Absolute One   作:宇宮 祐樹

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15 Last time Wishes / 託されたメッセージ

 

 二月も中頃に入り、訪れる春の陽気にかすかな冬の残り香を感じるころ。

 

「奪ってきました」

 

 扉を開けるなり、マンハッタンカフェは手にした資料を乱暴に机の上へ投げ広げた。

 突然のことに顔を見合わせたゴールドシップとトウカイテイオーが、互いに顔を見合わせてから、もう一度マンハッタンカフェへと視線を向ける。すると彼女は、早くしろ、と言わんばかりに顎をくい、と動かして見せた。

 仕方なく、というよりは恐る恐る、といった様子で資料の一枚を手にしたトウカイテイオーが、問いかける。

 

「えーっと……誰から、何を?」

「タキオンさんから、ここ数年の皐月賞と日本ダービーの資料を」

 

 言われて、トウカイテイオーが資料に記されている文章へと目を通す。確かにそこには彼女の言う通り、皐月賞と日本ダービーに関連したデータに加え、アグネスタキオンが記入したらしき考察や推測などが載せられていた。

 そこまで資料を読み通したところでふと、トウカイテイオーが違和感に気づく。

 ゴールドシップが口を開いたのは、それとほとんど同時だった。

 

「これ、タキオンのデータじゃねーか?」

「ですから、そう言っています」

「あー……いや、違う。これ、タキオンが()()()()()()記録したデータだな?」

「え?」

 

 ゴールドシップの発言に、トウカイテイオーが思わず声を漏らす。

 というより、そもそも。

 

「タキオン先輩って、もうシニア級なの?」

「はい。今年度の天皇賞にも、出走するそうで」

「……前に話したとき、脚やったって言ってなかったか?」

「それはもう回復したみたいですよ。強がりかどうかまでは、分かりませんが」

 

 短く答えてから、改めてマンハッタンカフェがゴールドシップの問いかけに返す。

 

「ゴルシさんの言う通り、これはタキオンさんが皐月賞と日本ダービーを実際に走って作成した資料です。自身が出走した年度のデータの他にも、出走する際に向けて蒐集した、これまでの年度ごとのウマ娘の特徴やレースの展開傾向、その年ごとの気候によるバ場状態の変化から、天候によるレースの影響まで……おそらく、その二つのレースに関連したほぼ全てのデータがここに記載されています」

「……なるほどな。そういうことなら、ありがたく使わせてもらうぜ」

「けどさ、よくタキオン先輩がこんな資料を渡してくれたよね。いくらカフェセンパイと仲がいいとはいえ、チームで見れば敵同士なのに」

「ですから、奪ってきたと」

「………………」

 

 何食わぬ表情でコーヒーメーカーの操作を始めるマンハッタンカフェに、トウカイテイオーとゴールドシップが訝し気な視線を向ける。相変わらず、強情なところはとことん強情だった。

 

「とにかく、お二人は今日からその資料を基に皐月賞へ向けたトレーニングを」

「お前はどうすんだ?」

「これまで通り、青葉賞へ向けて色々と計画を練ることにします。出られるのなら弥生賞に出走するつもりでしたが……どうやら、ツインターボさんも出走するみたいですので、見送ろうかと」

「ビビってんのか?」

「今の私では勝てないのも事実でしょう」

 

 そんな言葉を交わす二人をよそに、トウカイテイオーがもう一度資料へと目を通す。

 見れば見るほど、よくできた資料だった。それこそ、彼女が今まで積み上げてきた研鑽が、そのまま表れているかのような内容である。変な話、これを渡されればどんなウマ娘でも、ある程度の戦績は挙げられるだろう。

 ただ、だからこそトウカイテイオーは違和感を感じられずにはいられなかった。

 

「タキオン先輩って、もう一度皐月賞に出るつもりなの?」

 

 そして、思わず口から洩れたそんな言葉に、二人が振り返る。

 

「……何言ってんだ、テイオー。そんなことできるわけねーだろ」

「それは分かってるよ。でも、ここのデータを見てると、どうしてもそうとしか思えなくて」

 

