トレーナーと一口に言ったところで、その仕事の内容は多岐に渡る。
トレーニングメニューの考案を筆頭に、レース場やウマ娘の調査、関係者との連絡やアポイントメント、記者会見の準備とその実施、定例会議と議事録の作成、他のトレーナーや学園との交流、新人研修、資料研究等々やるべきことは山程ある。
担当ウマ娘の遠征に同行するのもまた、トレーナーとして大事な仕事の一つだ。
今夜も私は、東京から遠く離れた都市のビジネスホテルに泊まっている。明日の交流レースにルドルフが出走するので、事前調整も兼ねて早めに現地入りを果たしていた。
当たり前だが、私とルドルフの部屋は別々である。といっても非常事態が起きた場合に直ぐに対処できるよう、私達の部屋は常に隣接しているのだが。角部屋かつ非常口に最も近い部屋をルドルフにとり、その隣の部屋を私がとる。これが遠征における私達の宿泊ルーチンだ。
「ふぅ………」
ベッドに腰掛けた私は棚からリモコンをとり、部屋の角に据え置かれた薄型テレビの電源を入れる。流れてくる地方のローカルニュースでは、どこもかしこもルドルフの話題で持ちきりだった。テレビだけの話ではない……新聞でもラジオでも、ここら一帯でシンボリルドルフの名を聞かない日はなかった。
売店で買ってきたレース雑誌を脇に放り投げ、ため息混じりに電源を落とす。そのまま同じようにリモコンも脇に放り、勢いよくベッドに身を沈めた。
「疲れた………」
実は遠征において、トレーナーに最も負荷がかかるタイミングはレース本番ではない。現地入りからパドック入場直前までの数日間なのだ。
この期間の間にこなさなければならないタスクは非常に多い。最優先に取り掛かるのはレース場や他の出走予定ウマ娘、宿泊予定地やその周辺等々についての情報収集。勿論ある程度の情報は事前に調べをつけているが、バ馬の状態やウマ娘の細かな仕上がりなど実際にこの目で見ないと分からない事情もある。当然他のトレーナーも同じように探りを入れてくるため、極力こちらの情報を隠滅あるいは偽装しつつ、相手の手の内を暴く駆け引きを強いられるのだ。必要であれば作戦を見直し、再構築させ、それを即座に担当と共有し反映させなくてはならない。
また、現地のファンや記者への対応もトレーナーの役割だ。本来こういった顔見せにはウマ娘が伴うものだが、レース直前という不安定な時期にはトレーナーが単独で矢面に立つことになる。他にもレース関係者や支援者、地元の有力者との交流も求められ、場合によっては中央への取り次ぎも同時進行で行わなければならない。
さらに重要なのが、出走予定の担当ウマ娘との最終調整。長時間の移動によって疲労が溜まったり、急に環境が変化することで精神のバランスを崩してしまう子もいるため、心身共に徹底したケアが欠かせない。また、事前情報と現実との間における乖離、あるいは突発的なトラブルの発生により大幅な作戦立て直しを迫られることもあるので、一瞬たりとも目が離すことは許されない。
担当するウマ娘を完璧な状態でターフへと送り出すことこそトレーナーに課せられた最大の使命。なればこそ、ウマ娘にとっての戦場がレースであるように、この数日の準備期間こそが我々トレーナーにとっての戦場なのかもしれない。
ルドルフには悪いが、今は彼女の名前など見たくもない。ここ数日間、うんざりするほど連呼されて耳にこびりついていた。毎回毎回、同じような質問をされて同じように答える。テレビでも雑誌でもどうせ報道されている内容は同じだろう。
ルドルフの勝利……明日の交流戦について早くもそういった声があちこちで流れており、巷では諦感に近い雰囲気すら漂っている。いくら重賞ではないとはいえ、中央地方問わず全国から選りすぐりの猛者が集う一大レースであることに間違いはないのだが、どうやら彼女の勝利は半ば確定事項らしい。
……もっとも、最終調整を終えた私もまた同じことを考えているわけだが。担当という贔屓目を抜きにしても、明日のレースにルドルフの敵はいないだろう。いつものように走り、いつものように勝つだけ。つまらないだのなんだの言われようと、これが私達の戦い方なのだから。
トレーナーとしてやるべきことは全て終わらせた。後はルドルフに委ねることにしよう。
靴を脱ぎ、部屋の電気を落とす。
