Absolute One   作:宇宮 祐樹

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12 Missing You / かくして、ページは捲られる

 

 目が醒めた時には既に、とっぷりと日が暮れていた。

 くたびれた布団を捲って、トウカイテイオーがゆっくりと体を起こす。ぼさぼさになった前髪をかき上げると、枕元に置かれている携帯を手に取った。液晶にはいくつかのメッセージが通知されているが、それらを全て無視してイヤホンを耳に嵌める。小さなスピーカーから流れ始めたのは、退屈なクラシックだった。

 

「は……」

 

 緩やかな旋律が聞こえる中で、トウカイテイオーが声を漏らす。そこで、自分の声がひどく掠れていることに気が付いた。それは喉が渇いていたせいでもあるし、それ以外の何かが乾いているからかもしれなかった。けれど、トウカイテイオーはそれが喉の渇きだと無理やり信じ込んで、体を洗面台の前まで動かした。

 

「……ひどい顔」

 

 曇り切った鏡には、やつれた自分の顔が映っている。目の下にはうっすらと隈が浮かんでいて、頬にも少しこけ始めていた。目つきもどこか虚ろで、乾燥した唇にはところどころ血の滲んだ痕が残っている。髪だけは最低限の手入れをしていたおかげで、ある程度まともだったが、それでも目元に掛かるそれが鬱陶しく思えた。

 もう一度、前髪を大きくかき上げてから蛇口を捻る。差し出した手のひらに感じる、締め付けられるような冷たさに一瞬だけ目を細めてから、トウカイテイオーは両手いっぱいの水で顔を洗った。繰り返し、何度も。

 それからタオルで顔を拭いて、改めて鏡に映った自分の顔を見る。

 

「……はは」

 

 相変わらず冴えない顔をした、情けない少女がそこにいた。

 

「こんなボクでもまだ、トレーナーは気にかけてくれるのかな?」

 

 縋るように問いかけを口にしても、彼女は自嘲気味な笑みを浮かべるだけで、何も答えてくれない。返ってくるのは、蛇口から流れ続ける水の音だけだった。それに鬱陶しさを感じたトウカイテイオーが、栓を閉じる。水を流し続けたところで、望むものは何一つ、綺麗になくなってはくれなかった。

 水の音が止むと、次に強く聞こえてきたのは、クラシックのつまらないメロディーで。

 

「…………」

 

 しばらく液晶を見つめていたトウカイテイオーが、音楽を止める。

 やがて、スピーカーから荒々しいロック・ミュージックが流れ始めた。

 掻き鳴らされるギターとベース、そして吠えるようなボーカルが脳裏に焼き付いていく。ドラムの奏でるリズムの一つ一つが、心臓の鼓動のように体に染み渡っていく。先程まで響いていた清楚なメロディーとは正反対の、あるいは混沌ともとれるノイズのような音楽。けれど、今のトウカイテイオーにとっては、それが唯一の癒しだった。

 廃れた感情が、落ち着きを取り戻していく。指先がひとりでに、リズムを取っていく。

 

「……どうすれば」

 

 そうして曲が鳴り止むと同時に、トウカイテイオーがぽつりと。

 

「どうすれば、よかったんだろう」

 

 部屋の扉が開いたのは、呟いた直後だった。

 

「……テイオーちゃん」

 

 振り返ったそこに立っていたのは、ジャージを着たマヤノトップガンだった。おそらくトレーニングが終わった後なのだろう、乱れた髪を鬱陶しそうに流す彼女へ、トウカイテイオーが右耳のイヤホンを外してから口を開く。

 

「おかえり、マヤノ」

「起きてたんだね」

「眠れなくなった、の方が合ってるかも」

 

 無理やり、引き攣るような笑みを浮かべてトウカイテイオーが答える。

 

「今日もトレーニング、行かなかったの?」

「……うん」

「一週間、経っちゃったけど……」

「ボクもびっくりした。こんなに早い一週間、初めてかもね」

 

 声だけが笑っていた。取り繕えるものが、それだけしか残っていなかったから。

 やがてマヤノトップガンが一つ息を呑みこむと、恐る恐るといった様子で問いかける。

 

