会議室の扉が、後ろ手で静かに閉められる。
突入こそ乱暴だったものの、見境なく破壊に至る程掛かってしまっているわけではないらしい。
人が出払った頃合いとはいえ、一応本校舎のど真ん中であるからには自制しているのだろう。
もっとも、その姿は冷静には程遠いものであったが。
「…………」
ゆっくり、ゆっくりとルドルフの両耳は後ろを向いて倒されていく。限界まで寝かされたそれは頭髪とほぼ一体化し、真正面からは殆ど見ることも出来ない。
両腕は固く組まれ、尻尾は垂れ下がったままぴくりともしない。さらに視線を落とせば、右足がざり、と神経質に床のタイルを掻いている。
それは前掻きと呼ばれる、ウマ娘が不満を感じた際に無意識に示す仕草。
先程からの落ち着いた動作も、こうなると嵐の前の静けさとしか思えない。
穏やかな仮面を被っていながら、紫の瞳だけは無機質に揺らめきながら私とシリウスをしかと捕らえていた。
火のついた火薬庫のようなもので、放っておけば取り返しがつかなくなるのは誰の目にも明らかだった。
にも拘らず、そんなルドルフを前にしていながら、シリウスは全く臆した気配がない。不遜な笑みを浮かべ、余裕綽々といった態度。
私の頭を己の肩から引き剥がすと、乱れた前髪をそっと掻き上げてきた。
それからウマ耳の付け根を指でなぞりつつ、丁寧に手櫛で毛先まで鋤かれてしまえば、妙なくすぐったさと安心感が全身を包み込む。
「随分遅かったな皇帝サマ。ハッ、いくらアピールかまそうが、肝心な時に側にいないようじゃ話にならねぇ」
「トレーナー君の窮地なら知っていたさ。遅れたのは然るべき手順を踏んでいたからだ」
「で、アイツらはどうなった?」
「学園当局の警備ウマ娘が全ての出入り口を固めているからな。逃げられはしまい。そこから先については……さて、私の知るところではないな」
微塵も感情の機微を見せず、ルドルフは淡々とそう呟く。声音に抑揚はなく、そのどうでも良いといわんばかりの酷薄さに思わず背筋が震える。
私は彼女達のことを、アプローチをかけてきた大勢のウマ娘の一部としか把握していないが、彼女はさらに奥深くまで掴んでいる筈だ。
なにせ学園に出入りする全ての職員と記者、そして全生徒の顔を記憶しているのだから。
実は私が逆スカウトを受けた際、その日の深夜には欠かさずルドルフにその旨の報告を入れることになっていた。彼女がそれを要求したのだ。そして報告を求める際、該当する生徒の顔と名前を必ず挙げてもいた。
それは即ち、ルドルフは最低でも学園における私とその近辺については、ほぼ完璧に動向を押さえているということ。担当トレーナーである私ですら全く全貌の掴めない情報網を構築し、それを駆使して私を狙ってきた者達の身元を割り出していた。
察するに、ルドルフにとって私への契約持ちかけという行為は、ただそれだけでブラックリスト入りが免れない程のものだったのだろう。
そして、そのリストには当然、あのウマ娘達も含まれている。
知らず知らず獅子の尾を踏み続けてしまったという事実を、そう遠くないうちに彼女達は思い知らされることになるのだろうか。
もっとも、ルドルフの掲げる理想からして、そこまで酷いことにはならないと思うが。別に地下牢送りなどというわけでもなく、学園当局のお縄になっただけなのだし。
……そう言えば、彼女のその理想についても、私はなに一つとして知らないままだったな。
きっかけとか、その程度のことすら、全く。
「あちらの処理については、私よりも君の方が明るいのではないかな、シリウス」
「いいや。生憎、私は連中の厄介になった羽目は一度もないんでね。そのぐらいの身の振り方は弁えている」
飄々と肩を竦めるシリウス。
事実、彼女は暴力沙汰その他学園規則に真っ向から抵触するような蛮行を犯したことは、少なくとも私の知る限りにおいてはない。
ターフの占領や授業のボイコットといった、言うならば当局が出動する程のものではない問題行動はかなり目につくが、その対応はルドルフ率いる生徒会の管轄である。
シリウスはこのあたりの立ち回りがかなり器用な方で、おまけに舌も頭もよく回る。なんだかんだ育ちは良いので、越えてはならない一線を見極めるぐらいはわけないのだろう。
