まさか玄関を開けた直後に出くわすとは思わなかった。
この家から学園まで歩く最中の時間を使って、彼女たちと顔を合わせる心の準備を整えようという腹積もりだったのだが、どうやらシービーの方が一歩先を行っていたらしい。
制服姿ではなく、学園指定のジャージを上下に着込んでいた。ランニングシューズには僅かに乾いた泥がこびりついており、彼女自身うっすらと上気している所を見るについ先程までランニングでもしていたのだろう。
朝のストレッチとしてはおかしくないのだろうが、しかし場所が場所だ。この家は、生徒が普段利用している学園周辺のランニングコースからは大きく外れている。近辺の道路からして入り組んでいることから、いくら人通りの少ないこの時間帯といえどもウマ娘にとって走りやすい環境ではない。
つまりシービーはたまたま見かけたから立ち寄ったというものではなく、明らかに最初からここを目的として真っ直ぐ向かってきたのだろう。
「どうして私がここにいると分かった?シービー」
「トレーナーに聞いたんだ。昨日の懇親会、お開きになった後にたづなさんがキミを担いで帰ったってね」
スラスラと淀みない口調でシービーは答える。まるでそう質問されることを予想しており、予め返答を用意してあったかのような流暢さ。
まぁ、これは当然嘘だろう。いくら自身の担当とはいえ、他のトレーナーの動向について口を滑らすほど先生は迂闊ではない。そもそも生徒にトレーナーの情報を売り渡すのはトップクラスのご法度なのだ。ましてや昨日、あんなことがあったわけだし。
そのことをシービーは知っているのか否か。私を抱き締めたまま飄々と笑っている様子を見るに、いずれにせよ最初から誤魔化す気しか無かったのだろう。思えば先々週、彼女からとあるオフライン地図アプリを勧められてインストールした覚えがあるが……たぶんあれのせいだな。
「ストーカーとか気持ち悪いことしてないだろうね?」
「やだなぁそんな言い方。ただの逃げけん制だよ。追い込みには必要な能力でしょ?」
クスクスと可笑しそうに笑いながら、彼女はさらにこちらの動きを封じる腕の力を強める。なるほど、これが逃げけん制……ってそんなわけあるか。そもそも今の君は完全にこちらを差しにかかっている真っ最中だろうに。
なんとか振りほどこうともがいてはみるものの、やはりと言うべきか拘束はちっとも緩まなかった。シービーはウマ娘としての腕力はもとより、13歳の女子にしてはそこそこ体格にも恵まれているのでこうなるとどうしようもない。もっとも、たとえ小学校低学年のウマ娘相手でもここから状況を覆すのは極めて至難の業なのだが。
がっちりと固定されてしまった上半身はひとまず置いておき、自由な首を動かして周囲の気配を探る。
……やはり、シービーはここに一人で来たようだ。まぁ、ルドルフと仲良く連れ立って走ってきたとは到底思えないが、しかしこっそり後を尾けられていたという可能性も無くは無かったのでほっと一息つく。
流石に同じウマ娘であるシービー相手に悟られず尾行するのは無理だったか。そもそも気付いていないという可能性だってあるわけだし。シービーがここに一人ということは、もしやルドルフとの部屋争いに敗れて逃れてきたのだろうか。
「あっ、今すごく失礼なこと考えたでしょ」
「いや別にそんなことは……」
「違うからね。今日はちょっと、朝早くに目が醒めちゃっただけだから。あの子はまだ寝てるよ」
「そうか」
そう言えばルドルフは朝が弱かったな。
もっともそれにしたって、まだようやく空が白んできたばかりの現時刻では起きている方が珍しいだろうが。トップアスリートを育成する場なだけあって、学園の生徒は朝練にも精を出している。しかしそれにも限度があるだろう。
いい加減離してくれと再度もがいてみるものの、しかしシービーはそれも完全に無視してこちらの胸に顔をくっつけてくる。そのまま鼻を押し付けて思いっきり匂いを嗅がれた。
「酒くさ」
「言う程かな?いや、飲んだには飲んだけど」
「普段と比べたらどうしても、ね。キミたちそういうの凄い気を遣ってるでしょ」
「ああ……そういうことならまぁ、確かに」
