「やあ、こんな所で奇遇だね。トレーナー君」
柔らかな笑みと共に、そう私を出迎えてくれたのはシンボリルドルフ。
それはどう考えても私が言うべき台詞なのだが。先手を打たれたこの状況で、どうにか頭を巡らせる。
黙ったまま、されるがままではどうにもならない。それどころかますますつけ込まれるだけだろうから。
「ただいま、ルドルフ」
とっさに口にしたのは帰宅の挨拶。
言ってからようやく後悔する。これではまるで、彼女がここにいることを容認したかのように思えるし、やもするとそれを歓迎しているようにすら受け止められかねない。
そこに思い至った所で時既に遅し。ルドルフはピクリと耳を動かし、噛み締めるようにほんの数回瞬きを繰り返した。
「うん、おかえり。それとお疲れ様。無事、中央トレーナーとしての初仕事を終えてきたというわけだな」
「ああ、そうだね。ありがとう」
何故それを知っているのか、などとは聞くまい。
先生の口振りからするに、彼女は学園において既に独自の情報網を築き上げているか、あるいはそれに指をかけている段階にある。
加えて言うなら、きっと彼女の支配が及ぶ範疇にもないのだろう。今まさに私の部屋にいることがなによりの証拠だ。
せめて日中だけは、私たちと遭遇しなかったことに感謝するべきか。遅かれ早かれ、こうなることは避けられなかったのだろう。
「ふふ……」
一歩一歩、ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。
逃れるように、私も少しずつ後退して……すぐにリビングのドアに背中がついた。後ろ手にノブを触れた瞬間、目前に迫るルドルフの双眸がすうっと細まる。
「……往生際が悪いぞ、トレーナー君。どうか無駄な抵抗はやめて欲しい。手加減するのも中々どうして大変なんだ」
「人を虫かなにかみたいに」
「分かってるじゃないか。蝶の羽をもがないよう、優しく指で捕まえるのは大変だろう?」
「……」
「君を傷つけたくないんだ。大切だから」
くいっと、首を動かして扉から退くよう指示される。一度立ち止まったのは、猶予を与えたつもりなのか。
ここから玄関までの道筋、さらにその先を辿ってみたところで、彼女を撒く方法が一つも思い浮かばない。それに私は逃走という手段を選べない身体だ。
ルドルフとの距離はおよそ3メートル。
そもそも走る走らない以前に、ドアを開ける動作をする間もなく追いつかれるだろう。
それだけは避けなければならない。彼女に近づかれると不味いことになる。
結局、彼女の指示に従うほか無かった。リビングの中央へと進む私とすれ違ったルドルフは、そのまま扉の前でこちらに向き直り仁王立ちになる。これで、私は彼女を退かさない限り部屋から出ることは敵わない。
「そう、それで良い。それから君のスマホを貸してくれ、両方ともだ。この場に私たち以外の者は必要ないからな」
「私物のスマホならあるが……業務用は持っていない。新年度に向けて、総務課がアップデートしている最中だから」
「そうか。なら寝室の内線から君の業務用の方にかけてみようか。もしも、トレーナー君からコールが鳴ったら……まぁ、あり得ないだろうが。君が私に、嘘をつくなんてことは」
「っ……」
両方のスマホの存在、さらには電話番号まで既に知られていたか。それどころか、緊急用の内線についても把握されていたとは。
二つともポケットから取り出して差し出す。
「結構。一度は見逃すが、次はないものと思って欲しい。その時私がなにをしでかすか、自分でも分からないのだから」
「はいはい」
「はいは一回だよ。トレーナー君」
ルドルフは受け取ったそれらの電源を落とし、手の届く場所にそっと置く。
これで、こちらから外部に連絡を取る手段はほぼ失われてしまった。終業後とあっては学園からの業務連絡もなく、こちらの状況に気づいてもらうことも望めないだろう。
かかったウマ娘と二人きりの状況。
それもプライベート空間で、外部からの目は一切ない。唯一の脱出経路は塞がれ、通信機器も没収されたまさに陸の孤島だ。展開は全て向こうの手のひらの上にあり、こちらは生殺与奪を完全に握られている状態。
詰み。
