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ホープフルステークス当日、普段よりも薄暗い地下バ道の、その一角にて。
「……テイオー?」
イヤホンの向こうからかけられた、聞き覚えのある声にトウカイテイオーが振り返る。果たしてそこに立っていたのは、予想通りこちらに訝し気な視線を向けるナイスネイチャであった。そのまま呆れたように肩をすくめる彼女へ、トウカイテイオーが片方のイヤホンを外してから、口を開いた。
「ネイチャ? どうしたの?」
「どうしたのって……もう、出走まで二十分もないんですけど?」
「そうなんだ」
短く答えながら、トウカイテイオーが携帯の液晶に触れる。表示された時計を確認すると、確かに出走までは二十分を切っている。それを認めると、トウカイテイオーはホーム画面に戻って、また音楽を再生し始めた。
携帯の裏を指先でとんとんと叩きながら、リズムを取っていく。そんな彼女の様子を眺めているナイスネイチャは、深い息を吐いた後、彼女の携帯を取り上げた。
「あ」
「没収~」
「なにすんのさ」
「だーかーら、出走まで時間ないって言ってるでしょ? このままケータイ持ち込む気ですか、アンタは」
「ポケット入れてればバレないかな、って」
「……本気で言ってる?」
一瞬、真面目な顔つきになって、ナイスネイチャが音楽を止める。
しんとした静寂が、嫌いになりそうだった。
「こんなんで出走取消になられても、困るのはアタシの方なの」
「……えーっと、ごめんね?」
「さてはあんま分かってないなコイツぅ」
「あたたたた」
ぐりぐり、と携帯を持ったままの手で、ナイスネイチャがトウカイテイオーの頭を強く撫で回す。
「ほら、控え室まで戻る時間はあるでしょ? ケータイ、置きに行くよ」
「いいよ、取りに来てくれる人はいるから。大丈夫」
「……さっすが。テイオー様は人使いが荒いねえ」
「ヤな言い方だなあ」
「これ以上言われたくないっしょ?」
がくり、と肩を落としたまま、トウカイテイオーが渋々といった様子で立ち上がる。そうしてナイスネイチャから携帯を受け取ると、耳から外したイヤホンをそれにぐるぐると巻きつけながら、彼女の隣を歩き始めた。
「にしても、テイオーってそんな趣味あったっけ?」
「トレーナーに勧められたんだ。ボクもはじめはよく分かんなかったけど、聴いてるうちにハマっちゃってさ」
「……レース前に聞くほど?」
「まあね」
短い返答に、ナイスネイチャがくすりと笑みを零す。
「余裕ですなあ、さすがはテイオー」
「……余裕とは少し違うかも」
返す声は、自分でも驚くほどに寂れていた。
そうして少しの間を置いてから、トウカイテイオーがぽつりぽつりと語り始める。
「多分ボクさ、これ聴かないと走れないんだよね」
「あー……ルーティーンみたいな?」
「そういう意味もあるけど……今のボクが走る理由ってさ、レースに勝ちたいからじゃないんだ」
「……どういうこと? あんだけ三冠三冠言ってたのに」
「もちろん、三冠は取るつもり。カイチョーみたいにもなりたいって思う。でも、カイチョーにそれは違うって言われたんだ。……だからさ、どうすればいいのか分かんなくて。でもさ、トレーナーが走る理由をくれたんだ」
「走る理由?」
「デビュー戦はね、新しいCDが貰えるから頑張った。芙蓉も京都ジュニアも、同じ理由。今日のホープフルも、トレーナーを安心させたいから、実は内緒で出てるの。まあ、ここまできたらもうバレちゃってると思うけど」
依存気味なことは自覚している。あるいは、レースに対しての冒涜になるかもしれないということも。
ただ、それでもトウカイテイオーはこの音楽を――彼との繋がりを、手放す気にはならなかった。
「だからさ、余裕ってよりは焦ってる、って言った方が正しいのかも。こうでもしないと、今のボクは走る理由を失っちゃうんだから。らしくない、ってことは分かってるんだけどね。……それでも、さ」
「テイオー……」
「軽蔑した?」
恐る恐る、というよりは、諦めたように問いかけるトウカイテイオーに、彼女は首を横に振ってから、