「ねえ、テイオーちゃん……もしかして、走るのやめちゃうの?」

「やめたくないよ。でも、もう走る理由が見つからないんだ」

 

 答えたトウカイテイオーが、洗面所からベッドに戻って乱れていたベッドを整える。

 

「また寝るの?」

「うん。他にすることないからね」

「……ならさ、どこかにお出かけしようよ。カラオケとかお買い物とか、今からでもマヤだったら付き合ってあげるよ? 練習のことも、トレーナーさんのことも、絶対に話さない。だから……」

「いい」

 

 言い放ったトウカイテイオーが、両耳をイヤホンで塞ぐ。

 閉じた目蓋の裏に広がる暗闇には、ロックだけが鳴り響いていた。 

 

 

 こんなに損な役回りは、初めてだった。

 

「……ったく」

 

 日もとっくに跨ぎ、深夜の一時になろうとしているころ。

 ゴールドシップは一人、トレーナー寮の前で大きな舌打ちを吐いた。

 放っておいてもよかった。寧ろ、放っておきたかった。二人のそれが、あまりにも子供すぎたから。下手に関わっても、こちらが痛い目を見るだけだと理解していた。いずれ時間が解決してくれるだろうとも。

 けれど、日を経るごとに摩耗していく二人を、ただただ見ていることなんてできなくて。

 そんな二人のためなら、多少の痛い目を見てもまあいいだろうと思えるくらいの心はあった。

 

「変わっちまったよなぁ、アタシも」

 

 並ぶ扉の中でただ一つ、灯りが点いているその一室を見上げながら、ゴールドシップが呟く。そうして階段を昇った先で手をかけたドアノブは、どうやら鍵がかかっていないようで、すんなりと回ってしまった。

 

「……不用心にも程があるっての」

 

 薄暗い玄関の向こうには、ぼんやりと明かりの灯る部屋が見える。いくつかの書類やフォルダーが散乱している短い廊下を抜けてから、ゴールドシップはその部屋の扉を開く。感じたのは涸れた煙草と、爛れた酒の二つの香りだった。噎せ返るようなそれにゴールドシップは一度、顔を顰めてから、ぼそりと。

 

「ま、テイオーにこんな姿は見せられねえわな」

 

 まるでボロ雑巾のように、床へ横たわる彼を見てから呟いた。

 

「おい、生きてっか?」

「…………」

「無視すんなコラ」

 

 吐き捨てたゴールドシップが、彼の眉間を指先で何度か小突く。

 しばらくしてから、閉じられていた瞳がゆっくりと開き、彼女の姿を映し出した。

 

「…………ゴルシ?」

「こんなカッコで寝てたら風邪引くぞ」

「ああ、それは……そう、かもな……」

 

 嗄れた声で返しながら、彼がよろりと立ち上がる。

 

「ぁ」

 

 けれどすぐに体をふらつかせて、近くの机へともたれ掛かるように倒れ込んだ。

 揺らされた机から、空いた酒の缶が床へと落ちて、渇いた音を鳴らす。そうして足元へと転がってきた空き缶を拾い上げると、ゴールドシップは彼を睨みつけてから、言った。

 

「ここんとこ毎日だろ」

「……悪いか」

「酒臭えんだよ。ただでさえヤニの匂いがキツいのに、勘弁してくれ」

 

 返答はなかった。こちらに視線も寄越さないまま、彼は床に座り込んだまま、腕だけを伸ばして机の上を漁っていた。だん、だん、と手のひらが机の何もないところを何度も叩く。酒の空き缶がそれだけ跳ねて、また床に落ちて音を立てる。そのあまりにも醜い彼の姿に、ゴールドシップは大きく息を吐いてから、机の上のそれを拾い上げた。

 

「ほら。コレ(煙草)だろ?」

「……助かる」

 

 箱を受け取ると、彼はすぐに煙草を一本咥えてから火を点ける。

 白い煙が、天井に昇り始めた。

 

「それで」

「……何だ」

「こんな時間まで、何してたんだ?」

 

 ゴールドシップの問いかけに、彼は煙を吐き出してから、

 

「俺が言いたいくらいなんだがな。どうしてここにいる?」

「つまんねーこと聞くなよ。……死んでるかどうか、確認しにきただけだ」

「……カフェと賭けたのか?」

「したとしても、賭けにならねえよ」

 