 訝し気な様子のゴールドシップに、トウカイテイオーが ほら、と指先で書類の一部を示す。

 そのページには、実際にに皐月賞を走り終えた際のフィードバックと、次までに解決しなければならない課題がいくつか提示されていた。この『その次』というのが日本ダービーのことを指すのなら、トウカイテイオーもまだ理解できる。ただ、記されている文章から見るに、それは明らかに次年度の皐月賞のことを指しているようだった。

 眉を顰めたゴールドシップが、机に広がる資料の一枚を手に取って、書かれている文章を睨みつける。すると彼女はなるほどと言葉を吐いて、その書類をトウカイテイオーの前へと滑らせた。

 そこに記されていたのは、次年度の日本ダービーへ向けた対策で。

 

「あくまでこれは、又聞きした話ですが」

 

 するとマンハッタンカフェは一度、白いカップを傾けてから、

 

「チーム『アリストクラット』からはメジロマックイーンさんが出走するそうです」

 

 トウカイテイオーのことを見つめて、そう告げた。

 

「……マックイーンが」

「ってことは、この資料はもともとマックちゃん宛てのものか」

「そう考えるのが妥当でしょうね」

 

 答えながら彼女は、広がる資料の一枚を手に取って続ける。

 

「それと、彼女たちにとってクラシック級は、あくまで臨床試験の舞台だとも」

「臨床試験?」

「ええ。それが何を意味しているのかは私にも分かりませんが……確実に言えるのは、彼女たちの目的は三冠制覇ではない、ということ。きっとこの一年は、そのための前座に過ぎないのでしょう」

「前座って……」

「ま、マックちゃんらしいって言えばそうなのかもな」

 

 そんな、どこか心当たりのありそうな言葉をゴールドシップが呟いた、その瞬間。

 チームルームの扉が開かれて、そこから篠崎がひょこりと顔を覗かせた。

 

「こんにちは、みんな」

「お疲れさまです」

「今日はちょっと遅かったじゃねーか」

「ごめんね。ちょっと、やらなきゃいけないことがあって」

「大丈夫だよ。ボクたちもちょうど今、集まったところだから」

「そう? なら、よかった」

 

 頷いた篠崎が、そのまま机の上に広がる資料へと視線を向ける。

 

「えっと……これは?」

「タキオンさんから奪ってきた、皐月賞と日本ダービーに関する資料です。後ほど確認を」

「うん、そうするね。ありがとう」

 

 その言動へ特に驚く様子も見せず、マンハッタンカフェの言葉へ篠崎が頷いて返す。単に彼女の言葉を些細な冗談として捉えたのか、あるいはその行動を容認した上での答えなのか、今のトウカイテイオーには判別できなかった。ただ、彼がいなくなってから、よくこの二人が話をしていることは知っていた。

 デスクの上に持っていたタブレットと資料を置いて、篠崎が改めて三人へと向き直る。

 

「ところでみんな、今日のトレーニングの後って時間ある?」

「何かあのか?」

「うん。つっくんの部屋のお片付け」

「あー……なるほど。そりゃ、行かねーとな」

 

 ゴールドシップの言葉に、一つの間を置いてからマンハッタンカフェが続けた。

 

「まだ、終わっていなかったんですか?」

「実はチームの運営のことで、思うように手がつかなくて……あ、もちろん廃棄物とか再利用品とかは、業者の人に頼んで回収してもらったよ? あとは部屋の掃除と、遺品の整理だけ。私もようやく手が空いたから、今日中にやろうと思ったんだけど……みんなに言わず、勝手に一人で終わらせちゃうのは違うと思って」

「……そういうことでしたら」

「時間がちょっとかかっちゃうけど、よろしくね」

 

 そうして篠崎は、俯いたトウカイテイオーの方へと視線を向けて、

 

「テイオーちゃんも、大丈夫?」

「うん。ボクも行けるよ。……というより、行きたい」

「そっか。ならみんな、今日のトレーニングは少し早めに切り上げよっか」

 

