『疑惑!ミスターシービーと新人トレーナー、方針に行き違いか!?』
皐月賞が明けて早々、こんな衝撃的なニュースが巷を駆け巡った!!
……というものでもなく、精々これまでの世論に追い風を送る程度であったが。
トレーナーとアタシの実力ないし相性の食い違いについては、今月に入ってから散々に擦られてきたものだった。
人の噂は七十五日などと言うものの、それはきっと続報もなく静観を続けた場合の話であって、こうして定期的に火に薪をくべられているようでは収まるものも収まらない。
まぁ、これもアタシのせいなんだろうけど。
「あれからもう一週間だよ。いい加減、次のレースに意識を切り替えていくべきだと思わない?ねぇ、ルドルフ」
「まだ一週間だろう。ダービー直前までは……いや、今年度中は誰も君から目を離さないと思うよ」
「うそ、アタシったら有名人!?」
おどけるアタシに呆れたようなため息を漏らすルドルフ。
向かいのベッドの端に足を組んで腰かけているが、それだとスカートが皺になるので止めた方がいいと思う。
「正直、私もあれには驚いたよ。最終盤における強襲こそが、君の持ち味であることは当然に知っていたが、とはいえトレーナー君の指示を無視してまでやることかな」
「だよねぇ……」
やっちゃったかな。
ちょっと考えれば、こうなることも予想できたはずだったんだけどね。
ゲートが開いて、ターフに飛び出した瞬間。
どうしようもなく昂ってしまった。
不思議な感覚だった。
前だけを見ているはずなのに、横一列に並んだ全員の顔が目に映るようで、レース場に詰めかけた観客一人ひとりの表情も見て取れるような。
濡れた芝の匂い。湿った大地の匂い。ざあざあと降りしきる雨粒の全てを目で追えてしまった。トレーナー曰く、視力だけでなく五感全てで世界を捉えていたのだという。無駄な動作、余計な情報を極限まで削り落とし、世界をより正しく感じとることが出来たのだと。
それはトップアスリートが極限まで積み重ねた鍛練の果てに到達する、領域ゾーンと呼ばれる境地に近いらしい。もっとも、皐月賞でのアレはまだまだ不完全で、アタシはそこにつま先だけ突っ込んだに過ぎないステージだそうだが。
初のG1という大舞台、なによりクラシック初戦という緊張。未だかつて経験したことのない大歓声とそこに乗せられた期待。ぴかぴかの勝負服。そしてなによりアタシの大好きな雨と荒れたバ場。
そういった諸々が一気に押し寄せてきて、絶好調という言葉すら生温い、狂おしいばかりの興奮に呑み込まれてしまった。
だからこそ、普段以上のパフォーマンスを引き出すに至ったのだろう。
「でもそれだって、所詮は結果論なのにね」
その暴走が、今回はたまたま上手い方向に作用しただけだ。
歯車が噛み合わなければ、不良バ場に体力を削られて足を貯められず、最終コーナーでのスパートに繋げられなかった可能性だって十分にある。それこそ、皐月賞前にトレーナーが危惧していたように。
彼が提案していた作戦は合理的だった。
終わった今だからこそ言えることだが、あれでも十二分に勝ち目はあっただろう。アタシの追い込みと比べれば、見ごたえのある面白い勝利というわけにはいかないだろうが安定している。
なまじ、皐月賞のように我を忘れて暴走した結果がひいらぎ賞での敗北だったのだから、クラシック戦線において念には念を入れるのは当然のことだったろう。
だからこそ、アタシも最終的には賛成したのだし。実際、ゲートが開く直前まではそれに従うつもりだったのだから。あの作戦無視は不服や反抗によるものではなく、単純にアタシが掛かってしまった結果に過ぎない。
しかし、世間はそうは思わなかったようで。
早速、トレーナーとアタシは相性が悪いだの、実は不和であるだの、アタシの方が作戦立案の能力も高いだの、トレーナーはお飾りだのお荷物だの出走チケットだのと散々に言ってくれている。
どれもこれも、トレーナーと事前に取り決めた作戦を世にバラしてくれた、この藤井泉助とかいうフリーライターのせいだ。
疑惑などと見出しに掲げておきながら、中身はほとんど断定している。こうして読者を無闇に煽るのが彼らのやり口なのだろう。
乙名史のおかげで、あの勝利の立役者と讃えられているチーフトレーナーとはえらい扱いの違いだ。あの人、ここ一ヶ月はほとんどアタシの面倒を見てなかったのに。
さらに厄介なのが、他ならぬトレーナー自身がそれに同調しているということ。
