シンボリルドルフに逆らえないトレーナー君の話   作:くまも

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Penumbra

深い、深い湖の底に沈んでいたかのような意識が急速に浮上していく。

瞼をこじ開けるのではなく、自然に任せて開き切るような感覚。寝起き特有の気怠さなどどこにもなく、思考は一点の曇りなく冴え渡っていた。

 

短時間の睡眠は脳を活性化させるというが、それにしたって寝覚めがいい。まぁ、別に悪いことではない……というか喜ばしいことではあるので、気にせず枕元の端末に指を伸ばす。おや、これは私用のスマホか。アラームは業務用の端末に設定した筈だが。

 

側面の電源ボタンを押して起動。

表示された時刻は――――――十八時三十六分。

 

「まずっ………」

 

夕方のトレーニングが始まるどころか既に終わり、生徒達が夜に向けて学生寮に帰還する時間帯。

最早寝坊どころの話じゃない。まるまる半日も眠っていたのか、私は。ルドルフにもシービーにも、テイオーにも申し訳が立たない。いや、それ以前に就業規則違反で処分事案だ。新年度早々、なんと申し開きしろと。

 

錯乱の果てに、意味もなく椅子を蹴って立ち上がる。しかしそんな有り様でまともに動ける筈もなく、足を縺れさせて尻餅をついた。

巻き込まれた椅子が横転し、盛大に部室の中を響き渡る衝突音。

 

一度に押し寄せる衝撃に目を白黒させる私を、何者かが助け起こす。

 

「ちょっと、大丈夫トレーナー!?いきなり立ち上がって転んで、なんなのさもう」

 

「テイ、オー……?君、どうしてここに」

 

口に出してしまった後で、失言だったと後悔する。

何故もなにも、自分のトレーナーがトレーニングを丸一日すっぽかしたとなれば、様子を見に来るなんて当たり前のことだ。そもそも私を抜きにしたところで、仮入部中のテイオーにはこの部室を利用する資格がある。

 

ここで詰られても無理はないと、そう心の中で覚悟を決めた瞬間。

呆れと不安がない交ぜになった瞳で私を見下ろしながら、テイオーは衝撃の事実を明らかにした。

 

「なんでって……トレーナーがボク達を連れてきたんでしょ。マックイーンも一緒に」

 

「マックイーン…?も、いるのか」

 

「はい、こちらに。その……大丈夫ですか?トレーナーさん。トレーニングの際も、少し様子がおかしかったような……」

 

テイオーの背後からおずおずと一歩踏み出してくる、ぴしりと制服を着こなした芦毛のウマ娘。

 

二人に手を引っ張られて立ち上がり、倒れてしまった椅子を元に戻している最中、否が応でも机上の光景が目に飛び込んでくる。

立ち上げられたラップトップにはタイムの数値とコース場の軌道が記録されており、表示されている日付は今日のもの。ログに残された、最後の入力時間は一分前。その右手奥に見えるのははちみーのカップで、中身はまだ半分以上も残っていた。

直前まで"誰か"がここに座って作業していた痕跡。その"誰か"とは……どう考えても私しかいない。

 

「あの……本当に大丈夫でしょうか?どうか無理をならさず、医務室にでも」

 

「いや、ああ……大丈夫……ではないかもしれないが。すまない。マックイーン、君の用件はなんだったかな」

 

「え、ええと……」

 

狼狽えた様子でマックイーンは私を見つめ、次いでテイオーと顔を見合わせる。

ここで退くべきか否か。ほんの少しの間だけ逡巡する仕草を見せるも、私が再度促したことでようやく決心したように口を開いた。

 

「では、手短に二つ程。まず一つ目に、保留にして頂いた入部の件ですが……申し訳ありませんが、私は別の方と契約を交わすことになりましたわ」

 

「ああ、サンデーサイレンスだろう。本人から聞いている。別に謝る必要はない。誰をトレーナーとして選ぶかはウマ娘の自由だ」

 

「ええ、その通りですが……妙ですわね。あの方、面倒になるから選抜レースが終わるまでは絶対に誰にも話すなと、何度も厳重に口止めされていたのですが」

 

「あの人の中でなにか心変わりでもあったんだろう。あるいは私への牽制か」

 

そうは思わないが、そう考えることにした。

気付かない間に、なにかが取り返しのつかない所まで進行している気配。やもすると、致命傷にすらなり得る予感。

 

帰ってきたサンデーサイレンス。本来知り得る筈の無い新レースの情報。消えたお友達。損なわれた記憶。そして今の発言の矛盾。

それらを問い質すべき相手は、マックイーンでもテイオーでもないだろう。ここは一先ず受け流すべきだと、直感でそう結論を下す。

 

「二つ目はなんだ」

 

