Absolute One   作:宇宮 祐樹

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あけましておめでとうございます
今年で完結させられたらいいな~って思ってるので応援してくれると嬉しいですわよ


10 Ignite your Heart / ココロに火を灯せ

 

 耳障りな携帯のアラーム音が、トウカイテイオーの意識を無理やり覚醒させる。

 そのまま腕をベッドの傍にあるテーブルへ伸ばすが、叩きつけた手のひらに携帯の感覚はない。では充電器の傍かと、今度はヘッドボードの方へと腕を伸ばしてみても、鳴り響く電子音の発信源は見当たらない。もしかすると、昨日は携帯を操作したまま寝たかな、と布団の中を探るが、結局目当てのものは見つからなかった。

 諦めたように深く息を吐いてから、彼女はゆっくりと身体を起こす。

 アラーム音が途切れたのは、それと同時だった。

 

「はい、テイオーちゃん」

 

 疑問はそのままに、かけられた声の方へとトウカイテイオーが振り返る。まだぼんやりと濁った視界に映っていたのは、同室のメンバーであるマヤノトップガンの姿であった。

 

「おはよ、マヤノ」

「おはよう」

「相変わらず早いね」

「テイオーちゃんが遅いの。あと、これ。昨日洗面台に置いてそのままだったよ?」

「……そうだったっけ?」

「歯磨きしたまま忘れたでしょ」

「ごめんごめん」

 

 差し出された携帯を受け取ったところでふと、彼女が何やらによによとした、面白いものを見るような視線を送っていることに気づく。それは言ってしまえばいつものことであったが、起き抜けにそんな目を向けられれば流石に気になって、トウカイテイオーは眉を顰めながら問いかけた。

 

「……何さ。もしかして、寝癖ひどい?」

「ううん、そうじゃなくて。今日はトレーナーさんとデートなんでしょ?」

「そんなんじゃないよ」

 

 呟いた言葉は照れ隠しの意味もそうだが、何より逢引(デート)と言うにはかなり不健全な感情が混ざっている気がして、トウカイテイオーは否定せずにはいられなかった。自分が安心したいためだけに、自分の都合で彼を連れ回す。言ってしまえばそれは、我儘に近いものであった。

 昨日さんざん違うって言ったのに、とトウカイテイオーが頬を膨らませる。しかしそんな彼女など気にもかけず、マヤノトップガンはその視線を彼女から部屋の奥にある窓へと向けて、

 

「でも、残念だね」

「残念って?」

「だって」

 

 答えた彼女が伸ばした指の先では。

 

「雨、降っちゃってるんだもん」

 

 

 実を言うと、クラシックはよく聴いていた。

 

「……はぁ」

 

 駅の前にある時計台にて、ビニール傘の向こうの曇天を眺めながら、トウカイテイオーは陰鬱な息を吐いた。

 専ら、眠れない時に聴いていた。退屈ですぐに眠れるから。それを聴いている時は、何も考えずに意識を手放せるから。晴れるはずもない不安をどうにか拭おうとするよりは、泥みたく無為に眠る方がマシだったから。

 トウカイテイオーにとって音楽とは、その程度のものだった。ある意味では依存しているのかもしれないが、その意味を考えるまでには値しなかった。綺麗な音だな、と思うことは度々あったが、結局はそれまでだった。

 

 彼と出会って、ロックを聴くようになってからは違った。

 ロック・ミュージックというのは乱暴で、自分勝手で、けれどどこか寂しさを感じさせるような音楽だった。そしてそれは、今までクラシックという高尚な旋律しか知らなかったトウカイテイオーに、こんな在り方も許されるのかという驚きを齎した。勇気づけられた、というのも強ち間違いではない気がした。

 耳に嵌めたイヤホンから、男性ボーカルの叫びが聞こえてくる。歌詞の意味は最近になってようやく分かるようになった。それに伴ってかは分からないが、ここのところ英語の成績は伸びている。

