■
きっと、彼に恋をしていたんだと思う。
そう呼ぶにはあまりにも錆びついて、爛れていて、色褪せていたものだったけれど。
今になって初めて、トウカイテイオーはそのことに気が付いた。
「……遅すぎるよ」
口にした自らの呟きは、イヤホンから流れてくるロックにかき消される。そのスピーカーから、もう新しい曲が流れることはない。身を預けた喫煙所のベンチは、いつまでもトウカイテイオーだけが座っていた。
冷たい風が頬を撫でる。春は未だに遠く、縛られるような寒さが全身を伝う。午前五時、東の空が群青に染まりつつある。それを見上げたトウカイテイオーは白い息を吐くと、その荒れた唇をマフラーで隠した。
そうしてしばらくすると、プレイリストの行き止まりに達したロックが、ふつりと切れる。
くぐもった静寂から逃げ出すように、再生ボタンを押した。
「…………」
掻き鳴らされるギターのイントロと共に、ゆっくりと朝陽が昇る。
また、彼のいない
■
「手は尽くした、って」
病院に辿り着いたトウカイテイオーに伝えられたのは、そんな篠崎の言葉だった。
「……ウソ」
「嘘じゃないよ。そう信じたいのは分かるけど」
「だって……こんなの、おかしいよ」
そのまま隣に座るゴールドシップと、少し遠くに立つマンハッタンカフェへ交互に視線を向けるが、二人は顔を伏せたまま何も語らなかった。それがどうにもおかしく思えて、トウカイテイオーは張り付いたような笑みのままで、
「……あ、分かった。これ、何かのサプライズなんでしょ? ボクとトレーナーがケンカしてたから、仲直りさせようって……でも、大丈夫だよ。ちゃんと仲直りしたもん。だから早く、トレーナーに会わせて……」
「テイオー」
ゴールドシップの言葉に、トウカイテイオーがびくりと背中を震わせる。
「もう、やめとけ」
普段の彼女からは考えられないほどに低く、そして重たい声だった。向けられる視線には、憐憫と少しの恨みが混じり合っている気がして、トウカイテイオーはそれ以上口を開くことができなかった。
糸の切れた人形のように、ぽすん、と彼女の隣へ腰を下ろす。
震える肩へ、彼女の手が優しく添えられる。
それでも、涙は出ないのはどうしてだろう?
「……葬儀は、どこで?」
「まだ分からない。けど……きっと、地元で」
「地元、というと……」
「北海道?」
向けられる三人の視線に、トウカイテイオーが言い淀む。
「あ、いや……この前、トレーナーと出かけた時に、聞いて」
「……なるほど。にしても、遠いな」
「最悪、交通費は何とかなるにしても……レースのことを考えると、難しいかもしれませんね」
マンハッタンカフェの言葉に、トウカイテイオーも肯定せざるを得なかった。
トレーニングに顔を出さないトウカイテイオーにほとんど自覚はなかったが、三人とも今年からクラシック級なのだ。競技者人生の中で一年しかないこの時期、一つ一つのレースがこれ以上ないほどに大事なことは、三人とも理解していた。そして何よりも、自分の葬儀よりレースを優先しろ、と彼なら言いそうだった。
「……そもそも、チームの運営はどうなるんですか?」
問いかけたのはまた、マンハッタンカフェだった。
「今月までは継続する形になると思うけど……それ以降になると」
「代役を見つけるというのは? 名義上でも構いません。維持さえ、できれば」
「応じてくれる人がいれば、あるいは」
「……アナタがそのまま、このチームのトレーナーになるというのは?」
「それは……できたら、いいけど。でも、まだ私じゃ経験が足りなくて……」
「おい」
話を断ち切るように、ゴールドシップが声をかける。
そのまま立ち上がった彼女は、すたすたとマンハッタンカフェの方へ歩いて行って、
「頼むから、そういう話は他所でやれよ。……テイオーの前ですんな」
「……これからの私たちに関わる、大事な話だと思いますが」
「だからって、アイツが死んだからすぐに代役探しか?」
「では、あの人が残したものを、このまま手放すつもりですか?」
「そうじゃねえ。けど……もう少し時間があっても、いいだろ」
「……そうやってまた、手遅れにさせるつもりですか?」