完全なるやらかしだ。まずもって、こういった状況に身を置かないことがトレーナーに出来る最大の自衛であり、私はそれを怠ったのだから。
最後まで気を抜かず、油断せず、警戒を絶やさなければまだ引き返すことも出来たのに。聖域だと思っていたそこは獣の口で、そしてそれは今まさに閉じられてしまった。
「…とりあえず、そんなところに突っ立っていないで座ったらどうだ。二人きりで、話をしに来たんだろう?」
二人きり、という部分を殊更に強調する。私がこの状況を諦めて受け入れたという、いわば降伏宣言のつもりだった。
それを知ってか知らずか、ルドルフは扉の前から動こうとしない。腕を組み直し、じっとこちらを見つめている。
ざり、とふと片足が床を引っ掻くような仕草を見せた。ウマ娘が不満や催促を訴え、あるいは人の注意を引くために行う前掻きと呼ばれる行動。
そこから視線を上げると、ゆらゆらゆったりと揺れる豊かな尻尾。さらにその上では、ピンと天を突いた両耳がこちらを正面に捉えている。
……ふむ。意外だな。
耳と尻尾。これらはウマ娘の思考や感情が最も顕著に現れる器官である。犬が尻尾を振るように、猫がひげを曲げるように、ウマ娘は耳と尻尾で己を表現する。
とりわけ注目すべきは耳だ。他の部位と比べても最も感情表現が豊かな部分。
ウマ娘はなにかに興味を引かれた時、耳をそちらに向けるものだ。リラックスしている時は横に傾け、怯えた際にはペタンと伏せる。そして怒りを覚えると、そろって後ろに絞られるという特徴があった。
耳を後ろに寝かせた、不機嫌なウマ娘に迂闊に近寄るなというのは、トレーナーに限らず一般社会の常識である。とりわけヒトは学校で何度もしつこく教わるものだった。
今朝の出来事、それからたった今私を監禁した手際から推察するに、ルドルフは大層機嫌が悪いものだと思っていたが。
少なくとも表面上は怒りの感情表現が見られない。両耳が揃ってこちらを向いているのは、私に強い関心があるという証。
激昂されるよりはマシだろうが、それでも安心する気にはなれなかった。相変わらず穏やかな笑顔を貼り付けているが、彼女の目はまるで笑っていない。
「……その、久し振りだねルドルフ。最後に会ったのは二年ほど前だったかな、たしか」
「うん。実に716日ぶりの再会となる。それからトレーナー君、二人きりの時はなんと呼ぶんだったか」
「……ルナ」
「ふふっ、そうそう」
よく出来ました、と言わんばかりにうんうんと頷いてみせるルドルフ。
はにかむように目を細めるも、しかし私からは絶対に視線を外さない。磨かれた宝石のような、潤いを湛えた深い紫の瞳が抉るようにこちらをじっと見つめる。
それに晒されていると、まるで服を剥かれて一糸纏わぬ裸にされて、全身を余すところなくつまびらかにされているような、えもいわれぬ羞恥が込み上げてきた。この場から逃げ出したかったが、たった一つの出口は既に潰されてしまっている。
実験動物を観察する科学者とも、ようやく手に入ったおもちゃを眺める子供とも異なる、もっとどろどろとした粘つくような視線。
ああ、これには見覚えがある。
思い出した……あれは確か、ずっと昔ルドルフがまだ小さかった頃。二人で街に繰り出して、とある展覧会に訪れた時のことだった。
テーマは戦後におけるレース競技の歴史だったか。目玉としてウィンドウに展示されていたのは、本物のクラシック三冠の優勝レイ。
命の次に大事なそれを貸し出すなんて奇特なウマ娘もいるものだと思ったが、それをルドルフはガラスにへばりついて見つめていた。
その目に映し出されていた色は、純粋な好奇心とも憧憬とも異なるなにか。
闘争心と独占欲に、執着を浸してかき混ぜ煮詰めたかのような渇望。邪魔するもの全てを叩き潰し、自分だけがそこに至ることだけを良しとする傲慢な欲求。
それを、そんなものをルドルフは私に向けているのか。
甘く見ていた。怒るだとかなんとか、そんな次元で彼女は私と対峙してなどいないのだ。感情のやり取りをする相手ではなく、首根っこを掴み地面へと叩きつけ、牙を突き立てる獲物としか捉えていない。
彼女は話し合いをしに来たわけでも、ましてや旧交を温めに来たわけでもない。
狩りに来たのだ。私を……ここは猟場で、彼女は罠を張っていた。そして、まんまとそれに引っ掛かった哀れな獲物がここに一匹。