「全然。むしろ、安心したって感じ」
「……安心?」
「あの絶対無敵のテイオー様でも、そうやって焦ることあるんだな、って」
くつくつとした笑みを浮かべる彼女に、トウカイテイオーが頬を膨らませる。
「もしかして、バカにしてる?」
「親近感が沸いた、ってことにしといてよ」
「否定になってないじゃん!」
「あはは、ごめんごめん」
そうやって謝ったあとに、ふとナイスネイチャは、どこか宥めるような眼差しを向けながら、
「でも、それくらいの方がいいんじゃない? 何の理由もなしに勝ちに拘るよりはさ、そうやって何かのために走れるくらいがちょうどいいってアタシは思うよ。だからさ、安心してトレーナーさんのために走りなさいな」
「……やっぱり、話してよかった。この話するの、トレーナー以外だとネイチャが初めてなんだ」
「さいですか」
「ありがとね、ネイチャ」
「どうも」
正直なところ、一番恨まれると思っていた。そして同時に、一番共感してくれる人だとも、思った。
小市民、と言うと少し聞こえが悪いかもしれないが、トウカイテイオーの友人の中で最も身近かつ、一般的な意見を口にしてくれるのが、ナイスネイチャというウマ娘だった。だからこそ、トウカイテイオーは自分のレースに対する姿勢が不安になって聞いたし、返してくれた彼女の言葉に安心できた。
「にしても、トレーナーさんのため、ねえ……」
「……なにさ」
「結局、植物園のチケットはどうしたのよ?」
「それは……」
口籠るトウカイテイオーに、ナイスネイチャはによによとした厭らしい笑みを浮かべながら、
「やっぱ、トレーナーさんと行ったんだ?」
「……そう、だけど」
「楽しかった? 二人っきりのデートは」
「…………」
「……えっと、マジ照れな感じ?」
「うるさいなあ!」
込み上げてくるような顔の熱を紛らわすように、トウカイテイオーが声を荒げる。
「そりゃ、楽しかったよ。でも、それ以上にこのレースで勝たなくちゃ、って思った」
「……なら、よかったじゃん」
それ以上のことを、ナイスネイチャは聞かないでくれた。その方が、彼の持病について触れなくて済むから、気が楽だった。あの全身の血が抜けるような感覚は、もう二度と思い出したくなかった。
薄暗い廊下に、二人の足音だけが響く。等間隔に設置された蛍光灯が、ぼんやりとした輝きを放っていた。
「そういえば今日、もしかしたら雨降るかもだって」
「ホント? 曇ってるなとは思ったけど」
「……ちなみに聞いとくけど、テイオーは雨女?」
「違う、とは思ってたんだけどね」
「っていうと?」
「……植物園でデートした日、雨だった」
「ああ……」
がっくし、と分かりやすく肩を落としながら、ナイスネイチャが手で顔を覆う。
「勝負服、濡らしたくないんですケド」
「まあ、トレーナーが雨男かもしれないから」
などと会話を交わしているうちに、控え室の前へ辿り着いた。扉のカギは締まっておらず、ドアノブに手をかけると、二人が誰もいない控え室の中へと入っていく。そうして携帯を机の上に置いたところでふと、トウカイテイオーが何かに気づいたように声を漏らした。
「……そういえば、見てないな」
「誰が?」
「篠崎さん……えっと、サブトレーナー。携帯、取りに来てくれるはずだった人」
答えたトウカイテイオーに、ナイスネイチャがああ、と相槌を打つ。
「もしかしたら、ここに戻る途中ですれ違うと思ったんだけど。控え室にもいないし」
「……行き違いになってるとかじゃない?」
「だとしても、携帯はここに置いてあるから、まあ大丈夫かな」
そう言ってから、二人が控え室を後にしようとしたところで。
少し間の抜けたようなチャイムの音が、中山競馬場に響き渡った。
『ご来場の皆さまにお知らせいたします。本日はこのあと、雨の予報となっております。ご来場の皆さまにおかれましては、傘や雨合羽などのご用意をお願いいたします。また、これより開催いたしますホープフルステークスにおきましては、天候・曇り、バ場状態・良で記録いたします。なお、当レースの出走は五分ほど遅れて……』
「……雨女さん?」
「だから、違うって」
