顔を上げる。既に日も昇りつつあるというのに、全く疲れを感じさせない勢いで走り寄ってきた。
これは少し特殊なことかも知れないが、私にとって、我が家という単語が示す場所は二つある。
一つは今現在、母と兄、そしてカフェと一緒に暮らしているあの戸建て。そしてもう一つが、母が運営しているこの孤児院兼レース教室だ。
彼女たちと一つ屋根の下で暮らし始めてしばらく経つが、もともと私としてはここで過ごした時間の方が長い。
といっても、ここには隔日で顔を出しているし、そもそも所属を変えたわけでもないので別に懐かしさなどは感じないが。強いて言うならクラス替えをした程度の感覚である。
両方とも『家』とだけ呼んでいるあたり、母もまた同じような認識なのだろう。
群がるウマ娘たちを掻き分けるようにして、ここの管理人も額の汗を拭いながら私たちの方へと向かってくる。
ハンドルを握っていた母もまた、荒っぽく入り口近くにバンを停車させると、一足先に運転席から飛び降りて歩いていってしまった。
車内に残された私たちもまた、てんでばらばらに動き始める。
「ハハッ、見ろよアイツら!!こんな車の近くまで雁首揃えて群がりやがって。ここはサファリパークかなにかか?」
「あっ、えっ……シリウスさん?……ちょっと、待ってください!!」
「オラッ、散れ散れ!!見せもんじゃねぇぞ!!!」
「シリウスさん……!!」
初めて訪れる土地にも関わらず、全く気後れせず一番乗りに飛び出すシリウスと、慌ててその背中を追いかけるカフェ。
シリウスの尻尾を捕らえたかと思えば、お返しとばかりにシリウスもまたカフェの前髪をひっ掴み、その勢いのまま興味津々にバンを囲っていた集団へと、もつれ合いながら真っ直ぐ突っ込んでいく。
私の知らないうちに、二人ともあんな仲良くなっていたのか。
「………」
そんな二人に我関せずといった様子で、悠然と歩いていくシンボリフレンド。
チビ共の騒乱をそのままスルーし、ターフを逸れて建物の玄関へと歩を進める。何事かと見守っていると、その奥から兄さんが姿を現した。玄関脇の柱の影に身を寄せて日射しを凌ぎながら、なにやら顔を突き合わしている。
そして、そんな彼女たちを窓越しに眺めているルドルフ。
その視線はしばらくの間姉を追っていたが、やがてシリウスとカフェのいる方向……幼いウマ娘たちの群れの方へと固定された。
窓ガラスに耳と鼻先をくっつけながら、どこか落ち着かない様子で尻尾をふりふりとさせている。
出遅れてしまったため動き辛いのか。それとも、あっという間に輪に混じったシリウスの姿に気後れしているのだろうか。羨ましそうに眺めながらも、自分でそのドアを開けようとはしない。
後ろから腕を伸ばして、そんな彼女の髪を優しく鋤いてやる。
耳の付け根から後頭部、うなじ、さらにその先までゆっくりと。肩まで届く艶やかな鹿毛は、目の前でサラサラと流れるように指の間を抜けていった。
そこから手を離すと、今度はゆっくりと背中を撫でてやる。肩甲骨から尻尾の少し上まで、ルドルフが落ち着くまで何度もそれを繰り返す。そうしていると、バラバラと動いていたウマ耳もやがて落ち着きを取り戻し、つられて尻尾がふわりと舞い上がった。
「ルドルフ」
「うん」
「さぁ、行っておいで」
そして最後に、その背中を軽く押してやる。
瞬間、勢いよく開け放たれるドア。
ルドルフはまるで弾かれるように、一目散と群れを目指して駆け抜けていった。
「…ふふ」
まるで犬みたいだな。
昔、アメリカで羊の放牧を見学した時に、牧羊犬が羊の群れへと突っ込んでいく光景を見たことがある。あの犬の毛色はたしかブラウンで、だからか妙にルドルフと親和性が高い。こんなこと、絶対本人には言えないけれども。
「さぁ、貴方も放牧の時間ですよ」
彼女を見送った直後、バンのバックドアが開く音がして、むわりと熱の籠った空気が一気に車内へと流れ込んできた。同時に車椅子を固定していたベルトが解放される。
私は椅子に乗ったまま、伸びてきた腕にハンドルを引かれて後ろへと引っ張られた。どうやら久々に、真夏の太陽に照らされる時が来たらしい。
「ルナときたら、まるで大型犬ですね。ライオンと名付けた貴方には悪いですが」
「お気遣いなく。自分も全く同じことを思っていたところですし」
「そうですか。あぁそれと、お礼は結構ですよ。当然のことをしたまでですから」
至極どうでも良さそうな返事を返しながら、私を車椅子ごと抱え上げるシンボリフレンド。
本来なら数人がかりで行うその作業も、ウマ娘なら腕力に任せて横着が出来るらしい。まるで堪えた様子も見せず、いつも通りの微笑みを湛えながら私の顔を見下ろしていた。