「お前……!」
絞り出すような声を上げながら、ゴールドシップがマンハッタンカフェに掴みかかった。
「……前々から、お前のスカした態度だけは好きになれなかったんだよ」
「私も、アナタのその乱暴さにはうんざりしていましたよ」
睨み合う二人の間に流れる沈黙は、しかしゴールドシップの苦笑によって破られる。
「……ああ、そうだった。そもそもお前にキレても意味なんてないのか」
「何、を……」
「だってお前、
「ッ……それは!」
声を荒らげるマンハッタンカフェを強引に突き飛ばした彼女は、トウカイテイオーの方へと振り返って、
「なあ、テイオー。お前はどうする?」
「どうする、って……」
「んなもん決まってるだろ。ここに残るか、他のチームを探すか」
「……ゴルシは、残らないの?」
「少なくとも、しばらく顔は出さねえ。……頭、冷やして考えてくるわ」
それだけ残して、ゴールドシップがトウカイテイオーの隣を通り過ぎていく。
「じゃあな」
その後を追うのが正しいことなのか、今のトウカイテイオーには分からなかった。けれど少なくとも、今この状況が、後戻りのできない間違った道を進んだ結果だということだけは、理解できた。彼がいなくなってしまった時点で、そう理解せざるを得なかった。
やがて、ゴールドシップの背中が見えなくなる。
「……テイオーさん」
かけられたマンハッタンカフェの言葉に、トウカイテイオーはゆっくりと振り返った。
「カフェセンパイは、どうするの?」
「チームの存続のため、できることを。篠崎さんも、協力してくれますよね?」
「うん。私も私になりに頑張ってみるよ」
「……そっか」
曖昧な返事をする彼女の肩へ、マンハッタンカフェが優しく手を添える。
「その……寒いから、さ。二人とも一度、学園まで戻ろうよ」
「……うん」
「久しぶりに、珈琲も淹れてあげますね」
無理やりに作った彼女の力ない笑みに、トウカイテイオーは小さく頷くことしかできなかった。
■
「私とあの人が出会ったのは、一昨年の春でした」
チームルームに戻った後、珈琲を注ぎながらのマンハッタンカフェの言葉だった。
「隠れ蓑、と最初に言ったことを覚えていますか?」
「……うん」
「あれはタキオンさんから逃げるための理由でした。チームに所属したから、という理由があれば、さすがにあの人も引き下がると思って。……まあ、実際はそんなことありませんでしたが」
首を振る彼女へ、トウカイテイオーの対面に座る篠崎が問いかける。
「ということは、つっくんに声をかけたのはカフェちゃんの方から?」
「そうなりますね。元より、私の淹れる珈琲をいつも飲んでくださって……毎日、顔を合わせていました。そこでチームを設立したけど、勧誘するウマ娘に迷っているという話をある日、聞いて。それなら、と」
「……てっきり、トレーナーからだと思ってた」
「もしかしたら向こうも、最初からその気で私にそんな話を持ち掛けたのかもしれませんね。そして私はまんまとその気にさせられた、と。姑息な手だとは思います。まあ、後悔はしていませんから、構いませんが」
小さく息を吐いてから、マンハッタンカフェが続けた。
「とにかく、最初はそんな小さな理由からでした。ゴルシさんが合流したのは、その年の秋です。騒がしくはなりましたが……邪魔だとは思いませんでした。むしろ、これくらいがいいのかもしれない、とも」
「ゴルシちゃんはどうしてこのチームに?」
「あの人のカナリアとして。……結局、それでも彼は去ってしまいましたけど」
短い沈黙が流れる。新しいカップへ珈琲を注いでから、再び彼女が語り始めた。
「そして去年、あなたたち二人がやってきた。はじめ、不安はありましたが……しばらくすれば、それも消えました。同時に私は、ここで走りたいと思うようになりました。あの人と始めたここで、あなたたちと一緒に駆け抜けていきたいと。いつしか……ここは、私にとって唯一の、かけがえのない場所になっていました」
カップの鳴る音が聞こえる。温かな水音が、部屋に響き渡った。
