「俺が……俺が手を離さなければ、優は……」
頭を抱える父の手から、メリメリと髪がちぎれる音が聞こえる。
記憶の中の父はいつも母と言い争いをしていた。
お互いに自分は悪くないと叫び、何度も同じ内容で喧嘩していた。
やがて全てを捨てて家を出たのだと、ずっと思っていた。
だが、それは間違いだった。
かつての自分と同じような姿で呻く父を目の当たりにして、ようやく千早は理解した。
本当は自分よりも長く、ずっと苦しみ続けていたのだと――
左手を伸ばし、そっと父の右手に重ねる。
静虎の手よりもずっと華奢で、すらりと長い指が付いている。
掴んで頭から引きはがすと、ようやく父が顔を上げた。
「あの日も、こんなふうに手を繋いでたよね」
「えっ」
「私が右手、優が左手で。よく、私たちを片手で持ち上げて“たかいたかーい”って遊んでくれたよね」
「……覚えてたのか」
「ううん、ずっと忘れてた。……正確には、忘れようとしてた」
もう一度手を握りなおす。
柔らかい皮膚の感触と共に、あの日の記憶が流れ込んで来る。
「皆で買い物に行った帰り道で…お父さんは荷物持ちの予定だったけど、私と優が遊んで欲しかったから、けっきょくお母さんが持つことになっちゃったんだよね」
「…………」
「私、新しい靴を買ってもらって、ついはしゃいじゃって。何度も“高い高い”してもらって……それで…」
履きなれない靴で無理をしたのが悪かったのか、着地に失敗して足をくじいてしまった。
父は転んだ千早を起こそうと優の手を離し、優は後ろの様子に気づかずに交差点を渡っていた母を追いかけて道路に飛び出し―――左折してきた車にはねられた。
「お前のせいじゃない。俺が、手を離したから…」
「そんなことないよ…。私が転ばなければ…、お母さんが気づいて立ち止まっていたら…」
涙があふれてきた。
もう、何度後悔したかわからない。
なにかひとつでも違っていたら、事故は起こらずに済んでいたに違いない。
「お父さんだけのせいじゃないんだよ。誰かひとりの責任なんかじゃない」
父の表情が崩れ、丸めた紙のようにぐしゃぐしゃになった。
今の一言が、長年父を苦しめ続けていた呪縛を解いたのだと、千早は直感した。
自分も2年前に経験したことだ。
「私ね、優が死んじゃったのも悲しかったけど、お父さんとお母さんが変わっちゃったのもすごく嫌だった…。喧嘩ばかりで、すごく怖くて…」
「ごめんな……。お前も辛かったはずなのに…。俺は、自分のことで頭がいっぱいで…」
「いいよ。私も同じだったから…。きっと、お母さんも…」
3人とも、傷口を押さえ、溢れる血を止めるのに必死だった。
優だけでなく、両親もあの事故で失われてしまったかのように思い続けていたが、そうではなかった。
自分と同じように苦しんでいただけだったのだ。
「今日、会えてよかった」
「お父さんが変わっちゃったんじゃないって――ずっと、あの事故より前の――優しいお父さんのままでいてくれたんだってわかって――よかった――」
右手の甲で、涙でほとんど見えなくなっていた目をぬぐう。
胸が、じわりと熱くなるのを感じた。
新しい涙が次々に湧いて来るが、それは先ほどのような後悔の気持ちから来るものではなく、安堵の涙だった。
「ありがとう。大好きだったよ。お父さん」
う お お お お お お お お お お お お お お ・ ・ ・
獣が吠えるような声で慟哭する父の声が止むまで、千早は手を握り続けた。