立ち上がれない私の代わりにバンの扉を下ろすと、そのままハンドルを押してターフへと運んでいく。
流石に、コースの中へと踏み入ることは出来ないが。コーナーに沿って曲がり、建物の影に入ったところで車椅子を止めてくれる。
中々陽の光を遮るもののない山中の台地における数少ないオアシス。彼女もここから動くつもりはないらしく、兄から受け取ったらしきアイスを片手に私の傍らへと寄り添った。
「しかしまた随分と、大勢のウマ娘の子供がいるのですね。中々に壮観な眺めです」
「よく言いますね。総数ならシンボリとて大概でしょうに」
「ウチは数こそ立派ながら、彩りはありませんからね。誰かさんのお弁当の中身みたく茶色一色」
「あー……そう言われれば確かに」
あの屋敷で見かけたウマ娘の大半が鹿毛だった。
シンボリルドルフやシリウスシンボリ、スイートルナ。当然彼女もその一人だ。
シンボリカストルは青鹿毛だったし、直接見たことはないがスピードシンボリは黒鹿毛だというが……まぁ、彩りという程のものでもない。血縁に基づく集団である以上、当たり前といえば当たり前の話ではあるが。
反面、ここにいる連中はまさに多種多様。
毛色一つとっても、最も一般的な鹿毛から青鹿毛、青毛、栗毛、栃栗毛にやや珍しい芦毛、白毛まで。たぶんそれ以外の者もいる。このまま写真に収めて図鑑か教科書に載せてもいいぐらいの豊富さだった。
もっとも、この集団において多様なのは毛色だけに限らない。年齢から出身地、性格、瞳の色に至るまで様々だ。
そもそもここにいる目的すら同じではない。私のように、身寄りなくしてここに拾われた孤児から、レース教室に通うアスリートの卵まで。さらにその友人知人から、どこからか面白そうな匂いを嗅ぎつけて混ざりに来た者までいる。
まさしく混沌。闇鍋。ウマ娘の坩堝。
カフェは言わずもがな、新顔のシリウスやルドルフまであっさりと飲み込んでいる。
とはいえ珍しいものは珍しいのか、二人はわらわらと円陣を組むかのように包囲されている最中だった。
きっと質問責めという名の洗礼でも受けているのだろう。ここにいる誰もが通ってきた道だ。
「あの子たちも無事に馴染めそうでなにより。どうにもウチの近くでは変なバイアスが邪魔をしているらしいですからね。幸い、ここにはその心配もなさそうですが」
「当然でしょう。ウマ娘ですらない私をも受け入れた場所です。良くも悪くも寛容な集団ですから」
初めてここに来た日、なんてものはそもそも覚えてすらいないが。ただ、出ていく時はさっぱり惜しんでもらえなかった事は覚えている。
来るもの拒まず、去るもの追わずがここにおける法則だ。かくいう私も、今ここに誰がいて誰がいないのかよく分かっていない。
いない者のことはとりあえず忘れて、その時その場にいるものだけで戯れるのだ。無秩序の極みというか、そもそも集団とすら言えるのかどうか。
一通り質問も終わったのだろう。
ルドルフとシリウスの周りで団子になっていた塊がほどけていく。
とはいえ勿論、これで解散というわけでもなく。これまた羊の群れのように、ターフのスタートラインへとまとまって歩いていく。当然だ。大勢のウマ娘が広々とした場所に集まって、やることなんて一つしかないだろう。
こうなることを予想していたのだろう。既にそこにはダルそうに仁王立ちする母の姿。
彼女の合図を皮切りに、子供たちは次から次へと駆け出していく。距離はなにか……いや、そもそも決めているのかどうか。どうせ走れればそれで満足なのだ、彼女たちは。
灼熱の太陽をものともせず、ウマ娘たちは全力で私たちの前を駆け抜けていく。日陰からそれを眺めて、ふと目についたのはルドルフの姿。
「最初は、器用な子だと思っていました」
才気に恵まれ、なんでも人並み以上にこなすことが出来る逸材。
ともすれば、自分なんかよりもずっと大人びて見えて。自分一人でなんでもこなせるなんて、そんな放言すら受け入れられてしまう程に。
「今はどうなんです」
「私の思い違いだったのかもしれません。あるいは上部だけしか見えていなかった。彼女は、シンボリルドルフは私が思っていたよりずっと子供で不器用だった」
彼女は優しすぎたのだ。そして残酷だった。
その才故に夢の屍という名の轍を築き上げ、それでも誰かと一緒にいたかった。同じ視座に立つ仲間が欲しかった。
でも結局、それはただの傲慢でしかなくて。
ルドルフは日の当たる夢から追われることになり……それでもなお、想い焦がれることを止められず。そうして向けられた矛先は、他ならぬ自分自身。