逃げろ、と本能があらん限りに警鐘を鳴らす。
だけどどうやって。閉じられた部屋の中で、本気になったウマ娘から逃げきることなどヒトには不可能。
ルドルフと比べるまでもなく、私は生物として余りにも矮小に過ぎるのだから。
「ルドルフ、座って話をしよう。お互い一日も終わって疲れただろう」
「必要ない。そうだな、トレーナー君が疲れたというならこのような茶番も切り上げるとしよう。早速だが、本題に移ろうか」
「本題、とは」
「おや、私の口から言わせたいんだね。君にももう既に察しがついているだろうに」
穏やかな微笑を引っ込めるルドルフ。代わりににやにやと、にたにたと唇を吊り上げた。
その隙間から、ちらりと太くて長い犬歯が姿を見せる。それは猛獣の威嚇そのもので、きっと彼女が仮面の下に忍ばせてきた本性なのだろう。
私を扉の前から追いやった時と同様、ゆったりとした足取りのまま再びこちらへと近づいてくる。
後退りした瞬間、跳ねるように一気に距離を詰めてきた。
ふわりと重力から解放され、宙に放り出される。
広いリビングの半分を一息で駆け抜けたルドルフが、私の両肩を捕らえてソファへと叩きつけた。
「ぐっ……」
痛みはない。が、衝撃で肺から中身が絞り出され、呼吸もままならない。
天井の蛍光灯を背にして、ウマ乗りになったルドルフが私の顔を覗き込む。逆光の下、影の差した彼女の顔はのっぺらぼうのように真っ黒だった。
ただ一つ、上顎の牙だけがいやに白くその存在を主張する。
「ただいま。迎えに来たよ、トレーナー君」
穏やかな、まるで子供を諭すような優しい声。
だがそれは、微笑みと口調で繕った仮面よりもよっぽど白々しい。
「頼んだ覚えは、ないんだけど」
「悪いが、拒絶を聞き入れるつもりはない。そもそも君だけと交わした約束ではないのだから」
「なにが言いたいんだ」
「それでいい。理解してもらうつもりはない。ただ一つだけ分かって欲しいのは、君にも責任があるということかな」
「なにを……」
開かれた玄関への扉と、寝室に繋がる扉の位置はどちらもそう遠くはない。だがこうして押さえ込まれてしまえば、最早身動ぎ一つするにも一苦労だった。
最悪、窓をぶち破って植え込みに飛び降りるか、ベランダを伝って他の部屋に逃げ込む選択肢もあったのだが。
こうして組み伏せられた時点でその道筋も潰えてしまった。完全に物理的な自由を失い、私の行く末は総て目の前のウマ娘に委ねられる。
「私の……責任とは?」
「一つ一つ挙げていけばキリがないな。たとえば、こうも他の女の匂いをつけて私を出迎えたこと」
こちらを見下ろすその瞳は、しかし私を捉えてはいなかった。さらに向こう、この場にいない別の誰かをしかと見据えている。
おもむろに上体を倒し、眼下で仰向けに倒れる私へと鼻を寄せてくる。
動体視力、空間把握能力、聴覚そして嗅覚。筋力に限らず、感覚器もまたウマ娘はヒトを遥かに上回っている。とりわけ他の同性の匂いに関しては敏感らしい。だからウマ娘と結婚したら浮気は出来ないのだと、かつて修習所の教官が冗談交じりに語っていたのを思い出した。
ああ、これが分かっていたから彼女を近づかせたくなかったのに。
「シービーとの一日は楽しかったかい、トレーナー君。私との接触を絶ってまで、一体二人でなにをしていた」
「"シービー"とはまぁ、随分と気安く呼ぶじゃないか。どうだ、少しは打ち解けたのか」
話を逸らした瞬間、頭の真横に勢いよく彼女の手が叩きつけられた。辛うじて布地こそ裂けなかったものの、凄まじい破裂音が鼓膜と脳を揺らす。
「……トレーナー君」
腹の底から絞り出すかのような唸り。
とうとう両耳が後ろに倒れ、全身の毛がぶわりと逆立った。まだ換毛を遂げていないそれは、覆い被さるルドルフの輪郭がまるで倍なったかのように錯覚させる程。
興奮で見開かれた瞳孔は爛々と踊り、食い縛られた犬歯が蛍光灯の灯りを反射しててらてらと不気味に輝いた。
地雷は地雷だったか。
こちらが意図的に伏せていた情報まで容赦なく暴き出される。なんにしても、私が彼女に逆らうことは許されないらしい。
いくら機嫌を損ねたとはいえ、いきなり暴力を振るってくるウマ娘でないことは誰よりも理解している。
