トレセン学園に所属する各チームの部室は、いずれも本校舎と各施設を結ぶ遊歩道に沿って設置されている。
扉を出て真っ直ぐ本校舎へと向かう場合は、必然的に大勢の人とすれ違うことになるのだ。あまり人付き合いが盛んとは言い難い私ではあるが、それでもこの道を歩いていると顔見知りとすれ違う機会が多々あった。今日もまた例に漏れずだ。
「おはようございます。タキオンさん」
「やあ、おはよう。たづなさん」
私の目の前で、丁寧に腰を折っているのは理事長秘書の駿川たづな。今日も今日とて、かっちりとした緑の制服に同じ色の帽子を着こなしている。
この学園においては問題児の一人というか、やや鼻つまみ者のような取り扱いを受けている私であるが、仮にも体制側である彼女はなんの気負いもなく接してくれている。
こちらとしても、物腰柔らかに対応されれば悪い気はしなかった。
あれこれと雑談を交わしている中、自然と話題に上がってくるのはやはり噂の新レース。
どうやら今日になってようやく情報解禁らしい。といっても、私はあのトレーナー経由でだいたいの中身については掴んでいる。
「で、結局サンデーサイレンスは捕まえたのかい」
「ええ、先程こってり絞っておきました。無実を訴えていましたが、まぁ真相はどちらでも別に良いです」
「酷い話だねぇ」
「情報流出の件を抜きにしても、どうにもきな臭いことばかりで。今朝訪問した際にも、寮部屋から妙な物音が」
「それはトレーナー君じゃないのかな。彼もついさっきまで同じ場所にいたそうじゃないか」
「それはそうですが、しかし彼が部屋から出てくる直前、別の誰かが扉を開けた音が……出たのか入ったのかは分かりませんが、姿は見えませんでした」
「ふぅん」
それはひょっとしたら……幽霊の仕業かもしれないね。後でカフェに報告してやろうか。
本当なら私自らどうこうしてやりたいものだったが、相手が見えないとなると流石にお手上げだ。
面白い話も聞けたので、彼女とは別れて自分の研究室へと急ぐ。
途中、何人ものウマ娘とすれ違ったが、その殆どが私を驚いた顔で見送っていた。普段あまり表に出てこない私が、朝っぱらからこうして廊下を走っていればそうもなるか。
反応しないウマ娘は全員入学したての中等部一年生というあたりからも、この学園における私の認識がまざまざと伝わってくる。別にどうでもいいがね。
「……ああ」
そうだ。そう言えば、私もつい今朝がた奇妙な体験をしたばかりじゃないか。
研修生の教室を通り過ぎ、角を折れて研究室を正面に捉えたあたりで、裾のポケットから数枚の用紙を取り出して広げる。ここまで来れば余所見したところで衝突の危険はない。
トレーナー君に渡されたばかりのレポート。彼は「返す」などと言っていたが、そもそも私はこんなもの渡した覚えはない。作ることさえ出来なかったろう。
様式はトレーナー専用のイントラネットからアクセス可能なデータベースが基礎となっているらしい。さらに比較として挙げられているシンボリルドルフとミスターシービーの数値は、どちらも担当トレーナーぐらいしか知り得ない程の精緻なものだった。
特に後者は私には……いや、この世の誰も手に入れられない情報だ。トレーナー君ただ一人を除いて。
なにをどう解釈しても、このレポートは彼自身が作成したものとしか考えられないのだ。
なのに、張本人にはその記憶がない。だいたいトレーナー君は私が彼を部屋まで運んだと思っているらしいが、それも心当たりのないことだ。ほんの三十分程で麻酔から目覚めて、彼は自分の足で寮まで帰った。検診の結果も、その時に伝えた筈なのに。
研究室のドアを静かに開ける。
ベッドの上には相変わらず魂の抜けているカフェの姿。朝練にも出れなかったようだが、今は慰めている余裕はない。
「麻酔の後遺症か……?いや、投与は適切だった。それに、そもそもあれでは健忘など起こり得ない……」
思い出せ。そうだ、麻酔から醒めて簡単な往診を行ったあの時、彼の言動には僅かな違和感があった。本当に些細なズレだが、あの時にトレーナー君本人の意識がなかったと仮定した場合、別の誰かが成り代わっていたと考えれば合点がいく。
多重人格じみたその現象を惹起する切欠。遺憾ながら、私はそれにも心当たりがある。
「あの薬か……!昨日の朝、トレーナー君に投与させた……」
ウマムスコンドリアの活性化。それが彼の内部で想定外の作用を惹き起こし、眠っていたなにかを目覚めさせたのだとしたら。
モルモット君に与えた時にはなにも起こらなかったし、以前トレーナー君から過去の記憶を聞き出した際にも、特に類似するような現象は出てこなかった。たんに、本人が忘れているだけかもしれないが。