嗅覚が鋭いウマ娘とつきっきりで仕事をする以上、私に限らずトレーナーは身だしなみには人一倍気を遣っている。この手の生理的不快感は信頼関係の構築に著しい支障が生じるからだ。それ以前にマナーでもある。
タバコについては就職を機に禁煙する者が多数であるが、酒ともなるとそれこそ昨晩のような付き合いもあるのでそうはいかない。精々、就寝時と出勤前に二回シャワーを浴びて完全に臭いを洗い流すぐらいだろうか。
そして、私は昨日お開きになった後そのままつい数分前まで意識を失っていたのだから、当然そんな身だしなみを整える暇はなかった。たづなさんが勝手に風呂に放り込んでいた場合でもない限り、そもそも服すら替えていないのである。
自分では分かり辛いのは私が人間である故か、もしかしたら嗅覚自体が麻痺しているのかもしれない。いずれにしても、出勤に適した格好とは言えないだろう。
「う~……」
シービーは顔をしかめながら、そっと私を解放してくれる。解放したというか、嫌なものを遠ざけたかっただけだろうが。
彼女はまだ中等部生でありながら、トレーナー側の大人の事情にもかなり理解がある。とはいえ、嫌なものは嫌なのだろう。私とて慣れて欲しくはないのでその方がむしろ助かるのだが。
一応こんな朝っぱらから押し掛けた自分に非があるとは分かっているのか、距離を取るだけでそれ以上はなにも言ってこない。ハタハタと、空気を払うようにせわしなく尻尾を揺らしているのみである。
「どうするかな、私としても一浴びしてさっぱりしたいんだけれども」
こうなると分かっていたから、このまま真っ直ぐトレーナー寮に戻って彼女と会う前にシャワーでも浴びるつもりだった。当然この家にもバスルームはあるが、いくら知人とはいえ勝手に使うわけにはいかないだろう。いや、仮に許可があったとしても一人暮らしの女性の風呂を借りるのはどうかと思う。
だとしたら、やっぱりこのまま一度学園まで戻るしかないか。それなりに距離がある上に、走れないぶん時間はかかってしまうだろうが背に腹は代えられない。
先にシービーと接触してしまったのは計算外だったが、彼女一人だけ先に帰してやれば良いだけだろう。どうせ目的地は同じなわけだし。
「帰るか。シービーも走るのはいいけど程々にしなよ。ただでさえ皐月賞を控えているんだから」
このランニングが美浦寮から離れる言い訳だということは分かっているが、そのせいで体を壊されては堪らない。
そう一声かけて地上に向かうエレベーターへと一歩踏み出した瞬間、後ろから彼女が腕を引いてきた。
「待ってよ。せっかくだからお風呂も外で済ませない?たまには良いでしょ、こういうのも」
「外でって、この時間帯に営業してる店があるわけないだろ」
「ところがどっこい、あるんだなそれが。そっか、トレーナーには有名じゃないんだねあそこ」
なんだそれは、聞いたことがない。
そもそも調べようともしてこなかったからかもしれないが。
「まだ朝の六時前だぞ。こんな時間から店を開いてるなんて、まさかいかがわしい場所じゃないだろうな」
「違うって。本当にちゃんとした銭湯。特別なことと言えば、トレセンのウマ娘を狙い撃ちにしてることかな」
「トレセンのウマ娘……あぁ、朝練で走ってる生徒のことか」
「そうそう」
朝の軽いウォーミングアップと言っても、それはウマ娘の身体能力から生じた感覚の延長戦に過ぎない。ましてや中央のウマ娘なんてこと走ることに関しては誰よりも優れているのだから、ちょっとそこまでといった感じで平気で何千メートルも遠くに行ってしまう。
そこに疲労やらなんやらの問題は無いとしても、やはり運動すれば汗はかくものだ。とりわけ冷え込んだ真冬の朝ではそれはそれは不快だろう。学園の外でも汗を洗い流し、体を温められる銭湯というのは確かに需要があるのかもしれない。
なんともニッチな需要だと思わなくもないが、それも府中市内であるからこそ成り立つ商売だろう。
やや傲慢な言い方をするなら、この街における殆どのビジネスの根底にはトレセン学園の存在がある。府中そのものがまさしくトレセン学園の城下街なのである。
懇親会の会場となった居酒屋が学園のトレーナーを狙い撃ちにしているように、生徒を狙い撃ちにしている施設もまた数多くある。ただでさえ彼女たちは裕福な家庭の出身であることが多く、加えてレースで多額の賞金を稼ぐことからもさぞ上質な客層なのだろう。
