立ち話もなんなので、私たちはひとまず本校舎のカフェテリアで朝食をとることにした。
適当なテーブルにトレイを置いて、互いに向かい合って椅子に腰かける。そういえばついこの間、桐生院とも全く同じ場所でこうして食事を共にしたんだったな。
あの時はまさかこんな事態になるとは夢にも思わなかったが、しかしよくよく記憶を探ってみれば、シービーにはその兆候があったような気がする。もっとも、今さらそれに気づいたところでなんになるという話でしかないのだが。
「やっぱりこの時間、かなり空いているのね。いつもごっちゃりとしているイメージしかなかったわ」
「私たちはともかく、生徒は同じタイムスケジュールで行動しているからどうしてもね。混む時は混むし、落ち着く時は一気に人がいなくなる」
「そういうものかしらね。臨機応変に動けるトレーナーたちが羨ましいわ」
やや乱れた髪を手櫛で整えながら、ほうっと熱いため息を溢すマルゼンスキー。
その額や首筋にはうっすらと汗が浮かび、呼吸こそ乱れてはいないものの、その頬もまたほんのりと上気していた。胸元を緩め、熱を冷ますかのようにぱたぱたと風を扇ぐ。
彼女がこんな姿を見せるのも中々珍しかった。
そこまで疲労しているのは、ここまでずっと走ってきたから……というだけではない。その程度で息を上げる程やわな鍛え方はしていないだろう。
単純に、私を背負ってこの本校舎まで全力疾走したためである。あのまま徒歩で向かっていては、ほぼ確実に混雑に捕まっていただろうから、こうしてスムーズに席を確保できたのはひとえに彼女のお陰だった。
その異名通り、人一人乗っけながら学園の歩道を駆けるスピードと安定感は圧巻というほかなく、スターウマ娘の見る世界を擬似的にでも体験出来たのは本当に貴重な経験だった。彼女のファンにこのことを知られたら殺されたところで文句を言えない程の贅沢だろう。
顔にぶち当たる風と、周囲から突き刺さる視線がかなり痛いというのが欠点だが。未だに目尻に溜まっている涙のせいでどうにも視界がぼやける。これで公道を走るなら、フルフェイスヘルメットは間違いなく必須だな。
「臨機応変ね。フレックスタイム制とはいっても、別にそこまで融通がきくわけじゃない。君らウマ娘が最優先だから」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。なら、始業時刻をずらして毎朝私を迎えにきてもらえるかしら」
「それは私じゃなくて、君の担当である先輩に頼むことだろう。間違いなく断られるだろうけど」
「そうよねぇ。やっぱりトレーナーをアッシーにするのは良くないわよね」
片手を頬に添えながら、またしてもほうとため息をつくマルゼンスキー。
天窓から射し込む朝日に照らされて豊かな鹿毛がふんわりと輝き、顔には目元を覆うように影が差す。
その姿はあまりにも絵として完成されており、とても中等部生とは思えない妙な色気があった。たづなさんと並んでもまるで違和感が無さそうだし、そういえばあの二人は実際に仲が良かったんだったか。
それはたづなさんが若々しいというべきか、それともマルゼンスキーが実年齢より―――
「なにか、とっても失礼なことを考えてないかしら。トレーナーくん?」
「いやまさかそんなこと。ところで、引っ越してもう三ヶ月になるな。どうだ、初めての一人暮らしは」
「なにがところでなのかさっぱりだけど、まぁいいでしょう。そうねぇ……やっぱり気楽でいいわね」
「なるほど」
たしかに一人暮らしにおける最大のメリットはそれだろう。
トレセン学園は基本的に全寮制だが、本人が希望すれば外部から通学することも可能である。もっとも大抵は実家通いであり、マルゼンスキーのようにマンションの一室を借りて一人暮らしというのは稀なのだが。
この東京において……いや、地方でも同じ価格帯でトレセン学園の学生寮に見劣りしない部屋を借りるのは到底不可能なのだ。
かといって、レースにライブにと大勢の目に触れる生徒がそこらの賃貸で一人暮らしというのはセキュリティ上許容出来ない。それがマルゼンスキーのような、一線級のウマ娘であれば尚更のこと。
故に、彼女が寮を出ていった時にはかなりの騒動になったものだ。かのスーパーカーが学園を去ることになったのだと、空っぽの部屋を前に噂した者の数は両手両足の指では到底きかない。