 流れてくるメロディーのリズムに合わせて、トウカイテイオーが首を小さく揺らしながら身を任せる。それはこの場だけでなく、トウカイテイオーというウマ娘そのものの在り方を表しているのかもしれなかった。

 

「テイオー」

 

 そうして、イヤホン越しに聞こえた呼びかけに、トウカイテイオーが俯かせていた顔を上げる。

 空色の瞳に映ったのは、少し困ったような笑顔で傘を差す、彼の姿だった。

 

「ずいぶん早いな?」

「まあ、寮にいてもヒマだったから」

「……そうか」

 

 答えると彼は一度、傘の奥から曇天を仰いで、

 

「ついてなかったな」

「……もしかしてトレーナーって、雨男?」

「言われたことはないな。お前は?」

「全然」

 

 短く答えると、トウカイテイオーも彼も口を噤んで、黙り込んでしまう。

 降りしきる雨音が、二人から言葉を奪っていったようだった。

 

「行くか」

「そうだね」

 

 沈黙もしばらく、そう言って歩き出す彼の隣へ並びながら、トウカイテイオーが駅へと入る。

 改札を抜けてからすぐの階段を上がると、雨に濡れたホームの光景が目に入ってきた。曇天を背にした電光掲示板には、緑とオレンジの文字が右から左へと流れている。そこにはあと二分で電車がホームに到着する旨が書かれており、ちょうどいいくらいだったな、と思うトウカイテイオーに、彼が振り返った。

 

「次ので、いいんだよな?」

「うん」

 

 言葉を交わしてからしばらく、ホームにチャイムの音が響き渡る。そうして到着した電車には、あまり人が乗っていないようだった。それが雨だからなのか、あるいは元よりこちらの方面へ行く人が少ないのか、この線に初めて乗るトウカイテイオーにはついぞ分かるはずもなかった。

 電子音と共に開かれた扉を、彼と一緒に抜ける。すると彼はすぐ傍の座席へ、端に一人分の隙間を開けて座ったので、トウカイテイオーもそれに従うように彼の隣へと腰を落ち着かせた。

 がたん、と大きな揺れが一度あってから、電車が走り出す。

 沈黙もしばらく、トウカイテイオーは無言で車窓から見える風景を眺める彼へと、声をかけた。

 

「レースの話、してもいい?」

 

 問いかけに彼は珍しく、きょとん、と呆けたような表情で返した。

 

「……どうしてそんなこと、わざわざ聴くんだ?」

「せっかくの休日だし、仕事の話しない方がいいかと思って」

「子供がそんな気遣いするなよ」

 

 溜息を吐きながら、彼がそう答えた。

 

「で、何の話だ?」

「……ホープフルステークス」

「ああ」

 

 思い当たることはあったのだろう、短く答える彼にトウカイテイオーが続けた。

 

「篠崎さんから言われたんだ。一度でいいから、相談しておいた方がいいって」

「まあ、そうだな。きちんと話すべきだったとは思う。すまない」

「謝らなくていいよ。ボクも出るつもりはないし」

「……いいのか?」

「だって、トレーナーがそう決めたんでしょ? それならボクは、トレーナーの言うとおりにするよ」

 

 委ねすぎているという自覚はあった。ただ、それで破滅したとしても、きっと悔いないのだろうなという信頼も、確かにあった。やがて彼は一度、深く息を吐いてから天井を見上げると、ぽつぽつと語りだした。

 

「実は今、通院してるんだ」

「え?」

「持病でな。そこまで重たいものじゃないんだが」

 

 それは、初めて耳にした話だった。驚いて口を開いたままのトウカイテイオーに、少し情けない笑顔を見せながら彼が続ける。

 

