明日のトレーナー会議で提出するための資料をとりまとめ、校舎を出た時には既に陽も落ちていた。
肩を撫でる突き刺すような夜風にぶるりと身を震わせ、すっかり秋も深まってきたことを再認識する。ぽつぽつとまばらに立ち尽くす街灯が道を照らしてくれるが、その青白い光はかえって私に一層の寒々しさをもたらすばかりだった。
道に沿って学園の敷地内を横断する。この地域にしてはとんでもない面積を誇る学園。今でこそ我が家の庭のように闊歩しているが、着任して最初の一週間などは案内なしにはまともに動けなかった。大まかな配置を頭に入れていたところで、実際に歩いてみるとまるで感覚が異なるのだ。おまけに全く同じ複数の建物が規則正しく並んでいるので、うっかりすれば自分の現在地点そのものを見失ってしまう。
この学園を一人で迷わず歩けるようになって初めて半人前卒業だということだ。私もサブトレーナーだった頃、先生にそう教わっている。
「………………ん?」
広場まで出たとき、ふと見知った顔が目に入った。
腰の下まで伸ばされた長い鹿毛に、煌々と輝く朱い瞳。その眉は自信たっぷりに引き絞られており、緩やかに腕を組んで佇んでいる。顔には挑戦的な笑みを湛えており、その尻尾も堂々とした様子で左右に揺れている。溌剌としたその姿は、この夜の薄暗さの中ですら圧倒的な存在感を放っていた。
「シリウス」
彼女の名前はシリウスシンボリ。海外を主戦場としてきたダービーウマ娘であり、ここ中央においても指折りの実力者である。
私自身、昔から付き合いがあることも相まって彼女にはそれなりに思い入れが大きい。しかしどうも、近頃のシリウスは学園の問題児達を束ねており、他の生徒並びに生徒会ともトラブルを起こしているという。仮にも生徒会長のトレーナーである私としては、そんなシリウスとあまり深く関わり合うわけにもいかず、お互い顔を合わせない日々が続いていた。
……とはいえ、人目のないこの時間帯なら大丈夫だろう。シリウスの方はどうか知らないが、私としては彼女と疎遠になりたいつもりもないわけだし。せめて挨拶ぐらいはしておこうか。
そう考え、おもむろに数歩歩み寄った瞬間、シリウスの向かいにいるもう一人誰かの存在に気づく。校舎の影に隠れて見えていなかったが、そこには私にとって最もよく見知ったウマ娘の姿。
「―――なのでシリウス、今後の活動は少し控えてもらいたい」
「へぇ……?」
「君が大勢の生徒を従えて、度々コースを占拠していることは耳に入っている。批判も集まっているよ……君なりに考えがあってのことだろうが、それは他の生徒の成長を妨げる理由にはならない」
妨げる理由にはならない」
……ああ、そういえばつい先程もそんな小競り合いが起きていたな。生徒たちのみならず、トレーナーの間でも苦情が聞かれるようになった。ただでさえ綿密にプランを組んでいる育成メニューのこと。担当の怪我や不調ならばともかく、他のウマ娘の都合で一方的にトレーニングに制限をかけられてしまっては敵わない。
生徒会長たるルドルフにとってもおよそ看過出来ない事態である。なのでわざわざこうして出張ってまで自制を促しに来たのだろう。
もっとも、そんな事ではいそうですかと折れるようなシリウスではない。
「なら、私がアイツらを仕切るのをやめたとして、だ。その後アイツらの面倒は誰がどう見るつもりなんだ?」
そう投げられたシリウスの問い掛けに、対応策を提示するルドルフ。それを聞いたシリウスは、更に批判を重ねていく。
堂々巡りだ。議論は平行線のまま……これでは、どれだけ時間をかけたところで妥協点など見つからないだろう。いや、そもそもルドルフはともかくシリウスの方は最初から譲歩するつもりなんてないのかもしれない。
「……なぁ、"皇帝"サマ。アンタはなにも分かっちゃいない」
あくまでお互いの譲歩にこだわるルドルフ。そんな彼女の姿を前に、問題児達の王はそう嘯いた。
「大抵のヤツはな、生まれながらに何かしらの問題がある。そういう問題は突発的に振りかかってくるんだ。レースやトレーニングがあるか否かに関わらず。優等生のアンタと違って、アイツらに『次』なんかないんだよ。なら、目を向けるべきは『今』。そして個々に目を向けなければ『今』は見えてこない」