結局その直後、ただ近隣に生活の拠点を移しただけだと分かったのだが……学園が認めるに足るだけのその新生活に、果たしてどれだけの金がかかっているのか想像するだけで背筋が寒くなる。
まぁ、実家の太さや彼女自身が稼いでいる賞金やらライセンス収入やらを考えれば、経済的な問題など無いに等しいのだろうが。
この学園で普段当たり前のように相手をしている彼女たちも、実際は只者ではないと改めて思い知らされた一件だった。
流石、日本最高峰のお嬢様学校という呼び名は伊達ではない。
「しかし、気楽というなら寮長を目指してみても良かったんじゃないか。たしか一人部屋だったろう?」
「寮長は高等部生からしか選ばれないのよ。最低でもあと一年、待たなくちゃいけないのよね」
「一年も待てない程、美浦からすぐに出ていきたかったってことか?そこまで寮生活嫌いだったのか君」
マルゼンスキーが私生活で誰かと衝突したり、険悪だったりといった話は聞いたことがない。
同居人については一度変わっていたが、どちらとも良好な関係を築いていたらしいし。社交性があり面倒見もいいことから、寮長のタケホープからの信用も高かった筈だ。共同生活が苦手とは到底思えないのだが。
そんな私の早とちりを、マルゼンスキーは指を振って否定した。
「ノンノン。美浦に不満があったわけじゃないの。いえ、不満はあったのだけれど、人間関係についてじゃないわ」
「ならそれはなんだ」
「タッちゃんよ。学生寮にいたら手元におけないもの。そう、だからたとえ寮長になれても意味はなかったのよね」
「タッちゃん……?」
「ああ、トレーナーくんにはまだ御披露目してなかったわね。いいわ、写真だけど見せてあげる」
ウマホを取り出して画像を呼び出すマルゼンスキーを大人しく見守る。
タッちゃん……なんだろう。
一見すると人間の名前らしいが、彼女の恋人かなにかだろうか。この学園は別に恋愛そのものを禁止しているわけではないので不思議ではないが、しかし手元に置くという言葉が引っ掛かる。
そもそも同棲しているなら一人暮らしという表現もそぐわない。マルゼンスキーが自身の恋人を人間ではなく所有物扱いする、とんでもないウマ娘だったなら話は別だが。
となると、きっとペットの名前といったところだろう。縁がないので忘れていたが、そういえば学園の寮はペットの飼育が禁止されているのだったな。
あの秋川理事長ですら、いつも帽子にのっけているネコを飼うために学園外から通勤しているのだし。たづなさんもまた外部のマンションを借りているのも、たびたびそのネコを預かっていることが理由だとか聞いたことがある。うん、それが一番妥当なセンか。
「ほら、みてみて。これがわたしのタッちゃんよ!カッコいいでしょう?」
しかし、マルゼンスキーが見せてきたウマホの画面に映っていた正体は、そのいずれとも異なるものだった。
鮮やかに真っ赤な色をした、車高の低い外車。
所謂スーパーカーと呼ばれる類いのもの。あまりそっちの分野には詳しくない私ですら、すぐに名前が出てくる程に有名な車だった。
「ランボルギーニ……カウンタック。ああ、だからタッちゃんと」
「そうなの!貯めに貯めた賞金でこの前ようやく手に入れたのよ」
「それはまたスケールの大きい……」
決して思いつきや衝動買いというわけではないのだろうが。彼女が車について相当の情熱を傾けていることは、私のみならず学園の殆どが知るところであった。
以前、レースの合間を縫ってコツコツと自動車学校に通い免許を取得していたことだし。電撃的な引っ越しも含めて、かなり前々から計画していたことだったのだろう。しっかり者の彼女のことだから、その辺りについては驚かない。
だとしても、最初に手を出すのがまさかのスーパーカーとは。やはり、彼女ほどのウマ娘となればドライビング・テクニックも超一流なのだろうか。
いくら府中が郊外とはいえ、これを維持管理する費用はとんでもなさそうだとか、古い車だから自動車税もバカにならないんだろうとか、そういった諸々が真っ先に頭をよぎる時点で、たぶん私は一生彼女に敵わないのだろうな。中等部三年生でここまで上り詰めるとは……羨ましいと同時に恐ろしくもある。
「とにかく、おめでとうマルゼン。君さえ良ければ、今度は直に本物をこの目で見てみたいね」