髪を鋤く手を止めると、シリウスはその白くほっそりとした人差し指で、ちょんちょんと私の唇をつついてくる。そのまますうっと、ラインを滑らかになぞって見せた。
見せつけられたルドルフの唇は無意識に引き上げられ、その下に隠されていた歯が剥き出しになる。
殺気を隠そうともしないその凶相に、シリウスは先程よりもさらに大きく肩を竦めたかと思えば、私をより一段と強く抱き締めた。
「おお、怖い怖い。ついでにアンタもしょっぴいてもらえば嬉しかったんだがな。見ろよ、コイツも怯えてる」
「シリウス、人のモノを取ってはいけないと幼い頃に教わっただろう。悪いことは言わない。さあ、私にパーフェクトを返そうか」
「私のだから返してってか……そう言われると、途端に返す気がなくなったな。ああ、なら決めた。コイツは私のモノにする」
迫るルドルフを逆に煽り立てながら、またしても私の後頭部を捕らえて引き寄せてくるシリウス。
互いに絡み合った体勢であるが故に、ルドルフの飛ばしてくる濃密な殺気を私も直で浴びざるを得ないのが非常に辛い。
本気の視線で人を殺せる、なんて彼女のことをそう表現したことがあったが、正しくこれは凶器そのものだった。
仮にこんなものに直で曝されでもすれば、この先永遠に学園で安眠することも出来まい。そんな威圧にあてられたのか、涼しい顔をしていたシリウスもにわかに剣呑な雰囲気を纏いはじめる。
日の光が遮られ、輪郭の曖昧な長机のシルエットが圧迫感を醸し出す会議室。
たったの十メートルほど離れた壁に埋め込まれた、黒板に記されている日付すら読み取れない。目の前で前掻きを続けるルドルフの顔にも影が射し込み、紫の瞳だけが激情を帯びて苛烈に揺らめくのみ。
本来、人が三十人収まってなお余裕がある筈のこの部屋だが、今はやけに天井が低く感じる。無機質ながら、暴力的な活気に溢れていて、あたかも猛獣を閉じ込める檻のような。
「……もういい。お前はもうなにも喋るな、シリウス」
「薄っぺらい仮面が剥がれてるぜ。なぁルナちゃん。私とアンタ、コイツとの出会いはたったの数日差だろ?」
「それが、どうした?」
「ンなもん、私ならいくらでも差し切れる程度の開きだってことさ。油断したな……ハハッ、やっぱ、お前に逃げは向いてねぇよ」
ウマ娘は、ヒトに比べて感覚が鋭い。
夜目も利くが、それ以上に聴覚と嗅覚が優れることから、こんな暗さの中でも敏感に相手の気配を察知出来る。いや、むしろ暗いからこそ、より感覚が研ぎ澄まされてしまう部分があった。
言葉によらずとも、二人は勝手に互いを刺激し合い、際限なく昂っていく。
行き場をなくしたその熱は、どこかで発散しなくてはならない。
―――先に限界を迎えたのは、シリウスだった。
太ももに股がった足に力を籠めて、私の下半身を封じ込める。
背中に左手を回して上体の逃げ道も潰し、余った右手は頬に添えて、有無を言わさず上を向かせた。鼻先が触れ合い、燃えるような深紅の瞳の中に、反射して映し出される私の顔。
「ぐっ……おい、シリウス……」
「もう諦めろって。昔、アイツともやったんだろ?なら、上書きしとかないとな」
前髪が触れ合う至近距離まで、その端正な顔が迫ってくる。勝ち気につり上がった瞳が、さも楽しげに細められていた。
その蠱惑的な瑞々しい唇は、仮にも男であった私の本能を否応なく刺激する。いや、こんなものを前にしたら……男も女も関係ないのかもしれない。
往生際悪く体を揺すってみるも、ちっとも拘束の解ける見込みはなかった。一応、力の面では全く敵わないというわけではないが、流石にこの体勢では分が悪すぎる。
そしてその事実が、かえって私の逃げ道となっていた。
脱け出せないから、抵抗できないから仕方ないのだと。
……そんな言い訳、彼女が許す筈もないというのに。
「私は、自分のモノを盗られるのが一番嫌いなんだ。奪う奴も、奪われていくモノも許せない」
ほんの数秒、シリウスに目を奪われている間。
音もなく肉薄してきたルドルフは、膝立ちになって私の背中に取りついてくる。
振り返る間もなく口を手の平で塞がれ、もう片方の手は大きく開かれたまま、私の首へゆっくりと。
あのウマ娘達に絞め上げられ、痕になってしまっているであろう付け根辺りを丁寧になぞり上げられた。それは彼女達とは比べ物にならない、シリウスに絞められた時よりもずっと優しく慈愛に満ちた指使い。