「執着、と言えばそうなのかもしれません。ですが……このまま、この居場所を失ってしまうのは、あまりにも。ですから、私はできることをします。それが無為なことだとしても、何もしない理由には、ならない」
「……カフェセンパイ」
「無理強いはしません。時間も必要でしょう。ここに戻って来なくても、構いません。けれど、私はいつまでも待っています。私と、テイオーさんと、ゴルシさんの三人で……チーム『モナークス』として、また走れるようになる日が来ることを」
そうして、カップを乗せたトレイを机に運ぼうとしたところで、ふとマンハッタンカフェが足を止める。
「ぁ……」
視線を落とした先には、白い湯気を立てる珈琲が五つ、あった。
「カフェちゃん……」
「……ごめんなさい。そんなつもりは、なかったんですが」
トレイを机の上に乗せたマンハッタンカフェが、慌てるようにカップを二人の前に配る。そうして残された三つのカップをぼうっと眺めていると、彼女は唇をぎゅっと締めてから、
「少し、一人になってきます」
「カフェセンパイ、大丈夫だから」
「いえ……やっぱり、私にも少し、時間が……必要、でした……」
途切れ途切れの震えた声を残して、マンハッタンカフェは部屋を立ち去った。遠のいていく足音はバラバラに乱れていた。そして少しだけ隙間の空いた扉を、トウカイテイオーはただ見つめることしかできなかった。
茫然とする彼女の肩に、篠崎の手が置かれる。そうして隣に腰を下ろした彼女が、カップを一度傾けた。
「……今は、一人にさせてあげよう?」
「うん」
頷いたトウカイテイオーが、カップを傾ける。
久しぶりに口にした彼女の珈琲は、いつもよりひどく苦い気がした。
■
がんがんと響く鈍い頭の痛みに、トウカイテイオーが目蓋を開く。
「ん……」
視線だけを動かして確認した時計の針は、午前の十時半を示していた。普段ならば教室で授業を受けている時間のはずだが、トウカイテイオーは制服に袖すら通していなかった。ぼさぼさになった髪をかき上げると、手の先だけで携帯を探す。こつん、と指先に当たったそれをつかみ取ると、トウカイテイオーはイヤホンで耳を塞いだ。
再生ボタンを押すと、何度も繰り返し聴いたロックが流れ始める。
流れてくるボーカルに耳を傾けながら、トウカイテイオーはくたびれた布団を頭から被った。
「…………」
あれから、どれだけの時間が経っただろう。少なくとも、十日を越えていることは覚えている。
結局、葬儀には参列しなかった。というのもマンハッタンカフェとゴールドシップの二人が未だに袂を分かったままで、日程の相談ができなかったし、そもそもトウカイテイオー自身に遠征する体力があるかどうか分からなかった。それで体調を崩して、クラシック級に万全の状態で参戦できないのは、それこそ彼の望まないことだろう。
視界が霞む。乾ききった喉から、濁った咳がいくつか漏れる。
そこで初めて、トウカイテイオーは昨日から何も口にしていないことに気が付いた。
「……まあ、いいや」
掠れた声でそう呟きながら、トウカイテイオーが携帯を操作する。
アルバムが切り替わり、イヤホンからはまた別のロックが流れ始めた。
自棄になっていることは、分かり切っていた。このまでは破滅するのだろうな、ということも何となく理解していた。けれど、不思議と恐怖や焦燥は感じなかった。むしろ、このまま布団の中に閉じこもって、ロックを聴き続けていることが、いちばん楽だとさえ思えた。
それが間違っていることは分かっている。けれど、それ以外にどうすることもできなかった。
「どうすれば、いいのさ」
向き合うべき現実から逃げている。受け入れることを拒んでいる。
そんな自分の情けなさには、もう飽きすら覚えていた。
それでもここまで走って来れたのは、こんな自分の背中を押してくれる、唯一の人が傍にいてくれたからで。
「……トレーナー」
手を伸ばした初めての人は、もう手の届かないところへ行ってしまった。
ならばいっそ、このまま共に朽ちて、彼と同じようになってしまった方が――
「テイオー」
控えめなノックと共に声がかけられたのは、丁度トラックが切り替わった瞬間だった。