「元々、病院には通ってたんだが……ここ最近、やたらと再発してるんだ。別に、お前らの面倒を見れないわけじゃない。けどレース、それもG1に出させてやれるか、と言われると少し怪しくなる。篠崎に任せることも考えたが、流石にG1までの育成ともなると、今のアイツには荷が重いだろうし。だから、今回は見送ることにした」

「……そうなんだ」

「悪いな、俺の都合で。ただ、これきりだとは思う」

 

 くぐもった警笛が、トウカイテイオーと彼だけの車内に響く。そうして、思いつめるような彼の横顔をじっと見つめながら、トウカイテイオーは恐る恐る、といった様子で語り掛けた。

 

「トレーナーの病気のこと、他のみんなは知ってるの?」

「いや。篠崎にも、理由までは話してない。お前だけに話してる。心配させたくないからな」

「……ボクには心配してほしいってこと?」

「どうだろうな。もしかすると、一人はそう思ってくれるヤツが欲しいのかもしれない」

「そっか」

 

 そこで、会話は終わった。いつもなら心に染み渡るはずの彼の言葉は、今この時だけはトウカイテイオーの肩にずしりと重く圧し掛かってくるようだった。ただ、それに押しつぶされることだけは、絶対にできなかった。

 やがて速度を落とした電車が、駅に到着する。

 

「ここだよな?」

「うん」

 

 立ち上がった彼の言葉に応えて、トウカイテイオーも椅子から腰を離す。

 電子音と共に開かれたドアを抜けると、降り続けていた雨が少しだけ、頬を濡らした。

 

 

「……寒いね」

「だな」

 

 そうやって笑いかけるトウカイテイオーに、彼は白い息を吐きながら答えた。

 花畑をぐるりと囲むように敷かれた小道でのことだった。雨に打たれながらも健気に咲き、彩りを魅せる花々に、トウカイテイオーはどこか寂しさを感じずにはいられなかった。香るのは、雨の湿り切った匂いだけ。本当についてなかたったな、とため息を吐くと、その隣に彼が並んで、口を開いた。

 

「綺麗だな」

「雨じゃなかったら、もっと綺麗だったかも」

「でも、雨が降ってなかったら、この景色は見られなかっただろ?」

 

 渡されたその言葉に、トウカイテイオーが思わずくすりと笑う。

 

「トレーナーって、意外とロマンチストだよね」

「……初めて言われたな、そんなこと」

「褒め言葉だから安心してよ」

 

 他愛もない言葉を交わす。それからしばらく、トウカイテイオーは彼と一緒に、黙々と歩き続けた。

 花畑を抜けた先には一本の並木道があった。整然と並ぶ木々の間に敷かれた道を、二人で進んでいく。今日が雨だからなのか、あるいは季節が季節だからなのか、他の客は見当たらなかった。そういう意味では、今日を選んだのは運がよかったのかもしれない。そんなことを考えているとふと、彼が足を止めたことに気が付いた。

 

「トレーナー?」

「……ん? ああ、悪い。少し、見てた」

 

 そうやって彼が向けた指の先には、雨露に濡れた看板があった。

 

「ツバキ?」

「珍しくてな、つい」

「えー? ツバキの花なんて、いくらでも見れるじゃん」

「うちの地元では、そうじゃなかった」

 

 答える彼に、トウカイテイオーが首を傾げる。

 

「トレーナーの地元って、どこ?」

「北海道」

「……意外と遠いね?」

「そのせいで帰省するのも面倒でな。ここ数年は帰ってない」

 

 軽く息を吐きながら、彼が首を横に振る。そうして咲いている赤いツバキの花へと目をやりながら、彼はまた口を開いた。

 

「ツバキは寒いところじゃ育たないんだ。それこそ、俺の地元じゃこういう植物園の、しかも温室の中でしか見られなかった。だから、こうやって外で大きく育ってるツバキを見られたのは、よかった」

「……そっか」

 

 くすり、とトウカイテイオーが笑みを零す。そんな彼女に、彼は少し訝し気な視線を向けてから、問いかけた。

 