「あの方どうやら私だけでなく、別のウマ娘の"集団"にまで懐柔なされたそうで。なんでもあのシリウスシンボリさんがリーダーだとか。トレーナーさんはよくご存知で?」

 

「ああ。この学園じゃ有名人だな。ちなみに、それはいつのことだ」

 

「今日の朝トレーニングのことですわ。なんでも今朝起きてすぐ、新レースの情報を掴んだとか。とにかく頭数が必要と聞いて、取る物も取り敢えず囲ったのだと」

 

「そうか……分かった。報告ありがとう」

 

即断即決。いかにもサンデーサイレンスらしいことだ。シンボリ家経由でシリウスの現状を把握していたのだとしたら、真っ先にそれを当たるのは理屈に叶っている。諸々の条件を鑑みても、きっと彼女だけが実現可能な奇策だった。

 

尤も、その新レースの情報を昨日私に教えてくれた張本人がサンデーサイレンスなのだが。

 

あのウマ娘の思考は理解不能だ。別に今に限ったことではなく、昔からそうだった。

ただ一つ確かなのは、彼女が嘘をついているということ。私も、マックイーンも、カフェも、そして恐らくは秋川理事長やたづなさんに至るまで……誰も彼もを欺きにかかっている。

 

標的とされたのは恐らく私自身。

この学園において私とサンデーサイレンスはトレーナー同士。限られたパイを奪い合う商売敵に他ならない。勢力を広げつつあり、しかも自らの手の内を知り尽くしている若手など、再興を目論む彼女にとっては目の上のたんこぶもいいところだろう。

既に向こうから接触を図ってきた以上、受け身のままでいるのは危険だ。最悪、致命傷にすらなりかねない。

 

「悪い二人とも。少し……今は気分が良くない。テイオー、戸締まりは頼めるか」

 

データを保存してラップトップの電源を落とし、飲みかけのはちみーと共に鞄に詰め込む。

壁のボードに吊り下げてあった部室の鍵を渡すと、テイオーは恐る恐るそれを受け取った。少し目線を上げれば、ばらばらと不規則に反応している長いウマ耳。

 

「う、うん。ねぇトレーナー、マックイーンの言うとおり医務室行った方がいいんじゃ……今日のトレーナーやっぱりヘンだよ」

 

「そうするよ」

 

肩紐を中途半端に引っかけたまま、テイオーとマックイーンを残して部室の外に出る。

夜の入りとはいえまだ日は落ちきっておらず、薄暗い中にもウマ娘達の姿がそこかしこに見てとれた。寮や食堂、それからカフェテリアにと、てんでばららばらに幾つかの集団がのんびりと歩く影。

 

生徒もトレーナーも一息つく頃合いだが、私の内心はここ数年例を見ない程に荒れ狂っていた。

やはり医務室に行くべきだろうか。あそこは基本的にウマ娘がかかる施設だが、如何せん仕事柄受傷も珍しくないためにトレーナーもよく世話になる。スタッフ向けのカウンセリングも扱っていた筈だ。

 

 

さて、その前に寮部屋まで一旦荷物を置きに行くとしよう。もしかしたら、ルドルフやシービーもそこにいるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よぉ。そろそろ来ると思ってたぜ」

 

 

自分の寮部屋に帰って来た私を出迎えてくれたのは、我がチームの二枚看板ではなかった。

黒のスーツに黒のネクタイ、同じ色のコートを羽織り、さらにその上の前後に漆黒の長髪を垂らした、全身黒ずくめのウマ娘。やや猫背に歪んだ姿勢で両手はポケットに突っ込み、前髪の隙間から覗くのは裂けた瞳孔。その下では牙を剥くかの如き攻撃的な笑みを浮かべている。

 

丈の長い裾に阻まれて、正面から尻尾は見えない。だが、その気迫は明らかに友好的とはかけ離れている。

敵意だとか殺気だとか、そういう暴力的な衝動とも色が異なる。視線はしつこく絡みつき、不躾にこちらを値踏みしているかのよう。獲物を前に舌を出す蛇に近い。

 

「サンデーサイレンス」

 

その名を口にしてやれば、漆黒のウマ娘は僅かに目を細めた。ポケットから両手を抜き出して、ゆるゆると両手を広げて見せる。

血の気の失せた真っ白な指が、不気味に照明の光を反射した。

 

「おいおい。随分とまぁ他人行儀だな。色々と教えてやった恩はどうした?」

 

「お陰でたづなさんから怒られましたけどね。結局、昨日今日と収穫はなし。そちらはどうです」

 

「順調すぎて怖いぐらいさ。駄目元で描いてみた絵が、まさかこうも上手く運ぶとはな」

 

「それは、貴女が無断で今ここにいることと関係ありますか?」

 

「おおありだよ。待ちかねたぜ」

 