 返ってきた言葉に、彼は薄い笑みを浮かべてから、煙を肺に入れる。

 やがて白い煙が立つと同時に、語りが始まった。

 

「手紙を、書いていた。テイオーに宛てたものを。その方が正しく伝わると、思った。俺は、言葉で伝えることが苦手だから……こういう方法しか、思いつかなかった。けれど……それも、上手くいかなくてな。どうしようもなくなって……気づけば酒を入れていた。筆が進むかもしれない、と思った。……いや、違う。苛ついていた。あの時、テイオーの気持ちを分かってやれなかった自分が、許せなくて。だから、こんな風に」

「もういい」

 

 遮るように吐き捨ててから、ゴールドシップが机の上へと目を向ける。

 並ぶ空き缶と、吸い殻が山のように積まれた灰皿の間には、彼の言う通り書きかけの手紙が置かれていた。拾い上げたそれは、書き出しこそ丁寧な文字で綴られているものの、途中から文字の形が崩れていて、最後にはぐちゃぐちゃの、まるで幼稚園児が逆手に握ったクレヨンで乱暴に書きつけたような、そんな線しか残っていなかった。

 目も当てられないその紙面から視線を逸らした先、部屋の隅にあるゴミ箱からは。

 丸められた紙が溢れて、床に零れ落ちていた。

 

「ホント不器用だよな、オマエって」

「……すまない」

「まあ、だからアタシが選んでやったんだけどさ」

 

 手紙を机の上に戻しながら、ゴールドシップが小さく息を吐く。

 

「どういう、意味だ?」

「そのまんまだよ。ああ、そういえばオマエには言ってなかったんだっけか」

「何、を」

「カナリアには、止まり木を用意してやるモンなんだよ」

「……それは、聞いた」

「あん?」

 

 振り返った視線の先には、紫煙を燻らせる彼がいた。

 

「誰からだ?」

「カフェ。この前、二人だった時に」

「……なんだよ。アイツ、そういうところはホント分かってねえなあ」

「考えていたんだ。あれから、ずっと。それがどういう意味なのか」

 

 苛立ったように後ろ手で髪を掻くゴールドシップへ、うわごとのように言葉が並べられる。そうして立ち上る白い煙の先、覗く薄暗い瞳を黙って見つめながら、彼女はその続きへと耳を傾けた。

 

「止まり木は、分かる。チームのことだろ? お前がいつもみたいに取り繕う必要がない、羽休めができるような、そんな場所だ。止まり木ちというのは、そういう意味なんだと思った」

「……それで? カナリアは?」

「それだ。それが、未だに分からない。……いや、違う。カナリアはお前なんだ。それは理解できた。でも……どうしてお前は、カナリアなんだ? カナリアになって、何をしようとしたんだ?」

「そんなもん、決まってんだろ」

 

 呆れたように呟いたゴールドシップは、座り込んだままの彼へずい、と頭を近づけながら、

 

「今、こうやってやってるみたいなことだよ」

 

 不思議そうに見上げるその顔を、軽く指先で弾いた。

 

「……どういうことだ?」

「止まり木は一本あればいい。何なら、ガラスに閉じ込めたってくれていい。でも、酸素は忘れずにな。それと、息が詰まったらちゃんと栓を開けて蘇生してくれよ? でないと、もう囀れなくなっちまうから」

「一体、何を……」

「そうしてくれたら、ちゃんと見守ってやる。だから、止まり木の手入れはしとけよな」

 

 戸惑う彼を他所に、ゴールドシップが立ち上がってからぐるりと周囲を見渡す。

 散らばった無数の空き缶に、山のように灰皿へ積まれた吸い殻。廊下まで散らばる書類に、ゴミ箱から溢れ出る丸められた紙。それら全てに目を向けてから、改めてゴールドシップは床に座り込む彼と顔を合わせて、

 

「じゃ、そろそろ帰るわ」

「……は?」

 

 踵を返し始めた彼女に、彼は煙草を灰皿へと押し付けながら立ち上がった。

 