もともと推薦移籍に後ろ向きだった彼の背中を、他ならぬアタシがあの皐月賞で押してしまった。となれば、それに憤慨するのも筋が通らない。
結局、今のアタシに出来ることと言えば、こうして一日の終わりに同居人のルドルフに愚痴を聞かせてやることぐらいだ。
「やってらんない。こんなの」
ごみ袋はどこに置いたっけか。ああ、そうそう。クローゼットと右手前に広げておいたんだったね。
背表紙を挟んで狙いを定め、軽くスローイングをつけて放り投げる。部屋を横一直線に回転しながら突っ切ったと、雑誌は見事に在るべきところに叩き込まれた。
「なぁシービー……あれ、私が買ってきたものなんだが」
「そうだったっけ。ごめんね、後で新しいのあげるからさ。それで勘弁してよ」
「いや、結構だ。気持ちだけで十分だよ」
アタシと同じか、下手したらそれ以上に不機嫌な顔でばっさりと切り捨てるルドルフ。
ごみ袋の中で、他のプリント類や紙包装に埋もれた雑誌にはもはや一瞥もくれない。
藤井記者がしたためたあの記事の内容と世間の反応、そしてトレーナーの自信喪失は、総てルドルフにとっては有利となるものだ。
恐らく彼女が最も危惧していたであろう、アタシとの勝負に勝っても肝心のトレーナーが推薦移籍に拘るという、最悪のケースもこれでほぼ立ち消えとなったのだから。
しかしそれはそれとして、悪戯にトレーナーを槍玉に上げた藤井記者のことを彼女は大変腹に据えかねているらしい。
そのために彼女自身も利用されていたとなれば当然かもしれないが、アタシたち二人を一度に敵に回すとはあの記者も器用なものだ。
「それよりさっきからなんか風強くない?春一番ってこういうことなの?」
「それはもうとっくの昔に終わっただろう。君が窓を全開にしているからだ。いくらここが最上階とはいえ、夜中に感心しないな」
「えーいいじゃん涼しくて気持ちいいんだから。風流ってやつかな」
そう言っている間にも、ざあっと寮部屋に吹き込んできた風がベージュ色の遮光カーテンを盛大にはためかせる。
どこからか流れてきた花びらがルドルフの鼻頭に張りつき、眉間をしかめてそれを振り払っていた。
寮の周辺は防音のためにたくさんの木が植えられていて、その間を縫うように敷かれた遊歩道の脇にもまた色とりどりの花が咲いている。
生憎、ここ四階からはそうした外の景色を楽しむことは出来ないが。エレベーターが嫌いなアタシにとって、最上階は移動が面倒なだけなのだが、慣れてしまえばこれはこれで趣があるものだ。
遠くの空でみるみるうちに流れていく淡い雲と、その隙間から覗く月を楽しんでいたところ、無情にもぴしゃりと窓が閉められてしまった。ついでにカーテンも閉じられる。
「終わり。どうしても風を楽しみたいなら、今からでも走ってくるといい」
「あっ!そう言ってルドルフ、アタシのこと閉め出すつもりなんでしょ!?」
「いや、君だって鍵を持っているのにどう閉め出せと……」
「ところでさ、なんでキミはアタシに敬語使わないのかな。アタシは先輩で、生徒会長で、ミスターシービーだよ?もっと敬うべきなんじゃないの?」
「分かりましたよ、ミスターシービー先輩。これで満足ですか……?」
「やっぱいいや。よく考えればアタシもマルゼンに敬語使ってなかったしね」
「……………はぁ……」
うんざりした様子でベッドに仰向けになるルドルフ。
自分の世界に閉じ籠るつもりなのかもしれないが、そうはさせない。だらんとぶら下がった脹ら脛を尻尾で小突いてみると、大儀そうに姿勢の向きを変えた。
うん。あれだね。
これまでの反応からして、きっと彼女には年の離れた妹か弟がいる。
面倒見がいいというか、コミュニケーションに対して律儀というか、アタシのウザ絡みにも渋々ながら毎回反応を返してくれる。それでいて、歳上に対してもふてぶてしいあたり、妹属性も兼ね備えているというのだから堪らない。
去年まで相方だった彼女は高等部三年生だったからなぁ。流石に六歳も歳が離れているとやり辛いというか、向こうが大人だった。
アタシがどれだけちょっかい出しても涼しい顔で受け流されちゃったからなぁ。こう素直に反応してもらえるのは新鮮だ。アタシは一人っ子だからなおさら。
そのあたり、マルゼンが妙にこの子を気に入っている理由でもあるのだろう。
「あーあ、暇だね。トレーナーに電話でもしようかな」
「どうせ悪戯電話だろう」
