「なっ……!?」
私の左側をあっという間に駆け抜けていった背中。横一列の均衡が崩れ始める最中、他の逃げウマ娘に位置争いすら許さず華麗に先頭へとつける。
白の上着に緑のハーフパンツ。
その配色は、偶然にも彼女の勝負服と全く同じで。目の前でそれを見せつけられた私たちは皆、自分がいま誰と走っているのかを否応なしに分からされる。
分かってしまったからこそ、尚更戸惑ってしまう。
最前方を往くミスターシービーに刮目しているのは私たちだけではない。
柵の向こう側、集ったギャラリーも皆一様に息を呑んでいた。冷やかしで観戦している生徒、構図を工夫して縦横無尽に走り回る広報、スターを見つけようと観客席の欄干にかじりつく記者、そして本来今期デビューの新入生を見定めに来ている筈のトレーナーに至るまで。
悠々と集団を率いていくシービーから目を離せずにいる。天候にバ場状態、出走者の顔触れから彼女の顔色、フォームや走法等々あらゆる条件を入力して計算しても、一向に合理的な結論を弾き出すことが出来ないでいる。
……いや、そもそも合理性を突き詰めること自体が間違いなのかもしれない。
もし同じ立場だったら、間違いなく勝つために追い込みの戦法で挑んだだろう。たぶん、ここにいるシービー以外の全員がそう考えていたに違いない。
だからこそ、ここでそれを外しにいった可能性は?演出家を自負する彼女だからこそ、表向きは競う立場にないこのレースでは、あえて常識を外してきたという可能性だって―――
―――真っ先に抜け出したのはミスターシービー!!見せつけるが如く悠々と先頭を走る!続くのは3番バイパーピアースに12番コルスカンティ……
思考に囚われること数瞬。
既にバ群の展開が終わりかけていた。
「くそっ……!!」
バ鹿が!!なにをやっているんだ私は!
勝負の場において、想定外の事態が生じるのは当然のこと。
誰だって策の一つは巡らすものだ。重要なのは、いかに素早く対処するかということなのに。
完璧な筈だった滑り出しは、いつの間にか目も当てられない遅れに転じていた。
"キミは頭がいいから、そうやって知恵を巡らせるのは正しいと思うよ"
シービーの言葉の意図はここにあったのか?
いや、だとしてもその為だけに慣れない逃げをうつのは割に合わない。
私の不意を突くことは出来るだろうし、事実こうして出鼻を挫かれてしまったわけだが。それでも、戦法そのものを切り替えるほどの益はない。
ミスターシービー……なにを考えている?
それぞれの位置取りが完成する直前、私もどうにか十六、七番手あたりに滑り込む。
幸い私の得意とする戦法は差しであり、最初は集団の後方で足を溜めつつ、終盤に一気に前へと上がる動きとなる。
これが逃げや先行主体のウマ娘だったら取り返しがつかなかったが、なんとか最適なポジションに食らいつくことが出来た。
本来なら私の前後にシービーが位置取る筈であり、最終コーナーへと突入する前にとことんスタミナを削っておく作戦だったのだが。
しかしもう、彼女はここから全く手の届かない場所まで抜けてしまった。
これで序盤から中盤にかけての駆け引きを、ほとんど封じられた運びとなる。
思わず逸りかけた足を押し殺し、呼吸をゆっくりと整えた。
問題ない。シービーが追い込みだろうと逃げだろうと、私がやるべきことは同じだ。
勝負は第四コーナー。それまでに、まずは邪魔な前の集団を可能な限り瓦解させる。
最初のコーナーを曲がる。
向正面の直線へと突入し、それぞれが己のペースを掴んでくる頃合い。
選抜レースでは、ウマ娘がそれぞれの特性に従ってコースを振り分けられていた。まずは芝かダートか、それから短距離、マイル、中距離、長距離の四つである。
私たちがいま走っているこれは芝2000メートルの中距離だ。私が最も得意とする距離だが、同時にシービーにとってもまた十分に適正がある。