聞き覚えのあるその声に、トウカイテイオーはイヤホンを外してから、
「……カイチョー?」
「突然すまない。……話が出来れば、と思って」
「いい、けど」
布団を剥がして、トウカイテイオーが体を起こす。
少しの間を置いて、開かれた扉からシンボリルドルフが顔を覗かせた。すると彼女は、何か伝えようとしていた口を一度閉じてから、少しばつの悪そうに眼を逸らし、再びゆっくりと口を開いた。
「……最近、ちゃんと眠れてるのか?」
「え?」
「その、目の下が酷いことになっているから……いや、すまない。余計な気遣いだった」
静かに首を振ったシンボリルドルフが、隣へと腰を下ろす。
そうしてまたしばらくの間を置いて、彼女は語り始めた。
「彼のことは残念だった。テイオーにとっては、こんな言葉で済ませていいことではないと思うが……」
「ううん。いいよ、別に」
「すまない」
短い返答のあとに、また沈黙が訪れる。
思えば、こんなに言葉を詰まらせる彼女を見るのは初めてだった。だからこそトウカイテイオーは自ら言葉をかけることができずに、シンボリルドルフが再び話を始めるのを待つことしかできなかった。
やがて小さく息を吐いた彼女が、静かにトウカイテイオーへと問いかける。
「……テイオーは、これからどうするつもりなんだ?」
渡されたその言葉に、トウカイテイオーは答えることができなかった。
あるいは、答えることを拒んでいた。
「まだ、分からない……いや、決めたくないのか?」
「……うん」
「そうか……」
するとシンボリルドルフは、トウカイテイオーの頭へぽん、と手を置いて、
「もし、他のチームを探すことにしたなら、私のできる限りで手伝おう」
「……え?」
「半ば強引なやり方になったとしても、テイオーが選んだチームに入れるよう、努力してみる。少々、贔屓になるかもしれないが……そこは私が何とかする。……あくまで、そうしたいなら、という話になるが」
まさか、彼女の口からそんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。そして同時に、自分がそんな言葉をかけられるほどに情けなく、小さく見えるようになってしまったことを、トウカイテイオーは自覚した。
そうやって自己嫌悪に陥る彼女へ、またシンボリルドルフが口を開く。
「あるいは、学園を辞めたくなったら……いつでも、相談に乗ろう」
「そんな、こと……」
「もちろん私もしないと思っているし、できればしてほしくはないさ。ただ……これ以上、テイオーが傷つくことになるなら、それも一つの選択肢だと私は思う。無粋な話にはなるし、私に憤る気持ちも分かる。それでも、今のテイオーを見ていると……その可能性を否定できなくてな」
言い切ったところで、シンボリルドルフがトウカイテイオーの頬を撫でた。柔らかな温かさが、その手のひらから伝わってくる。けれど、その温もりに身を委ねることはできなかった。そうしてしまうと本当に、自分はこのまま何も変わることができず、朽ちてしまうと思ったから。
「ボクは……」
頬に宛てられたシンボリルドルフの手へと、トウカイテイオーが自らの手を重ねる。
そしてゆっくりと、その手を払いのけた。
「……まだ、そうしたくはないんだな?」
「うん」
確かな頷きに、彼女は安心したような笑みを零した。
「なら、この話も無駄にならなかった」
「……話、って?」
「つい先ほど、チーム『モナークス』の継続に関する申請が届いた」
伝えられた言葉に初めて、トウカイテイオーが顔を上げる。
「内容通りに話が進めば、篠崎サブトレーナーがそのまま彼の後を継ぐことになる。もちろん、彼女の経歴や状況を考慮する必要はあるが、そこはおそらく問題ないだろう。彼がきちんと指導をしてくれていたから」
「……あと、必要なのは?」
「チームメンバー全員の同意。カフェ君のものは、既に受理してある」
「じゃあ、残りはゴルシとボク?」
「そうなるな」
頷いて答えたシンボリルドルフに、ふとトウカイテイオーが首を傾げた。
「ゴルシはもう、このこと知ってるの?」
「ああ。だが、すぐに答えは帰って来なかった。もうしばらく、時間がほしいと」