 向けられるまっすぐとした眼差しに、微笑みながら篠崎が返してくれた。

 

「じゃあ、とりあえずいつも通りミーティングから始めるね。今日のトレーニングは昨日話した通り、テイオーちゃんとゴルシちゃんは皐月賞に向けての対策、カフェちゃんは青葉賞に向けての基礎作りになるけど……」

 

 そうやって言葉を並べる篠崎のことを、トウカイテイオーはぼんやりと見つめていた。

 指導される視点で評価をするのも何だが、トレーナーとしてまだ日が浅いのによくやってくれてていると思う。不慣れなところは隠せていないし、トウカイテイオー自身もたびたび困るところはあるが、それを責める気にはならなかった。それ以上に、チームに貢献していることの方が多かったから。

 ともすれば、彼よりも優秀なトレーナーなのかもしれない。彼の口からそのことは聞いてはいたが、こうして実際に付き合うと、そのことがひしひしと伝わってきた。同時に、彼がこのチームを存続させていくために重ねていた努力も、その跡を継ぐ彼女を通してようやく理解できた。

 だからこのチームのトレーナーとしての彼女に違和感を抱くことはもう、なかった。

 ただ、未だに慣れていないことがあるとすれば。

 

「テイオーちゃん、大丈夫?」

「……え? あ、何?」

「ううん、ちょっと集中できてないみたいだったから。何かあるのかな、って思って」

「何もないよ。ただ……いや、うん。ごめんなさい。ちゃんと聞くよ」

「そう? ならいいけど……」

 

 不安そうに話を続ける篠崎に体を向けながら、けれどとウカイテイオーは最後に、一度だけ。

 ここしばらく何も書かれていない、まっさらなホワイトボードへ、視線を向けたのだった。

 

 

「……相変わらず、モノの少ない部屋ですね」

 

 開かれた扉の先に広がる、閑散とした部屋を見たマンハッタンカフェの言葉だった。

 

「昼にも言ったけど、日用品はほとんど捨てるか、業者さんに回収してもらっちゃったからね」

「だとしても、って話だろ。ほとんど空き家じゃねーか」

「それは、そうかもしれないけど……でも、仕方ないと思うよ。ほら、私もそうだけど、つっくんの実家ってちょっと遠いから。持って来るにしても、持って帰るにしても、モノは増やさない方がいことが多くて」

 

 そんな会話を続ける三人を後に、トウカイテイオーが無言で部屋の中へと足を踏み入れる。

 確かに、味気のない普通の部屋だった。壁際に設えられた本棚や、シーツが剥がされたベッド、中身のないクローゼットは、どれも寮の部屋に備え付けられているものだろう。そう考えると、彼が遺したものは、足元にぽつんと置かれた大きめの段ボールと、机の上に畳まれているノートパソコンだけしかなかった。

 ただ、それが逆に彼らしいと言えばそうだった。ともすれば新居とも言えなくもないその部屋には、しかし微かにあの枯れた煙草の匂いが漂っている。そしてそれは、彼がこの部屋で過ごしていたということを、しっかりと示してくれた。

 

「それで、どこから始める?」

「どこも何も、これしかないでしょう」

 

 ゴールドシップの問いかけに答えながら、マンハッタンカフェが床の上にある段ボールを開く。

 果たしてそこには、おそらく仕事に用いていたであろう資料が、乱雑に敷き詰められていた。

 

「……篠崎さん」

「うん。仕事関係のものは、私の方で預かるから大丈夫」

 

 頷く篠崎へ、マンハッタンカフェが資料を手渡していく。

 それが気になって、トウカイテイオーは彼女の背中からその書類を覗き込んだ。

 

「これは?」

「つっくんが記録してたみんなのデータ……かな? 中身はちゃんと見ないと分からないけど」

 

 答えたところで、篠崎は一枚ずつ資料に目を通す手をふと止めて、そのまま手にしていた一枚の書類をトウカイテイオーへと渡した。一瞬、トウカイテイオーは思わず首を傾げたが、すぐに差し出されたそれを手に取った。

