シービーに案内されて連れてこられた銭湯は、中々に立派なものだった。
広々とした浴槽に、吹き抜けになった中庭では椅子に仰向けになって火照った体を冷ますことが出来る。サウナも併設されている他、今はまだ閉まっているが通常営業時間内なら岩盤浴やジムの利用も可能だという。
彼女の言葉通りちゃんと男湯女湯に分かれているが、入り口から窺う限りではどちらの規模も同じのようだった。ウマ娘中心というわけではないにも関わらずこのような特殊な営業スタイルが取れるのも、つまりはそれだけ企業体力があるということだろうか。
宿泊施設こそないが、それを抜きにしてもかなり充実したスーパー銭湯といった所であり、今の今まで見逃していたのが悔やまれる。まさか街のど真ん中にこんな施設があるとは普通思わないだろう。
そういえば以前、品川の水族館を訪れた際にも、あんな街中でイルカショーが行われている事に若干の非現実感を抱いたものだが、感覚としてはそれに近かった。
脱衣場を出て、フロントに隣接して設置されたクリーニングからスーツを受け取り手早く着替える。
元々ランニング後のウマ娘を対象としているためか、こういったサービスも充実しているらしい。なにぶん短時間故に完璧に仕上がっているというわけでもないが、今日を乗り切るだけなら十分だろう。
そのまま天窓から朝陽の射し込むロビーに出て、適当な椅子に腰掛ける。
近くには冷えた牛乳やヨーグルト、にんじんジュースが並んだ冷ケースもあり、思わず手を伸ばしかけて思い止まった。いくらお出かけとはいえ、これでも業務の真っ最中なのだ。満喫し過ぎるのは良くない。そもそも、いくら性質上仕方ないとしても現時点でシービーと別行動している事自体がかなり危ういのだ。
姿勢を正し、ロビーの隅々まで目を配る。
シービーは……いないな。
女湯の出入り口で待つのはあまりにも体面が悪い。しばらくはここで時間を潰すこととしよう。
入り口のすぐ先にあるここは吹き抜けになっており、銭湯全体の人の流れが一目で見てとれる。時刻は朝の7時やや手前といったところで、ここもにわかに活気づいてきた。
フロントで鍵を受け取り、二階の大浴場へと向かっていくウマ娘たち。一人で足早に駆けていく者から複数人で賑やかに歩く者までてんでばらばらだが、学園指定のジャージを身に付けている部分は共通している。
殆どオフのようなこの日も早朝から自主的な走り込みを欠かさないあたり、やはり皆れっきとした中央のウマ娘といったところか。これも彼女たちからすれば、勝つための当たり前の努力なのだろうが。
そう辺りを見渡していると、チラチラと視線が返ってきた。ウマ娘たちがややざわめきながら私の様子を窺っている。
好奇の対象にされているのか、あるいは不審者扱いされているのか。平日の朝っぱらから、ウマ娘ではない人間のそれも男性がいるのが奇妙に思えるのだろう。シービーが言うには、ここは生徒間における穴場のようなスポットでもあるそうだし。
念のためトレーナーバッジこそ身に付けているが、それも果たして正解なのか否か。ここが学園のトレーナーに知られていない理由が、我々のリサーチ不足ではなくあえて秘密にされていたのだとしたら、今の私は招かれざる客となるだろう。
彼女たちとて、少しぐらいはトレーナーから離れてリラックスしたい時間もあるだろうし。それを責めることは出来ない。
極力存在感を消そうと、縮こまるように顔を床に伏せる。
「あぁ……」
居心地が悪い。
完全なるアウェーに取り残された気分。仮にもレジャー施設でこうも肩身の狭い思いをすることになるとは。
よくよく考えれば、今の私がお出かけでここにいるなど誰に分かるものでもない。端から見れば、スーツを着込んだいかにも仕事中の中央トレーナーが、こんな太陽が顔を覗かせて間もない時刻に一人リフレッシュしている光景でしかないのだ。怪しいことこの上ないだろう。
公園のブランコで暇をもて余すサラリーマンのごとき孤独感と焦燥感。巻き込んだ張本人たるシービーの帰還を切実に願う。
と、そんな私の想いが天に通じたのか、前方から真っ直ぐこちらに気配があった。
なんの躊躇いもなくほんの数メートルの距離まで接近し、朝陽に照らされて私の足元に長い影を落とす。
「すみません。少々お時間よろしいでしょうか。トレーナーさん」
「……んんっ?」