ただしそれも、闘争心と自制心が紙一重のバランスで両立しているが故のことだ。その均衡が崩れてしまえばどうなるかは彼女にしか……あるいは彼女にすら分からない。
その仮面を取っ払った以上、慎重にならなくては。
「シービーとはお出かけだよ。知っているとは思うが、昨晩は職員の集まりがあってね。流石に昨日の今日で本格的なトレーニングは厳しい」
「それにしては、やけに彼女の匂いが強いようだが。余りにも不自然だ」
「ああ、お出かけといっても実際やったことは普段とそう変わらない……並走だよ。彼女の希望でね」
「すまない、言い方が悪かったな。
ルドルフが苛立たしげに尻尾を振り回す。左右に激しく動くそれは、あたかも鬱陶しい羽虫を叩き落とさんとしているかのようにも見える。
マーキングと言われても、私にはいまいちピンとこない。私に限らず、ヒトが汗の匂いから得られる情報や受け取れる感覚などそう多くはない。せいぜい快不快程度だろうか。
だがウマ娘にとっては違うようで、やはりヒトとは見えている世界の異なる彼女たちには特有の意味を持つものでもあるらしい。少なくとも、今目の前にいるルドルフにとっては無視できない痕跡のようだった。
こう言っては間違いなく怒られてしまうだろうが、動物や昆虫のフェロモンに近いのだろうか。
「なぁ、トレーナー君。私とて決して予定調和の如く中央に足を踏み入れたわけじゃない。君がこの二年間、トレーナーとなるため懸命に知識と経験を積み、技術を磨いている間……私もまた努力してきたんだ」
それは分かるだろう、という彼女の問い掛けに頷きを返す。
ルドルフが才能に恵まれたウマ娘であることは疑いようのない事実だ。とはいえ、それに水をやらず放置していれば芽は出ない。素質に胡座をかいているようでは、最高峰たるここに足を踏み入れ、ましてや総代に選ばれることは不可能だろう。
私はこの二年間、ルドルフとは連絡を取っていない。故に彼女がどんな日々を送ってきたのかも知れないが、それでも遊んで暮らしてきたわけではないということぐらい理解している。
「だからここの椅子を勝ち取った際には、恥ずかしながら少しだけ安心してしまったんだ。一息つけると。私にとってはこれからが本番だが、待ち望んだ杖にようやくもたれることが出来るから」
それは本心なのだろう。
長く深いため息を吐き出すと、ルドルフはそっと私の頬を撫で上げた。何度も何度も、その存在を確かめるような手つきで。
「……昨日まではね。あの式で君たちの姿を見て、そしてあの移籍の成立を知った時。まるでこの世の終わりのような心地だったよ。ああ、裏切りとはかくも心を痛めつけるのだな」
「別に、君の事を裏切ったつもりは毛頭ないが」
「そうだろうな。あるいは、私の一方的な気持ちの押しつけなのかもしれない。少なくとも、客観的に見ればそう判断せざるを得ないだろう」
淡々とそう告げられる。そう分かっていてもなお、彼女は絶対に退くつもりがないということか。
どこまでも自己中心的、得手勝手の極み。そう弁えていてもなお、自身の願望を成就させると宣言しているのだ。
「それでも私は諦めない。こんな結末は嫌だ。私にとって全てだった君を目の前で奪われ、それどころか舞台にすら上がらせてもらえない。そんなバカな話があるか。あってたまるか」
頬から手を離し、私の口に指を突っ込む。
乱暴にかき混ぜて引っこ抜き、濡れたそれを見せつけつように舐めとった。
「私を止めたいか。トレーナー君」
ルドルフはそう言うと、押し倒す直前に回収していたらしき私の仕事用のスマホに電源を入れた。
同時に私の両手を完全に自由にすると、ウマネットのログイン画面を立ち上げたそれを握らせてくる。
「なら、この場で私を通報するがいい。姉さんでも、君の兄でも、たづなさんでも、理事長でも、あるいは他のトレーナーでも警備部でも。警察でもいい。どこでも同じだろう。なにしろ現行犯だからね」
「そしたら……」
「間違いなく私は退学だ。入学式の翌日に二回も事件を起こして、それもヒトを襲ったとなれば。私は破滅し、シンボリの悲願もご破算になるが……君は解放される。拗れに拗れた、この状況からね」
「……さぁ、どうする。選択は君次第だ。トレーナー君」