胸と、股間と、そしてまた胸。
どこまでも往生際悪く上下を確めて、いよいよ現実を受け入れた私は呆けたまま姿見の前で立ち尽くす。
頭の中を巡る疑問はただ二つだけ。どうしてこうなったのか、そしてこれからどうすれば良いのか。
少し考えれば答えは出てきそうだったが、今の私にはその体力もない。ただぼうっと、鏡の向こうを間の抜けた顔で眺めながら、「ああ、ウマ娘だなぁ」なんて感想にもならない感想をぐるぐると反芻する。
目の前のウマ娘の顔は、涙目で血の気が引いていた。トレーナーとしての性だろうか、そんな憔悴したウマ娘は流石に見ていられない。無理やり笑おうとしても表情筋はぴくりともせず、そんな取り繕いすら叶わないのだという結論に辿り着く。
ばさっと乾いた音を立てて、ずり下がっていたジャケットが完全に床へと落ちきった。照明に照らされて鈍く光を放つ、若干塗装の剥げたトレーナーバッジ。
ゆるゆると視線を向けてみれば、ズボンも下着も一緒になって足元に丸まっている。
「………」
最後の気力を振り絞り、それらはまとめてソファの上に放り投げておく。サイズが合っていない以上、上げてもどうせまた脱げてしまうだろうからこれでいいだろう。
当然、そんな適当なやり方で綺麗に収まる筈もなく。バラバラと空中で分解して、無秩序に背もたれや座面に散乱するズボンに下着、それからジャケット。皺になってしまうだとか、そんなことももうどうでも良かった。
ついでに胸元で不格好に揺れている真っ黒なネクタイもほどいて仲間に入れてやる。
そうして再び、姿見の前へ。
ダボダボのシャツ一枚の格好を再確認。上下ともスーツを脱ぎ捨てたお陰でトレーナーとしての自分が意識から外れたのか、ほんの少し気持ちにゆとりが戻ってきた。
これからのことに考えを巡らせる。しかし正直なところ、自分自身でどうにか出来る範疇を越えていた。とりあえず他の人達……特に秋川理事長には誠心誠意、いきさつを説明するほかないだろう。
その前に、まずは服だな。
スーツに限らず、クローゼットのハンガーに吊るされている服はどれもサイズが合わない。シャツや下着はまだ誤魔化せるにしても、ズボンだけはどうにもならない。
かといって、この格好が許されるのは自室の中が精々。ここは恥を忍んで、内線で部屋に戻っているだろう身内に助けでも求めるしかないのか。
そんな風に、どこか現実逃避も含めて淡々と善後策を講じていたところ、唐突に玄関から誰かが立ち入ってくる気配。
足音は二つ。
二人とも同じ歩調で大部分が重なっているが、それでも木製の扉越しに正確に聞き分けられるのは、やはりウマ娘として聴覚が鋭敏になった賜物だろうか。ついでにその正体も、もう五年にも及ぶ付き合い故に分かってしまう。
いつも通り決して短くない部屋の廊下をあっという間に駆け抜けて。しかしいつもとは違ってノックも無しにドアを蹴り飛ばす勢いで開け放った。
「失礼する!!トレーナー君、やはり体調が悪いのかい」
闘牛もかくやという勢いで飛び込んできたルドルフは、乱れた髪を整えつつ開口一番そう問いかけてきた。
しかし言い切った直後、シャツ一枚で立ち尽くす不審なウマ娘の姿をようやく認めたようで、軽く腕を組みつつひょいと眉を持ち上げる。
「…うわ」
その背中からひょいと顔を覗かせたシービーもまた、肩越しに私を見つけた瞬間わざとらしく口元を片手で押さえた。
もう片方の手でルドルフの頬を突っつき、鬱陶しそうに振り払われる。行き場のなくなった指は、意味もなく照明のスイッチを落とした。
そうしてちょっかいをかける間も、澄んだ青色の瞳はこちらを捉え続けたまま。
客観的に見て、これは相当に不味い状況だった。
ルドルフは言わずもがな、シービーもまた私の部屋に他のウマ娘が入り浸ることにいい顔はしない。これは決して二人の気性が荒いという意味ではなく、ウマ娘とはそもそもそういう生き物なのだ。
自身の親しい人のパーソナルスペースに、見ず知らずの他人が居座るのを不快に感じるのはヒトも同じことだが、ウマ娘はヒト以上に縄張り意識が強い。加えて集団の中における序列というものも重視する。
ルドルフとシービーにとって、この部屋は、というより私の住む部屋は彼女らの領域と化していた。
ブラシやマグカップといった小物から、あの姿見のような大がかりな物に至るまで、自身の私物をそこかしこに残している。
これは野生動物に見られる、マーキングと呼ばれる行為に近い。不躾に踏み荒らすのなら覚悟しろという、その他大勢への無言の警告だった。