 自らの手に渡ってきたそこには、走行フォームの改善進捗や、ラップタイムの記録などが記録されている。そしてそれは、どこか見覚えのあるものであった。気づいたまま、トウカイテイオーがその書類の一番上へと目をやると、そこには自らの名前が刻まれているのが見えた。

 

「つっくんはね、テイオーちゃんのことを話してるとき、すっごく楽しそうだったんだ」

 

 篠崎の呟いた言葉に、トウカイテイオーが顔を上げる。

 

「はた迷惑だ、なんてこと言ってたけどね。でも、レースに一途になれる凄い子だ、って話してくれた。それに、みんなはテイオーちゃんには才能がある、って言うけど……テイオーちゃんには才能なんかない。ただ、誰よりも一途に努力ができる、がんばり屋さんなんだ、って」

「……そんなこと」

「実際、テイオーちゃんって飲み込みは他の子と比べるとあんまり得意じゃないでしょ? それこそ、走行フォームの改善とかも、最初は上手くいってなかったって聞いた。それでも、つっくんのことを信じて努力し続けることができた。テイオーちゃんの凄いところはそこなんだって、私もつっくんも思ってる」

 

 そこで篠崎はどこか情けないような、緩んだ微笑みを浮かべてから、

 

「できることなら、そんなテイオーちゃんの力にこれからもなれたら、ってつっくんは言ってた」

 

 言われてから、トウカイテイオーが再び書類へと目を落とす。

 羅列されたデータの一番下には、ボールペンで記された小さなメモがあった。少し汚い、走り書いたような字は、どちらかというと彼らしくないものだった。けれど、そこに記されていた内容は、彼が書いたものだということを確かに示してくれた。そしてそれは、トウカイテイオーにとって、あるいは呪いにもなりかねない言葉だった。

 かすかに滲んだ視界のまま、トウカイテイオーがその文字をもう一度目に映す。

 

『三冠制覇。共にそのエンドロールが見届けられることを、願う』

 

 ゴールドシップが声をかけたのは、その震えた唇がそう紡いだのと同時だった。

 

「テイオー」

「……どうしたの?」

 

 答えるよりも先に、彼女の腕が差し出される。

 その手に握られていたのは、何枚かのCDケースだった。

 

「これ……」

「もう、お前の携帯に入ってるやつか?」

「ううん。全部、初めて見た」

「それなら持っとけよ」

 

 ほら、と押し付けるように、ゴールドシップからケースが渡される。

 戸惑いながら受け取ったそれらは、どれもトウカイテイオーが見たことのないトラックだった。正確には、動画サイトでその音源を聞いたこともあるし、通販やCDショップで購入しようとも考えたが、それでもやはり彼から受け取りたいと思いとどまり、手を付けるのをやめたアルバムたちだった。

 透明な、薄汚れたそのケースを見つめながら、トウカイテイオーが言葉を漏らす。

 

「プレイリストはもう増えないと思ってたんだけどな」

「自分がいなくなった後も趣味に付き合わせるなんて、あの人もワガママですね」

「ある意味、似たもの同士かもな。お前らって」

「かもね。頑固で、不器用で、とびっきりのワガママで……」

 

 ゴールドシップの言葉に、トウカイテイオーが言葉を並べながら笑う。

 初めて彼と出会った時のことを、思い出した。

 

「あとは何か残ってねーのか?」

「これ以外は」

 

 答えたマンハッタンカフェが手に取ったのは、少し小さめのルービックキューブだった。バラバラに色が崩れたままのそれを、眉を顰めたゴールドシップが受け取ると、小さく息を吐いてから話した。

 

「んだよ。結局、解けてね―じゃねーか」

「……ということは、これはアナタが?」

「おう。いつもアタシが弄ってんのが気になる、っつーから、その時に持ってたヤツ渡したんだよ。やり方とかも一緒に教えてやったのに……あーあ、何か損した気分だぜ」

「それで、どうしますか? 今なら、黙って持って帰っても誰も何も言いませんが」

「…………」

 