冗談めかすナイスネイチャを連れて、トウカイテイオーは息を吐きながら地下バ道へと戻っていった。
■
見上げた空は、鈍色に染まっていた。
香るのはいつもの土の匂いではなく、強い雨の匂いだった。しっとりとした重たく、そして鋭い空気をトウカイテイオーは感じていた。踏みしめるターフの感覚は、いつも通り。つま先で地面を何度か蹴りながら、トウカイテイオーは一度、大きく息を吸ってから、深く長い息を吐いた。
感じていたのは、焦燥だった。それはG1の舞台に初めて立ったからというのもあるし、それ以上に何としてでも勝利を納めて、彼を安心させなければ、という気迫故のものでもあった。
今一度、左手の黒い手袋の調子を確認してから、トウカイテイオーが顔を上げる。
その先に見えたのは、静かな笑みを浮かべるメジロマックイーンの姿であった。
「マックイーン」
「……出走しない、という話は嘘でしたの?」
「騙すつもりじゃなかったんだけどね。もしかして、怒ってる?」
「いえ。むしろ喜んでますわ。こうしてあなたと同じレースを走れるんですもの」
そこでふと、彼女は空を見上げてから、
「生憎と、空模様は悪いようですが」
「……いちおう聞いとくけど、マックイーンは雨女?」
「産まれてから一度も、そのようなことは言われませんでしたわ。そういうテイオーは?」
「さっきネイチャに言われたよ。トレーナーと出かけた時も、雨だったからさ」
「あら」
何かに気づいたように、メジロマックイーンがくすりと笑う。
「賢く使えました?」
「……どうだろう。でも、このレースに出る気にはなれたよ」
「だったら、何よりですわ」
会話はそこで終わる。同時に、高らかなファンファーレが曇天の空に響き渡った。
割り当てられたゲートに脚を踏み入れて、意識を前方、コーナーよりもずっと奥の方へと集中させる。気づかぬうちに早くなっていた心臓の鼓動は、けれど何度か呼吸をするうちに、大人しくなってくれた。
メジロマックイーンに対する恐怖心は、もうなくなっていた。それ以上に、このレースに勝って彼を安心させなければという使命感の方が強かった。それはただの上塗りと言えば、そうなのかもしれない。けれど、そうでもしないとトウカイテイオーは、このレースを満足に走れない気がした。
「大丈夫……」
小さな呟きが漏れる。思考を研ぎ澄まし、精神を集中させる。
そうしてスタートのために、視野を広げたところで、ふと。
「……あれ?」
ウマ娘の視力は、決して人間のそれより優れているわけではない。
だから、トウカイテイオーがそれに気が付いたのは、ある意味では偶然だった。
視界の端に見えたのは、観客席の最前列。
そこには、不安そうな表情でこちらのことを見つめる篠崎と。
彼を、見つけた。
「トレーナー?」
思わず零したトウカイテイオーの言葉を、かき消すように。
ゲートの開く音がした。
「っ……!」
出遅れた。
最初の一ハロンでついた位置は、九番手。致命的だった。掻き乱れた集中を何とか抑え込みながら、トウカイテイオーが地面を蹴っていく。慌ててペースを上げてみるものの、なかなか前には追い付けない。
脳裏にこびりついた疑問が泥のようになって、自分の両脚に纏わりついているようだった。既に肺が干上がるような感覚が迫ってきて、それが同時に集中を削ぎ落していく。それを何とかかき消そうと、意識を前方へ向けた頃には、既に第一コーナーを抜けていた。普段ならば必ず行っている、後方集団の確認をしないまま。
「まずい……」
それに気づくと同時、また思考にノイズが走る。
隠し通せたはずだった。篠崎の手配によって、彼への情報はほとんど行かないようにしていたはずだった。正直、G1レースに出走するにあたり、どこか途中で露呈するとは思っていたが、前日まで彼はホープフルステークスを話題にすることもなかった。だから、上手くいったと思い込んでいた。
なのに、どうして。
「どうして……!」
疑念が足取りを乱す。直線を過ぎて、集団が第二コーナーへ差し掛かる。
バ群に、埋もれていた。カーブから見える先頭集団には、メジロマックイーンが見える。その後ろ姿に焦りを感じながらも、トウカイテイオーが後方へと視線を送ったところで、ふと。