「……そう」
思えば、彼女と言葉を交わしたのは、あの夜が最後だった。それからいくらかの時間が経ったが、彼女のまだ心の内を決めかねているのに、トウカイテイオーは少しだけ驚いた。聞こえが少し悪くなるかもしれないが、彼女の性格と、あの言い争いもあって、そういう切り替えは早い方だと思っていたから。
「それと、カフェ君がもしテイオーに会うことがあるなら、と言葉を残していた」
「センパイが?」
「ああ。『あの人が残してくれたものは、私たちにしか守れない』と」
あるいはそれを、呪いと呼ぶのかもしれない。それでも、今のトウカイテイオーにとっては価値のあるもののように思えた。その果てに破滅が待っていようとも、足を踏み出せるくらいには。
そうやって考え込むトウカイテイオーを一瞥してから、シンボリルドルフが立ち上がる。
「私はもう行くよ。突然、悪かった」
「うん。ありがとね」
笑顔で返した言葉に、シンボリルドルフは少しだけ考えるような素振りを見せてから、
「本当は……この話がなくても顔を会わせたかったんだ。だが、今の私にはテイオーにかけるべき正しい言葉を、どうしても見つけることができなかった。……こんなにも、自分の無力さを呪ったのは初めてだった」
「大丈夫。カイチョーがそうやって、ボクのことを気にかけてくれただけで、嬉しいよ」
「……すまない」
短く呟いた彼女は、口元にかすかな笑みを浮かべて、
「あるいは、手紙でも綴ればよかったのかもしれないな」
「そんな、いいよ。今時手紙なんて――」
……あ。
「テイオー?」
「……ううん。なんでもない」
「そうか……じゃあ、また」
不思議そうな表情を浮かべながら、シンボリルドルフが扉を閉じる。そして足音が完全に去ったのを確認してから、トウカイテイオーはベッドに置かれた携帯を手に取った。再生され続けていたロックをいったん止めると、イヤホンを抜いてから通話アプリを起動させる。そのまま流れるように、通話ボタンへと指を伸ばした。
しばらくなり続けていたコール音が途切れた瞬間、トウカイテイオーがすぐに口を開いて、
「もしもし? いきなりごめん、マヤノ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
■
『テイオーちゃんが帰ってきたらね、真っ先に渡そうと思ってたの』
喫煙所のベンチに腰を下ろして、マヤノトップガンからの言葉を思い出す。
『でも、まさかあんなことが起こるなんて、思ってもなくて……すぐに、テイオーちゃんに渡せなかったの。きっと、今はその時じゃない、って思ったから。それに、あの時のテイオーちゃんに渡したら……変な話だけど、テイオーちゃんがどこか遠くに行っちゃいそうだった。それが、怖くて』
手に持っていたのは、一枚の手紙だった。無地の白い封筒に、透明なシールで閉じられた、味気のないもの。でも、それが逆に彼らしいな、とふと思って、トウカイテイオーは口元に笑みを浮かべた。
『その後もね、何度も渡そうと思ったんだよ? でも……テイオーちゃん、部屋にいることが少なくなったでしょ? それにマヤの話もまともに聞いてくれなくて……ううん、それだけの余裕がなかった、ってことは分かってる。責めてるんじゃないよ。ただ……今のテイオーちゃんが受け入れられる気が、しなくて』
シールを静かに剥がして、封を開ける。やはり、中には味気のない便箋が折り畳まれていた。
『だからね、こうやってテイオーちゃんが言ってくれるの、ずっと待ってたよ。無理やり押し付けるよりは、テイオーちゃんが何かしたい、って決めた時に見た方が絶対にいいもん。それに……』
三つに堅く折られた便箋を指先で開き、そして。
『きっとその手紙は、今のテイオーちゃんの背中を押してくれるはずだから』
それから、しばらくの時間が流れた。
震える指先は、寒さのせいではなかった。胸の奥から、何かが込み上げてくるのを感じる。それの正しい名前をトウカイテイオーは知らないけど、悪いものではない、ということだけは理解できた。頬を伝う一粒の涙はきっと、あの雨の日に流したものとは違うものだった。