「違うよ。大人同士の濃密な感情の交わりなの。ルドルフにはまだちょっと早いかな?」
「だから、トレーナー君はそれを悪戯電話だと言っていたぞ」
「えっ……そ、そうなの?えぇ……」
わりとショックなんだけど。怒ったから今日はもうトレーナーと口きいてやんない。
というかキミ、アタシとトレーナーの日課についても知ってるんだね。なんとなくそんな気はしていたけども。
決着をレースでつけると取り決めてから、アタシたちの関係は見違えるように良好なものとなっていた。
というより、ならざるを得なかった。流石にこれ以上の騒ぎは洒落にならないということもあるし、なによりここ美浦401がようやく復旧するに至ったからだ。
僅か一月足らずですっかり元通りに仕上げた管財課の手並みは見事なものだが、おかげで容赦なくトレーナーの部屋から追い出されたことを考えると、もうちょっと工期が伸びて欲しかったなんて不謹慎な願望もある。
というかトレーナー、あれだけアタシとルドルフが家事を頑張ったのに、よくもこれっぽっちの未練もなく捨ててくれたな。
思い出したら段々と腹が立ってきた。もう明日の朝まで口をきいてやんないことにする。
「ところで、シービー。君に報告しておくことがある」
「ん?」
一人トレーナーへの逆恨みを募らせていたところ、いつの間にかルドルフがこちらを向いて膝立ちしていた。
そのまま手にした一枚の用紙を、そっとアタシに手渡してくる。
「担当契約締結の申請願だ。先ほど原本を事務局に提出してきて、それはそのコピーだよ。受理されるのは来週の選抜試験の後になるだろうが」
わざわざ説明されなくとも見れば分かる。この学園に所属する生徒にとって、最も馴染みの深い書類と言ってもいい。
担当契約締結願。
これを生徒とトレーナーの双方が記入して提出し、学園から許可されることで正式に契約を結ぶことが出来る。
担当契約というのは身近なものでありながら、その実レース競技そのものを左右しかねない極めて重大な行為だ。だからこそ、この紙に虚偽の記載は許されず、それが明らかとなれば停学や退学、相当の懲戒処分に処せられることとなる。
それを、彼女が知らないはずもないのだが。
申請書の下部に大枠で設けられた、『特筆事項』の記入欄。そこには、"一週間後の選抜レースにおける結果"が記載されている。
シンボリルドルフ……1着、と。
「キミはなにを………」
「来週の選抜レース。私が君に勝てなければ、一番になれなければ……私が提出したそれは虚偽の申請ということになる。投函は済ませたから、今さら訂正や撤回はきかない」
「……ただでさえ、入学翌日にあれだけの騒ぎを起こしたキミのことだ。そうなれば、退学すらあり得るんじゃないかな」
「その方が君にとっては都合がいいだろう。退学にしろ停学にしろ、契約締結日まで私は君たちの邪魔を出来なくなるわけだから」
つまりこれは、レース結果の担保か。
アタシがルドルフに勝利した暁には、約束通り彼女はもう推薦移籍の妨害を行わないと。それを口約束に止まらず、そうせざるを得ない状況にまで追い込んで見せた。
「で、だからなに?アタシも同じようにしろってこと?」
「そこまで言うつもりはない。ただ、こちらの覚悟について知っておいて欲しかっただけだ。私は絶対に勝たなければならないし……だからこそ、君も手を抜いてくれるなよ」
「………言われなくとも」
「そうか」
言いたいことはそれが全てだったのか、ルドルフは脇机にそのコピーをしまうと、自分のベッドに潜り込む。
もう、そこにちょっかいを出す気にはなれなかった。
揺さぶりのつもりだろうか。
違うか。あれはたぶん、アタシではなく彼女自身に向けられたものだ。背水の陣を敷いて、油断の芽を徹底的に摘んだのかな。
いや……だとすれば、ホテルでたづなさんとの話をした次の日にでもやれば良かった。
そうはせず、わざわざ今日そのような手を打った理由。その契機について、思い当たる節は一つしかない。
皐月賞。
あのレースで私が感じた特大の興奮、研ぎ澄まされた世界。自身を極限まで追い込むことで、彼女もそれに至ろうと考えたのか?そこまでしなければ、アタシには勝てないと。
「おやすみ、ルドルフ」
……まぁ、なんでもいいか。
彼女がどんな策を講じるにしろ、アタシはそれを叩き潰して勝てばいいだけだ。
結果が全て。来週の初め、選抜レースで全てを終わらせることとしよう。