違う。これはシービーではない。
というよりウマ娘ですらない、やや掠れた男性の声。反射的に伏せていた顔を振り上げる。
「どうも」
そこにいたのは、どこか疲れたような微笑みを浮かべる中年の男。出来るだけ相手を刺激しないよう、柔和な雰囲気を演出しようとしているのだろうが、目が笑っていない。
首には年季の入ったカメラを提げ、付箋が無数に貼り付けられたメモ帳を手に持っている。ボイスレコーダーを一目で分かる位置に装着しているのは、せめてもの誠意の表れだろうか。
私の返事を待たず、男は一方的に名乗りを上げる。
見た目通り、やはりとあるレース関係の出版社に所属する記者らしい。
その会社は私も聞いたことがある。取材や調査には一定の評価があるものの、そこに独自の主張や過激な煽りを挟み込むことで有名なゴシップ雑誌を扱っている。なまじ能力があるぶん、それなりに影響力も強い最も厄介なタイプ。
思わず舌打ちしかけて、寸でのところで食い止める。そんな下らない隙をみすみす与えてやるわけにはいかない。
お近づきの証にと、差し出されたコーヒー缶をそっと拒否する。記者も慣れた様子でそれを引っ込めると、一言断ってボイスレコーダーのスイッチを入れた。名刺をこちらに差し出し、一言二言交わした後早速本題へと移る。
「しかし、また随分と変わった所にいますね。それもこんな朝早くから」
「仕事ですよ、私も。貴方と同じでね」
ジャケットの襟につけたバッジを示す。
記者はそうですか、とやや痰の絡んだくぐもった声で頷いた。やはり疲れた印象の残るそれは、急速にこちらの活気を削っていく。
「新年度の特集だというなら残念でしたね。ベテラントレーナーならここには来ませんよ」
「問題ありません。自分がお話を伺いたいのは、貴方と、貴方の担当さんについてですから」
「シービーのことなら、まだ私の担当ではありません。現時点において、私たちは契約を交わしていない」
「しかし、いずれはそうなる予定なのでしょう。少なくとも、その前提でお話を聞かせて頂こうかと」
「ご勝手に」
なるほど、最初から私が目当てだったと。
だとしたら、よくもまぁここで接触出来たものだ。普通、こういった輩がたむろしているのは学園の周辺か、生徒がよく出歩く学生街と相場が決まっている。それでも特定の個人を狙い撃ちにするのは難しく、だからこそマスコミはこぞって学園に敷地内での取材の許可を取りたがるのだから。
シービーはともかく、私に……というより学園のトレーナーにとってここは明らかに活動範囲外だ。男もどう見ても一風呂浴びに来たという格好ではなく、すなわちたまたま運良くここで私と出くわしたというわけでもあるまい。仮に目撃情報を受けていたとしても来るのが早すぎる。
だとすれば、シービーやたづなさんの目を欺きつつ税所から私たちを尾けていたか。あるいは他に情報源でもあるのか……なんにしても、厄介な相手ということに変わりはあるまい。
「ミスターシービーさん、いよいよ今月からクラシック戦線に臨むことになりますね。レース関係者にとどまらず、世間は今その話題で持ちきりです」
「ええ、そのようですね」
「そんな中で、若手のホープたるシンボリフレンドさんから貴方にこのタイミングで移籍がなされることについて、どのような考えをお持ちでしょうか?」
「どのような、とはどういう意味でしょう?曖昧不明確な質問には答えられませんが」
「先日ようやくトレーナーとしてデビューしたての、貴方の手には余るのではないかということです。技術的な意味でも、実績との釣り合いという意味でも」
ああ、それか。
いつか必ずこういう場面が来るだろうと覚悟はしていたが、こんなに早く訪れるとは。
「私自身に不足があることは否めませんが、任される以上は全力を以て挑みますよ」
「それが振るわなかった後にも同じことが言えますか?釈迦に説法を承知で言わせてもらいますが、トレーナーという職業は結果が全て。"最大限努力した"なんて言葉は言い訳にもなりませんよ」
言われるまでもない。そんな事、誰よりもよく分かっている。
しかしその言葉は……それがただの挑発と理解していて尚、私の胸中に一片の焦りを芽生えさせるには十分だった。
「……戦う前から負けることを考えるトレーナーがどこにいますか。我々は自らの担当の勝利のみを信じるべきだ」