もっともマルゼンとかカフェとかタキオンとかシリウスとか、あの辺はまるで意に介さず踏み荒らしていくのだが…それでも一応彼女らは知人ないし友人であって、見ず知らずの赤の他人とはわけが違う。
そして今の私は、まさしく彼女達にとってその赤の他人なわけであって……そいつが私のシャツ一枚でいるとなれば、有無を言わさず排斥されても全く不思議ではないのだが。
しかし先程からこの二人はどうも様子が違っていた。瞬きもなくじっとこちらを射抜く視線に、そう脅されたわけでもないのに足がすくんでしまう。
体感にして数十秒ほどそうして凝視したところで、すうっと目を細めつつ何度か頷くルドルフ。
「……そうか。やはり、タキオンから聞いていた通りというわけかな」
「本当に?新入生の熱烈な押し掛け逆スカウトとか、そういう可能性はないの?」
「ない…………とは言い切れないかもしれないが、少なくとも私はこの顔に見覚えがない」
「へぇ」
ルドルフは一度見た相手の顔を忘れない。そして、彼女は生徒会長として入学試験における面接や選抜レースの補助を務め、新年度初日には新入生全員の顔写真付きの名簿にも目を通している。
付け足すなら、新入生に限らず全生徒と全職員の顔もルドルフは記憶していた。聖蹄祭のような外部に開かれたイベント当日でもない限り、この学園で彼女の見知らぬ人物が活動しているなんてことは本来あり得ないのだ。
その類稀なる頭脳によって機能する、生徒会長独自の顔認証システム。その信頼性は折り紙つきで、そのことをよく分かっているシービーは素直に引き下がった。
背中から出てこない辺り、この場の主導権はルドルフに譲るということだろう。
ルドルフもまたそう受け取ったようで、リビングの敷居を跨ぎぶれない足取りでこちらに近づいてきた。
カーテンの隙間から射し込む夕陽を反射して、右耳に吊り下がった飾りが光る。
長く伸びた影のおかげか、ルドルフとの距離感がどうにも掴みづらい。
……怖い。
特に威圧されているわけでもないのに、真っ直ぐ距離を詰めてくるルドルフが妙に恐ろしい。
視点の違いによるものだろうか。
ルドルフは女性にしては上背がある。これまで見下ろしていた彼女を、今は見上げる形となっていた。
いつまで経っても足は動かず、蛇に睨まれた蛙のように釘付けになった私。
あっという間に目と鼻の先まで寄ってきたルドルフは、少しだけ腰を折って縮んだ私と目線を合わせる。
「私が怖いかい、トレーナー君」
「え……」
「耳が伏せられてしまっているよ。まだ感情の制御は難しいようだね。大丈夫……これから私が手取り足取り教えてあげよう」
「っ……!!」
私の頭頂部にそっと手が伸ばされ、そこに生えたばかりの一対のウマ耳を弄られる。倒れていたものを無理やり立たされて、縁の辺りを指でしつこくなぞられるたび、電流じみた衝撃が背筋を駆け巡った。
耳はウマ娘にとって極めて重要な器官だ。故に刺激にとても敏感で、その感度はヒトの耳のそれとはまるで次元が違う。ルドルフのようにピアスを開けているウマ娘すらあまり多くはない。
修習所でも、それ以前の学校の授業でも迂闊に触れるなと厳しく指導された。さらに幼い頃は、母の耳で遊んでは叱られていた記憶がある。知識では分かっていたつもりだったが、実際に体験すると全くわけが違った。
正直今すぐにでも振りほどきたい。が、ここで下手に不況不信を買うのも不味い。
どうやらルドルフは私が彼女のトレーナーだと理解しているらしい。しかし残念なことに、それを証明する物的な証拠は何処にもないのだ。
トレーナー寮に勝手に入り込んできた全裸のウマ娘、というのが第三者の視点から今の私に与えられる妥当な評価であり、生徒会長たるルドルフが追放を命じれば、私はそれに抗うことも出来ない。
そうするとどうなるか。
性別どころか種族からして異なる以上、戸籍は機能せず行政の支援も受けられない。再就職も叶わず、衣食住を一度に失うことになる。ようするに、今の私は社会的に死んだも同然なのだ。
最悪の事態を回避するためには、絶対にここでトレセンの庇護を失うわけにはいかない。そうである以上、学園の権力者であるルドルフや秋川理事長、たづなさんには絶対に逆らえないのだ、私は。
「うぅ……」
「ふふ」
こちらの反応を楽しむように、ウマ耳をしつこく愛撫するルドルフ。
楽しまれているうちが華なのだと、そう自らに言い聞かせつつ目をつむって耐えていると、突如弾けるようなショックが臀部から駆け巡った。
「ひっ!?」
「お、こっちもすっごい敏感」
