とはいえ誤差の範疇かも知れませんが。
………
「手を、握ってもいいか?」
「…あ」
定期的に入浴時間を設けるようにボンドルド卿へ求めた灰はそれから良く浴室へと通うようになっていた。
毎度のこと例の少女もまたほぼ同時に浴室へ案内されるのでもはや不思議に思うことは無くなったが、このことに関して卿を問い質してみたところで煙に巻かれるので灰にとってその真意はよくわからないままである。
「い、いい…ですけど…。」
「ありがとう。」
湯船のなかで少女の褐色肌をした小さな手に灰の白い手を重ね、優しく努めながら手を握り包み込む。
彼女の警戒心はもとより低いらしく、もはや体を隠しはしないのだが触れられることには慣れていないようでこうして灰が頼むと答えを言い淀むほか、手を握る際にも縮こまっている。長く握り合っているうちにそれも安心から弛緩されていくのだが。
「……。」
「ぅ……。」
身長はあまり変わらない二人であるが灰の手はいくら細いとはいえ普段より剣を握る右手であるので少女に比べては大きく、掌を合わせて握り込むと少女の小さな手はすっぽりと抱かれてしまう。
なお灰が手を握るよう求めるのはこれが初めてではない。灰にとって入浴時間は唯一の思索や記憶に没頭できる時間であり、手を握るうちに見出した暖かさはその思索の材料でもあり小さな篝火でもあるのだ。
「…。」
「ぅう…。」
当然ながら少女にそんなことは知り得ないのだが、彼女は聡明なことに基地の中で見る甲冑に身を包んだ灰と今こうして少女と肩を並べて湯船に浸かる灰には——被服しているか否かという事をもちろん除いて——決定的に異なる要素があることを感じていた。
「…。」
「んぅ…。」
手を握られて身悶えする少女と裏腹に灰は記憶を整理しつつ少女の暖かさを享受して考察していた。
(この子に火守女の素質があるのなら喜ばしいが、どうなのだろう?イリーナの件を考えれば、火守女となるには努力と同等かそれ以上の才能が必要なのだろうか。)
隠密を追加して、結晶槍、強いソウルの矢を外して
エストの供給さえあれば普段使いする強いソウルの矢などを記憶に留めておくのだが、集中力切れを恐れて魔術の連発はせずにいるために記憶しておく数を少なくして戦闘を円滑にするのである。
またこの地に来て以来手に入れたことはないが手持ちに溜まっている大量のソウルにも意識を向ける。貧乏性というものだろうか、あまりにも大量のソウルを手にして歩き回ることを元来嫌っていた灰はこのソウルの使い道についてもなお探していた。ロスリックであればこの大量のソウルを持って侍女か盗人のパッチやグレイラットのもとへ行き松脂を買い溜めたり楔石を意味不明なほど溜め込んだりするのである。
その点でいえば入浴時間を共に過ごすこの少女には期待もあるのだ。
(レベルアップは素質だけでどうこうなるものでは無いのだろうが、かと言って彼女から目を奪うのは…憚られる、したくない。)
だってこんなにも綺麗な澄んだ青い瞳をしているのだから、と灰は考えつつ思索に入り込むあまりに少女の目を見つめすぎていたのだが。
少女は自身を見つめてくるその燃え滓のような色をした、やや濁っているその目を不思議そうに覗き込む。その向こうに燃える何かを見出そうかという頃に、灰は目をそらした。
「…長風呂になったな。私はもう上がることにするよ。」
「あっ…ぁはい。」
湯の中で握り合っていた手を灰が放し遠ざかると、少女の方は手の感触を探すように少し手を泳がせた。
湯船で立った灰はその頭をクラクラと揺らしながらもいつもの通りに、少女へ向き変り礼を言うのだ。
「いつもすまないな、ありがとう。」
「…どういたしまして。」
