ジョン:ポケモンGメンの諜報機関に所属していた元エージェント
イーブイ(♂):前のトレーナーに虐待されていたところを、ジョンに拾われた
アブソル(♀):諜報機関よりジョンのお目付役として与えられた殺し屋
シモンズ:諜報機関のチームリーダー、ジョンの元上司
半年ぶりに髭を剃った。
持ち合わせの小銭を払って安い髭剃りとハサミを買い、手始めに伸びきった髭をきれいにする。髪もバッサリと切り落とした。富裕層の閑静な住宅街から適当なワイシャツとズボンを拝借すると、だいぶ見栄えが良くなってきた。
治安の悪いモーテルに泊まれば、身嗜みを整える必要もなかっただろう。少しでも落ち着いた環境をイーブイに用意するために、ミドルクラスのホテルで部屋を取った。
虐待されたポケモンに対するケアは経験がない。インターネットに繋いだ端末で調べれば分かるだろうが、あいにく手元に電子機器はない。ホテルの部屋に着くと、ジョンはまずイーブイをモンスターボールから出して、様子を見ることにした。
「……ぶい」
出てきたばかりのイーブイは、床に俯いたまま静かに佇んでいた。従順な人形そのものだ。なかなか顔を上げないので、トレーナーが別人だということにも気づいていないようだった。
なんて言えばいいんだ。ジョンは言葉が出てこなかった。もう大丈夫だ、心配するな、とでも言えばいいのか。いきなり誘拐されてパニックを起こすのでは。やっぱり戻そうとボールの開閉スイッチに指を置いたとき、イーブイが靴から順におそるおそる見上げてきた。
「……ぶいぃ!?」
「いいか、落ち着いてくれ」
ジョンはゆっくりと膝を折って、なるべく身を低くした。両手を挙げて、自分が無害であることを示す。
そうだ、いいぞ。話をしよう。イーブイは初めこそ驚いたものの、逃げ出す様子もなく、ジョンは心からホッとした。
イーブイにはこれまでの経緯と、これからのことを務めて穏やかに話した。元トレーナーから奪ってきたこと。イーブイに危害を加えるつもりはないこと。明日にはポケモンセンターに連れていって、ジョーイさんに保護をお願いすること。人間の言葉では伝わらないかもしれないが、イーブイはオドオドしながらも耳を傾けていた。
こういうとき、同じポケモンに慰め役を頼めれば良かった。のだが、手持ちはアブソルしかいない。とてもじゃないが、殺人の訓練を積んだ殺し屋ポケモンが役に向いているとは思えない。
しかし意外とイーブイが素直に「ぶい」と鳴いてくれたので、アブソルの出番は幸いにもなさそうだ。
虐待されていたポケモンに触るのは禁忌かもしれないが、ジョンはそっと手を差し伸べた。イーブイは怯えてギュッと目を閉じていたが、頭を撫でられると、逆立っていた毛並みが徐々に落ち着いていった。ひとさすりして、手を引っ込める頃には、イーブイはうっすらと微笑んでくれるようになっていた。
「腹が減っただろう、飯にしないか?」
「ぶい!」
コンビニで買ったビーフジャーキーに、イーブイは喜んで飛びついた。
元気を取り戻したのは結構なことだが、やや後ろ足を引きずる素振りが気になった。夢中で肉を噛んでいる間に、失敬して後ろ足の体毛を掻き分ける。痛くない程度に揉んでみる。他にもいろんな部位を確かめたが、アザは背中と腹に集中していた。しかし足にはそれほど目立った痕はない。おそらく骨の問題だろう。事故か、暴力のせいか、いずれにせよ今後も足が良くなることはないだろう。
「参ったな」
ため息と一緒に漏れる。
これはケアが必要だ。ポケモンセンターにいるうちは良いだろうが、引受先によっては地獄を見ることになる。最悪、誰にも引き取られず保護区に送られるかもしれない。このご時世、どこも財政難で運営が厳しいというのに。
シモンズに手配を頼むか。いいや、それと引き換えに何を要求されるか分からない。
まさかこのまま俺が引き受ける訳にもいかないし、どうしたものか。
「……あぁぶ」
イーブイとは違う鳴き声が聞こえてきたので、顔をあげるとアブソルの鼻先が眼前に迫っていた。
油断した。消音機能付きのボールだと知っていたのに、アブソルが自力で出てきたことにも気づかなかったとは!