ああ、驚いたね。正直あの薬に関しては、手間のわりに大した効能も出せない欠陥品だと半ば見限っていたのだが……いや、薬の効果もあるが、それ以上にあのトレーナーが特異な体質だったという方が正確か。
彼には悪いが、思いがけずもたらされた変化に胸の高鳴りを抑え切れない。だが、それ以上に今私がやるべきことは……
「……さて、言い訳を考えなくては。ルドルフ会長と、それからシービー君を相手になんと言おうか」
あの二人も、トレーナーのこととなると随分おっかないからねぇ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ツーツーと、白い受話器越しに聞こえてくるのは無機質なビジートーン。
先程まで濁流のように浴びせかけられていた母の言葉は既に聞こえない。
回線を切られてしまった。母にではなく、恐らくは目の前に佇むウマ娘によって。
「よぉ、もう話は終わったかい?なら続きといこうか」
足音もなくゆっくりと近づいてくる黒づくめに向かって、咄嗟に手元にあったペンケースを投げつける。
果たしてそれは、呆気なく彼女の体をすり抜けて背後の大窓へとぶち当たった。カーテンに跳ね返されて床へと転がり、開いた口から中身が吐き出される。
だけどこいつは、あの路地で衝突した際には確かに手応えがあった。ラップトップもウマホも操作していた筈なのに。
と、そこでようやく思い至る。お友達は現実世界にも物理的に干渉できる存在だ。ならその力を使って、実体のあるように見せかけることなどわけないということ。
「くっ……」
後ろ手でドアノブを掴み、外に脱出しようと試みるもののまるでびくともしない。扉の向こうから強大な力で押し返されている。助けを呼ぼうとスマホの電源を入れてみるも、ひとりでにシャットダウンされ二度と起動しない有り様。これでは緊急通報も無理だ。
内線は断ち切られ、出口は塞がれスマホも機能を落とされた。このリビングは完全に孤立している。
玄関からの脱出は諦め大窓を目指す。
幸いにしてここは一階だ。それにガラスなら、扉と違って力ずくでも破壊出来る。
すぐ脇をすり抜けても、お友達はなにも手を出してこない。どう足掻いても逃げられやしないと踏んでいるのか。
彼女を無視して、勢いのままカーテンを開け放ち……そして視界一杯に飛び込んできたのは真っ黒な、墨汁を塗りたくったような真っ黒な空間。
「……っ!」
スマホは見れないが、現在時刻はまだ六時を回ったあたりの筈。どう見積もっても七時を越えていないのは間違いない。
にも関わらずこの暗さ。仮にこれが夜の帳だとしても、敷地内の街灯が何処かしらにあるわけで、それがどこにも無いということは……ここは現実ではないということ。
それを認めた瞬間。突き刺すような、骨の髄まで染み込む冷気が、急速に部屋を満たしていった。
耐えきれず身を震わせながら、観念して振り向いた先には、音もなく目と鼻の先まで距離を詰めてきていたこの異界の創造主。
「やっと理解したか?お前はもう逃げられねェんだよ」
手首を引かれ足を払われ、なす術もなくカーペットの床に押し倒された。剥き出しにされた腹の上に跨がれて身動きがとれない。
凍える空気が体の自由を奪っていく。仰向けに天井を見上げた先には、不規則に点滅を繰り返す蛍光灯。逆光となったお友達の顔は、のっぺらぼうのように真っ黒だった。
「友達だと思ってたのに」
「ああ、俺もだよ。なに、悪いようにはしねェ。ちょいとその体を貸してもらうだけだ」
「どうして、今になって」
「お前が隙を見せたからさ」
隙……今日は明らかに調子がおかしかった。だが、彼女が動き出したのは昨日のこと。
母さんは学園に来てから、一度たりとも私と顔を合わせていないと言っている。いつからか入れ替わっていたという話ではなく、最初から取り違えていた。
彼女とのファーストコンタクトは商店街の路地裏。今になって考えてみれば、あの時あんな寂れた場所にたまたま母さんが居合わせたなんて、そんな偶然はまずあり得ない。
やはりあれはお友達で、人混みをすり抜けて私を追ってきていたのだ。だとしたら、何故私はその認識を誤ったのか。
「なんで…」
「あん?」
「なんで、お前は私と会話が出来るんだ。これまでずっと、なにも喋ろうとはしていなかっただろ」
先程まで彼女に抱いていた、奇妙な違和感の正体がようやく分かった。
いくらカーペットの上とはいえ、全く聞こえてこない足音。存在感の希薄さ。私は彼女が幽体であると、心の何処かで察していたのだ。
それを掬い上げられなかったのは、彼女が言葉を発していたから。これまでのお友達は、姿は見えても言葉を交わせなかった。コミュニケーションがとれるのはカフェだけだったのに。