寝るには少々早い時間だろうが、睡眠は多くとっておくに越したことはない。最後にスマホで目覚ましを設定し、腹まで毛布を引き上げて私はベッドに丸まった。
◆
ピンポンと軽いチャイムの音に目を覚ます。
眠気で重い頭を振っている中、控えめにコンコン、と部屋の扉が叩かれた。
「トレーナー君……私だよ」
「ああ、分かってるよルドルフ。今開けるから」
彼女の呼び掛けに返事をしながら、急いで玄関に向かって扉を開ける。そこには、寝間着に身を包んだルドルフが枕を抱いて立っていた。
「すまない。既に寝ていたのなら起こすべきではなかったな」
「構わないよ……今はルドルフが最優先だ。それに来るだろうとは思っていたから」
「そうか。なら、今夜もお願いできるかな?」
「いいよ……おいで、ルドルフ」
私の誘いに応じて素早く部屋の奥へと進んでいくルドルフ。その背中を見届けると、念のため部屋の外の廊下を点検しておく。記者やパパラッチの姿がないことを確認した後、部屋へと引っ込んで鍵を閉めた。
ベッドに戻ると、その上では既に靴を脱いだルドルフが膝立ちになっている。毛布の上に放置された雑誌を手に取り、ペラペラと興味深げにその中身を改めている。
「む……トレーナー君。これは私の特集だろうか?まだレースも始まっていないというのに気が早いな」
「どこもかしこも君の話題で持ちきりだからな。この機会に一気に売り抜こうという魂胆だろう。実際中身は殆どネットや新聞からの切り貼りさ」
「粗製乱造というわけだな。……ふむ。確かに所々誤りもあるようだ。解説欄に私のコメントも載せられているようだが、この出版社のインタビューに答えた記憶はないぞ。記者の顔にも見覚えがない」
「写真の君か机にでもインタビューしたんだろう。もっとも、読み手だってそんなもの最初から真に受けていない……いわばプロレスのようなものだな。まぁ、目に余る誤記や捏造には後で抗議を入れておこうか」
「酷い講義に抗議するというわけだな……ふふっ」
「そうそう」
適当に相槌を返しつつ、ルドルフの手から件の雑誌を取り上げる。大切な試合前の夜に、こんなもので時間を潰されるわけにはいかない。
スマホを立ち上げると、そこに表示された時刻は丁度日付を跨ぐ手前といったところ。私はともかく、レース前夜のウマ娘が活動するには少々遅すぎる時間だろう。
「ほら、ルドルフ……早く寝るよ。こんな時間まで起きているのは良くない」
「分かっているとも。交流戦とはいえ、皇帝として不甲斐ない走りを見せるわけにはいくまい。だからこそ、こうして人目を忍んでトレーナー君の部屋を訪れたのだからね……」
毛布をどけた瞬間、そこに生まれた隙間にすっぽりと潜り込むルドルフ。私もベッドに横になり、元通り毛布を被せると丁度二人揃って抱き合う形になる。丁度、ルドルフの頭頂部に私の顔が埋まる形。柔らかなシャンプーの香りが肺を満たしていく。おもむろにその背中に手を伸ばして、肩甲骨の間を背骨に沿って軽く撫でてやった。
そうしていると、ルドルフもまた私の脇腹に手を伸ばし、手探りでシャツの裾を掴んでくる。私の胸のあたりに沈んでいるその顔は既に瞼が閉じられており、夢と現の境目にいるようだ。どうやらこの部屋を訪れた時点でだいぶ眠気に襲われていたらしい。
「おやすみ……トレーナー君……」
「ん。おやすみ………ルドルフ」
そう私に囁いた直後、ルドルフは静かな寝息を立てながら夢の世界へと旅立っていった。起こさないようにそっと、丁寧に彼女の髪を梳いてやる。
祭りの前夜は眠れないと、そうルドルフが私に告げたのはいつの頃だっただろうか。確か、駿台祭のあたりだったように記憶している。
祭りというのは、つまるところなにか大きなイベントのことを指すらしい。そういった日の前の晩はベッドの中で目が冴えてしまい、思うように寝つけなくなってしまうのだそうだ。遠足の前日に興奮で眠れない感覚と言えば微笑ましく聞こえてしまうが、恐らく彼女の場合、生徒会長として重責を負うが故の気苦労が原因だろう。
問題は、それがレース当日の前夜にも当てはまるということだ。特に七冠を達成し、名実ともに皇帝の看板を背負って以降、以前にもまして眠りが浅くなってしまったらしい。常に迅速かつ的確な判断の求められるレースにおいて、睡眠不足は致命的だ。故に、こうして私が添い寝することでルドルフの眠りを補助しているのである。