「ふむ……つまり個々に合わせた対応策をとるべきということか。一理あるが、現実的ではないのも事実。個々の生徒に合わせた結果、全体がおろそかになったり、ましてや一部の生徒を優遇するようでは本末転倒。だからこそ、均等な機会を設けることこそ最善だろう」
議論は平行線のまま、一向に決着がつく気配も見えず。どうしたものかと窺っていると、不意にシリウスの目がこちらを向いた。
「………ハァ、これ以上話していてもラチがあかねぇ。おいアンタ。さっきからコソコソ聞いてたんだろ。どっちが正しいか言ってみな」
見つかっていたか。隠れているつもりではいたのだが、流石にウマ娘のミミやハナは誤魔化せないらしい。
シリウスに促されるまま、私も広場の中心へと歩み寄る。そんな私の姿を見て特に反応もしないあたり、どうやらルドルフもこちらの存在を認識していたらしい。
「私の意見なんて聞いてどうする?さっきから聞いていれば、お互い平行線のまま……なにを言ったところでその溝は埋まらないと思うけど」
「いいから言えよ。別に採決をとろうってわけじゃない。ただ、アンタがどう考えているのか知りたいだけだ」
「それは私も気になるなトレーナー君。私達の議論を聞いた上で、君はどちらの意見に賛同する?」
「議論ね……」
果たしてアレを議論と呼べるのだろうか。確かにルドルフはそのつもりだったかもしれないが、シリウスの方は正直言って彼女の追及をかわす事自体が目的のように見える。シリウスの個人重視な意見と、ルドルフの全体重視な意見。いずれにしても、どちらに共感するのかと問われれば、私の答えは既に決まっている。
「ルドルフの意見に賛成する。個々に目を向けるのは大事だが、それだけでは学園は立ち行かない。その結果、いの一番に困るのは君たちの方だろうに」
「なるほど、アンタも管理する側の意見ってわけだ」
真っ向から自分の主張を潰されたにも関わらず、シリウスはどこか楽しげな笑いと共に私を見つめる。
私とて、シリウスの意見には一理あるとは思う。親もなく、社会の溢れものとして生きてきた私にとっては、彼女の言う今しかないという言葉には共感できる所もある。故に、私がシリウスの肩を持たないのは、その意見の内容ではなく彼女の姿勢そのものが理由だ。
「君は王道なやり方と言ったけど、少なくともルドルフは代替案を出していたからね。なら、シリウスの方からも歩み寄るのが筋ってもんじゃないの?」
「ハッ、筋ねぇ。アンタもだいぶ理屈っぽくなったもんだな。上からものを言われるのは気に食わねぇが、ここはアンタの顔を立ててやるよ」
シリウスはひらりと身を翻す。その先の道は美浦寮に続いている筈だ。今日のところはここで切り上げるつもりらしい。時間も時間だし、頃合いといった所だろうか。
「……ただし、次はアンタもろとも沈めてやるよ。そっちの堅物と一緒にな」
そんなことを言い残して、彼女は颯爽と広場から去っていった。怒らせてしまったかもしれない。最初は距離を縮めるつもりで声をかけようと思っていたのに、結局こういった結果になってしまったことに、ほんの少しだけやるせなさを覚えてしまう。
「シリウスは、明日もコースの占拠を続けるつもりだろうか」
そっと私の隣に並んでくるルドルフ。その瞳は私ではなく、徐々に小さくなっていくシリウスの背中を追っている。
「そのつもりだろうね。妥協するつもりなら、さっきのルドルフからの提案の時点で首を縦に振っていた筈だ。つまりシリウスは、最初からまともに話し合う気はなかったんだろう」
「……私は体よくいなされただけということか」
「まぁ、少なくとも私にはそんな感じがした」
そう告げると、ルドルフは落ち込んだ様子で顔を伏せてしまう。おおかた、生徒会長としての自分の力量が足りていなかったとでも考えているのだろう。昔ならそんなシリウスの態度にむしろ激昂していただろうに、随分と人が変わったものである。変わったというより、そういう仮面を被っているだけなのかもしれないが。
「おやすみ、トレーナー君」
「あ、ああ………おやすみ」
そうルドルフは短く挨拶を残すと、身を翻して反対側の道を行く……のではなく、目の前の道を進んでいく。ルドルフもシリウスも同じ美浦寮所属。最終目的地が同じなので当然といえば当然のことだが。
あの速さでは前を行くシリウスに追いついてしまいそうだが、俯いているルドルフはそのことに気づいていない…………案の定、あっという間に接触して、道の中ほどでまた一悶着起きている。