「イーブイ、伏せろ!」
ジョンは叫びながら、腰のモンスターボールに手を伸ばした。ピストルで早撃ちを決めるかのごとく、即座にアブソルをボールに戻そうとして。まったく微動だにしないアブソルを前に、ジョンも動きを止めた。
動かない。ジッとしている。なぜだ。沈黙が流れる間、イーブイはまだご馳走に夢中だ。普段の食事がよっぽど酷かったのか、間に合わせの安物でも喜んでもらえるのは結構だが。
普通、諜報機関に訓練されたポケモンは徹底して主人に従順だ。命令もなく勝手にボールから出てくることはありえない。アブソルはシモンズから渡されたのだから、奴から命令を受けていてもおかしくない。たとえば、自分以外のポケモンが近づいたら抹殺せよ、と。
てっきりそうした命令に従って出てきたのかと思ったが、自信がなくなってきた。ぐぅぅ、とアブソルの腹が鳴った。くりっとした赤い瞳が、チラリとイーブイのビーフジャーキーに傾いた。
「……欲しいのか? お前も?」
アブソルは黙って頷いた。ジョンも黙って食事を与えると、アブソルはイーブイと並んで貪り始めた。まるで大きなイーブイだ。早くも仲が良さそうに見えたが、どうやら違うらしい。お互いに視線をかわして、イーブイは怯えて縮こまり、アブソルは無関心を決め込んだ。
これなら及第点か。イーブイに最適な環境ではないが、次の引取先が見つかるまでは預かれそうだ。ジョンは小さく頷いた。
*
翌朝、ジョンはホテルのチェックアウトを済ませて、ポケモンセンターを目指した。センターはトレーナー向けの宿泊施設を兼ねている場所も多く、それゆえ朝の開店も早かった。目的はもちろん、イーブイの引取先探しだ。
飼い主の募集リストに載せるため、まずはイーブイが健康診断を受ける。ナースのラッキーに引き渡すとき、まるで捨て犬みたいに目を潤ませていたイーブイだが、戻ってくるや、やっと解放されたと言わんばかりに身体をブルブルと揺すった。
「健康上は問題ありませんでした」カウンター越しに女医ことジョーイさんが言った。「ただし、身体のあちこちに打撲によるアザが目立ちます。失礼ですが、ポケモンに無茶なバトルを強制していませんか?」
疑いはごもっとも。ジョンはにこやかに(不気味な薄ら笑みにも見える)ここだけの話としてイーブイの来歴を答えた。
虐待されていたイーブイを保護したが、この子のためにも表沙汰にしたくないこと。必要とあれば、警察に確認してもらって構わないこと。話を聞いてもなお、ジョーイは疑っていたが、イーブイが彼に向ける笑顔を見て納得してくれた。
「登録手続は完了しました、引取作の候補が見つかったらご連絡を送りますね。……この子あなたに懐いているみたい。できれば、このままあなたに引き取ってもらえるのが一番だと思うんだけど」
残念そうに言われたが、ジョンは苦笑いで返すしかなかった。自分が政府の殺し屋だと知れば、ジョーイもそんな提案はしなかっただろう。
イーブイを抱きかかえて、ポケモンセンターを後にした。
「ぶぃぶい!」
「そうだな、腹が減った。昼食の時間だ」
道路沿いの飲食店が混み合い始める正午ちょっと前。歩きながら、どこの店にするかイーブイと相談していたところだった。
背後から嫌な声が忍び寄ってきた。
「見違えたな」
イーブイはジョンの腕から「いぶい?」と頭をあげて、相手の顔を見やった。
「シモンズ」
「やあ、ジョン。それから……それは?」
シモンズと視線をかわして、イーブイは気恥ずかしそうに顔を埋めた。