しかしそれには、これまで経験したどんな暴力よりも、どろどろとした感情が籠められているようで。
「なぁ、パーフェクト。君は私を裏切らないだろう?どうか、私に酷いことをさせないと約束して欲しい」
「ルドルフ……」
「こと君に限った話、私は自分の理性も自制心も全く信用出来ないんだ。お願いだから、私を君達にとっての大切な友人のままでいさせてくれ。……シリウス?」
上体が動かせないため、こちらからルドルフの表情は窺えない。唯一手掛かりとなる声は酷く落ち着いていて、普段の彼女と変わらない穏やかさだった。
女性にしてはやや低めの、大人びた威厳のある声。
それはシリウスが仮面と呼んだ、学園における秩序としてのシンボリルドルフそのものであるが故に、今この状況との乖離が著しい。そのギャップは、彼女の懇願じみた脅迫に、これ以上ない説得力を付け加えていた。
「……………チッ」
ルドルフと直に対面しているシリウスは、私からは察せないなにかを受け取ったようで、こちらの頬を持ち上げながらもさらにその先へと進もうとはしない。
かと言って、大人しく引き下がることもせず、双方睨み合いのまま膠着へと突入する。
私は私で前後に挟まれているせいで身動きが取れず、密着した二人分の体温と鼓動を肌越しに受け止めながら、淡い光に照らされたクリーム色のカーテンを眺めるのみ。
口を覆っていた手は退けられたものの、彼女達に説得を試みる気力も、助けを求める度胸も既に尽き果てている。どう転んでも、さらに状況の悪化する未来しか予想がつかない。
一分、二分と体感で時間を計る。
およそ五分を迎えた辺りで、ルドルフのさらに後方にある扉の開かれる音が響いた。
咄嗟にシリウスが顔を上げ、同時にルドルフが振り返る気配。
高らかな靴音がそれを塗り潰すかのように、静まり返った会議室へと反響する。
入り口からも、この異様な光景は一目瞭然だろうに。足音の主はまるで躊躇しないまま、マイペースに私達の脇へと回り込んできた。
「おや、随分お楽しみのご様子で」
「せ、先生?」
ルドルフとシリウスはまとめて無視しつつ、私の真横で膝をついたシンボリフレンドは、すすっと顔を寄せてきた。
ルドルフと同じ色をした鹿毛に、これまたそっくりの流星が一筋。揺れる前髪の下では、可笑しそうに細められている紫の瞳。
それは親愛や慈悲はほと遠く、あたかも愛玩動物を眺めるような生温さで……ようするに、いつもと変わらない先生である。
ひとしきり今の私の有り様を堪能した後、彼女は小首を傾げつつ惚けたように一言添えた。
「……助けにきましたよ?」
「な、なんで疑問系なんですか……?」
「実は貴女をあるところに連れていく役目を仰せつかっていましてね。シンボリ家本邸と言う場所なんですけど、ご存知ですか?」
「ええ、それは勿論。旧知のトレーナーの急場に快く手を差し伸べてくれる、慈悲深い名門の本拠地ですよね」
「いいえ違います。一度貸しを与えたが最後、暴利を貪り身ぐるみ剥がしてでも取り立てる鬼畜の住む館です。さあ、行きますよ」
「あ、ちょっ………」
肝が太いというか、心臓に毛が生え揃っているというか。一方的に睨み合いの中へ割り込んできた先生を、ルドルフとシリウスは唖然とした表情で見上げていた。
そんな二人にはついぞ一瞥もくれないまま、拘束の緩んだ隙を突いて、彼女は強引に私を引っ張り上げて部屋の外へと連行していく。
先生も先生で、女性としてはかなり体格に恵まれているので、やはり力で敵いそうにない。
思えば、ウマ娘になって以降も、私の立場には殆ど変化が見当たらないような……。
「……ああ。そう言えば、ここを出ていく前に一つだけ」
扉のノブに指をかける瞬間、そう呟いて立ち止まった先生。
と、小慣れた動きで私の腰を抱き寄せると、くしゃりと髪を撫で上げながら滑らかに顔を近づけてきた。
視界一杯に整った顔が広がり、ほんの一瞬視線が交差した直後。唇に伝わる柔らかい感触と、鼻をくすぐる控え目な香水の匂い。
数秒の逢瀬の後、顔を離した先生はここに来てようやくルドルフ達へと向き直る。ちょんちょんと、見せつけるように己の唇をつつきながら一言。
「十年早い。じゃじゃウマ娘ども」
なんて、余裕たっぷりに彼女は笑った。