「なんだよ」

「なにも? トレーナーが楽しんでくれてよかった、って思っただけだよ」

「それは、まあ……そうだな。感謝してる」

「どういたしまして」

「お前は? 楽しめてるのか?」

「ボクはトレーナーと一緒にお出かけできれば、それでいいんだ」

「……そうか」

 

 きっと、他にも何か言いたいことがあったのだろう。けれど彼は、それ以上の言葉を口にしないでくれた。それを優しさと言うにはあまりにも廃れている気がするけど、トウカイテイオーはその優しさを嬉しく思った。それだけ自分のことを考えてくれることに、何とも言えない喜びを感じていた。

 雨音がビニール傘を叩く音だけが響く。

 雁首を垂らしたツバキの花が、いつまでもこちらのことを見下ろしていた。

 

「テイオー」

 

 呼びかけられて、トウカイテイオーが振り返る。

 数歩先に立つ彼は、遠くに見える建物へ指を差しながら、続けて口を開いた。

 

「あそこ、入らないか?」

「温室?」

「少しは暖まれるだろ」

 

 かけれられた言葉に、トウカイテイオーはこくりと頷いた。

 温室の中に入ると、籠った暖かい空気が冷えた身体に染み渡ってゆく。出入口に設置されたビニール袋へ傘を仕舞うと、トウカイテイオーは先で待っている彼の隣へと並んだ。

 雨の匂いだけが香っていた外とは違って、温室内は様々な花の香りが漂っていた。彩りも外の花畑より豊かであり、色とりどりの花たちが照明の下で咲き渡っている。そんな光景をぼんやりと眺めながら、トウカイテイオーは彼と共に奥の方へと歩いて行った。

 

「綺麗だな」

「うん」

 

 漏らした彼の言葉に、頷く。

 

「……やっぱり退屈か?」

「ううん。……そう見えた?」

「いつもの騒がしさを考えると、つい」

「ボクだって落ち着きたいときくらいあるよ」

 

 頬を膨らませながら、しかしトウカイテイオーはすぐに笑みを零した。

 

「トレーナーと一緒にいるときは、特にそうかも」

「……その方が俺も楽だな」

「なら、よかった」

 

 そんなやり取りを交わしながら、トウカイテイオーと彼が温室の中を歩いていく。

 カサブランカやカトリーヌが目立つ百合の展示コーナーを抜けると、今度は色とりどりのバラが並ぶ一角に差し掛かった。赤だけではなく、黄色や白など、多くの顔を魅せる花々の間を、トウカイテイオーはゆっくりと歩いて行った。

 ふと目を向けた窓の外では、未だに雨が降り続けている。

 

「……止まないね」

「そう、だな」

 

 呟いた言葉に、どこか途切れ途切れの声が返ってくる。

 

「でもまあ、雪にならなくてよかったよ、本当に」

「ああ……幸運だった、な」

「それに、もし今日が遊園地とかだったら、目も当てられなかっただろうし」

「かも、な。ここで……よかっ、た」

「……トレーナーがよかったらさ、またこういう、ちょっと落ち着いたところ来ようよ」

「………………」

「…………トレーナー?」

 

 どうしたのさ、と彼女が口にしようとしたその言葉は。

 ばたん、と彼が床に倒れ込む、生々しい音によって遮られた。

 

「トレーナー!」

 

 思わず駆け寄って、倒れ込んだ彼の体を起こす。

 幸い、意識は途切れていなかった。光のない、ぼんやりとした瞳がこちらを覗いたのが、その証左になった。ただ、体に力は入らないらしい。地面に投げ出された手のひらは、ぴくりとも動かなかった。

 

「大丈夫!? しっかりしてよ、トレーナー!」

「ああ……悪い、迷惑かけて……」

「そんなこと……だ、誰か! 誰かいないの!? そうだ、救急車……えっと……」

「……そこまでは、いい……だから、落ち着け」

「落ち着いてられるわけないじゃん!」

 

