ごそりと、布地の擦れる音に目を開けた。
カーテンに顔を向ければ、隙間から陽の光が射し込んでいる。ああ、もう朝になったのか。
結局昨晩は……そうだったな。ルドルフとシービーを泊めてやることに決まったんだ。冷蔵庫のビールで初仕事を終えた景気づけでもしようかと思っていたが、未成年二人を迎えている以上それも控え、シャワーを浴びて早々に床に就いたのだったか。
「んん……」
体が重い。
疲れがとれていないというわけでもないし、早く起きすぎたということもないだろうが、どうしてかベッドから起き上がるのが億劫だった。
おかしいな。特にやることもなく、いつもより数時間も早めに就寝したのだから、すこぶる快調になっていないとおかしいのだが。
年を取ると寝るだけでも体力を消耗するらしいが、生憎私は成人を迎えて一年も経っていない若者である。そこまで自堕落な生活習慣を繰り返している自覚もない。
トレーナーの仕事は体力勝負だ。
ただでさえ体力の消耗が激しい業務。一日の始まりを疲れを抱えたまま迎えるのは得策ではない。どうやら起床時刻までまだ少し時間もあるようだし、二度寝でもして少しでもリフレッシュに努めるとしよう。
そう考えて寝返りをうった瞬間、またしても違和感が一つ。
「……狭っ」
……どうしてこんなギチギチになっている。寝室のベッドはこれまた随分と立派であり、少し我慢すれば大人二人でも利用出来る程の大きさだ。加えて私が成人男性にしては小柄な体格であることも相まって、スペースにはかなりのゆとりがあった筈。
だというのになんだこの窮屈さは。折り畳み式の簡易ベットの方がまだマシだとすら思える。
異変の正体を確かめねばなるまい。
そう目蓋を上げると、体を丸めながら頬杖を突いているシービーと目があった。
「…おい」
「ん、ふふ。トレーナーおはよう」
「おはようじゃない。おいコラ、どうしてここにいる」
どこか慈愛の籠ったその微笑みは、男女の同衾としてはさぞ絵になるのかもしれないが。
しかし現実には彼女はただの居候であり、この部屋に招き入れた覚えもない。単身寮であるが故に寝室に鍵がついていないのが仇となったか。
一応即席のバリケードは築いておいたのだが、扉の方を見ると案の定ウマ娘の力業で正面突破されてしまっている。
「やだな。昨日の夜トレーナーが『寂しかったら遠慮しなくていいんだよ』って許してくれたんでしょ。寝ぼけて忘れちゃったのかもしれないけど」
「そんなしょうもない嘘で誤魔化せると思ってるんなら大間違いだからな。ならあのバリケードはなんだ」
「風水的なアレでしょ。キミはツキがないから、こういう所で地道に稼いでいくのは正しいと思うよ」
なにがツキだ。少なくともここ数日の災難に関しては全て人災に他ならない。
添い寝しながら見つめ合っているのは良くないので、仕方なしにシーツをはね除けて身を起こそうとした。が、やはりどうしても体が重い。動かすことすら難しい。
シービーが私の片足をその両足で挟み込み、ついでに腰回りには尻尾を巻き付けている。倦怠感の正体はこれか。建物を覆うツル植物よろしくこうも絡みつかれていれば重くて当然であろう。
とりあえず起き上がるのは諦めるとして、せめて向かい合うことだけでも止めようと再び寝返りをうとうとした瞬間、反対側のなにかに妨害された。
首だけ捻って後ろを確認すると、案の定そこに丸まっていたのはルドルフ。シービーとは違い、すやすやと微かな寝息を立てながら夢の世界に旅立っている真っ最中。この中で最年少かつ最も体の小さい癖して、じつにベッドにおける4分の3もの領域を一人で占領している。
あまりにも窮屈すぎて体勢すら変えられない。ついさっき目覚めた時のように、仰向けに天井を見ることすら出来ない。いくら三人で添い寝しているとはいえ、そのうち二人は中等部の女子であるにも関わらずだ。
寝返りをうった瞬間、生まれた隙間を抜け目なく支配してくる。飼い猫かなにかだろうかこの子は。
「ルドルフ。おい起きろ、起きないか」
「………」
稼働範囲限界ぎりぎりまで腕を伸ばして彼女の体を揺すってみるものの、一向に起きる気配がない。
そうだった。ルドルフはとにかく寝汚いというか、一度眠りに落ちると滅多なことでは目を覚まさないのだった。あのシリウス相手にベッド上の陣地争いで無敗を誇った実力は伊達ではない。あろうことか私にその牙を向けられる日が来るとは思わなかったが。