「待てお前、本当に何しに来た?」

「だから、死んでねーか確認しに来ただけだって。それ以外はない」

「それだけなのか? もっと俺が間違ってるとか、こうするべきだとか……そういうことを、言いに来たんじゃないのか?」

「言ってほしかったのかよ」

「……それは」

「だとしても、オマエは絶対納得しねえだろ」

 

 押し黙る彼に、ゴールドシップが息を吐く。

 

「どれだけアタシが鳴いても、結局どうするかは自分次第なんだよ」

「…………」

「ま、死なないようにはしてやるからさ。せいぜい、後悔だけはしねーようにな」

 

 そんな言葉を残して去っていくゴールドシップを、彼はただ見送ることしかできなかった。

 一人きりになった部屋の中、彼が再び机の上の煙草を手に取ろうとして、

 

「……後悔しないように、か」

 

 呟くと、彼は転がっていたペンを握って、椅子に座り直した。

 

 

 ポケットに入れた携帯が、一度だけ静かに震える。

 

「……え?」

 

 自販機の前で珈琲の缶を傾けながら、トウカイテイオーは思わずそんな声を漏らす。

 

「こんな時間に、誰が……」

 

 深夜の一時を過ぎたころだった。昼から夕方まで眠ってしまったため、消灯時間を過ぎても目が冴えてしまい、仕方なく時間潰しのために散歩をしているところだった。ここ一週間は、ほとんど()()だった。怒られたらどうしよう、という不安は既に、三日目にコンビニで買い物をした時に消えていた。

 電柱に寄りかかりながら座り込み、携帯を操作する。通知欄を開くと、そこには一件の新着メッセージがあるとの知らせが載せられていた。そのままメッセージアプリを起動すると、トーク画面へと移動したところで。

 

「カフェセンパイ?」

 

 宛先に表示されていたその名前を、思わず口にした。

 そうして戸惑いのまま、トウカイテイオーがメッセージ欄へと視線を流す。

 

『明日も休みますか?』

 

 送信ボタンが押されたのは、何度か入力と消去を繰り返してからのことだった。

 

『休むつもりだった』

『まだ、仲直りしてないから』

『顔出した方がよかったりする?』

 

 既読がついたのを確認して、トウカイテイオーが缶コーヒーを傾ける。安っぽい苦みと、薄っぺらい香りが口の中に広がった。その味に眉を顰めていると、また携帯が小さく震える。

 

『いえ、大丈夫です』

『明日はプールを借りる予定なので、申請する時の人数だけ確認しておきたくて』

『無理しなくても、いいですからね』

 

 返ってきたそのメッセージに、トウカイテイオーは小さく息を吐いた。

 

『そんなに優しくされたら、戻るまでかなり時間かかっちゃうよ?』

『いいですよ、それでも』

 

 だから優しくしても――という文章を打つ前に、そんな返信が送られてくる。

 

『どれだけ時間がかかっても構いませんから、戻ってきてくれれば私は嬉しいです』

『戻って来なくても、それがテイオーさんの選んだことなら、私は尊重します』

『あの時、ゴルシさんはテイオーさんのことを悪く言っていましたけど』

『私はテイオーさんのしたこと、正しいと思っていますから』

 

 そうして少しの時間を置いて、ぽつん、と。

 

『何があっても私は、テイオーさんの味方ですからね』

 

 込み上げてくる何かを抑え込むように、トウカイテイオーは自分の体を抱き寄せた。それから残り少ない珈琲を一気に呷ると、きっと寒さだけではない震えを走らせる指で、メッセージを送る。

 

『どうして、カフェセンパイはそんなに優しくしてくれるの?』

 

 しばらくの間を置いて、返事が届く。

 

『あなたが、私の後輩だから』

『それ以外の理由は必要ですか?』

 

 立ち上がったトウカイテイオーは、空になった珈琲の缶をゴミ箱へ放り投げた。そのまま薄暗い道を一人で歩き出しながら、メッセージを打ち込んでいく。

 

『今、自販機でコーヒー買ったんだけどさ』

『あんまり美味しくなかった』

『カフェセンパイの淹れるコーヒー、また飲みたいな』

 

 怒られちゃうかな、と思いつつも送信したそのメッセージに返ってきたのは。

 