「これまで何度も話しかけてはいたぜ。でもお前には届いちゃいなかった。それがどういうワケか、昨日になってチャンネルが合ったらしい。なんでだろうな?」
嬲るでも揶揄うでもなく、純粋に疑問だという声。しかし私には一つだけ、それに心当たりがあった。
タキオンに渡された薬。
お友達と出くわしたのは、まさにあれを投与してルドルフ達から逃げ切った直後のこと。店で包囲された時点においてはカフェもいつも通りだったから、恐らく私を捕らえたあの瞬間からお友達は自立行動を始めたのだろう。カフェから見れば行方不明であった彼女は、その実ずっと私の前にいたのだ。
「はぁ……」
合点がいったと同時に、急速に全身の力が抜けていく。私とて、あんな得体の知れない薬を信頼していたわけじゃない。副作用の不安もあったし、だからこそタキオンの検診を受けたのだが。
しかしその副作用がお友達とのリンクとは流石に予想出来なかった。異常無しと判定を下した彼女を責めるのも酷だろう。
「ツイてなかったな。ま、お前に限っちゃ今さらな話か」
私の脱力を諦めだと受け取ったお友達は、胸の上に添えていた右手をゆっくりと顔の真上にかざしてくる。
白くほっそりとした指。触れれば折れてしまいそうな程に華奢なそれは、しかし猛禽の爪のように獰猛な気迫を纏いつつ……私の視界を闇に突き落とした。
……………
……………………………
…………………………………………………………
ふと、視界が晴れる。
恐る恐る目を開ければ、飛び込んでくるのは白い天井。骨の髄まで染み渡る冷気も、ウマ乗りになったお友達の姿も何処にもない。
音を立てながら明滅を繰り返していた蛍光灯もいつも通り。軽くなった上体を持ち上げて、後ろを向けばカーテンの隙間から鮮やかな夕焼けの閃光が網膜を焼いた。
床に視線を落とせば、散らばっていた文房具の姿がない。投げつけたペンケースは元通りの場所に収まっている。いや、元通りと言うよりも、あれ自体ただの夢だったのかもしれない。なんにせよ急場は凌げたらしい。
「……………………ぐっ」
呻きながら、ゆっくりと体を起こしにかかる。
気分は悪くない。むしろすこぶる快調だ。だが肉体はともかく精神には問題がありそうだ。あれが夢にしろ現実にしろ、やはり医務室で診てもらうべきだろう。
そう勢いのまま立ち上がり、一歩踏み出した瞬間転んでしまった。
「いたっ」
視線を落とすと、完全に脱げてしまったズボンが両足に絡み付いている。ベルトが壊れたのかと思ったが、よくみれば下着まで足首に下がっていた。
慌てて立ち上がり、パンツとズボンを腰に引き上げる。
しかしどういうわけか、全くサイズが合わない。隙間が大きすぎて、ベルトで固定出来る範疇を超えている。さらによく見れば下半身のみならず、上半身のシャツとジャケットも同様にぶかぶかだった。
なんだこれは。体が縮んでいるのだろうか。
仕方なしにズボンを手で抑え、のろのろとした足取りで姿見まで向かう。
寝室の扉の真横で、窮屈そうに立て掛けられた移動式の鏡。朝ここに寄るついでに身嗜みのチェックでもしておきたいとルドルフが置いていったもの。彼女ならともかく、私にとってはややサイズが小さい。
筈なのに、どうしてか余裕があった。
鏡の向こうで立ち尽くしているのは、小柄な鹿毛のウマ娘。
生徒ではない。胸元にある蹄鉄を型どったバッジは、この学園に所属するトレーナーの証。当然私も同じものを身に付けている。
なんとはなしに胸のバッジに手を添えると、目の前の少女も全く同時に私を真似した。
「………」
バッジの少し横。胸の辺りをペタペタと触る。
体の輪郭を覆い隠す、明らかに丈が合っていない黒のスーツ。その下には、片手には収まりきらない程の大きさをした、柔らかい二つの膨らみ。
怖々とその膨らみを揉みしだくと、やはり目の前の少女も同じ動きをした。
「………………」
そこからさらに下がって、下腹部のあたりを探る。
手を離したことで、ズボンとパンツはまたしても脱げてしまっているものの、代わりに余ったシャツの裾が両足の付け根を隠していた。
見えない以上、そこになにがあるかは未確定だと一縷の希望を見出だし、すがるような気持ちでそれを探す。
「………………………………」
ない。あるべき筈のものがない。
あってはならないものがあって、あるべき筈のものがない。
ぺたぺたと、自分の顔を撫で回す。
目の前のウマ娘もそれを真似した。
長く腰まで伸びた艶やかな鹿毛に、頭から飛び出た長めのウマ耳。面白いぐらいにピンと上を向いたまま固まっている。
瞳孔が開いた緑の瞳と血の気の引いた顔は、まさしく今の私の内心を如実に表していて。
最早認めるしかないだろう。
声が出てこない。
理解の及ばない事象を前にした時、人は言葉という道具を失う。
私は……ウマ娘になってしまったのだ。