揶揄うように抱擁をせがんでくるサンデーサイレンス。

どこまでも人を食ったような態度に眉を寄せると、けたけたと笑いながら元通りに腕を引っ込めた。そのままいたくご機嫌な様子でリビングをふらふらと彷徨い始める。

間取りはどの部屋も同じだが、やはり何年も寮で暮らしていればレイアウトにも個性が出てくる。その中でも一際目を引くであろう、リビング奥のショーケースへと足音を立てずに近づいて、中のトロフィーをしげしげと眺め出した。

 

「これ、全部お前が獲ったのか」

 

「ええ。選手ではなく、あくまでトレーナーに贈られた賞です。と言っても、あの二人の実力に依る所も大きいですけどね」

 

「お前自身の成果じゃないと」

 

「そこまでは言いませんが、やっぱり実際に戦うのはウマ娘なので。我々は裏方です」

 

「ほーん」

 

観察も飽きたのか、相変わらずふらふらとした足取りのままこちらに戻ってきた。

私が言えた義理ではないかもしれないが、彼女も彼女でどことなく様子がおかしい。具体的になにがとは咄嗟に出てこないものの、見れば見る程その違和感は収まるどころか増幅していく一方。

荒れているわけでもなく、珍しい程に落ち着いているが、それは何処までも居心地の悪い穏やかさだった。

 

「なんですか、さっきからうろちょろと。またお酒でも飲んだんですか」

 

むしろそうであって欲しいとすら心の片隅で願いつつ咎めてみれば、目の前のウマ娘はあっけらかんと笑いながら首を振る。

 

「まさか。俺は生まれてこのかた、一度も酒なんざ口にしたことはねェ。知ってるか?馬が酒飲んで人を乗せると整備不良で捕まるんだと」

 

「またわけのわからないことを。そうやって小言を煙に巻くのが貴女の十八番でしたね。昔からずっとそうだった」

 

「ほっとけよ。それよりもさ、今日一日中アイツらを見てきたよ」

 

「アイツら?」

 

「学園のウマ娘共。これまでだって散々見てきたが……やっぱりいいもんだな。件のレースもさぞ盛り上がるだろ」

 

しみじみと彼女はそう呟く。その目はどこか遠く、ここにはない景色に見とれるかのように細められていた。

 

カタカタと、外の風に煽られたのか小刻みに揺れるリビングの大窓。カーテンは閉じられ、夕焼けの光は部屋を照らさない。

 

「なら良かったですね。シリウスの一派をチームに取り込んだことで、出走人数の条件は満たせたわけだ。存分にトレーナーとして腕を鳴らして下さい」

 

「…………面白いか、それ?」

 

「は?」

 

面白いもなにも、たった今レースが盛り上がると評価したばかりだろうに。

そんな当惑が顔にも出ていたのか、サンデーサイレンスは心持ち焦れた様子で言葉を続ける。

 

「いや、だからさ。そんなレースを裏方で見てるだけってつまんねぇじゃん。競走馬なら自分が走ってなんぼだろ」

 

「そんなこと言ったって無理なものは無理ですよ。それに貴女はとっくに引退した身でしょうが」

 

「ああ。もうずうっと大昔にな。そんでもどうにかなんねぇかなって、ここにいるわけ」

 

「はぁ…」

 

全く要領を得ない話。最初から理解させる気すらないのかもしれない。コミュニケーションのドッチボールを好む彼女だが、今日はそれに一段と磨きがかかっている。

 

 

やってられないと愛想を尽かしかけた瞬間、リビングに高らかな電子音が鳴り響いた。

 

発信源はドア横に設置された、壁と一体型の受話器。トレーナー寮とスタッフ寮、そして美浦と栗東の各個室との間で連絡可能な内線電話。

ランプが青から赤へと点滅し、コールと共に呼び出しを告げている。

 

「ん。電話か。早く出てやれ」

 

「…ええ」

 

言われるまでもなく、足早に部屋を横切って受話器を取り上げる。はっきり言って、この疲れる会話から逃げられるのなら誰が相手でも良かった。

 

 

「もしもし」

 

『ざけんなよお前。学園の機密を流出した挙げ句、あろうことかこの俺に責任を擦り付けるとは良い度胸じゃねぇか。ああそうかい。先輩のやらかしは新入りが肩代わりしろってか。後で覚えとけよ。あの■■野郎に絞められたぶん倍返しにしてやるからな。ってか知ってたならまず俺に教えろ』

 

「……………………」

 

…母、さん?

 

『聞いてんのか?お前は罪状が多すぎるンだわ。濡れ衣被せるわ、マックちゃんとの契約は嗅ぎ付けるわ、勝手に俺の部屋にまで入ってるし。いや、そもそもお前……』

 

 

 

『……いつになったら顔見せに来るんだ?二日間も挨拶なしとか、そりゃねェだろ普通』

 

 

 

 

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