綴られたその文字を、何度も瞳で反芻する。彼の声が、頭のどこかで響いた。
「トレーナー……」
言葉と共にこぼした雫が、記された彼の名前に重なる。
滲む視界は何度腕で目を擦っても、晴れてくれなかった。嗚咽を上げる喉を、抑えることができなかった。掠れた声で泣くことを、止められなかった。込み上げてくるこの感情を、ただただ吐き出すことしかできなかった。
ただ、それでも構わないと、今のトウカイテイオーは思えた。
ようやく、こうして彼のために涙を流すことができたから。
「トレーナーぁ」
ぽろぽろとこぼれ落ちていく雫が、ベンチを濡らす。声が帰って来なくても構わない。ただ、この寂しさと虚しさ、そして少しの温かさがぐちゃぐちゃにかき混ざった感情と向き合うには、そうやって名前を呟くしかなかった。
とめどなく溢れる涙は、やがて止まる。けれど、感情までが失われるわけでは、決してなかった。
折りたたんだ便箋を封筒に戻し、トウカイテイオーが手紙をポケットへ入れる。
そうして携帯で時間を確認すると、今一度、乱れていた呼吸を整えて、
「……ここから、なんだ」
その一歩を、踏み出した。
■
テイオーへ。
こんな形での言葉になってしまったことを、まず謝ろうと思う。
本当ならきちんと顔を会わせて、俺の口から伝えなければいけないのだろうけど、どうにも俺はそうすると上手くいかないらしい。だから、こうやってでしか向き合うことのできない俺を、どうか許してほしい。不甲斐ない、不器用な担当で悪い。今後、治すように心がける。
先日は、本当にすまなかった。心にもない、酷い言葉をかけてしまった。俺のために走ってくれたのに、その優しさを無下にしたような真似をしてしまって、とても後悔している。それに、テイオーの走る理由を奪ってしまったことも、申し訳ないと思っている。酷いことをした。償いになるなら、トレーナーを辞めたって構わない。
悪いのは、俺だ。カフェやゴルシが何か声をかけたかもしれないが、俺が全て悪いんだ。眩暈のことをきちんと伝えなかったことも、あんな言葉を口走ってしまったことも。全て、俺の覚悟が足りていなかったんだ。これからチームを背負う者としてもそうだし、テイオーたちときちんと向き合うためのものも、何も足りていなかった。
俺のために走るのはやめてくれ、と言った。
こうして改めて見てみると、ひどく傲慢で独りよがりな言葉を口走ってしまったと後悔している。いくら気分が動転していたとはいえ、こんなことを言ってしまってすまなかった。言葉が、足りなかった。悪い癖だという自覚はある。だから、その足りなかった言葉を、書いて行こうと思う。
今のお前には、応援してくれる人が多くいる。
俺は、そうやって応援してくれる人がいるのなら、それに応えるべきだと思う。
例えば、カフェやゴルシだ。あの二人は、いつでもトレーニングに付き合ってくれていた。それに、篠崎も。経験はまだ浅いが、テイオーのためにできることをやっていた。ナイスネイチャやメジロマックイーンも同じだ。同じレース人生を走るウマ娘としてもそうだし、友人としての恩だったりも、きっとあるだろう。
当然、そこには俺もいる。むしろ、誰よりもお前のことを応援していると胸を張って言える。
そうした皆の応援を、俺だけに返してほしくなかったというのが、俺の本心だ。
皆から応援してくれたのなら、皆に返すべきだと俺は思っている。気分が悪くなるかもしれないが、そこだけは譲れない。俺は、そうやってトレーナーという職に就いた。そこだけは何を言われても変えるつもりはない。
だからどうか、俺だけのために走ることは、やめてほしい。
俺だけじゃなく、応援してくれる皆に答えるために走ってくれ。
そこにはちゃんと、俺もいるから。
最後になったが、こんな情けないトレーナーですまない。
もしかすると、このチームを辞めようと考えているのかもしれない。ただ、それでもいい。引き留める資格は、俺にはない。願わくば、俺よりも遥かにマシな奴のチームに入ってくれたらいい。そこで走るための理由を見つけられたら、と思っている。お前が走る理由を見つけられたら、嬉しく思う。
