最初の仲間、リアルヘリオス
競馬学校での厳しい指導や空腹などの苦難を乗り越え、1999年、私は中央競馬騎手免許の交付を受けた。平地、障害両方である。
競馬学校というのは鬼畜の文字がよく似合う厳しい校風で、私の同期でも脱落者が数名出た。その内訳は、空腹に耐えられなかった者、馬とわかり合えなかった者、精神を病んだ者など多岐に及ぶ。私は一年生の時にすでに180cmの高身長でありながら体重を44kgに維持するという、非常に苦しい試練を課せられたが、競走馬の方がもっと苦しいのだと考えると耐えることができた。
競馬学校から少し離れたところによく来るラーメンの屋台にはとてもお世話になった。空腹に耐えかねて脱走し、コンビニエンスストアに向かうもラーメンの匂いには逆らえず一杯頂き、脱走がばれぬように走って帰るという所業を週一で繰り返していた。…よくばれなかったものである。
一番苦しかったのはあまり筋肉がつかないように運動制限をしたことである。私は入学当初から180cmの大柄であるから下手に筋肉をつけると体重44kgなんぞ簡単に突破してしまう。私の減量は管理栄養士の指導のもと食事量を減らして、しょっちゅう便所に行く方法によって行っていた。空腹の度合いが馬からもわかるくらいひどかったのか訓練馬に飼い葉を薦められたこともあった。案外美味しかった。
さて、遂に中央競馬騎手免許を取得した私、飼葉慧は厩舎実習でお世話になった美浦トレセンの中岡次郎厩舎所属の騎手となった。
中岡調教師は人情に厚い先生で、そのせいか中岡厩舎には未勝利馬や条件馬がたくさん所属している。私としては毎週1頭は中岡厩舎の馬がレースに出ているのでレース経験を積むという観点からはとてもありがたい。
今はリアルヘリオスという馬に乗せて頂いている。四歳の牡馬だ。
「次ウッドチップコースですけど、なにか指示ありますか?」
「そうだな、残り800メートルからちょっと強めに追ってくれ。」
「わかりました、中岡先生。強めですね。ヨシ!行くぞヘリオス」
「ヒン」
「そっちは坂路!ウッドチップコースはあっち!」
「ヒン!」
「柵を飛び越えようとするな!」
…この通り、リアルヘリオスはちょっと我が強い。乗り役が気にくわないと言うことを聞かないし、ひどいときは振り落とされる。今は乗り代わりで僕が乗っているが、前の騎手は完全に嫌われて降りたそうだ。
こういうときに馬を宥めるのも騎手の仕事。積極的に馬とコミュニケーションを取る努力をし、馬の信頼を勝ち取る。
「ブルルっふう」
リアルヘリオスはやっと行く気になってくれたようだ。
美浦トレセンの南調教馬場、ウッドチップコースは一周1600メートル。今から一周半走って、最後の800メートルをちょっと強めに追う。それまでは馬なり。
「ヨシ、行くぞヘリオス」
走り出しは順調、馬なりに達したヘリオスは歩調軽やかにウッドチップコースを駆ける。乗り心地は良いとは言えないが、その分力強さが伝わってくる。
ヘリオスがスピードを上げた。まだ400メートルしか走っていない。手綱を引いて抑える。まだだ、まだそのときではない。落ち着いて走ろう。
コーナーに差し掛かる。柵から少し距離をとって曲がろうとするヘリオス。中岡先生から「できるだけ内に寄せて走るように」と言われているので少しづつ内埒に寄せる。ちゃんと注意して走ればぶつかる心配はないことを体感させるようにコーナーを曲がる。
反対側の直線に入る。カーブから解放された安堵からかヘリオスが少しスピードを上げた。まだだ、一定を保つんだ。そう言い聞かせるようにわずかにハミを引く。少し耳を絞っている。イラついているようだ。
またカーブに入る。今度はヘリオスの方から内に寄っていったから驚いた。恐ろしく呑み込みの速い馬だ。しかし手綱は少し引っ張ったまま。結構行きたがっている。
コーナー終わりかけ、残り800メートルとなった。手綱を緩めてゴーサインを出す。少し強めに追う。ヘリオスは解放されたような感じで一気に走り出す。中岡先生から「直線は少し外に出してくれ」と言われているので少し外に出す。…良い調子だ。そのまま…そのまま…ん?ちょっと斜行してないか?ふくれないでくださいますかヘリオス様。これまずいんでないの?あっこれ大変な奴だ。他の馬の邪魔になってないと良いなあ。
とある4月の週末の土曜日。
京都競馬場、第6レースは4歳未勝利、芝2000メートル。
私が騎乗するリアルヘリオスは一枠二番。中岡先生からの指示は「中団後方で待機、3角下りが終わりかけたら仕掛けろ」。京都の下りから仕掛けるのはご法度じゃなかったっけ…
この前リアルヘリオスの血統表を見せてもらった。父ホクトヘリオス、母シャダイカグラ、母父リアルシャダイ。よくよく考えれば奇跡の血量、ヘイルトゥリーズンの3×4。責任感が一気に増す。この馬を未勝利で終わらせてはいけない。心の中のリトル中岡先生が囁く。
図らずして、私の目標は初騎乗初勝利に定まった。
パドックを終えたリアルヘリオスを厩務員から受け取った。
「ちょっとイレ込んでるので気を付けてくださいね。」
「わかりました。ヘリオスと一緒に頑張ってきます。ヨシ!行くぞヘリオス。」
「ヒン!」
ヘリオスの首を撫でる。うん。調子はよさそうだ。
だんだん緊張してきた。えっと、ゲートから飛び出すときってどうやってたっけ、差し馬の乗り方ってどうだったっけ、京都競馬場の3コーナーはどう進むのがヘリオスにとって一番良いんだろう、そもそも隣のトマトマトマトは結構強いって噂だったっけ、確か新馬戦レコードで1着入線したけど最初のコーナーで斜行して降着になったんだっけ、隣だから気をつけなきゃ、レース前の震える脚をどうやって落ち着かせてたっけ、この不安がヘリオスに伝わってたらどうしよう…
「わっ!」
急にヘリオスが跳ね出した。…スキップかな?スキップだよな?
あぁそうか、ヘリオスは私の緊張をほぐすために揺らしてくれたんだ。
「ありがとうヘリオス」
答えはない。ヘリオスはすでに集中している。
奇数番の馬のゲートインが終わり、ヘリオスたち偶数番のゲートインが始まる。ヘリオスは2番だから偶数番では最初だ。
ゲートインが終わって係員が離れた。
「よーい!」
ガコン!
初騎乗のレース、ゲートが開いた。
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