「モチのロンよ!わたしのトレーナーくんと一緒にあなたも乗せてあげるわ。三人で峠をぶっ飛ばしましょうね」
「あ、ああ……うん。是非とも」
たぶん。きっと……恐らく大丈夫だ。
新車、ましてやこれ程の車となれば、誰だって絶対に傷をつけたくないだろう。それに万が一事故でも起こして風評に泥が跳ねたり、ましてや怪我を負うことにでもなれば競技ウマ娘としての活動そのものに支障が生じてしまう。合理的に突き詰めていけば、乱暴な運転なんて出来る筈がない。
「……というか、自分の車があるならそれを運転して通えばいいじゃないか」
「学園にまでぞろぞろと騎バ隊を引き連れてきたらチョベリバでしょう?それはもう少し腕を磨いてから挑戦するわ」
「えぇ………」
前言撤回。皆が合理性で動くのならそもそも事故なんて起こらないんだった。
今の話は聞かなかったことにしておこう。同じスーパーカーでも乗るのはマルゼンスキーの背中だけで十分である。
仕切り直すように、カップのコーヒーを一口啜った。
朝から立て続けに飲み過ぎな気がしなくもないが、節度を守るぶんには問題ないだろう。実家にいた頃は、カフェに付き合ってそれこそ日に何杯も口にしていたわけだし。
「あら、人もいっぱい来たわね」
「そろそろラッシュが始まる頃合いだからな。早めに席をとれて良かった」
ざわざわと、カフェテリアの入り口からいくつものウマ娘の集団がやかましく姿を覗かせる。
それ自体は本当にいつも通りの、ありふれた日常における一風景なのだが、今日はどことなく異様な気配がした。
見られている……視線だ。彼女たちから視線を感じる。凝視するのではなく、ちらちらと流し目でこちらの様子を窺っているような。
敵意や警戒ではなく、ちょうど気になるものに出くわしたとでも言いたげな好奇の視線。それが向けられているのは、有名人なマルゼンスキーではなく私だった。
「あらら。やっぱりね。ウマッターでも結構話題になっていたもの」
「原因はこれか。そういえば、そもそもこの雑誌こそが本題だったな」
コーヒーのカップを置いて、私たちのトレイの間に無造作に放り投げられた雑誌を再度手に取る。
適当にパラパラと捲っていくと、すぐに目的のページへと辿り着いた。
内容は春のトレセン学園特集。
一年のうち最も人の流動が激しいこの時期であるから、こういった特集が組まれるのも至極当然の話である。が、よくよく目を通してみれば、そこに記されているのは私とシービーについてだけだった。
まず初めに、特別移籍という制度について実例を挙げて紹介を済ませたあと、それが私とシービーとの間に適用されたことを明かしている。
さらに前年度における競技ウマ娘ミスターシービーの飛び抜けた実績に加えて、シンザン以来19年ぶりのクラシック三冠バの誕生が期待されている旨を摘示し、そんな彼女をまるで経験のない私に任せることの是非を論ずるものだった。
要旨としては、クラシック戦線において要求される経験と信頼関係を鑑みた上で私の実績不足を指摘し、これまで通り先生と組ませておくべきだといったところ。新人である私は、同じくデビューしたてのウマ娘と一年目から連れ添うことが望ましいとも。
「ふむ………」
「あら、おセンチになっちゃったかしら。所詮ゴシップ誌の言うことだから、トレーナーくんはそこまで気にしなくても……」
「いや、違う。なんか妙に引っ掛かるなって」
「引っ掛かる?って、どのあたりが?」
「らしくないんだよ。この三文安な雑誌にしては……言ってることが余りにもまともすぎる」
別に私は、世の新聞やら雑誌やらを全て読み尽くしているわけではない。
そもそもこの出版物自体、存在こそ把握していれど実際に目を通したことはあまりなかった。
そんな私でも違和感を抱く程、この記事はちゃんとしている。言い換えれば凄くまともだった。
私とシービーのそれぞれが残した実績や世間からの評価を正確に数字として表した上で私見を述べているし、その私見の内容にしても至極真っ当なところ。だいたい当事者である私ですら度肝を抜かれたこの移籍について、正面から疑問を呈する格好となっている。
結果として、シービーを高く評価し私を下げる結論となってはいるものの、事実を事実として並べていけば必然的にそうなるだろう。私と彼女が明らかに釣り合っていないことは間違いないのだから。
むしろ、私への批判がその程度で済んでいることが驚愕に値する。