ただ、傲慢かもしれないが、俺はテイオーが戻ってきてくれることを望んでいる。
その時は、改めてきちんと話をしたい。今までのことも、これからのことも。
また、一緒に始めよう。
■
チームルームの扉のカギは、既に開かれていた。
「……テイオーさん」
振り返り、部屋の中で一人、彼女の姿を認めたマンハッタンカフェは、しかし驚いてはいなかった。そのまま手にしていた白いカップを受け皿へ置くと、いつも彼が使っていたデスクへと近づいていく。そうして、その引き出しから二枚の書類を取り出すと、それをテイオーの方へと差し出した。
「こちらへ、記入を」
「……わかったよ」
日の当たるデスクへと書類を敷いて、そこへペンを走らせる。
「……何も聞かないの?」
「あなたがここに来たというだけで、十分ですよ」
戻って、珈琲を小さく煽りながらマンハッタンカフェが答える。
「もしかして、ずっとボクのこと待ってたの?」
「そう、伝えたはずですが」
「ボクが来なかったら? 他のチームへ行ったり、もう学園も辞めちゃう、って考えてたら?」
「だとしても、いつかテイオーさんが戻ってくることを信じてたんでしょうね」
「……カフェセンパイってさ、たまにすごく頑固になるよね」
「いけませんか?」
「ううん。カフェセンパイの頼れるところだと思ってる」
カップを傾けるその背中は、それ以上何も語らなかった。
やがてトウカイテイオーが記入を終わったのを見計らったマンハッタンカフェが、彼女の隣で書類へ目を走らせる。そうして小さく頷くと、彼女はトウカイテイオーの名前が記されたそれを、デスクの引き出しへと入れた。
そして最後に残ったのは、何も書かれていない真っ白な資料だけで。
「……ちなみにですが、ゴルシさんの居場所は分かりますか?」
「実はそれ、カフェセンパイに聞こうと思ってたんだけど」
「私も、テイオーさんをアテにしていたんですが」
呟きながら首を傾げる彼女に釣られるように、トウカイテイオーも眉を顰めた。
「ボクがいない間、ゴルシから連絡はなかったの?」
「何の音沙汰もありませんでした。もとより、連絡を寄越すような人ではありませんでしたが」
「そうだ、マックイーンは? もしかしたら何か、知ってるかもしれないけど」
「タキオンさんを介して連絡しましたが、これといった返答は帰ってきませんでした」
「そんな……」
思わずそんな呟きを漏らしながら、トウカイテイオーは耳を下げて項垂れた。
確かに、ゴールドシップが同意するかなんて今の彼女には分からないし、例え同意しなかったとしても、それを責めるつもりはない。ただ、このまま彼女が見つからないから何もしない、というのは違う気がした。
そうしてしばらくの沈黙が流れたところでふと、マンハッタンカフェが口を開いて。
「ハンス・クリスチャン・アンデルセンによると、人魚姫は泡となって消えたそうです」
唐突なその呟きに、トウカイテイオーが顔を上げる。
「であればウマ娘は、土煙に。そして、人は灰になって消えるのでしょう」
不安げな視線に、マンハッタンカフェはただじっと、彼女の瞳を見つめてから、
「ならば、
■
錆びついたドアの先には、青空が広がっていた。
「……よう」
トレセン学園の屋上、手すりに体を預けていたゴールドシップがゆっくりと振り返る。細めた視線の先には、書類を手にするマンハッタンカフェと、少し不安そうな表情を浮かべるトウカイテイオーの姿があった。
深く息を吐いてから、ゴールドシップは再び手元のルービックキューブを回し始める。
「よく分かったな」
「私も、まさかとは思いましたが」
呆れたように呟いて、マンハッタンカフェは彼女の隣で手すりへ背中を預けた。
「ルドルフさんから、話は聞いたと思います」
「……ああ」
「では、これからどうされるんですか?」
返ってくるのは、ルービックキューブが回る乾いた音だけだった。
「まだ、決めかねていると?」
「そうだな」
「アナタらしくないですね」
かちり、と小さな音を立てて、ルービックキューブが止まる。
「アタシが最後だったんだよ」
「……最後、って?」