ウマ娘とはいえ、その体重はヒトの女性となんら変わらない。手足さえ自由に動けば、力ずくでベッドの端っこに追いやることも出来るのだが。
「いい加減離せシービー。というよりこの部屋から出ていけ。君たちの寝室はリビングだろう」
「やだよ。ここの方が寝心地がいいんだもの。そもそもいくら柔らかいからって、ソファで寝るのはなんか気が向かないし」
「我が儘だな」
「大事なことだよ。疲れがとれなくてアタシの調整に狂いが出ちゃったらどうするつもり」
「ぐ……」
そういう都合のいい時だけレースを持ち出してくるのは本当にズルいと思う。
その時点でトレーナーである私はなにも言い返せなくなってしまう最強のカードだ。それも使用回数が無制限の。
もっとも、シービーの言うことも一理ある。
寝るならちゃんとしたベッドの方が良いだろうし、だとしてもそんなものはこの部屋にしかないのだから。だとしてもせめて一言ぐらい声をかけろという話だが、熟睡中のこちらに配慮したのかあるいはこれ幸いと開き直ったのだろう。
私はどちらかといえば眠りは浅い方だ。
少しの物音で目を覚ますという程のものではないが、それでも近くで騒ぎ立てられればほったらかしには出来ない。
それでも今の今まで彼女たちの存在に気づかなかったということは、バリケードの突破からベッドへの侵入まで極力静かに手分けして事に及んだということか。本当に、利害さえ一致すれば協力出来るのが厄介極まりない。
ただの損得勘定と割り切ってしまえばそれまでだが、この二人は決して水と油という間柄でもないのだろうか。倶に天を戴かず、殺し殺されというレベルにまで深刻ではないのか。
ひょっとしたら仲良くなれるかもしれない。というよりなってもらわないと困る。
「トレーナーもさ、キミの目的からすればこれはこれで都合がいいんじゃない?」
「どういう意味だ」
「アタシとルドルフのどちらかをトレーナー……キミにとっての先生に預けるってやり方もあるのに。そうしなかったのは、ようするに私たちを一緒に生活させたかったからでしょ?」
トレーニングのつもりなのかな、と呟くシービー。
そこまで察しているならさっさと和解して欲しいものだが。いや、とりあえずはルドルフを権限なり腕力なりで部屋から排斥するのではなく、こうして大人しく同居しているのがシービーにとって最大の譲歩だということか。
「なら、別々のソファで寝るより一つのベッドを分けあった方がより仲は深まりやすいよね」
「かもね。で、どうだ。ルドルフとの親密度は上がったのか」
「あんまり。だってその子、シーツを被るなりすぐに寝ちゃったんだもん。交流もなにもあったものじゃないよ」
「交流ね……」
一応、歩み寄るつもりはあるということか。
お互い完全に相手をいないものとして扱う、いわゆる冷戦状態よりはまだマシなのか。その結果があの大惨事に繋がったのかもしれないけれども。
この辺りが、やはり全寮制における最も難しい問題なのだろう。どれだけ設備を整えたところで、肝心の寮生同士の相性についてはどうしようもない。他人に言われてどうこうなるものでもないのだから。
美浦と栗東、それぞれの寮に帰属意識と他寮への対抗意識を持たせることで、団結力の向上を図るという手法も執られている。寮長が主催となってたびたびパーティーを企画したり、年に一度寮対抗のレースを外部からの観戦人も招いて開催したりと、学園側も工夫してはいるのだ。
たんなる同級生などといった繋がりならそれで十分なのだろうが、やはり寝食を共にする同居人となると勝手が異なるということか。最初期に無理してでも一人部屋の仕様を実現しなかったことが悔やまれるが、戦後間もない時期に2000名を個別に収容するのは流石に不可能か。ただでさえ、東京にこんなバカみたいにデカい箱庭をおっ立てたばかりなのだし。
とにもかくにもそういった諸々のしわ寄せが、最終的に全てトレーナーへと回ってくるのがこの学園における運命である。ウマ娘ファーストを掲げるトレセンにおいては、我々は徹頭徹尾こうして縁の下で支え続けるしかないのだ。
悩んだところで現状は変わらないのだから、これも高給の対価として早々に割り切ってしまうのが吉である。幸い、私にとって無茶振りなどとっくに慣れ親しんだものであるわけだし。