介入した所で余計な火種にしかならない気がするので、私は逆方向にあるトレーナー寮を目指すことにする。なんというか、最初から最後までぐだぐだで締まらないやり取りだった。真面目な話、シリウスはこの問題についてどこに着地点を置こうと考えているのだろう。お互い見知った間柄なわけだし、私にできることなら力になってあげたいものだが…………
◆
「…………なんて、そんなことを考えていた自分を殴りたい気分だよ。やっぱりあの時、もっとルドルフに入れ込んでおくべきだったかな」
「ハハッ。今更そんなこと言ったって遅いだろ。それに言っただろ、アンタもろとも沈めてやるって」
「てっきりただの捨て台詞なのかと。それにあれからまだ1日しか経ってないよ」
「考えが甘かったな。私のことを甘く見すぎだ」
けらけらと満足そうに笑いながら、地面に伏せる私の尻を叩いてくるシリウス。後ろ手に縛られている上に、背中に彼女が乗っかっているため足掻くことすらできない。
唯一動く首を振って辺りを見渡すと、どうやら使われていない器具庫のようだ。無機質な蛍光灯の光が部屋を照らしている。頬に密着するコンクリートの冷たさに、思わず身を震わせた。
「どうしてここにいるのか分かるか?」
「ああ。シリウスシンボリと愉快な仲間たちが私を無理やり拉致してきたんだろ。人間一人相手にウマ娘五人がかりで手を出すとは」
トレーナー会議を終えて、昨日みたく学園の敷地をほっつき歩いている最中。これまた昨日のように広場の中ほどまで来たところで、不意に視界が真っ暗になった。
ズタ袋を被せられたのだと、気づいた時には既に手遅れだった。数でも力でも勝る相手に抵抗出来る筈もなく、あれよあれよという間にここまで連れてこられたのである。まぁ、ここがどこなのかは私自身よく知らないわけだけど。
「そういう意味じゃない。問うてるのは経緯じゃなくて動機の方だ。ああ、念のため言っておくが皇帝サマなら助けに来ないぜ。アイツらに生徒会室へ陳情に行かせたからな。今頃、お得意の平和的解決案でも披露してくれてるだろうよ」
「そんな解決案すら出せなかったのが君じゃないか。ルドルフの理想につけ込んで無理やりイーブンに持ち込んだだけだろ」
「最後に口を閉じたのはルドルフの方だろ」
「それは君が一方的に話を切り上げたからじゃないか。結局のところ、君はルドルフから逃げたんだ」
「………ほぅ」
がしっと上から頭を鷲掴みにされる。そのまま横向きにコンクリートの床へと押し付けられ、徐々に圧力をかけられていく。
「それだけ啖呵切れるタマは大したもんだな。だが、よくこんな状況で私に喧嘩を売れたもんだ。墓の手前で生きてんのか?言っておくがな、私はルドルフ程甘くはないぞ」
ミシミシと、絶妙な力加減で頭部を圧迫される。ライオンに押さえつけられるシマウマになった気分だ。
これは不味い。流石に煽りすぎたか……幼なじみの縁もあって、ついついルドルフを引き合いに出してしまう。普段からシリウスにとって爆弾のそれは、とりわけこの状況においては核地雷も同然だ。
「う、うぐぅ~~」
完全に押さえつけられているせいで、既に首も動かすことができない。懸命に眼球を動かして、床に胡座をかいている彼女……この部屋にいるもう一人のウマ娘に助けを求める。
「た、助けてくれフェスタ!!このままじゃ石榴になる!!」
そんな私の情けない哀願を聞いて、フェスタ……ナカヤマフェスタはゆっくりと私の方を向いた。その手に握られた、三つのサイコロが地面に落ちる。
「アンタもおかしなことを言うな。この状況見れば分かるだろ?私はシリウスに手を貸してるのさ……なんでアンタを助けなくちゃならない」
「ぐ………!!」
くるくると、鍵を指で回してみせるフェスタ。プレートがついていないあたり、この器具庫は学園の管理下にない……既に放棄された施設であるらしい。おおかた彼女がそれを通電させて秘密の拠点にでもしているのだろう。よくよく周囲を見渡せば、コーンやマットといった道具や資材ではなく、生活臭のある小物ばかりが目についた。
なるほど、ここは完全に敵地ということらしいが……しかし話を聞く限り、シリウスはあくまでフェスタに助力を請う立場。思うに、この場で最も力が強いのはフェスタなのではなかろうか。だとするなら、彼女さえ押さえれば状況を一変させられるかもしれない。必死に頭を巡らす。
