トレーナーの喫煙描写があるので苦手な方はブラウザバックでオナシャス
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見上げた空は、いつだって快晴だった。
「……はぁ」
雲ひとつ浮かんでいない、虚しい群青の景色。空っぽ、という言葉はきっと、こんな空を見た人が思いついたものなんだろうな、なんてことをトウカイテイオーは夢想していた。
春一番の季節はとうに過ぎたというのに、頬を撫でる風は未だに強い。けれど、それ以上に温かく降り注ぐ春の陽気が、彼女の身体を優しく包み込んでいた。遠くに見える並木道に連なる桜は艶やかに花弁を散らしており、ひらひらと舞うそれを目で追っていくうちに、とろんと目蓋が重くなる。ふんわりとした微睡に包まれながら、トウカイテイオーはついさっきかけられた幾つかの言葉を思い出していた。
『私なら君を勝たせられる。だから、一緒に来てくれないか?』
『あなたなら、G1制覇も三冠ウマ娘も夢じゃない。どうか私を信じて』
『君は最高のウマ娘だ、トウカイテイオー』
それが裏表のない賞賛であることは、誰よりも理解している。だからこそ、トウカイテイオーはその言葉をかけられたとき、それこそ今こうして眺めている空っぽの空のような、空虚な気持ちになった。
「……つまんない、なあ」
ぽつりと呟いた言葉が、春風に攫われてどこかへと飛んでいく。いっそのこと、それがあのヒトたちに届けばいいのにな、なんてことを思いつつも、それが決して叶わない現実に、トウカイテイオーは遣る瀬無い気持ちになった。
「どうしてみんな、当たり前のことしか言ってくれないのさ」
生まれた時から負けたことがなかった。どんなレースでも勝って見せた。自分が強いと知るのに、そう時間はかからなかった。それは傲慢でも自惚れでもなく、単純な事実としての認識だった。
だからこそ、トウカイテイオーは焦っていた。このまま勝ち続けたとしても、得られるのは中身のない賞賛だけになる。停滞は安寧を齎すが、同時に変化をも奪っていく。そのことに気づいたトウカイテイオーは、変化を求めるためにこの国でも最高峰のウマ娘教育機関――つまり、トレセン学園の門を叩いた。
「あのころは楽しかったなあ」
今まで出会った相手とは比べ物にならないほど速い相手。公共のものとは明らかに質が違うレース場。そして、初めて味わった敗北と、そこから生まれた尊敬。目に映り、耳に届き、心で感じるもの全てがトウカイテイオーにとっては新鮮で、素晴らしいものだった。
ただ一つ、退屈なことがあるとすれば、自分に向けられる視線が何一つ変わらなかったことか。
聴き飽きた賞賛の言葉に、鬱陶しい憧れの目。それらもここに来れば何か変わると思っていたが、そんなことはなかった。憧れだったトレーナーバッヂが色褪せたものに見えるようになったのは、いつからだろうか。トウカイテイオーは深く息を吐いてから、そのことを考えるのをやめた。
「……もう、こんな時間」
取り出した携帯の液晶には、15:42分の文字が映し出されている。
誰かの足音が聞こえてきたのは、それと同時だった。
「え」
肩をびくりと震わせたトウカイテイオーが、思わず小さな声を漏らす。
立ち入り禁止の場所のはずだった。聴き飽きた賞賛の言葉を避けるために彼女が選んだ、とっておきの場所だった。理事長の方針によって学園全体が禁煙になり、もう使われなくなったぼろぼろの喫煙所。立ち入りが禁止されている理由は分からないが、特に危険な様子もなく、何よりも用務員の見回りがない、一人になるにはうってつけの場所だった。
「……どういうことなのさ」
だからこそ、誰かがここへやってきたのに、トウカイテイオーは驚いていた。何かの気まぐれで見回りにきた用務員だろうか、あるいは自分と同じような境遇に陥ったウマ娘だろうか。どちらにせよ、ここで対面するわけにはいかないと悟った彼女は、すぐさま椅子の影へと身を隠した。
足音は、喫煙所に立ち入ってすぐのところで止んだ。すると次に、何かを取り出すような衣擦れの音が聞こえてくる。少しだけ長く続くその音に、トウカイテイオーは自分の鼓動が早くなっていることに気が付いた。それは見つかったらどうなるか、という不安もあるし、それが誰かを一目見たい、という冒険心によるものでもあった。