「そろそろ痺れてきたよ。いい加減離してくれないかな」
「はーい」
ようやくシービーの足と尻尾から解放される。
首を鳴らし、肩を回すと嘘のように体が軽くなっていた。やはり重いのは彼女のせいだったらしく、普段より多めに睡眠をとったぶんむしろ体調は万全らしい。これなら、二度寝する必要もなかったな。
そうだとも。私はまだまだ老いちゃいない。有り余る体力を武器に、今年も精一杯頑張ることとしよう。
カーテンを開けると、目に染みるような眩しい朝日が部屋の中を満たす。
それと同時にポーン、ポーンと響き渡る軽快なチャイムが耳を打った。
「なに、この音」
「朝の目覚ましだよ。毎朝六時に天井のスピーカーから流れてくる。あくまで館内放送だからスイッチで切れるけどね」
「それにしては随分味気ないね。もっとこう、音楽とか起床ラッパとかそういうのの方がらしいのに」
「毎朝同じ音楽を流すと、それがトラウマになる職員もいるんだと。ラッパは軍隊っぽさが出るからコンプライアンス的に駄目らしい」
「え、この学園にコンプライアンスなんてものがあったんだね。びっくり」
「ほんと君……そういうところだからな」
ベッドから降りてゆっくりと体を解す。
うん、いい調子だ。ちょっと全身が湿っぽいというか、かなり寝汗をかいているのはウマ娘二人が隣にいたからだろう。体温の高いウマ娘と同じシーツにくるまるなんて、こんな暖かくなってきた時期だと暑くて堪らないからな。
「トレーナー。この子はどうするの」
「ああ、ルドルフなら放っておけばいい。時間になれば勝手に覚醒するからな」
ルドルフの体内時計は、それはもう信じられない程に正確なのだ。
二、三回ぐらい同じ時刻に同じ行動をとっていれば、後は時計を見なくとも感覚だけで始まりと終わりのタイミングを測ることが出来る。レース中もまた、一秒感覚で自身と相手のペースを捕捉しているらしい。
その体内時計は起床にも大いに役立つそうで、あれだけ揺らしても叩いても一向に起きない癖に定時になるとパッと目を覚ます。もっとも、その後ベッドから出るまでにまた時間がかかるのだが。
起床チャイムが流れるのが朝の六時ちょうど。となれば、あと五分もすればルドルフも自分で起きてくることだろう。
二人を寝室に残して、私は昨日の晩に修羅場を迎えたばかりのリビングへと出る。
趣味に打ち込む余裕がなかったためか、随分と殺風景だった部屋はたった一晩で結構な賑わいを見せている。
教科書からノート、筆記用具、タブレット、ランニングシューズに蹄鉄、制服からジャージに水着、普段使いの部屋着に外行き用の私服その他諸々、二人ぶんの私物が一度に持ち込まれたのだから当然だろう。
敷地の対極にある学生寮からここまで自力で運んでこれるのは流石というべきか。なるほど運送業でウマ娘が重宝されるわけだな。といっても、ウマ娘が歓迎されない職種など殆どないのだけれども。
さて、これから食堂にでも向かおうか。
出来ればシャワーでも浴びておきたいところなのだが、そうすると朝食時のラッシュともろに重なってしまう。なにしろこれだけの大所帯なので、一度混雑に捕まると一気に予定が狂いかねない。
中にはそれも一興と楽しむものもいるが、生憎私はそこまで気の長い性格ではないのだ。クリーニングに預けていたスーツも取りに行かなければ。
手っ取り早く身支度を整えて部屋を後にする。
あの居候二人を残して先に出るのはやや無用心な気もしたが……まぁ大丈夫だろう。
既に散々振り回されっぱなしではあるものの、最低限のマナーやモラルは彼女たちだって備えているわけだし。その辺りについては私はこれまでの付き合いから信頼していた。
いつも通りエレベーターを使って地上に降り、絨毯敷きのホールを抜けて寮の玄関へ。
実はこのトレーナー寮なのだが、学生寮と同じく部屋の配置が完全にランダムというわけではない。前提となるルール……法則といえるものがここにもあった。
基準となるのは階層である。経験の長い、実績の豊富なトレーナーほど低層に。そしてまだまだ経験が浅かったり、かつてウマ娘絡みの遭難に出くわしたトレーナーは高層に部屋を与えられる。ヒトではなくウマ娘のトレーナーは問答無用で最下層だ。