「一応聞いておくけど、ウマ娘だけが特別扱いされてるわけじゃないんだよね?ちゃんと私もこの時間帯に入れる?」
「勿論。学割が使えないからちょっとだけ高くつくけどね。でもちゃんと男湯女湯で分かれてるし安心してよ」
「いや、そりゃそうでしょ」
生徒を対象にしていながら混浴でもやってみろ。明日にでも店を潰されて二度と府中の地を踏めなくなるぞ。
なまじ競技ウマ娘はアイドルとしての性質も持っているぶん、トレセン側もコンプライアンスには人一倍うるさいのだ。果たしてそれが十全に機能しているか否かについては、些か疑問が残る部分があるけども。
「まぁ……いいよ。分かった。ただその前に、事務局の方には一報入れておかないとな」
「急げば始業時刻には間に合うと思うけど」
「私は走れないんだよ」
「ああそっか、ならアタシがキミをおぶっていこうか。前にばんバの子がやってたの見て、ちょっと憧れてたところなんだよね」
「やめなさい。君と彼女たちでは規格が違う。ただでさえ競争バは体が脆いんだから」
ウマ娘にしては、という付け足しの上だが。それにいくら人通りの少ない早朝とはいえ、私も街中でそんな恥ずかしい格好は見せたくない。
……ちょっとだけ、ほんの少し興味が湧かないことも無くはないのだけれども。
ポケットに突っ込んでいた業務用のスマホを起動して、学園職員専用のアプリ『ウマネット』を立ち上げる。
やはり常日頃から最先端を謳うだけあって、トレセンは業務のオンライン化にも力を入れているらしい。その一環として、業務における申請や報告、打ち合わせ、日程調整から情報交換に簡単な会議までその殆どをこのアプリ一つで行うことが出来る。
元より現場での活動がメインであり、各地方や海外への出張とも切っては切り離せない職業であるから、わざわざ事務室に寄らずに端末一本で作業できるのは有り難いと言う他ない。
「おぉ……」
職員番号とパスワードを入力してホームにアクセスすると、そこにはこれまでとは見違えるような光景が広がっていた。
表示される項目が倍近く増えて、利用できる機能も一気に拡張されている。在籍生徒の一覧から簡易な身体データ、直近の選抜試験における成績も閲覧出来るようになっており、他のトレーナーへのアクセス権限も新たに与えられている。
要するに、実習生という性質上課されていた制約が取っ払われ、ようやくトレーナーとして完全な権限が与えられたということだ。職員の一人として認められた証をこうして目に見える形で突きつけられると、どこか感慨深いものが込み上げてくる。
「はいはい。感じ入るのはお風呂での楽しみにして、さっさと報告終わらせちゃいなよ」
「ああもう。せっかく一生に一度の感動だと言うのに君は」
「というか、今日はもう有給使っちゃっても良いんじゃないかな。他のトレーナーもそうしてるよ?」
懇親会という名のどんちゃん騒ぎの余波を引きずっているのか、毎年この4月2日の出勤率は驚きの50%程だという。厨房スタッフや警備員、清掃員、それから理事長とその秘書といった学園の活動に不可欠な職員は基本出勤してくることから、有給を使いまくっているのは専らトレーナーである。
休日を挟んで完全に気持ちを切り換えるのだとか。実際、生徒の方にしてもこの日は殆どオフのつもりらしい。
「ああ、君がどこかに行ってくれるならそうするよ。悪いけど、休みの日ぐらいは一人でゆっくりしたいタイプなんで」
「もう、イケず。んじゃ今日は『お出かけ』ね。ヨロシク」
「はいはい。後でシービーの方でもちゃんと入れといてよ」
「ほーい」
ウマネットのホームから勤怠管理のページに飛び、出勤と学外活動の旨を報告する。概要欄にあるお出かけの項目にチェックを入れておくことも忘れない。
お出かけというのは、すなわちウマ娘の課外活動に付き添う業務のことである。地方の視察や次のレース会場の下見に行くなり、病院へ検診に訪れるなりあるいは単純に遊んで担当のリフレッシュを図るなりと様々だが、これも仕事ではあるので給料自体は発生する。当然なにかトラブルが生じた際の責任も付添人兼保護者であるトレーナーに科せられるので、お気楽な業務という訳では断じてない。