「なんでアンタ、こんなところ……!」
隣から、そんなナイスネイチャの声が聞こえた。
それを振り払うように、トウカイテイオーが耳を絞りながら脚を動かす。レースは既に直線を抜けて、第三コーナーへ。バ群の体制は未だ変わらず、聞こえてくる何重にも重なる足音が、トウカイテイオーを焦らせる。
ほとんど差しの位置取りだった。ナイスネイチャがほぼ隣に並んでいるのが、その証拠だった。明らかに不自然なポジションだった。そして何よりも、この走りを彼に見られていることが一番、怖かった。
上手く呼吸ができなくて、酸素が脳に行き届かない。
ぼんやりと、ある意味では微睡にも似たような感覚の中で、トウカイテイオーが思考する。
「差すしか、ない……」
棒切れのようになった脚に、それだけの力が込められているとは思えない。それでも、トウカイテイオーはやるしかなかった。集団を俯瞰するように、視野を広げる。レースを走る一人一人の動きを確認して、一番可能性がありそうな場所へと身体を動かしていく。
そうして、第四コーナーに入ったところ。
「……そこ、だ」
そうしてトウカイテイオーが、追い込みを仕掛けるために大きく踏み出した、直後。
「あ」
隣を、ナイスネイチャが横切っていった。
盗まれた、と気づいたときには既に、彼女はトウカイテイオーの見つけたルートを走り抜けていく。焦燥というよりは、虚脱感のようなものを感じていた。きっと彼女は、コースを探していたのではなく、コースを見つけるウマ娘を探していたのだ。これが付け焼き刃との差か、とトウカイテイオーは思った。
最終直線に突入し、そして――トウカイテイオーがゴールを抜ける。
見上げた電光掲示板に、自分の番号は見つからなかった。
『一着はメジロマックイーン! 三馬身差で見事、ホープフルステークスを制し……』
響き渡る実況も、突き抜けるような歓声も、吹き抜ける風の音さえも、今のトウカイテイオーの耳には入ってこなかった。荒くなった息を整えると、トウカイテイオーは顔を上げて、ただじっと観客席の最前列を見つめていた。
そこに立っていたのは、両手で口を押えている、篠崎と。
既に振り返り、出口へと続く階段を上がっている彼の姿だった。
「テイオー……?」
かけられたメジロマックイーンの声に、振り向くことなどできなかった。
込み上げてくる悔しさを、無理やり嚥下する。胸がひくつくような感覚を、がむしゃらに抑える。震え始めた肩を押さえて、深く息を吸ってから、静かに息を吐く。
それでも。
「あ……」
ぱたり、と。
トウカイテイオーの足元へ、一粒の雫がこぼれ落ちた。
「……雨、ですわね」
次第に勢いを増す雨勢に、体を濡らす。
頬を伝うそれがどちらなのか、もうトウカイテイオーには分からなかった。
■
■
ウイニングライブを終え、学園へと戻ったその日の夜。
「やってくれたな、お前」
チームルームで告げられた彼からの言葉に、トウカイテイオーは何も返すことができなかった。
ちらりと部屋の隅に目を向けると、そこには黙ってこちらのことを見つめているマンハッタンカフェとゴールドシップが立っている。既に寮に戻っていたのを、先程呼び出されたところだった。送られてくる視線には、その迷惑に対する怒りというよりも、自分の愚かな行為に対する憐れみの方が強く込められている気がした。
「……カフェとゴルシも共犯なのか?」
「ち、違うよ……」
「だったら余所見してんじゃねえぞ」
普段のそれとは違う明らかに強い口調に、トウカイテイオーが肩を震わせる。
「あのな、出走したいなら言ってくれればよかっただろ。俺だって、それなりに工面はしたさ。なのに、どうしてそうしなかった?」
「つ、つっくん? あのね、テイオーちゃんも悪気はなくって……」
「お前には聞いてない。黙れ」
ぴしゃりと放たれたその言葉に、篠崎が押し黙る。重たい沈黙に包まれたチームルームでは、時計の針が進む音と、雨が窓に打ち付けられる音だけが響いていた。
やがて彼は大きく息を吐くと、椅子に深く座り直してから、口を開く。
「俺が邪魔だったか?」