少しだけ考えたトウカイテイオーは、やがてそろり、と壁から顔を覗かせる。
そして聞こえてきたのは、かちり、とライターを灯す音だった。
「あ」
そこにいたのは、煙草を
白い煙が昇っていき、青空へと消えていく。そうして香ってくる煙草の匂いに、トウカイテイオーはいつの間にか空いていた口を閉じた。そして同時に、煙草の匂いを感じたのはいつぶりだろう、とも思った。
先の通り、トレセン学園は現在、全面的に禁煙である。故に男は咎められるべきなのだろうが、立ち入り禁止区域に入っている彼女も、それは同じだった。だから、なのだろうか。トウカイテイオーは男に声をかけるでもなく、かといってそこから抜け出してこのことを報告するわけでもなく、ただじっとその光景を眺めていた。
燃え尽きる灰の香りが、春の陽気に混じってトウカイテイオーの身体を包む。
流れる静寂を破ったのは、甲高いベルの音だった。
「やっば」
咄嗟に携帯をマナーモードにするが、既に手遅れだとトウカイテイオーは悟る。
恐る恐る振り返ると、煙草を咥えたまま訝しげにこちらのことを見つめている男と目が合った。
「…………」
「…………」
短い沈黙のあと、男は、面倒くさそうに白い煙を吐き出してから、
「まさかお前、ずっとここにいたのか?」
「う、うん……」
前髪をかき上げながら、男は呆れながら呟いた。
「立ち入り禁止って書いてあっただろ。見えなかったのか?」
「そういうわけじゃない、けど……」
「ならさっさと出てけ。でないと理事長に報告するぞ」
「……じゃあ、キミがここでタバコ吸ってることも言っていい?」
返ってきたのは、苛立ちを含んだ鋭い視線だった。初めて向けられるそんな視線に、トウカイテイオーは少しだけ怖くなったが、けれど退くことはしなかった。やがてしばらくすると、男は深く白い息を吐きながら、椅子へ乱暴に腰を下ろす。
「物好きだな。そんなに居心地がいいのか?」
「うん」
「……なあ、その、嫌じゃないのか? こんなもの吸ってるのに」
「それでも他のところにいるよりはマシだもん」
会話は一度、そこで終わった。無言で煙を吹かす男の隣へ、トウカイテイオーが座る。そのまま携帯の画面を点けると、ついさっき送られてきたマヤノトップガンからのメッセージが表示されていた。それは、何度も聴き飽きた、彼女のトレーナーへの愚痴であった。毎日のように送られてくるそれを、トウカイテイオーは心のどこかで羨ましく思っていた。今の彼女には、そんな相手すらいないのだから。
やがて、男が吸い殻を灰皿へと捨てたとき、しびれを切らしたトウカイテイオーが口を開いた。
「聞いてくれないの?」
「……何を?」
「どうしてボクが、ここにいるのか」
縋るようなその問いかけに、男は足を組み直してから、
「そういう相談事はもっと別の場所でしろ。少なくとも、俺よりはマトモなヤツが対応してくれるし、今のお前が求めてるきちんとした答えも用意してくれるはずだ。その方がお前のためになる」
「……驚いたよ。聞き流されるか、無視されるかのどっちかだと思ったから」
「俺だってトレーナーだ。困ってる生徒がいたら、できる限りの力にはなる」
そこで初めて、トウカイテイオーは男の胸元にトレーナーバッジが輝いていることに気が付いた。
「……キミは、ボクの力になってくれないの?」
「俺は今、自分のことで手一杯なんだよ。他人に気遣いできる余裕なんてない」
「ふーん」
椅子の上で膝を抱えて、トウカイテイオーはそんなつまらなさそうな声を上げる。
再び彼女が口を開いたのは、男が二本目の煙草に手を付けたときだった。
「……それでも、キミに聞いてほしいかも」
「どうしてだ?」
「だってボクたち、ここで出会った仲間じゃん」
「仲間?」
「立ち入り禁止の場所に無断で入るウマ娘と、そこで隠れてタバコを吸ってるトレーナー……ほら、そう考えるとボクたちって、お似合いじゃない?」
言葉とともにトウカイテイオーが浮かべたのは、情けないような、力のない微笑みだった。もっと元気に、力強く笑おうとしたのに、緩んだ頬にすらもう力は入らないみたいだった。