『砂糖とミルクも、ちゃんと用意しておきますから』

『いつでも飲みに来てくださいね』 

 

「……はは」

 

 情けない、渇いた笑いを浮かべてから、トウカイテイオーが携帯の電源を落とす。

 誰もいない夜道が、ひどく寂しく感じられた。

 

 

 地下鉄の出口を上がると、繁華街の喧噪が耳へ無作法に入ってきた。

 それにうんざりとした表情を浮かべると、トウカイテイオーがイヤホンを両耳に嵌める。携帯を操作すると、流れ始めたロックが喧噪をかき消してくれた。乱雑に、しかしどこか繊細に響くギターのメロディーに体を委ねながら、トウカイテイオーがふぅ、と息を吐く。

 

「よし」

 

 両手を上着のポケットに入れて、ドラムの奏でるリズムに合わせて足を踏み出して。

 キャップで狭まった視界に映る赤い信号機に気が付くと、すぐにその場へ立ち止まった。

 交差点を抜けるいくつもの車が、冷たい風を乱暴に運んでくる。頬に打ち付けられるそれにトウカイテイオーが眉を顰めて、マフラーで口元を覆った。息を吐くと、白い煙が視界の端で昇っていくのが見える。ふと見上げた空は、既に夜の帳が降り始めていて、淡い紫の色に染まっていた。

 信号が青に変わって、間の抜けた電子音がロックの向こう側から聞こえてくる。

 リズムを整えると、トウカイテイオーはまたドラムに合わせて歩き始めた。

 

「……あんまり来たことなかったなあ、ココ」

 

 立ち並ぶ見慣れない看板を眺めながら、トウカイテイオーが誰にでもなく呟く。

 普段、買い出しや買い食いのために寄る商店街よりも、少し離れたところにある通りだった。普段ならまず通らないその道を、トウカイテイオーが歩いてゆく。凹凸の目立つ、整備のされていない歩道を進んでいくと、やがてT字路に突き当たった。信号は青のままだったが、トウカイテイオーがそこで一度、足を止める。

 そこそこ往来の激しい大きな道路の向こう側には、小さな書店が見えて。

 

「ゴルシに見られたら、なんて言われるかな」

 

 小さく笑ってから横断歩道を渡り、自動ドアの前に立つ。

 駆動音を立てて開いたガラスの扉から、温かい空気が流れてきた。

 

「ふぅ……」

 

 深く息を吐いてから、トウカイテイオーが片耳のイヤホンを外す。

 そして店内を一度だけ見まわしてから、ゆっくりとした歩調で奥へと進んでいった。

 別に、何かこれといったアテがあるわけではなかった。ただ、偶然目の前にこの店が現れたから、そこに入っただけ。これがどの系列の書店なのかも知らなければ、特に調べようと言う気も湧かなかった。

 だから、ぼんやりと眺めている棚が、参考書のコーナーだということにもすぐに気が付かなくて。

 

「……あ」

 

 腕を伸ばして取ったそれの中身を、一応ぱらぱらとだけ見てからすぐに戻した。

 

「トレセン学園で受験とか、するわけないのに」

 

 苦笑したところでふと、思い立って振り返る。

 もしもこのままの状況が続いたら、いつかはあの参考書の世話になるのだろうか。走ることをやめて、トレセン学園を退学になって、レースに出るウマ娘ではなく、普通の高校生としての道を歩むことになるのだろうか。

 そんな考えが、頭を過ぎって。

 

「……はは」

 

 走る意味を見出せないのなら、そうなった方がマシなのかもしれない、と。

 一瞬でもそんなことを思った自分に、呆れた笑みを浮かべた。

 

「まさか、ね」

 

 霞んだ目を一度だけ袖で拭って、トウカイテイオーが彷徨うように歩き出す。立ち並ぶ本棚が、とても高く分厚い、自分と何かを隔てるような壁に思えた。何かに押しつぶされてしまいそうなその感覚に、足を踏み出す速度が上がっていく。片耳から聞こえるロックの音楽だけが、確かなものだった。

 やがてトウカイテイオーが足を止めたのは、壁際に小さく設置された海外小説のコーナーで。

 

「あ」

 