注視すべきは、彼女は弥生賞に皐月賞にと直近の二回とも芝の2000メートルで勝ち星を挙げていることだろうか。
「はっ……はっ……!!」
短い呼吸を刻みながら、ほんの少しだけ上体を前に傾ける。
それと同時に腕の振りを大きくし、風を切る音が緩急を伴いつつ高くなっていった。歩幅も徐々に広くすることで、前を走るウマ娘がようやく聞き慣れたところであろう足音を狂わせていく。
気持ち外側を走る私の手前には、芦毛と栗毛のウマ娘が二人。
戦法は追い込みなのだろう、均一のペースを保ちながらも、絶えず両耳を動かして周囲の状況の把握に努めていた。試しに一往復だけ腕の振り幅を変えてみたところ、四つの耳が一斉にこちらへと向けられる。
なるほど、よく周りが見えているな。
差しや追い込みのウマ娘は、終盤にバ群からスムーズに抜け出すため、そして他のウマ娘をブロックするため常に情報収集を徹底しなくてはならない。さらに並行して未来の動きの予測も不可欠となるが、彼女たちはしっかりとそれらが出来ていた。
私が地元にいた頃は、その基本すら欠けているウマ娘も少なくなかったのだが。流石は天下の中央と言ったところだろう。
もっとも、私と勝負するにあたってはそれがかえって仇となるのだが。
私があえて強く主張させていた気配……風を切り芝を叩く衝撃、八方を睨む視線、衣擦れの音、独特の呼吸が複合的に混ざり合ったそれは、実物以上のプレッシャーとなって前方の集団へと叩きつけられる。
背後からの圧力に精神を削られ、無意識のままに崩れていくフォーム。それに気づいてしまったが最後、困惑と焦燥によって己のペースを見失うこととなる。
第二コーナーを抜けた頃には……既に、目の前の芦毛と栗毛の走りは追い込みの理想から外れていた。
自分でも分からないままに、中盤の段階から先へ先へと私に追い立てられるように上がっていって、さらに先でも玉突きを起こしている。
中団から前団へと、バ群は徐々に崩壊を始めていた。一人二人のペースの乱れならいざ知らず、十をゆうに越える走者が一斉にペースを乱したことで、その歪みは津波のように全体へと波及する。多少なりとも、逃げウマ娘への牽制となるだろう。
これが私の、シンボリルドルフのレース。
自分にとって理想となる走り、それが周囲にどう受け止められるかを完璧に理解した上で、あえてそれを外しにかかる。自らのパフォーマンスを失する瀬戸際から放たれたプレッシャーは、水に垂らしたインクのように集団へと染み渡っていく。
誰に習ったわけでもなくそれを熟せた。相手の全力を押さえ込み、そこに己の全力を叩きつける。誰にも競り合うことすら許さない。
第三コーナーも中程に差し掛かった……此処等が仕掛け所だろう。強襲のお膳立ては済んでいる。
入学試験での模擬レースとほぼ同じ展開。追い込みは足を溜め切れず、差しと先行はスタミナを使い果たし、逃げ疲れたウマ娘がこちらへと落ちてきた。
息継ぎを短く浅いものから、深く長いものへと瞬時に切り替える。
前後に大きく振っていた腕の動きを小さくする。ピッチからストライドへと、芝を蹴る足の弾みも抑えつつ、歩幅とタイミングを手前のウマ娘のそれにぴったりと合わせていく。
強烈に背中を叩いていた私の気配が、唐突に消えたように感じたのだろう。混乱の隙をついて、するりと脇を抜けていった。同じように、次々と前を走るウマ娘をかわしていく。
ブロックも牽制も、なんとかペースを立て直そうと足掻く彼女たちには最早出来まい。団子となった集団には、逆にもう一度強烈にこちらをアピールして自分たちから道を開けさせた。
―――さぁ、ここで上がってきたぞ!!19番シンボリルドルフ!名高きシンボリの超新星が逃げも先行もまとめて差し切っていく!!まさに独壇場!!