やがて吐き出した煙を眺めていた男が、ふと問いかける。
「……何が、あった?」
待ちわびたその言葉を噛み締めるように、トウカイテイオーはぽつりぽつりと語り始めた。
「つまんなく、なっちゃった」
「……つまらない? レースが? それとも、この学園が?」
「どっちも。いくらレースで勝っても、みんな同じことしか言ってくれない。そりゃ、褒めてくれるのは嬉しいよ。でも……なんだかむなしくなっちゃってさ。もう、誰の言葉も聞きたくなくなって……それで、ここに」
「なら、貶されたいのか?」
「もしかすると、そっちの方がマシかもね。正直、最近は手を抜いてるんだ。もちろん、負けないようにはしてるけど……けど、ボクの走りに気づいてくれる人なんて、誰もいなかった。みんな録音したみたいに、同じことしか言ってこない。ボクをきちんと見てくれる人なんて……もう、ここにはいないのかな」
濁流のように言葉が漏れ出していく。気が付けば、目元にじわりと涙が浮かんでいた。それを悟られないように、抱えた膝へトウカイテイオーが顔を埋める。真っ暗な視界の中で香ってくるのは、煙草の枯れた匂いだけだった。
やがて、深く息を吐いた彼が呆れたように呟く。
「王様みたいにワガママなヤツだな、お前」
「……ワガママ? どこが?」
「だってお前、誰かが手を伸ばしてくれるのを待つばかりで、自分から手を伸ばしたこと、ないだろ」
「それ、は……」
言葉を続けることはできなかった。そこで初めて、トウカイテイオーは自分の傲慢さに気が付いた。
思えば、誰かに見られることしか考えていなかった。勝ち続ければ、後に慕ってくれる人々がついて来ると信じていた。けれど、言ってしまえばそれだけだった。進み続けた道の後をついて来るのは、同じ言葉しか述べることのない人形だけ。糸の繋がっていないそれが彼女に手を伸ばすことなど、決してなかった。
「手を伸ばす、か」
ぽつりと呟いて、トウカイテイオーが自分の手のひらを見つめる。
ひどく小さな手だった。細い指先と、未熟な白さを携えた、寂しい手。それも、そうか。こんな頼りない手を取る者など、誰もいるはずがない。握り締めた拳にほとんど力は入らなくて、それは自分がどれだけ惨めな存在であるかを知らしめるように感じた。
そして。
「ん」
「……何のつもりだ」
差し出したトウカイテイオーの手を、男は眉をひそめながら睨みつけていた。
「キミが言ったことじゃん。手を伸ばせ、って」
「……見境が無さすぎる。もっと考えて相手を選べ。それに俺、今は自分のことで手一杯って言ったよな? 他人に構ってる余裕なんかないんだよ。悪いが他を当たれ」
「ごめんね。ボク、とびっきりのワガママみたいだからさ」
「お前……もしかして、根に持ってるのか?」
「べっつにー?」
にかり、と白い歯を見せてトウカイテイオーが笑う。
久しぶりに、頬に力が入ったような気がした。
「こんな手を取っても、ヤニの匂いが付くだけだぞ」
「それでもいいよ。どんな手だって構わない」
言い切ると、彼女は座ったままの彼の前に立って、その目を今一度見つめながら、
「今、ボクが伸ばしているこの手を取ってくれる人――それはきっと、キミなんだ」
やがて彼が言葉を紡いだのは、しばらくの時間が経って、深い息を吐いた後だった。
「……ずいぶんと落ちぶれた王様だな」
「これからだよ。成り上がっていく
握られた手はとても硬くて、少しだけざらついていて。
ほんのりと暖かい、安心できる温もりがあったように思えた。
「……そういえば、今更だが」
「ん? どうしたの?」
「名前、聞いてなかったな」
「……ええ!? ボクのこと知らないくせに、あんなペラペラ喋ってたの!?」
「別にいいだろ……こんなことになるなんて思ってなかったんだから」
「ちょっと、ちゃんとしてよ! じゃあ、ちゃんと自己紹介するから、しっかり聞いてよね!」
そうして胸に当てた手を、強く握り締めながら。
「ボクの名前はトウカイテイオー!
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