 ふと目をやった本棚の一角、身を寄せ合うようにして収められていた無数の背表紙の中に。

 無機質なフォントで記された、『巌窟王』という題を見つけた。

 

「これ、確かカフェセンパイの……」

 

 呟きながら、トウカイテイオーがその背表紙へと指先を伸ばす。そのまま本を引き出そうとしたが、妙にきつく棚に収められているせいか、思うように出てきてくれなかった。

 む、と一瞬眉を顰めたトウカイテイオーが、その隣にある本の背表紙も纏めて握ると、もう一度力を入れる。すると、先程までの突っかかりが嘘のように、すんなりと引き抜くことができた。

 帯が破れていないかを一度確認してから、改めてトウカイテイオーがその表紙へと視線を落とす。

 手に取ったのは、目的としていた『巌窟王』ともう一冊、隣にあった――

 

「……『三銃士』?」

 

 それは、三人の銃士による英雄譚を描いた、世界で最も有名な物語の一つであり。

 

『ダルタニアン物語。三銃士、って言った方が分かりやすいか?』

 

 チームを結成したあの日、彼に教えられた題名でもあった。

 少しの間を置いてから、トウカイテイオーが『巌窟王』を本棚の空いたスペースへ戻す。それから、両手で『三銃士』のページを捲っていった。しばらく聞こえた紙を擦る音は、やがてふいに止まる。そうして伸ばされた指先には、一節の誓いの言葉が綴られていて。

 

「一人は皆のために、皆は一人のために……」

 

 ぽつりと呟いたトウカイテイオーが、ぱたりと本を閉じる。

 それからレジを見つけると、迷いのない足取りで向かい始めた。

 

 

 電話がかかってきたのは、書店を出てからすぐのことだった。

 スピーカーから流れる着信音に煩わしさを感じながら、トウカイテイオーがポケットへ手を入れる。そうして、取り出した携帯の液晶に映る、トレーナーという文字に、思わず小さな声を漏らした。

 

「え」

 

 紙袋を今一度、ぎゅっと握り直してから、トウカイテイオーが電柱に背中を預ける。

 怯えているわけではなかった。ただ、驚きはしていた。自分から行かなければ、彼は連絡してこないだろうな、と思ったから。それは自分が負い目を感じているのもそうだし、彼の性格からしても考えられることだった。

 などと思考を巡らせている間にも、イヤホンから無機質な電子音は流れ続ける。

 差し迫るようなその感覚に、目蓋を強く閉じてから、

 

「トレーナー?」

 

 鳴り止んだ着信音の向こうから聞こえるノイズへと、トウカイテイオーが耳を澄ませる。

 やがて聞こえてきたのは、深く息を吐く音だった。

 

『テイオー?』

「うん、ボクだけど……どうしたの?」

 

 意外にも声色は普段通りのそれだった。きっといつもみたく、煙草をふかしているのだろう。微かに聞こえるちりちりという火が燃え進む音に、トウカイテイオーはそんな想像を走らせた。

 そうしてまた、息を吐く音があってから、彼の言葉が続く。

 

『お前、今どこにいる?』

「どこって……外、だけど」

『……ってことは手紙、読んでないのか』

「手紙?」

 

 首を傾げると、すぐに返事が返ってきた。

 

『お前に宛てたんだ。その……言葉じゃ、上手く伝わらないと思って。トレーニングが終わったマヤノトップガンに、渡すように頼んだんだ。渡したら何かメッセージとか、折り返してくれってことも。でも、いくら待っても来なかったから……ああ、ダメだな。こういう時、普通は電話するもんじゃないのに』

「……もしかして、寂しかった?」

『かもな。お前がいないと、どうも普段通りにいかない』

 

 弱々しいその声に、トウカイテイオーが思わずくすりと笑う。

 そして息を整えると、はっきりとその言葉を口にした。

 

「ごめんね、トレーナー。勝手なことしたりして……それに、ひどいことも言っちゃった」

『別にいいんだ。俺も、言葉が足りなかった。反省してる』

 

 言葉を交わしてからしばらく、何とも言えない沈黙があって。

 先に切り出したのは、抜けるように息を吐いたトウカイテイオーだった。

 