いつの間にか背後に回っていたシービーが、生えたばかりの私の尻尾を両手で捕まえて扱き上げている。
ウマ耳のそれとは全く異なる、完全に未知の衝撃。尻尾を触られるという、本来ヒトが知り得る筈のない感覚だった。本来、出生から本格化を経て自然と慣れていくその刺激は、いきなり本格化を終え成熟した肉体を与えられた私にとって耐え難いもの。
ウマ耳と同様、ともすればそれ以上に敏感なのが尻尾という器官。修習所でも、学校の授業でも迂闊に触れるなと厳しく指導されていた。そして幼い頃は、母の尻尾で遊んでは叱られていた記憶があり……我が事ながら、よくこれまで無事に生きてこれたな。
容赦のない尻尾への刺激に、どうやら私の中に備わっていたらしきウマ娘の防衛本能が発動する。
片足を持ち上げて畳み、足裏を後ろの正面に向けて構える。ほとんど無意識にそれがこなせた。単純で、原始的で、それでいてウマ娘にとって最も強力な反撃行為……後ろ蹴り。
威嚇として示されたそれを、シービーはまるで意に介した様子も見せず、尻尾を扱く手は止めないまま飄々と囁いた。
「いいの?トレーナー。アタシ、元トレセン学園生徒会長なんだけど?」
「う……」
「元トレセン学園生徒会長なんだけど?」
「………はい」
もう諦めるしかない。
ただでさえ低かった私のヒエラルキーが、いよいよカーストの外まで滑り落ちたというだけの話だ。
やがて二人は満足したのか、弄り回す手を止めて解放してくれた。
……かと思えば、シャツ越しに私の体を改め始める。タンスの肥やしになっていた採寸メジャーまで取り出して、上から順にサイズを計っていく。
どうやら手を貸してくれるつもりではあるらしいが、さて。
「90.56.85……と」
「こうなると服が必要だね。私のでもサイズが合わないだろう。シービーは私よりさらに身長が高いからな」
「1センチだけね。でもまぁ、ルドルフで無理ならアタシでも無理でしょ。中等部時代の頃の制服ならいけたかもしれないけど、先週引っ越しの荷造りで処分しちゃった」
「私は実家に送ってしまったよ。アスカへのお下がりにと……うん、トレーナー君の身長はおおよそ160手前といったところかな。まぁ、平均的だね」
「そのあたりの子から借りるしかないかな。まぁ、平均なら探せばいくらでもいるよね」
何故か微妙に残念そうな色を漂わせながら、とんとんと話を進めてくれる二人。
遺憾ながらウマ娘になってしまったと言えども、男である私にそのあたりの解決は難しいので、ここは彼女達に甘えさせてもらうことにする。
と、外の廊下から誰かがこちらに向かってくる気配が感じられた。
聴覚の鋭いウマ娘も多く在籍するために、トレーナー寮は防音を徹底している。事実、はっきりと足音が聞こえてくるわけではないが……それでも、「恐らくそこに誰かがいるだろう」程度のことは分かる。ウマ娘の感覚は、やはりヒトのそれを遥かに凌駕していた。
鋼鉄製の分厚い玄関扉が開かれ、姿を見せたのは三人のウマ娘。
意気揚々と先頭に立ち、私を見るや否や笑いを隠しきれない顔で駆け寄ってくるのはトレセン学園が誇るマッドサイエンティスト、アグネスタキオン。後ろを続くのはしおしおに萎れきったカフェと、それに肩を貸すテイオー。
「やあやあトレーナー君!今朝ぶりだねぇ!さぁ、セカンドオピニオンの時間だよ!」
興奮冷めやらぬとばかりに息を荒げるタキオン。とりあえず、セカンドオピニオンの意味はちゃんと辞書で調べて欲しい。保健体育科目は必修だろう。
ぱたぱたと浮かれたタキオンの進路を塞ぐように、ルドルフがするりと私の前に歩み出る。
その瞬間、タキオンはにわかにばつの悪そうな表情を浮かべ、手遅れながら余った袖で口元を隠した。色々な事情で彼女もルドルフには強く出られず、そういった意味では私の同類とも言える。
「……会長。謝罪ならもうしたじゃないか。報告だってちゃんと挙げただろう。まだなにかしろってことかい」
顔の下半分を白衣の袖で隠すようにしながら、じとりとルドルフを半目で睨み付けるタキオン。
それに怒るでも呆れるでもなく、ルドルフは淡々とした口調で問いを投げ掛けた。
「タキオン、君の身長とスリーサイズは?」
「な、なんだい藪から棒に。159の83.55.81さ……ほら、もう良いだろう。早くそこを退いておくれよ」
「そうか。なら丁度良いな。さぁアグネスタキオン。服を、脱げ……今ここで、全部」
「ええーっ!!」
超光速のプリンセスの悲痛な叫びが、日が落ちて間もない夜のトレセン学園に響き渡った。