「ちょっと預かっているだけだ」
「可愛いな。うちで面倒を見てやろう、世話役を見つけてやるぞ」
「冗談だろ?」
「私はいつだって本気だよ」
信用できるか。預けたら殺し屋の技能を叩き込まれるだろう。彼らはどんなポケモンでも一流に育て上げる。強いポケモン、弱いポケモン、障碍の有無にも拘らない。コイキングでさえ、彼らの手にかかれば人間の首を刎ねるだろう。
ジョンは咳払いを挟んで、話題を変えた。
「何しに来た。俺の退職を認めたんじゃなかったのか?」
「君は我々の用意した列車に乗っただろう」
「ほかに選択肢はなかった」
「これもそうだ」
差し出される小さなUSBメモリ。地獄への切符と知りながら、受け取るしかない。ジョンは目を細めて、それを外套のポケットに押し込んだ。
「中身は何だ?」
「任務に必要な情報が入っている」
ジョンは黙ったまま眉間にシワを寄せた。
「ある『パッケージ』の回収を頼みたい。これまで何名かのエージェントを送り込んだが、全員失敗した。運び屋の痕跡を辿って、このミアレシティに運び込まれたことまでは突き止めた。どうやらここで取引するらしい」
「兵器か? それとも盗まれた機密情報?」
「知ってどうする、いずれにせよ君に選択肢はない。違うか?」
「……伝説のポケモン絡みなら、俺は下りる。奴らの強大な力をあんたらに委ねるくらいなら、俺は死を選ぶ」
予想どおり、このささやかな抵抗もシモンズに読まれていた。彼はせせら笑って馴れ馴れしく呼んだ。
「ジョン」
「断る。やれよ、シモンズ。とっくの昔に俺は死んでいる」
「よしてくれ。言っただろう、お前のことは好きだ。とても退場させることはできない。だから当然のことだが、人質を用意させてもらった」
シモンズの微笑みから深淵を覗いたような気がして、背筋に悪寒が走る。
「俺に家族や友人はいない」
「そうだよ。だが君は無関係の命も重視する傾向にある。簡単な話だ。先日贈ったアブソルの体内に、強力なマイクロ爆弾を仕込んだ」
妙だと思っていた。あのアブソルが自らの空腹を訴えたときに気づくべきだった。殺し屋の技能は叩き込まれているが、徹底した従順さに欠けている。完成したポケモンなら、自由意志でボールから出てくるなどありえない。たとえ空腹で餓死することになっても。
アブソルは、いわゆる失敗作に違いない。爆弾の運び屋として再利用されたのだ。ジョンは重い口を開いた。
「……威力は?」
「ビルのフロアを吹き飛ばすぐらいは訳ないだろうなぁ。良いじゃないか、道の真ん中で爆発しても犠牲者はせいぜい十数名。君の手でアブソルを殺して海に捨てるのもいい」
「正気じゃない」
「保険だよ、ジョン。使わないに越したことはない。君さえ任務を引き受けてくれれば、みんなが幸せになれるんだ」
天秤が左右に傾く。頭の中では、ひっきりなしに警報が鳴っていた。何があっても、絶対に引き受けるなと。
果たしてそうだろうか。ジョンの眉がピクリと動く。組織を抜けた俺のもとに、わざわざ話が転がってきたということは、ほかに手の打ちようがなかったに違いない。
千載一遇のチャンスかもしれない。奴らの狙いを探り、暴走を止めるには、その内側に再び潜り込むしかない。
「ぶいぃ?」
イーブイが丸っこい目でジョンのことを見つめている。どうしたの? 何か心配? そう聞いているように思えた。
大丈夫だ。ジョンは微笑み、イーブイの頭をくしゃりと撫でた。
「引き受けよう」
シモンズの緩んだ口が、三日月のように吊り上がった。