「……こんなに、簡単だったんだ」

『ああ。俺も驚いてる。……手紙なんて書かなくてもよかったな』

「かもね。マヤノ、もしかしたら怒るかも」

『その時は一緒に説明してくれよ』 

「えー」

 

 呆れたような声を上げながら、トウカイテイオーが歩き出す。

 太陽はとっくの昔に沈んでいて、色とりどりに輝く看板が視界で瞬いていた。

 

「けど、それも言うならボクだって悩み損だよ。どうやってトレーナーに謝ろうか、すっごく考えたんだから。この一週間、それで潰しちゃったんだし。あーあ、こんなに簡単に済むなら早く謝っちゃえばよかった」

『それは、まあ……ご苦労』

「ご苦労って! あのね、ほんとに迷ったんだよ? もしかしたらボク、このままトレセン学園を退学になって、普通の高校生になっちゃうのかな、とか考えたんだし。……割と、本気で」

『……すまなかった』

「いいよ」

 

 横断歩道を渡りながら、彼の言葉に短く返す。

 口元には自然と笑みが零れていた。

 

『でも、外にいるってことは、今日は悩まなかったんだな?』

「気分転換。適当にぶらついて、買い物してきただけ」

『何買ったんだ?』

「小説。一冊だけだけど」

『………………え、お前が?』

 

 明らかに驚いたその声に、トウカイテイオーがむ、と頬を膨らませた。

 

「何さ」

『いいや? ただ少し、意外だなと思って』

「……やっぱり変、かな?」

『そんなことはない』

 

 すぐに帰ってきた答えに、顰めていた眉を戻す。

 

『それで、タイトルは?』

「『三銃士』」

『……何だ、最近のお前らの流行りは海外小説なのか?』

「カフェセンパイは知らないけど……ほら、トレーナー言ってたじゃん。チームの名前決めた時にさ」

『ああ、そんなこともあったな』

「それでね、ボクも考えたんだ。一人は皆のために、皆は一人のために、って」

 

 もしかするとそれは、彼が適当に思いついただけの、収まりのいい言葉なのかもしれない。

 それでも、今のテイオーにとっては、それで十分だった。

 

「ボク、皆のために走るよ」

『皆っていうと……カフェと、ゴルシか?』

「それよりも、沢山の人。応援してくれる人や、一緒のレースで走ってくれる人……ボクの走りに関わってる全ての人のために、走ろうって思ったんだ。もちろん、そこにはトレーナーもいるよ? ……言ってること、変わんないかもしれないけどさ。そのためならボク、走れるかもって思ったんだ」

『それは……』

「あとね、この一週間でボク、分かったんだ」

『……何だ?』

「やっぱりボク、走るのが好きだよ」

 

 返ってきたのは、どこか安心したような息遣いで。

 

『手紙は、いらなかったかもな』

「……どういうこと?」

『こっちの話だ』

 

 煙草の火を消す音が聞こえてきたのは、そうやって彼が返した後だった。

 

『テイオー、今どこだ?』

「えーっと……学園の最寄りから二駅の繁華街」

『他に用事はもうないか?』

「うん。ぶらついてるだけだし」

『だったら迎えにいってやる。丁度、今日はトレーニングはあいつらに任せて、早く上がることにしたんだ』

「……いいの?」

『今日は特に冷えるしな。……ま、それくらいはさせてくれ』

 

 正直なところ、あまり寒くはなかった。

 それに仮に寒くても、移動の大半は地下鉄なのだ。歩き疲れることもないだろうし、金額的な心配もない。

 だから、歩いて帰れるから大丈夫――という言葉を、トウカイテイオーは飲み込んだ。

 今日はそれくらい、許されてもいいような、そんな気がした。

 

「……どこで待ってればいい?」

『この前に行ったファミレス、近くにあるだろ』

「え? あー……確かに。今、ちょうど見えてる」

『ついでに奢ってやる。中で待ってろ』

「やった」

 

 小さな喜びの声を上げたトウカイテイオーが、ふと足を止める。

 

「……トレーナー」

『どうした? まだ用事、あったか?』

「ううん、そうじゃなくて。……その、ありがとね」

『……ああ』

 