「死ぬ直前のアイツを見たのが」
吹き抜ける風が、彼女の銀の髪を揺らしていった。
「思えば、あそこで何かアタシが言ってやれば、変わったかもしれない。いや、変わったはずなんだ。声でも、かけりゃよかった。なのに、アタシは何もしなかった。してやれなかった。……アイツが死んだのは、アタシのせいだ」
「だとしても、誰もアナタを責めませんよ」
「アタシ以外はな」
こちらを睨みつけるゴールドシップに、けれどマンハッタンカフェは動じなかった。相変わらず、こういうところは誰よりも頑固だった。そのことに溜息を吐いてから、ゴールドシップが再び語りだす。
「もう、アタシにあのチームで走る資格なんかねえよ」
「……だからといって、チームが解散することになってもいいと?」
「好きなだけ恨んでくれりゃいいさ。その方が、アタシも楽だ」
「止まり木は、まだ朽ちていませんよ」
「枯らしたのはアタシなんだ」
そしてまた、彼女の手の内でルービックキューブが回り始める。
流れる沈黙の中で、プラスチックが噛み合う乾いた音だけが、何度も鳴り響いて。
「……恨みたくないよ、ボクは」
震えるその呟きに、ゴールドシップが振り返った。
「テイオー?」
「ゴルシのことを死ぬほど恨んでも、何も変わらない。チームが続けられるわけでもないし、トレーナーが帰ってくるわけでもない。何よりも、ゴルシを恨むなんてボクにはできないよ。だって、同じチームメンバーなんだから」
「……お前」
「ゴルシはさ、このまま足踏みを続けるだけでもいいの?」
その言葉にゴールドシップは一瞬だけ目を見開いてからすぐ、口元に苦笑を浮かべて、
「まさか、お前に言われるなんてな」
「それだけ、今のアナタが幼稚な駄々をこねているということですよ」
小さく息を吐くと、マンハッタンカフェは彼女の手から、ルービックキューブを奪い取った。
「お前、何して……」
「まだ考えが纏まっていないようなので、この際はっきりと言っておきますが」
驚いたゴールドシップが何かを言う前に、未だに色が揃っていないそれを、マンハッタンカフェが手の内で回し始める。連続して鳴る乾いた音に、二人は思わず呆けたように口を開けていた。
視線を手元に向けたままで、マンハッタンカフェが続ける。
「私だって、あの人に何かできることがあったはずです。今でも、それを考えるとひどく憂鬱になります。何もできず、ただ傍観していた過去の自分を張り倒したくなる……そう、思っていました。それはきっと、テイオーさんも同じでしょう。……私たちの気持ちは皆、同じなんですよ」
「カフェ……」
「ですが、そうやって悔いても何も変わらないんです。あの人がこの世を去り……あの人が残したこのチームまでも消えてしまう。私はもう、それをただ眺めているわけにはいかないんです。そして……それは、アナタたちも同じだと信じています。もしかしたら、私の我儘かもしれません。ですが、これだけは絶対に譲れない」
流れるように組み上げられるそれを見つめたまま、マンハッタンカフェが続けて、
「抜け駆けなんて絶対に許しません。この三人で走らなければ、意味がないんです」
その言葉と共に、完全に面が揃ったルービックキューブを、ゴールドシップへと投げ渡した。
「お前、いつの間にこんな……」
「あれだけ毎日、隣でうるさくされていれば、嫌でもできるようになりますよ」
「だからってアタシより揃えるの早いのはおかしくねえか?」
「……とにかく。考えは纏まりましたか?」
問いかけに、ゴールドシップは一度、ルービックキューブを宙へ投げてから、
「弔い、なのかもな」
回転して落ちてきたそれを、しっかりと受け止めた。
「アタシたちができることはもう、チーム『モナークス』として走り続けることだけ。なら……どこまでいけるか分かんねえし、そもそも結果を残せるかも分かんねえけどさ、それでも……やるしかねえんだ」
ゴールドシップの言葉に、マンハッタンカフェが笑いかける。
「……決まりですね」
「うん」
「ああ」
そして。
「一人は皆のために……皆は、ただ一人のために」
静かな呟きが、青空の下で響き渡った。
■