「今は14時55分……あと5分でルドルフから定期の連絡が入る。お互い現在地の把握と業務の進行について共有する、ほんの十数秒の電話だけ……陳情の最中でも、一旦は席を外してくる筈だ」
「それで?」
「その電話を無視する、あるいはその時の私の返事次第ではルドルフがここへ向かってくるぞ。当然、この部屋の存在は露見する……そうなれば、この施設の鍵は没収。シリウス共々君も処罰されることになるな」
「脅しのつもりか?別にアンタに無理やり嘘の報告をさせてもいいんだぞ」
「そうしたいならそうすればいいさ。それでルドルフが騙されると思っているならね」
「……だからアンタを無条件でシリウスから解放しろと?」
「違う。チャンスをくれと言っているんだ」
そう言って、目線でフェスタの足元に落とされた三つのサイコロを指し示す。
私の意図を理解したのか、フェスタは仏頂面から一転してさも可笑しげに笑いを溢した。
「ハハッ、いいね……アンタの言ってることがホントかどうか知らないが、分の悪い賭けは嫌いじゃない。乗ってやるよ、その勝負」
ゆっくりと腰をあげると、フェスタはそのサイコロを再び拾い上げる。さらに部屋の棚から大きめの丼を取り出して、私とシリウスの方へと近づいてきた。
「どいた方がいいか?」
「いや、そのままでいい。ただ縄は解いてやってくれ。どのみち、ソイツ一人じゃここから逃げるなんて無理なんだから別にいいだろ」
「ハイハイ」
ブチリ、と縄を引き千切る音と同時に私の両腕が解放される。それほど長い時間拘束を受けていたわけでもないが、やはり若干腕や肩も痺れている。伸びをしたいが、この状況ではそうも言ってられないだろう。
「おいトレーナー。チンチロリンは知っているな?役目は分かるか?」
私にも見えるように目の前に丼を置き、フェスタがそこにサイコロを放り込んだ。
「勿論」
「いいだろう。私に勝てれば、アンタの脱出に手を貸してやる。もし負ければ、私は一人でこの部屋を立ち去る……こんな部屋別に没収されてもいいが、捕まるのはご免だからな。それから親は私だ」
「分かった。その条件でいこう」
「チャンスは一度きりだ……なら、始めようか」
フェスタは慣れた様子で丼を振っていく。カラカラと音を立てるそれはやがて静止し、私達の目の前でその数を露にした。
「……3のアラシか」
「良かったなトレーナー?親で決まらなくて……ほら、背中は解放してやるから早く振れよ」
シリウスに促されるまま、私はフェスタから丼とサイコロを受けとる。三つのサイコロを中に放り込み、一意専心に丼を振った。
そうして飛び出した、私の運命は………
「…………………………………」
「うわぁ………ひっど」
無情にも並ぶ、1と2と3の連番ヒフミ。
………即負けだ。
「私の勝ちだな」
カランカランという虚しい音を響かせながら、私の最後の希望は無情にも目の前で片付けられていった。代わりにどっかりと、シリウスが再び私の背中にウマ乗りになってくる。
「じゃ、そういうことで。私はもう行くから、終わったらちゃんと戸締まりしとけよ。あと、会長が来ても私の名前は出すな」
「分かってるさ。もっともあの堅物のことだから、その気になれば本当の管理者ぐらい執念で調べあげるだろうがな。私はそこまで責任は持てないぞ」
「……チッ」
恐らく自分と繋がるような物品でも詰まっているのだろう、いつの間にか大きなバックパックを背負っているナカヤマフェスタ。最後にシリウスへ無造作に器具庫の鍵を放り投げて、一足早く部屋を出ていってしまった。
それをぼうっと眺めていると、唐突に体をひっくり返される。
仰向けになった瞬間、蛍光灯の光が飛び込んできて目に焼きついた。しかしそれも、覆い被さる影によってすぐに消えてしまう。
「さて、久しぶりに折角二人きりになれたことだしな。少し話しでもしようじゃねえか。その生意気な態度がどこまでもつか試してやるよ」
「シ、シリウス……」
「そう怯えるなって。私とアンタの仲だろうが」
なぶるように口ずさみながら、シリウスは舐め回すように私の体を観察する。
光源を背負い、にたにたと笑うシリウス。影に覆われた彼女の顔の中で……鈍く光る牙だけが、ゆっくりと顔を覗かせた。