「そういうわけじゃない、けど」
「けど、何だ?」
「……それは」
自責の念と恐怖で感情がぐちゃぐちゃになって、思うように言葉が紡げない。初めてのことだった。こんな風にレースで大敗することも、誰かから叱られることも。正直、泣いてしまいそうなほどに怯えていたが、今日の彼女にもう涙は残っていなかった。
「……勝てると思って出たのか?」
「うん」
言うと、彼が両手で顔を覆う。そうしてまた息を吐いて、ゆっくりと口を開いた。
「別に、レースの結果がダメだってわけじゃない。あの出遅れで、よく七着まで持ち越した。第四コーナーでの位置取りも、その場の判断で十分やった方だ。結局、隣にいた奴……ナイスネイチャだったか? には抜かれたが、それは経験の差だ。お前にとっても、いい教訓になったとは思う」
「うん」
「けどな、それとこれとは話が別だ。お前もそれは分かってるよな?」
「…………うん」
「もう一度、聞くぞ。どうして俺に内緒で出走した?」
再び向けられる彼の視線に、先程のような威圧は感じられない。それよりも、哀しさの方が強く込められている気がした。それは、このレースを経てトウカイテイオーが彼に望む表情とは、全くかけ離れたものだった。
やがて呼吸を整えたトウカイテイオーが、ぽつりぽつりと語り始める。
「……安心、してくれたらいいな、って」
「安心?」
「その、トレーナーがこの前、倒れちゃったから……ボクが負担になってるんじゃないかな、って。あの時だって、そう言ってたじゃん。だからさ、このレースで勝てば、トレーナーが安心してくれると思ったんだ。邪魔だとか、そういう意味じゃなくて、トレーナーがいなくてもちゃんとできるんだって。そうすれば、トレーナーもゆっくり休んでくれると思ったから……レースで負けちゃったせいで、意味なくなっちゃったけど……」
「………………」
「……その、ごめんなさい」
思っていることをそのまま吐き出したような、バラバラの言葉になってしまった。けれど、今のトウカイテイオーには、そうすることでしか自分の本心を伝えることができなかった。
そうして言葉を返したのは、険しい表情を浮かべる彼ではなく。
「……倒れたというのは、どういうことですか?」
今まで沈黙を貫いていた、マンハッタンカフェであった。
「お前らには関係ない」
「あります。だって、アナタは私たちの担当でしょう。今後の不都合があるかもしれません。話してください」
「……ただの持病だ。眩暈持ちなんだよ」
「私がアナタと会ってから、そんな話は今まで一度もされませんでしたが」
「そこまで重たいものじゃないから、話す必要もなかった。これでいいだろ」
「ってことはよ、互いに隠し事してたってワケか」
そうやって口を挟んだゴールドシップを、彼が睨みつける。
「……ああ、そうだよ。それは認める。悪かったよ」
「だったらよ、お前がテイオーを叱る道理もねえんじゃねえのか?」
「庇うつもりか?」
「んなわけないだろ。アホなことしたテイオーが悪いって思ってるよ、アタシは。ただ、テイオーがやらかした原因は、お前にも少しはあるんじゃねーのか、って話。……謝ったんだし、もう十分だろ?」
「………………」
つらつらと言葉を並べるゴールドシップの隣で、マンハッタンカフェは黙り込んだままだった。
それからしばらく、二度目の沈黙が流れる。雨音は強くなっていて、吹き始めた風が窓枠を揺らす。空気が重たいのも、気のせいだとは思えなかった。
やがて沈黙を破ったのは、彼の言葉で。
「……カフェ」
「なんでしょう」
「珈琲、淹れてくれるか? 人数分」
返答もなく、マンハッタンカフェが棚の上に置かれたコーヒーメーカーの前に立つ。
しばらくしてから、白いカップと砂糖の入った容器が、トウカイテイオーの前に差し出された。
「別にな、俺のために何かしてくれたことは、嬉しく思ってるよ」
カップを傾けてから、彼が語り始める。
「ただ、レースに出るならやっぱり、事前に相談はしてくれ。できる限りの対応はしてやるから」
「……でも、それだとトレーナーの負担に」
「いいんだよ。それが俺の仕事だから」