一応不正防止のためか、生徒のアプリからも同様にお出かけの申請をしなければ上から監査が入るようにはなっているが。
お出かけに限らず、トレーナーとしての業務はかなり柔軟というか融通が利くものだ。フレックスタイム制も導入されており、トレーナー自身の裁量で始業と終業を設定することが出来る。
これについてシービーは「サボり放題じゃん」等と言っていたが、要は結果さえ出せれば良いのだ。やりようによってはいくらでも手は抜けるが、そのツケは後々必ず自分に返ってくる。サボりながら勝てる程レースの世界は甘くない。第一、担当を介して不正報告はだいたいバレるわけだし。
むしろ今現在、トレセンにおいて問題になっているのはトレーナーの業務時間に関する過小報告である。アプリで終業報告した後もトレーナーとしての仕事に没頭する者が後を絶たず、労基法がどうのと理事長も頭を抱えているらしい。
トレーナー自体、なんなら24時間365日育成の事ばかりを考え半ばライフワークと化してる種族でもあるので、バカ正直に報告してはいられないという事情もあるのだが。
報告を終えてアプリを落とし、再びスマホをポケットにしまう。
振り返ればシービーが自らのウマホを弄っている真っ最中だったので、これ幸いとばかりにその手を引っ張ってエレベーターへと向かった。殆どの住人も寝ているのだろう。下方向の矢印ボタンを押すと、すぐに待機していた籠が降りてくる。
開いた扉の向こうに素早く乗り込もうとした瞬間、これまでされるがままだった彼女の腕に猛烈な力で抵抗された。
後ろを向くと、シービーがイヤイヤと首を振りながら後退りしている。ペタンと横に倒された両耳に、扇風機のごとく暴れ狂う尻尾。
「シービー……」
「……や!」
「……」
相手はまだ小さな子供。第二次成長期すら終えてない小柄な体格だが、それでも力ずくではどうにもならない。腕力による解決が望めないのが、ウマ娘を相手にする際の難しさである。もっとも、牛のような大型家畜とは異なり力で敵わずとも言葉が通じるぶん、まだ扱いやすい方なのだろうが。
私たちがエレベーターホールで綱引きをしている間に、タイムオーバーで扉は閉まってしまう。そのまま籠もどこかへ行ってしまった。こうなった以上、仮にもう一度呼び出したところでシービーを乗せることは出来ないだろう。
ため息をつくと、仕方なく側にある階段に足を運ぶ。上層階ではあるものの、下りならこれで妥協するしかあるまい。今度はシービーも素直にこちらに従ってくれた。
昔から……と言っても出会ってまだ一年ちょっとだが、シービーはずっとエレベーターが苦手だった。
トラウマという程ではないらしく、他に選択肢がない場合であれば渋々エレベーターを使うらしいが、少なくとも私の記憶の範疇では彼女がそれに乗っている姿を見たことがない。
歳のわりには非常に大人びているというか、常に飄々と隙を見せない余裕のあるウマ娘なシービーにとって数少ない弱点である。曰くエレベーターに限らず、飛行機やロープウェイのほか観覧車やジェットコースター、さらには船も好きではないというから、つまるところ地に足のつかない乗り物に苦手意識があるのだろう。
本人が嫌というならあまり強要したくはないのだが、しかし遠征となれば否が応でも利用せざるを得ない交通手段もある。毎回毎回道中でメンタルを崩してしまってはまるでお話にならないから、この苦手意識の克服もまたミスターシービーにおける課題だろうか。
「君は老いても足腰がしっかりしているだろうね。羨ましいよ」
「あれ、褒めてくれるの。ありがとう」
「どういたしまして」
先程の焦燥感は何処へ行ったのやら、楽しそうに笑いながら弾むような足取りで階段を下りていくシービー。
……この切り換えの早さなら、苦手の克服もそこまで問題にはならないかもしれない。いずれにしても、今後における彼女の動向次第ということになるだろう。
吹き抜けに出た瞬間、ちらりと閃光に瞳を射抜かれた。見れば地平線の向こうから、太陽がその輪郭を覗かせている。あと数十分もすれば、人々の営みもまた始まるのだろう。
「ほら、トレーナー。早く早く」
「分かった。分かったから引っ張らないの」
ちょこちょこ動き回る小さなウマ娘に手を引かれながら、私たちはマンション前の通りへと下り立った。