「普通であればそうでしょう。しかしミスターシービーは特別……シンザン以来19年ぶりの三冠を期待される学園のエースなのですよ。ならば、それに相応しい実力を備えたトレーナーと組ませたいと思うのが人情でしょう」
「それは、誰の人情でしょうか?」
「世間の。言い換えるなら、これから貴方に向けられる銃口でもあります」
それも分かっている。
シービーの実力も、彼女に向けられた人々の期待の大きさだって。新人一年目が初っぱなからクラシックに挑む相棒とするには、およそ不釣り合いな存在であることも。
彼女は強すぎるのだ。その才能はあの先生の予想すら上回るものであって、しかも完全に花開いている。その誤算は、私たちを組ませるという当初の計画すらこうして破綻させかねない程。
記者はおもむろに膝を下り、椅子に腰掛ける私と目線を合わせてきた。
そのままどこか気遣うような、言い聞かせるような口振りで淡々と言葉を続ける。
「もし仮に、三冠を一つでも逃したら。考えてもみて下さい。一番傷つくのはミスターシービーではない……貴方なんですよ、トレーナーさん」
「……」
「勝てば当然、負ければ全て貴方のせい。既に芽が出た……出過ぎてしまった彼女を、新人である貴方が途中から担当するとはそういう茨の道なんです。事実、そういう声が出つつある」
「昨日の今日で?聞いたことがありませんね」
「人の噂は早いもので。明日にでもそれは世論に変わるでしょう。自分に言わせれば、貴方は新人らしく、同じく新人のウマ娘と一年目から共にするべきだ」
それが難しいからこその特別移籍制度なのだが。この男とてそのぐらいは知っている筈。
私がルドルフからアプローチを向けられていることまでは知っていないだろうから、そうなると新人がゼロから担当を捕まえる方がまだ楽な道だと言いたいのか。少なくとも、これからシービーそ担当するよりは。
こちらの出方を窺っているのだろう。
記者はただ黙って私を見つめる。
その背後から、近付いてくるウマ娘が一人。
「アタシに言わせれば、キミは今すぐ彼から離れてここを出ていくべきかな。名前も知らない記者殿」
「シービー……」
「あぁ、ごめんねトレーナー。気持ちよくてつい長居しちゃった」
貼り付けたような笑顔を浮かべながら、シービーは記者を迂回して私の腕にすがりつく。そのまま力任せに引っ張り上げて椅子から立たされた。
その耳は後ろに絞られ、尻尾は虫を払うように勢いよく左右に揺れていた。全身で、不快感を露にしている。
「で、なに?キミはこそこそと。アタシが負けるだとかなんとか、そんな話をしてたんだ」
「起こりうる事態を、口にしたまでです。事実、貴女がこの先無敗を遂げたとして……それは、彼の功績とはならない。世間はそう認めてくれない」
「なら、誰の功績になるとでも?」
「シンボリフレンドさんの教育の賜物か……貴女自身の実力でしょうね。彼はただ、それに運良く乗っかっただけとなる」
「へぇ~」
飄々と朗らかな笑みを湛えつつ、暢気な返事を投げるシービー。それとは対照的にざり、と強く強く地面を引っ掻く爪先。
剥がれかけた仮面の隙間から漏れだしたのは、怒りという言葉すら生ぬるい程の激情。
殺気とすら形容出来そうなそれが記者を射抜き、その背後のフロントに控える従業員の肩を震わせた。
「う……」
男にとっては、最早飢えた猛獣の眼前に放り込まれたと同じ心地なのだろう。
どこか気だるげにしていたその顔はひきつるように強張り、元々血色の悪かった肌から一層血の気が失われていく。代わりに玉のような汗が首筋まで滝のように流れ落ち、がくがくと四肢が震えだした。
それでも、やはりプロなのだろう。最後の胆力を振り絞って、シービーの顔を正面から睨み付ける。そして気丈にも、指を突きつけてか細い声で宣告した。
「アンタらは一緒にいるべきじゃない。ミスターシービーさん。アンタは……どう転んでも、そこのトレーナーを不幸にしか出来ないんだ」
「良く言ったね。その言葉に責任を取らせてあげる」
「ト……トレーナーさん。アンタもいいのか?自分の実力不足のせいでこの子が負けたら。三冠の夢が潰えたら……その時に、後悔してももう遅いんだぞ?今からでも遅くない。だから……」
記者がさらに続けようとしたその瞬間、鋭く引き裂くような音が彼の言葉を遮った。