 携帯を握りながら叫ぶ彼女の手に、ようやく力が入るようになったのか、彼が手を重ねる。すると彼はそのままゆっくりと上体を起こして、もう片方の手を眉間に当てた。そのまましばらくトウカイテイオーが見守っていると、彼が口を小さく開けてから、言った。

 

「……悪い、テイオー。肩、貸してくれるか?」

「うん……」

 

 不安の混じった応えを返しながら、トウカイテイオーが彼の体を持ち上げる。立ち上がる時に少しふらついたが、それで転ばないように脚を出せるくらいには、彼の容態は回復しているようだった。

 

「どっか、座れるところあるか?」

「この先に、休憩所があるって」

「じゃあ、そこまで……」

 

 半ば脚を引きずるような形で、トウカイテイオーが歩みを進めていく。そうして辿り着いたのは、テーブルとイスがいくつか並ぶ場所だった。その一番近くにあったイスへと彼の体を下ろし、その顔を覗く。青ざめた彼の顔は、けれど彼女の姿を認めるとすぐに、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

 

「ごめんな」

「いいよ。それより、もう大丈夫なの?」

「……まだ少しかかる」

 

 眉間を抑える彼に、トウカイテイオーがきょろきょろと周囲を見渡した。

 

「誰か呼ぶ? 救急車は? それか、飲み物とか買ってくる?」

「あー……人は呼ばなくていい。けど、何か飲み物は頼めるか?」

「わかった!」

 

 答えたトウカイテイオーがすぐさま自販機へと駆け寄り、ペットボトルの水を買ってまだ彼の元へと戻っていく。そうして渡したペットボトルを大きく傾けてから、彼は今一度、大きな息を吐いた。

 

「助かった。……すまない、驚かせて」

「いいよ。それより、ホントに大丈夫なの?」

「ああ。もう心配ない。ほら、普通に話せてるだろ?」

「……そうかなあ?」

 

 信じられるはずもなかった。訝し気な視線を送る彼女に、彼は溜息を吐いてから、答えた。

 

「朝、話しただろ。持病だって。……眩暈持ちなんだ。少し重めの」

「そこまで重い病気じゃない、って言ったじゃん」

「眩暈にしては、な。命に係わるような病気じゃない。ただ、まあ……ホープフルに出せない理由は、分かってくれるな?」

 

 面倒くさそうに手を払いながら、彼がペットボトルをもう一度傾ける。その様子を眺めていたトウカイテイオーは、彼の対面にある椅子へと腰を下ろした。それはもう少し時間がかかりそうだから、というのもあるし、彼をさらに質すための意味でもあった。

 その意図を汲んだのか、彼は空になったペットボトルを机に置いて、またぽつぽつと語り始めた。

 

「子供のころからこうだったんだ。先天性のものらしくてな。一番酷かったのは高校の時だった。何度も学校を休むことになって……出席日数が足りなくて、留年するかもしれなかった。それからここ数年は落ち着いてたんだが……最近、また起きるようになったんだ」

「いつごろから?」

「八月の中頃くらいか? まあ、こう言うと負い目を感じるかもしれないが……お前らのデビュー戦が終わってから、なのかもしれないな」

 

 苦笑いを浮かべて、彼が答える。痛々しさを感じるその表情に、トウカイテイオーはきゅっと唇を噤んだ。

 自分のせいだ、とトウカイテイオーは思った。初めて彼と出会った時、今で精一杯だと言っていたことを思い出す。きっと彼は、ゴールドシップとマンハッタンカフェの面倒を見てやるので限界だったんだろう。そこに自分が入って彼に負担をかけたから、持病を再発させてしまったのだ。

 それこそ今だって、彼が倒れてしまったのも、自分のくだらない我儘で外に引き連れたからではないのか。そもそも自分が、彼の手を強引に取らなければ、彼はこんな辛い顔をしなくても良かったのではないのか。