喧しくがなり立てる実況アナウンス。それに負けじと大騒ぎするギャラリーの一同。
爆発するような歓声に背中を押されながら、私は第四コーナーに突入する。強烈な遠心力。抗いつつ、上体を右に傾ける。
ひゅうっと、掠れた息を吸い込んだ。
胸いっぱいに満ちる冷たい空気。熱せられた肺の中で、それはすぐに蒸気へと変わる。
ばちばちと視界に火花が飛び散り、覆い被さる青空が妙に広々と歪んで見えるようで。
ざわざわと、背筋を駆け上がっていく絶頂。
極限の集中の果てに、世界の時間が止まる。
背中に流れていくウマ娘たちの食いしばった歯。
こちらを睨む瞳。
両耳と尻尾の毛が逆立っている。
蹴り出され舞い踊る土と砂。
その隙間に飛び散る汗が、日の光を反射してきらきらと光る。
ひしめき合う群衆。
目映いフラッシュ。
レンズに張り付いた落葉。
記者の手元で滑る筆先。
その中身について、ちょっと目を凝らせば読み取れるかのようで。
誰かが大きく口を開けた。
だけど届かない。なにも聞こえない。
それはまるで、世界に私一人しかいなくなったかのような。
「5」
3番、クレセントエース。
前髪を上げた、艶やかな栗毛の逃げウマ娘。一瞥もくれずに、その横を通る。
「4」
17番、ディスパッチャー。
背中まで伸ばした、燃えるような鹿毛が目立つ先行ウマ娘。外から追い抜かす。
「3」
6番、パンパシフィック。
褐色肌が目に眩しい、芦毛の先行ウマ娘。こちらへとよれてきたが、構わず脇を抜ける。
「2」
12番、コルスカンティ。
怜悧な目をした、暗い色の鹿毛が揺らめく逃げウマ娘。最序盤から食らいついたか。そっと隣をかわす。
「1」
10番、リトルトラットリア。
ふんわりとした短髪が印象的な、芦毛の先行ウマ娘。よく私の威圧を耐え抜いたな。横目に見ながら、一歩前へ出る。
「0」
20番、ミスターシービー。
緑と白を身に纏い、豊かな鹿毛をたなびかせながら悠然と前を走る。太陽に照らされて、ちらりとその白い帽子がひらめいた。
どれも、あの日みた姿と同じ。
ああ、そうか。下手なG1より気合いが入るのだったな。このレースは。
最終コーナーも終盤に差し掛かっている。あと数秒で、最後の直線へとかかるだろう。
彼女との距離はおよそ三バ身。半バ身だけ詰めた直後、逆に同じだけの間隔を引き剥がされた。
ほんの一瞬、私よりも更に加速したということ。驚くべきことに、ここに至って尚も足を残しているらしい。
ちらりと、肩越しにこちらを見やる視線。焦燥の欠片もなく、余裕をもって自身のベストパフォーマンスを維持している。明らかに、私の揺さぶりが通用していない。
逃げウマ娘の真髄は、桁外れのスタミナと強靭な精神力にある。
レースの序盤から集団の先頭に位置をとり、そのままペースを落とさずゴール板を駆け抜けなければならない。差しや追い込みのように、足を溜め体力を温存するという戦い方が望めない。
スタミナに恵まれていることが前提条件。そうでなくてはまず戦えないのだ。
かといって、ただスタミナにモノを言わせて前を走り続けるだけの気楽な戦法でもない。
なにせレースの最初から最後まで、一貫して後続からのプレッシャーに晒され続けるのだ。しかも後ろの状況について、正しく把握することも困難となる。
盤面の全貌について殆ど情報が与えられない中で、心を乱さず徹底して自身の走りを貫く意思の強さが不可欠であり、それを損なった時点で逃げウマ娘はバ群へと沈む。菊花賞での逃げ戦法がタブーとされるのも、3000という長距離において集中力が続かないからだ。
逆にそこを揺さぶるのが差し戦法の妙であり、それに長けているからこそ私は自身を生粋の差しウマ娘だと自負していた。
……だというのに、彼女はどうだ。
トレーナー君の言うとおり、シービーは追い込みを軸に据えたウマ娘である。
いくら得意な中距離だとは言え、それでも2000メートルは長い。そこをいきなり先頭に立って、私の威圧すらものともせずに自身のペースを維持するのは無茶を通り越して無謀。だが、彼女は現にそれをやってのけた。
見事、と言うほかないだろう。
相手にとって不足なんてある筈がない。
ミスターシービーは最強の敵である。
これまでの私のバ生において。もしかしたら、競技ウマ娘としてのキャリア全てを通してかもしれない。現状、私が生まれて初めて相対する格上の敵。
でも……だとしても!!
私は、絶対にお前に負けるわけにはいかないんだ!!
「■■■!!■■■■■■■■!!!!」
「■■■!!■■■■■■■■!!!!」
なにも聞こえず、停滞した世界の中で。
飛び散る火花が、まるで稲妻のように青く太くなり。
澄んだ視界を、罅が割れるように一閃した。
―――――― 汝、皇帝の神威を見よ。