恐る恐る隣を見れば、シービーが私の手から記者の名刺を抜き取って真っ二つに引き裂いている。ぐしゃぐしゃと丸め潰して、乱暴にポケットへと突っ込んだ。
「退くに退けなくなると人間醜いものだよね。大の男が恥ずかしくないの?」
「な、なにを……」
「可哀想なキミの最後のチャンスをあげる。『今すぐここから出ていけ』……従わなければ、貴社の生徒並びにトレーナーへの取材を生徒会は今後一切許可しない」
「そんな、そんなバカな話があるか!ちゃんと、理事会から取材許可は貰っている」
「それは学園内での取材許可であって、学園外でも好き勝手に取材できる権利じゃないんだけど。ていうかなにキミ…学園が定めた規則についてこのアタシより知識があるの?後学のために是非ともご教授願えるかな?」
「……ッ!!」
頭に血が昇っていたか、恐怖で完全に思考能力を喪失していたか。
今さらながらに目の前にいるウマ娘が、トレセン学園生徒会長その人だと思い出したらしく、男は慌てて銭湯の出口へと走っていく。
「あ、そうそう。最後に伝えておくけど」
そんな背中を逃さず、シービーは鋭く通る声で記者を呼び止める。
「その学園内での取材許可も今日限りで剥奪するから。理由は記者の権限濫用。さっきも言ったよね『責任を取らせる』って……また一から信用を積んで頂戴」
「………」
「ちゃんと、キミの上司にもそう伝えといてよ。キミ自身の口からしっかりと」
記者は振り返り、なにか言いたげな顔をしていたが……結局、抗議したところで状況はますます悪化するだけだと悟ったのだろう。大人しく銭湯を後にしていった。
それを境に、張りつめていたホールの空気もようやく落ち着いていく。怖々と見守っていた従業員や他の生徒たちも、どこかほっとした顔でそれぞれの活動を再開する。
「シービー……少しやりすぎでは?」
「なに?トレーナーはアタシじゃなくてアイツの肩を持つの?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
確かに学園の意向と私のプライベートをまるで無視しており、褒められた取材でなかったことは確かだが。とはいえ、彼の言っていたこと自体には、多少なりとも正鵠を射ている部分もあったと思う。
正しければなにをやって良いわけではないにしても、それに対するシービーの処罰は些か重すぎるというか、それこそ権限の濫用に片足を突っ込んでいる気がしなくもない。
いつもの彼女らしくもないし、そもそもあの拒絶の仕方からしても、ただ発言内容が気に障ったという程度では済まされないような。
「別に……うん、そうだね。元々、あそこの出版社には前科があったから」
「前科……というと、今みたいなアポ無し取材とかか」
「そう。それ以外にも、つきまといとか不法侵入だとか。苦情も上がってたんだよね。第一、書いてる内容からして偏りまくりだし……まぁ、それは表現の自由があるから直接の理由にはならないけど」
「そうか……」
それらが本当にあったことなのか、仮にそうだとしても取材許可剥奪の真の理由なのかは分からないし知る術もない。確実なのは一度シービーがそう決めた以上、もう覆ることはないということだった。
まぁ、実際の手続きの過程では生徒会のカウンターパートにあたる理事会の審査が入るわけだし。その結果剥奪に至るなら、やはりそれだけのことをやらかしていたのだろう。一介のトレーナーに過ぎない自分が介入する余地はない。
「ん。じゃあトレーナー、いこっか。まだまだお出かけは始まったばかりだからね」
「あ、ああ。そうだね。まずはここを出て……っと。ごめん。ちょっと待って」
とりあえず精算を済ませようと、フロントに向かいかけた瞬間、急に私の業務用スマホに着信が入る。
事務局も開いてないこの時間に一体なんだ。新任翌日の業務連絡というのは心臓に悪い。
慌てて画面を立ち上げてみれば、ディスプレイに表示されていたのは先輩のフルネームだった。
「おはようございます。何ですか先輩。会話はログで公開されるんですから、よっぽどの連絡以外はプライベートのスマホに……」
『知ってるわバカ。その"よっぽど"が起きたんだよアホンダラ。シービーとルドルフ、一緒の部屋になったらしいな?』
「あ、それもうたづなさんから聞いたんで知ってます。ご丁寧にどうも」
『そうか。なら美浦401が明け方爆発したことも当然知ってるよな?』
「……………………は?」