 そんな考えが頭を過ぎって、トウカイテイオーは押しつぶされそうな気持ちになった。

 

「……ごめんね」

「謝らなくていい。話をしなかったのは俺なんだ」

「でも、ボクのせいで……」

「そうじゃない。元より、どこかでこうなるだろうな、って予想はついてたんだ」

 

 ぽん、と軽く頭を撫でられて、トウカイテイオーが俯かせていた顔を上げる。

 そこで初めて、自分の目頭に涙が溜まっていることに気が付いた。慌ててそれを拭うと、彼はどこか困ったように笑ってから、言った。

 

「泣くなよ。死ぬわけじゃないんだから」

「……ホント?」

「本当だって」

 

 返ってきた答えに、けれどトウカイテイオーは俯いたままでしかいられなかった。

 そんな彼女のことを気遣ってなのか、彼はふと周りを見渡してから、再び声をかける。

 

「……ポインセチア」

「え?」

「ほら。そこ」

 

 彼の示した指の先へと、トウカイテイオーが視線を送る。そこで初めて、この休憩所がポインセチアの展示コーナーであることに気が付いた。赤や白、桃の葉を揺らしながら咲いているその花を眺めながら、トウカイテイオーは彼へと語り掛けた。

 

「知ってるの?」

「有名じゃないか? ほら、クリスマスも近いし」

「そうなんだ」

 

 どこか上の空に答える彼女へ、彼が続ける。

 

「子供のころ、母さんにクリスマスプレゼントで送ったことがあるんだ。……生まれつき体が弱くてさ。入院続きだったから、せめてクリスマスくらいは、って思って。だから、少しだけ思い入れがあるんだ」

「……喜んでた? トレーナーの、お母さん」

「ああ。けど、それよりも安心してくれてた。俺がそんなことするようになったんだ、って。あの時の俺は病気もそうだったけど、自分から何かするような性格じゃなかったから……思えば、初めて買った贈り物だった」

 

 懐かしむような彼の言葉に、トウカイテイオーが耳を傾ける。

 

「花言葉、知ってるか?」

「ポインセチアの? 知らないけど……」

「幸運を祈る、ってやつらしい」

 

 短く答えてから、彼がすくりと立ち上がる。そうして空っぽのペットボトルを取ろうとして――それよりも先に、トウカイテイオーがそれを掴んだ。そしてそのまま、きょとんと眼を開く彼へ、口を開く。

 

「今日はさ、もう帰ろうよ」

「え? まだ全部、回ってないだろ? いいのか?」

「あんなことがあってもまだ、トレーナーを連れ回せるほどボクは無神経じゃないよ」

 

 少し突き放すようなトウカイテイオー口調に、彼が肩をすくめる。

 

「……気を遣わせたな。悪い」

「いいよ。でも、また今度埋め合わせはしてよね? 体調がよくなったらでいいからさ」

「ああ、約束するよ。その時はどこに行きたい?」

「じゃあさ、今日回れなかった分の続き。このポインセチアから先、見に行こうよ」

「だな」

 

 軽い笑みを交わしながら、トウカイテイオーは彼を連れて来た道を戻っていく。

 ポインセチアの、燃えるような紅の色がいつまでも心に残っていた。

 

 

『テイオーちゃん?』

 

 その日の夜、日付をそろそろ跨ごうとしているころ、寮の裏口にて。

 携帯のスピーカーから聞こえてきた篠崎の声に、トウカイテイオーは申し訳なさそうに答えた。

 

「ごめんね、篠崎さん。明日も仕事なのに、こんな遅くにかけちゃって」

『全然大丈夫だよ! それに、テイオーちゃんが電話してくるってことは、大事なことなんでしょ?』

「うん」

 

 任せて! と意気込む彼女に、少しの気恥ずかしさを感じながら、トウカイテイオーが続ける。

 