『一礼』をしたこともあるのだが、その際は「そこまでしなくても」とやや驚かれたのでこれはしなくなった。簡易的であれ気持ちが伝わればそれでよいというものだろう。そんなことが白い頭の中を過りながら灰は更衣室へ入って行った。少女がその背をぼんやり眺めて、何を思っているのかそんなことは考えもしないのだ。
~~~
自室へ戻った灰は机へ向かい、頭部の装備を外すとまだ少し濡れている髪に布を被せて右手で拭きながら左手は羽ペンを握った。
「握る手に、その中にある熱に篝火やエストと似たものを見出すという事は。エストの強化や篝火の火勢を増すために捧げられる供物は。…」
それはいつも人であった。思えば螺旋剣の刺さるあの灰は人骨やそれを燃やしてなお残った遺灰であろう。というのはつまりエストや篝火の正体は、
「人の生、か。」
名前も顔も知らぬ誰かの生が、篝火を燃やしエスト瓶を満たすのだろう。考えてみれば当たり前のことだ。火の時代、その差異を生み出した最初の火はいかにしてその炎を絶やさなかったのか。グウィンを皮切りに火を継ぎ続けた不死人たちが
「つまり私は、生かされているのか?見ず知らずの誰かによって?」
「何のために。」
「もはや燃え滓だった体を無理にでも燃やして弱い火種を燃やした私に、これ以上どうしろというのか。私はまだ死ねないのか?」
「私はもう灰なのに。」
そんなことが口をついて出る。自問自答し目の前の紙に数行書き込んだその疑問を、灰は破り捨て装備を自棄気味にすべて外すと狭いベッドに潜り込んだ。眠るという行為が果たしていつぶりであったかなど考える余地もなく、全身を包み込む冷たいシーツに身を任せて瞼を下した直後灰は意識を取り落とした。
~~~
6時間後。
灰の部屋をボンドルドが訪れた。常のごとくインクと紙の補充のためであり、背後には祈手たちにそういった物資を詰め込んだ木箱を運ばせている。
「灰のか……おやおや。」
戸を開いて部屋を見渡すも灰その人の姿は見えず薄暗い部屋を見回すと部屋の端に設置された狭いベッドに小さなふくらみが呼吸しているのを見つけたのだ。
「灰の方?………灰の方。……」
そのふくらみへ幾度か話しかけてみるも応答はない。ボンドルドの側へ顔を向けていないので直接確認することはできないが、白い毛先のそろった髪が枕の上で潰れたボールのようになっているので相当眠り込んでいるらしい。
「珍しいですね。思えばこれまで一睡もしていないのではありませんか……?」
そのボンドルドの後ろではすでに祈手たちが静かに努めながら作業を開始している。
「貴方がこの基地へ最初に訪れてから65日、約2か月が経過しましたね。地上…オースでは奇病が一斉に発症し子供たちをこちらへお連れすることが難しくなってしまいました。」
ボンドルドは灰に語り掛けるわけではないが、やや感慨にふけながら口にしている。
「基地の中では数少ない子供たちの一人をお付けしましたがうまく絆させたようですね。当初は不安だったものです。」
あの少女のことである。ボンドルドの指示によるものであるがそもそも灰がこの基地の中で行動を許されている区画は狭く、また灰当人も探索以外では自室からほぼ動くことがないためにその少女との引き合わせは困難と判断されていたのだ。その点、灰の入浴の申し出というのは渡りに船であったといえる。
「ああ、楽しみなものです。」
祈手が床に散らばっていた紙片も回収したのち作業の終わりを告げるとボンドルドもまた灰の部屋を出る。そして去り際に再び今は眠っている灰へ話しかけるのであった。
「灰の方、『火の香りのする』方よおやすみなさい。」
………
もうすぐ第一話に時間軸が追いつきますね。第五層の探索回をもう少しやっておいてもよかったかなと思いますが、それは明日の私が考えてくれるでしょう。