なら、いくら友達をあてがったところで意味はない。その弱さを克服しなければ、いずれ彼女は潰れてしまうだろうから。
他者を踏みにじるという意味を、その覚悟を彼女は知らなければならない。
丁度いい機会だった。私が二度と踏めないターフで、私から奪った走るという快感を存分に味わうといいルドルフ。
こんな、自らの足で地を踏めぬほどに成り下がった私の前で。そうやって、陽のあたる芝を笑顔で駆け回り、そしてそれを見せつけろ。
いくらレースに集中していても、私たちの姿はそこから見えているんだろう?よく目に焼き付けておくべきだ。
君が将来、皇帝として覇道を歩むなら……きっと、君はこれ以上のものを見ることになるだろうから。
これが、私が君にしてあげられる最後のことだった。
彼女が玉座と呼んだ地下室の扉は、きっと卵の殻だったのだろう。私とシリウスがそれを破った。だから、君はもう孵化しなくては。
君自身が作り上げ、そして壊したパーフェクトの屍を糧として、君はようやく皇帝として完成するんだ。
十重二十重の夢の屍を積み上げて、きっとそれ以上の夢を人々に見せられるウマ娘へと。
期待しているよ、シンボリルドルフ。
「私には、貴方はあの子以上に不器用な方のように見えますけどね」
そんなシンボリフレンドの呟きを聞き流し、私はもう一度ルドルフの姿を探す。
彼女はゴールの隣で、一緒に走っていたカフェや他の子たちと談笑していた。その瞳には、もう私の姿は映っていない。
ひとまず休憩を挟むのだろうか。何人かとターフを離れていく姿を、視線だけ動かして追う。
「最後の一口です」
ぬぅっと、不意に膝の上に落ちる影。
いつの間にか真ん前まで移動していたシンボリフレンドが、溶けかけたアイスの塊を乗っけたスプーンを私の口に差し込んできた。
ひんやりと甘いそれを舌の上で転がしていると、彼女はその場でしゃがんで私と視線を合わせてくる。
ルドルフと同じ紫の瞳。全く崩れない微笑。ほの暗いそれらからは全く感情が読み取れない。
なるほど、これがポーカーフェイスというものか。
「ドキドキしましたか?間接キスですけど」
「まさか。男子中学生でもあるまいに」
「ついこの間までそうだったでしょう貴方。それにしても、ルナの前だとあんなに目をキラキラさせていたのに……」
ほうっとため息を溢しながら、彼女はターフへと振り返る。
生憎、その先にはもうルドルフの姿はない。
「あの子に惚れましたか?」
「いいえ。私にとって彼女は亀みたいなものです」
「亀?」
「昔、浜松の遠州灘に訪れた時にですね。ウミガメの放流というものを体験したのですよ。ヨチヨチと、懸命に大海に向かって這っていく姿はルドルフによく似ています」
「……思ってもないことを。ようするに誤魔化さなければならない感情ということでしょう」
好き勝手なことを言いながら、ようやくシンボリフレンドは私から離れた。
木のスプーンを紙のカップに突っ込み、まとめてぐしゃりと丸めてポケットに突っ込む。そういう細かいところで律儀な様子は、ルドルフとのたしかな血の繋がりを感じさせる。
そんなことをつらつらと思いながら眺めていると、まさにそのルドルフが建物の影から私たちの所へと飛び出してきた。
なるほど、ターフから姿を消したのはこちらへ向かってきていたからか。
「あ、姉さん!!姉さんも一緒に走ろう!!」
「ルナ……私はもう、レースからは引退した身だから……」
「いいじゃん別に。そもそもここに現役の競争バなんていないんだから」
「それはそうだけど……分かったよ、もう」
彼女の目的は姉の方だったようで、その腕にひしとしがみつきながらぐいぐいとターフまで引っ張っていく。
シンボリフレンドもまた、ぼやきながらもそれに付き合ってやるつもりらしい。たしか昔は派手に喧嘩していたとか言っていたが、その姉妹仲はかなり良好のように見える。お互い成長したということだろうか。
「そう言えば、ルナ。一つ聞いてもいいかな」
そんなルドルフの背中を私は呼び止める。
そう言えば、彼女に聞いておきたいことがあるのだったな。
「いいよ、なに?」
「今、シンボリルドルフは幸せかな?」
予想外の質問だったのだろうか。
ルドルフは一瞬、驚いたように固まって。
そしてすぐさま、満面の笑顔で私を振り返った。
「……うん!!とっても!!」
「そうか」
それは良かったなルドルフ。
そういう約束だったもんな。
卵から孵った皇帝はついに空へと羽ばたき、これからいくつもの勝利を重ねていくのだろう。
なら、私の役目はこれでおしまい。
サンデーサイレンス、スイートルナ、そしてシンボリルドルフ。
三人のウマ娘から請け負った一夏の仕事は、これにてようやく幕を閉じた。