これもやはり生徒絡みの事件に備えた対策だった。セキュリティ万全なトレーナー寮といえど、それでもウマ娘がその気になればいくらでも侵入する手立てはあるのだ。そのような暴走を惹起する蓋然性の高い、すなわち担当との適切な距離感を維持する技量に乏しいトレーナーは可能な限り玄関から遠い上層に配置し、保護しようという考えあってのこと。逆にそういったリスクの低いベテランや、対抗手段をもつウマ娘は玄関付近を任せられる。
ちなみに私は当然に最上階である。この寮において最も未熟であり、最も保護されている立場だということだ。もっとも、それが正常に機能しているかはかなり怪しいところとなったが。
どうせだから一階の先生を食事に誘ってみようかとも思ったが、あの二人の様子や思うところについて根掘り葉掘り聞き出されそうなので止めておく。
結局、一人寂しく玄関から外に出る。
と、その直後。一人のウマ娘から声をかけられた。
「おはようございます。トレーナーさん」
「ん……ああ。おはよう。朝早くからお疲れ様」
「はい。ありがとうございます」
とっさに挨拶を返すと、そのウマ娘は勝ち気にこちらへ笑ってみせた。
小柄な、栗毛のウマ娘。
昔のルドルフよりもさらに短く切り揃えた髪に、白く真っ直ぐな流星が踊っている。その下できりっと引き絞られた眉と、燃えるような琥珀色の瞳もあいまって、大層男勝りで活発そうな印象を振り撒いている少女。
この時間帯に、ウマ娘がトレーナー寮の前にいるのは珍しいことではない。
大抵が、朝練の前後に自らの担当トレーナーを迎えに来たものだ。トレーナーにとっては、朝玄関から出てみたら目と鼻の先に担当が待ち構えているというのはかなり心臓に悪いシチュエーションであるが、それでもちゃんと弁えて寮の外側で待機しているぶんずっとマシである。少なくとも、いつの間にか部屋の中に乗り込んでこられるよりかは。
彼女もまた、自分のトレーナーをかっさらうためにこうして出待ちしているのだろう。
……いや、違うか。
たぶん、この子はそういった用件ではない。そもそも担当すらついてないはずだ。
身につけた制服も、履いているローファーも総じて綺麗すぎる。まさに下ろし立ての新品ぴかぴかといったところ。
ルドルフと同じく、つい昨日入学したばかりの新入生といったところか。あまりにも堂々としているというか、私相手にも全く気後れした様子がないのでとっさには分からなかった。
「新入生がこんなところでどうした。学園見取り図なら生徒手帳の最後のページに……」
「違います。迷子なんかじゃありません。私の目的地はちゃんとここですから」
「そうか」
どうやら新入生なのは本当らしいが、だとしてもどうしてこんな所に。来月の選抜レースを見据えて、トレーナーを見定めるために足を運んで来たのだろうか。
だとしたら熱心なことだ。まぁ、私にはなんの関係もないのだけれども。今はルドルフとシービーのことで手と頭がいっぱいなのだから。
「今日は初授業日だからほどほどにね」
「あ、ちょっと!待ってください!」
その場を切り上げようとした瞬間、慌てて腕を捕まえられる。
「トレーナーさん……は生徒会長さんと一緒にいた人ですよね。入学式のとき、訓示で怒られてた」
「ん……うん。そ、そうだけど。ああ、シービーに用事があったのかな」
「いえ。私が会いに来たのはルドルフです」
どうしてルドルフがここにいると……ああ、事務局に問い合わせれば普通に教えてもらえるか。別に存在を秘匿されているわけでもないのだし。
それにしても、ルドルフとは随分と気安く呼ぶものだな。ウマインで連絡を取り合うわけでもなく、直に会いに来るあたりさほど親密な間柄でもないだろうに。
「悪いけど、まだ出てくるまでだいぶ時間がかかるだろうね」
「そうですか。まぁ、アイツが寝坊するならそれでも私は全然構いませんけれど」
むしろそうであって欲しいと言いたげな口振り。
アイツ呼ばわりもそうだが、決してルドルフに友好的な感情を向けているわけではないらしいな。憎悪や嫌悪という類いのものでもなく、強いていうなら負けん気だろうか。
ふと昔、アメリカを訪れた時のことを思い出した。母がこれと似た感情を向けていた相手がいたような……名前はたしか、イージーゴアとか名乗っていたか。
「ところで、君の名前は?」
「ビゼンニシキです。ああ、すみません。まず最初に名乗るべきでしたね」