この短時間で正確な情報を掴んでいるのは、まぁこの出版社の持ち味だから良いとしても……同じく持ち味である、主観的で偏った論評は何処に消えた。
普段であれば、ここで私のことを糞味噌にけなし、ついでに他の当事者である先生のこともコケにして、ともなればシービーにすら矛先を向けているところだろうに。こんな冷静で中立的な、まさしく真実を報道する姿勢からはかけ離れた狂犬ではなかったのか。
年度が新しくなって以来初めての刊行を節目として、これまでの方針を一変させたのだろうか。気のせいか、どことなく文章も以前と比べて整っているように感じる。
こんなものを書けるのなら、どうして初めからそうしなかったのやら。
「一体どんな心境の変化があったんだか」
「ひょっとしたら、シービーが怖いんじゃないかしら。そこの出版社って、つい昨日生徒会から取材許可の取り消しされたばかりでしょう?」
「あー…なるほど。そういうことか」
確かにそれなら筋が通る。「もう一度、一から信用を積み上げろ」とあの時シービーは言っていた。それで方針を改めたか。
レースを主に取り扱うマスメディアにとって、学園内での取材許可の剥奪はかなりの痛手となる。ましてやそれが、情報の正確性を取り柄としてきた会社なら尚更。
おまけに生徒会長という、この学園における権力構造の一角を為す重鎮を敵に回したことでようやく懲りたのだろう。
その結果世に送り出したのがこの推薦移籍の批判というのは、せめてもの意趣返しのつもりだろうか。なんとも往生際の悪いことだ。
「ウマッターでも同じような指摘してる人がいたわ。わたしは普段その雑誌を読まないから分からなかったけど」
そんなマルゼンスキーが今日に限ってこれを手に取ったのは、やはり表紙に載せられたシービーが目についたがためだろう。
彼女の人気は既に相当なもの。マルゼンスキーに限らず、同じ理由で一時的な読者が増えたと考えるべきだ。故にウマッターで即座に情報が拡散され、こうしてカフェテリアに訪れた生徒たちにもまた共有されている。
「だけど、それはむしろあなたたちにとっては不利に働くでしょうね。普段とのギャップのおかげか、その記事に賛同する声もかなり多い」
「ネコを助ける不良みたいなものだな。逆に、否定的な意見にはどんなものがある」
「当事者の意思を尊重しろとか、三冠に失敗してから叩けとか……消極的な声ばかりね。あとはその雑誌のアンチかしら」
「なるほど……」
ようするに、私とシービーの契約締結に疑問を呈している者が大多数だということか。
遅かれ早かれ世間には明らかになる情報ではあったが、余りにも展開が早すぎる。来月に開催される学園選抜試験の後のことだと考えていたのだが。
もしこれがいつも通りの、過激な偏向報道だったとしても、恐らく流れは変わらないだろう。
むしろもっと酷くなっていた可能性すら否めない。世の中にはただ騒ぎ立てたいだけの人間も大勢いるし、なによりこの雑誌はそういった層を主要なターゲットとしてきた。
そのような火種にガソリンをぶっかける事態にならなかっただけ、むしろ幸運だったと考えることにしよう。こういうセンシティブな話題を穏便に消化する一番のコツは、こうしてゆっくりと燃やしていくことなのだから。
「ま、これは一先ず置いておこう。既に世に出てしまったものは今更どうしようもないわけだし」
「ずいぶん余裕なのね」
「本番はこれからだよ。私もシービーも、世間なんて知らんと無視するわけにはいかない立場なんだから」
世の中の意見、民衆なんてものは気紛れで無責任なものだが、しかしそれに支えられているのがトゥインクルである。
デマや世迷い事ならともかく、ちゃんとした声には向き合わねばなるまい。とりあえず、私の方でもウマッターの動向を注視しておこう。
さて、その前にまずは腹ごしらえだ。食事前の談話にしては、随分と話し込んでしまった。
スプーンを手に持ち、シリアルの盛られた皿をトレイごと引き寄せた瞬間。先に人参ハンバーグへとナイフを入れていたマルゼンスキーが、ふとなにか思い出した顔でこちらを見上げた。
「あ、そうそう。トレーナーくんは気づいてないみたいだから一応言っておくわね。余計なお世話かもしれないけど」
「なにかな」
「食べ終わったら一度シャワーを浴びてきなさい。匂いが凄いわよ……虫除けのつもりかしらね。もう、あの子たちったら」