時々もぞもぞと動いて、私の方へ身を擦り寄せてくるルドルフ。ただでさえ、人間と比して体温の高いウマ娘である彼女に毛布の中でここまで密着されると、正直熱が籠って暑いのだが……毛布をどけてその体を冷やしてしまうわけにもいかないので我慢する。かつてのジャパンカップにおいて、それがルドルフの敗因に繋がったことは今だに記憶の底に根深く突き刺さっていた。私にとってトラウマと言っても過言ではないかつての失態。二度と同じ轍を踏むわけにはいかないのだ。
離れるよう口頭でお願いすることもしない。せっかく眠りについた所をわざわざ起こすわけにはいかないし、それにお互いお喋りは禁止だと予め約束を交わしているためだ。そうでもしないとルドルフが延々と私にジョークを披露してくれるので、まるで休息がとれなくなってしまう。曰く毎晩ベッドの中でジョークを考えており、普段からシービーにそれを披露しているらしいが………彼女のスルースキルはそこで磨かれたものなのだろうか。
「……………ん」
ルドルフが寝返りを打つ。その瞬間、僅かに私を拘束する力が緩むのが分かった。その隙をついて体を起こし、仰向けに転がるルドルフを覆い被るような格好で覗き込む。
起こさないよう慎重に、その前髪をかきあげて顔を覗き込む。血色も良く、唇の色も悪くない。瞼の様子にも異変はなかった。そのまま視線を下へと下ろし、尻からはみ出した尻尾の様子を確かめる。表面には見事な艶があり、指で掬い上げると傷みもなく流水のようにさらりと流れていく。最後にズボンの上から軽く触って、トモの様子を観察する。張り、柔らかさ共に異状なし。鍛えられた鋼の筋肉の上に適度に脂肪が乗っかっており、指の沈む感覚と弾かれる感覚という相反する二つの触感が見事に調和していた。総じてまさに理想的な仕上がりと言えるだろう。明日を見据えた徹底的なトレーニングと調整の賜物であり、いっそ芸術的とも言える完成度に我ながら惚れ惚れしてしまう。もっともそれはひとえにルドルフの途方もない才能と努力あってのものだから、あまり自惚れるわけにはいかないが。
ルドルフと同衾することによって得られた最大のメリットがこれだった。彼女が寝静まった後、その仕上がりを隅々まで確認することができる。勿論起きている時でも点検自体はできるのだが、彼女が無意識に違和感を誤魔化してしまうこともあるのだ。こうして意識のない自然体の状態で見て初めて分かるものもある。その結果、故障を危ぶんで出走を回避したことまであるが………この仕上がりならなにも心配はいらないだろう。
「ん……トレーナー………」
「ああ……すまない」
………寝言か。しかし、このまま隙間を作っていては空気が流れ込んで冷えてしまうな。そっと毛布を戻し、ルドルフの肩を優しく抱いてやる。
「うー…………」
それにつられたのだろうか。彼女は再び寝返りを打って、またしても私の懐に潜り込んできた。そのまま背中に腕を回して、ぎゅうっと強めに抱き締めてくる。
正直怖い。ウマ娘が力をセーブする感覚についてはよく分からないが、少なくともこのままルドルフが全力をかければ私の肉体など容易く二つ折りになるのは確かだ。世の人間とウマ娘の夫婦が平和に暮らせている以上、恐らく睡眠中でも無意識に力の加減はできるのだろうが……それでも、怖いものは怖い。
心臓がドクンドクンと、不自然に大きな音を立てる……いや、違う。これはルドルフの鼓動と合わさっているからだ。密着した互いの胸の内で、同じように心臓が早鐘を打っているのが分かる。
ぎゅっと、私からも強く彼女を抱き締め返す。一層強くなる彼女の鼓動……先程よりも体温が高くなり、しっとりと汗ばんできているのを感じる。さらにそれに伴って、一段と強くなるルドルフの甘い香り。果たしてこれは、添い寝で毛布が温まったことだけが原因だろうか。
「ルナ」
目の前のウマミミに口づけてそう囁いた。瞬間、それらはピクンと反応し、やがてバラバラな方向を向いて固まってしまう。
枕の間に挟まってしまったそれを優しく引っ張り出してやると、少しだけ肩を震わせたルドルフが私の胸にぐいぐいと頭を擦り付けてきた。
「もう寝るからね。おやすみ」
「…………………………」
もう一度、最後に挨拶をしてあげる。
ルドルフの頭がこくんと頷くのを確認して、私もゆっくりと瞼を閉じた。