信用は、正直できなかった。目の前であんな姿を見たトウカイテイオーだからこそ、疑いの目を向けざるを得なかった。それに気づいてなのか、彼はばつが悪そうに視線を逸らしながら、話を続ける。
「不甲斐なく見えるとは思うけどな」
「そんなこと……」
「気遣わなくてもいい。だから今日みたいなことが起こったんだ」
「…………」
「あと、一つだけ」
そこで一度、珈琲を飲んでから、彼がはっきりと、
「もう、俺のために走るのはやめてくれ」
告げられたその言葉に、トウカイテイオーは瞳を震わせた。
「……どうして?」
「どうして、って……当然だろ。お前の目標は何なんだ?」
「今のボクに、目標なんて分かんないよ。分かんないから、トレーナーのために走るしかないんだ」
「……三冠は? シンボリルドルフみたいになるんじゃなかったのか?」
「カイチョーは違うんじゃないか、って言ってたよ? それにボク、デビュー戦もこの前のレースも全部、勝ちたいから走ったわけじゃない。トレーナーからCDが貰えるから、走ったんだ。でも、それでもいいって言ってたのはトレーナーじゃないか」
「ちょっと待て、お前……」
「それなのに、どうして今更そんなこと……! もう、ボクの走る理由を奪わないでよ!」
気づけば、テーブルに身を乗り出していた。向き合う彼は不思議そうな表情でこちらの顔を覗いていたが、むしろそれはトウカイテイオーがしたい表情だった。それが更なる苛立ちを生んで、トウカイテイオーが口を開く。
「今のボクは、トレーナーのためにしか走れないんだから」
「テイオー……?」
「いいよ、今後のレースの賞金、全部トレーナーにあげる。三冠も天皇賞も、有馬とかの賞金も。……そうだ。今後はボク、そのために走ることにするよ。だってそうやってお金がたくさん集まれば、トレーナーの病気だって治るかもしれないし。タバコのお金とか、生活費とかも出してあげる。そうすれば、ボクだって走る理由をもう見失わなくて済むんだから」
自棄になっていることは、既に理解していた。
シンボリルドルフから今までの目指していたものを否定され、彼から新たな理由を差し出された。であれば、トウカイテイオーはそのために走るほか、なかった。今のトウカイテイオーは、雛鳥のように目の前に吊るされた餌へと、ただ駆けることしかできなかった。
「……ふざけるのもいい加減にしろよ」
「ふざけてなんかない。本気だよ」
「お前――」
そうやって声を荒らげた彼が、椅子から立ち上がろうとした、その瞬間。
「――ぁ」
ばたり、と。
カップに入った珈琲を机に零しながら、彼は崩れるようにその場へと倒れ込んだ。
「つっくん!」
「トレーナー!」
傍に立っていた篠崎が駆け寄るよりも先に、彼がゆっくりと体を起こす。瞳は朧げなまま、袖は机に広げられた珈琲によってひどく濡れている。すぐに意識を取り戻したあたり、先日のそれよりも軽い眩暈だったらしい。そうやって理解するのと、彼がひどく疲れた表情のまま、口を開くのはほとんど同時だった。
「……全員、帰れ」
「え?」
「掃除は俺がする。カフェも、ゴルシも。篠崎も全員。呼び出しておいて悪いが、今日はもう解散してくれ」
「……でも」
何かを言いかけたトウカイテイオーに、彼が睨みつけるような視線を向けてから、ぼそりと。
「頼む。……これ以上お前の顔を見てると、殴りそうになる」
「……ごめん、なさい」
すくりと立ち上がると、トウカイテイオーは逃げるようにしてチームルームを後にした。
できることなら、今すぐ自分の頭を殴りつけたい気分だった。けれど、今のトウカイテイオーにそんな意地など、あるはずもない。今の彼女にあるのはただ、強い後悔と悲しみだけだった。
薄暗い廊下を、一人で歩く。誰もいない校舎に、トウカイテイオーの足音だけが響く。
そうしてふと、雨の打ち付ける窓に目を向けると、そこには自分の顔が映っていて。
「……ひどい顔」
今にも泣きだしてしまいそうなほどに、歪んだ表情の、その頬には。
いくつもの雨粒が、涙の代わりとなって垂れていくのが見えた。
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