「今日ね、トレーナーとお出かけしたんだ。その時に、ホープフルについても話したよ」

『……何て言ってた?』

「その前にさ、篠崎さんってトレーナーが眩暈持ちだってこと知ってた?」

『ああ、そういえばそうだったね。私も話は聞いただけで、そうなってるのは見たことないけど』

 

 やはり、彼女にもここ半年近くのことは話していないらしい。あの人らしいな、なんてことを思いながら、トウカイテイオーは篠崎へと告げた。

 

「今日ね、トレーナーが倒れたんだ」

『…………うそ』

「最近、再発してるらしくて……本人はそこまで気にしてないらしいんだけどさ。でも、だからホープフルまでの面倒は見られない、って言われたよ。仕方ないよね」

 

 そこで一度、会話は途切れた。スピーカーから聞こえてくる息遣いには、焦燥と緊張と、かすかな怒りが含まれている気がした。そうして彼女は、一度すぅ、と自身を落ち着けるために息を吸い込むと、ゆっくりとトウカイテイオーに言葉を送った。

 

『……つっくんは、大丈夫なの?』

「本人が言うには大丈夫らしいけど……」

『信じちゃダメだからね』

「わかってるよ」

 

 奇妙なところで理解が共通している。そのことに軽く笑みを零すトウカイテイオーに、篠崎が続けた。

 

『それで? テイオーちゃんは、そのことを教えてくれるために電話してくれたの?』

「半分当たり。今から、もう半分について話すね」

 

 そこで一度、トウカイテイオーは思考を巡らせてから、半ば恐る恐ると言った様子で口を開く。

 

「ホープフルステークスへの申し込みって、まだ間に合うかな?」

『……間に合うよ。ギリギリだけどね』

「なら、さ。出たいな、ボク。トレーナーに内緒で」

 

 返ってきたのは、溜息だった。少しの間を置いてから、篠崎が言葉を紡ぐ。

 

『つっくんのこと、驚かせたいの?』

「逆だよ、安心させたいんだ。このままじゃボクは、トレーナーの負担になっちゃう。だから、トレーナーがいなくてもちゃんとできるんだよ、ってところ見せたいの。そうすれば、トレーナーも安心して休んでくれるだろうし」

『……気持ちは、分からないでもないけど』

 

 呆れたような声色に、しかしながらトウカイテイオーは当然か、と苦笑した。

 無謀だとは思っている。薄氷の上を思い切り走り抜けるような考えだとも、思う。ただ、今のトウカイテイオーは、そうすることでしか彼に顔向けができなかった。贖罪、などという仰々しい言葉を使う気はないが、彼のためにできることと言えば、走ること以外になかった。

 半ば自嘲めいた思考を巡らせながら、トウカイテイオーが問いかける。

 

「篠崎さんは反対なの?」

『中立、かなあ。テイオーちゃんが走りたい、っていうならそうさせてあげたいよ? でも、それならちゃんと、つっくんと話して出る方がいいとも思う。でも……そうすると、つっくんは無理しちゃいそうだし』

「これ以上、トレーナーに負担はかけられないんだ。だから、篠崎さんにこうやってお願いしてるの」

『……もう、火が点いちゃってるって感じだね』

 

 暫くの沈黙。そして篠崎は、疲れたような息を吐いてから、ぽつりと。

 

『バレたら、正直に話すんだよ? 私も一緒に行ってあげるから』

「ありがとう」

 

 それから、後日に詳しい話をする約束と、夜更かししないようにという小言を告げてから、彼女が通話を閉じる。そうして寒空の下、吐いた白い息が夜空へと昇っていくのを眺めながら、トウカイテイオーはぽつりと。

 

「……幸運を祈る、かあ」

 

 もしかするとそれは、自分のための言葉かもしれなかった。

 

 




『ポインセチア』

「幸運を祈る」/「私の心は燃えている」

 
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