 返事を確かに耳にしたトウカイテイオーが、通話を切る。

 そして、見覚えのある看板の立つファミリーレストランへと足を踏み入れた。

 扉を開いて指を一つ立てると、店員がすぐに席へと通してくれる。少し硬く感じるソファーへと腰を下ろすと、トウカイテイオーはすぐにメニューを開く。感じていた空腹感は、彼が奢ってくれると思うと、より強くなっていた。

 いつも友人たちと入るそれよりも、気持ち高めなメニューを眺めていると、店員が水を持ってくる。すぐにドリンクバーを頼むと、トウカイテイオーはメニューを元の位置へと戻して、席を離れた。

 そうしてジュースを注いで戻ったところで一度、両耳をイヤホンで塞いでから。

 ロックの音楽が流れ出すと同時に、紙袋の封を開けた。

 

「……聞いたことは、あるけどさ」

 

 表紙に記された『三銃士』という文字を眺めながら、トウカイテイオーが呟く。

 かくして、ページは捲られた。

 

 ――三銃士とは、正確には三人の銃士の物語ではなく、三人の銃士に憧れる少年の物語である。

 フランスの片田舎、ガスコーニュ出身の少年ダルタニアン。彼が銃士となることを夢にパリへと赴くところから、物語は始まる。そこで三銃士をはじめとする様々な人物との出会いや別れを繰り返し――やがて彼は、フランス国中に知れ渡るほどの名銃士として名を馳せることになる――の、だが。

 

 ダルタニアンが、三銃士であるアトス、ポルトス、アラミスとの決闘することになっても。

 その決闘が中断となり、三銃士と護衛士との闘いとなっても。

 三銃士の味方となったダルタニアンが認められ、その仲間となっても。

 

「遅いなあ、トレーナー」

 

 この前のことを考えれたら、そろそろ到着するはずなのに。

 そう思いながら栞を挟み、片耳のイヤホンを取ったところで、ふと。

 

「……あれ?」

 

 通りの方が何やら、騒がしくなっていることに気が付いた。

 

「一体、何が――」

 

 口にしようとしたその言葉は、通り過ぎる救急車のサイレンの音によってかき消されてしまう。

 ………………。

 ……ああ、そうか。ずっと向こうの通りで何か、事故でも起きたのか。

 ならば、早く彼にそのことを伝えなければ。渋滞で困っているかもしれない。

 ありがとう、って褒めてもらうんだ。助かった、って頭でも撫でてくれたら嬉しいと思う。

 そうやってちょっと高いハンバーグとか、ステーキでも奢ってもらって。

 あの日の夜みたいに、プリンとアイスケーキを一緒に食べたりして。

 煙草がちょっと香る車の中で、聴いてるロックの話でもして。

 また、明日から彼とやり直すんだ。

 ――だから、そのために早く、彼へ連絡をしないといけないはずなのに。

 

「…………あ、れ?」

 

 伸ばした手は、いつまで経っても携帯に届かなくて。

 指先がどうしてか、がくがくと震え始めていることに、気が付いた。

 ……何を変なことを考えてるんだろう? そんな不幸が起こるはずないのに。

 ましてや、仲直りができた今日この日にそんなことが起こるなんて、あり得ない。

 だったらこの不安は、どうして――

 

『――眩暈持ちなんだ。少し、重めの』

 

 そんな、あの日の言葉が脳裏を過ぎった、その時。

 ロックが止まり、携帯の着信音がけたたましく鳴り響いた。

 

「……篠崎さん?」

『よかった、テイオーちゃん! 今、どこにいるの!?』

「えっと、今……トレーナーと待ち合わせして、て……ファミレスに、いるけど」

 

 息を荒らげて話す彼女に、トウカイテイオーが首を傾げる。

 心臓の鼓動が早くなって、言葉が途切れ途切れになっているのは、彼女に釣られているからだと思った。そう思い込まなければ、今すぐに自分の中の何かが崩れ落ちてしまいそうで。

 

『……いい? 大丈夫だから、落ち着いて聞いてね、テイオーちゃん』

 

 いや、だ。聞きたくない。

 お願いだから、それ以上先、は。

 

 

『今さっき、つっくんが事故に遭って、病院に搬送された、って……』

 

 ――かくして、ページは捲られる。

 

 

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