 するとゴールドシップしばらく考えてから、

 

「お前に渡しとく」

「いらないです」

「アタシも流石に二個はいらねーよ。それに、カフェならアタシより早く解けるだろ?」

 

 やがて強引に押し付けられるそれを、マンハッタンカフェは仕方なく受け取った。そうして手元に戻ってきたルービックキューブを見つめながら、マンハッタンカフェがぼそりと言葉を漏らす。

 

「……本当に、いいんですか?」

「何が」

「これは、アナタが持つべきものだと思うのですが」

「別にいいんだよ。アタシはもう持ってるから」

「いえ、そういう意味ではなく……」

「そういう意味でも、だよ」

 

 答えたゴールドシップが、指先で彼女の手にあるキューブを、こつんと叩く。

 

「だから、コイツはお前が解いてやれ」

 

 その言葉を上手く呑み込めていないのか、じっとルービックキューブを見つめるカフェをよそに、ゴールドシップが顔を上げる。そして篠崎の方へと視線を向けると、そのまま言葉を投げた。

 

「もう、終わりか?」

「荷物整理はね。あとは……」

 

 そうやって続けようとした篠崎の声を遮るように、玄関の扉が開かれる音が響く。

 果たして、聞こえてくる少し荒い足音と共に姿を現したのは。

 

「よっす、シノちゃん」

「つ、槻谷先輩? どうしてここに……」

 

 驚いた様子の篠崎へ、槻谷は向けられる三人の訝し気な視線を受けつつ答えた。

 

「いやなに、シノちゃん今日の朝、一人で啓介の部屋の片づけするって言ってただろ? でもよ、一人だとそこそこ時間かかりそうだから、トレーニング終わりにちょっと手伝おうかと思って寄ったんだけど……」

「えっと……?」

「もう必要ない感じだ……な?」

 

 戸惑うように声を漏らすトウカイテイオーを見て、槻谷も困惑しながらそう答える。すると彼はふと、ああ、と納得したように手を叩き、そのままトウカイテイオーへと左腕を差し出した。

 

「ああ、そうか。結局、この前は顔合わせなかったもんな。じゃあ、改めて初めましてだ」

「……あなたは?」

「槻谷。おたくのトレーナーの同期。んで、チーム『セレスティア』のトレーナー。前の若駒ではうちのネイちゃんが世話になったな。ま、少なくとも今年一年は長い付き合いになるだろうから、よろしく」

 

 そう言ってはにかむ槻谷の手を取ろうとしたところで、その腕がマンハッタンカフェに止められる。思わず彼女の方を振り向くと、マンハッタンカフェはその視線に少し怒りを含ませながら、彼のことを見つめていた。

 

「……センパイ?」

「何故、チーム『セレスティア』のトレーナーであるアナタがここに?」

 

 問いかけに彼は、差し出した方の手で頬を掻きながら口を開く。

 

「さっきも言わなかったか? シノちゃんが大変そうだから、手伝ってやろうかなって」

「あなたと私たちは敵同士なのに、ですか?」

「同期なのも事実だ。もう一人連れてこようと思ったが……最近、『プライム』は忙しそうだし」

 

 口にしたそのチーム名に驚くよりも先に、そのまま槻谷が言葉を続けた。

 

「とにかく、カフェちゃんが思ってるようなことはしねーから大丈夫。流石にそれくらいは弁えてるって。それとも、何? 俺ってそういうことしそうに見える感じ?」

「はい」

「おう」

「うん」

「……全員で即答はちょっとヒドくない?」

 

 とほほ、なんて擬音が聞こえてきそうなほどに肩を落とした槻谷は、しかしすぐに顔を上げてから、篠崎へと言葉を投げる。

 

「で、どう? シノちゃん。もう全部終わっちゃった感じ?」

「ちょうど荷物整理が終わったところです。後は……」

 

 言い淀んだ篠崎が視線を送ったのは、机の上に置かれた一台のノートパソコンだった。

 

「なるほど。データはまだって感じだ?」

「はい。もしかしたら必要なものがあるかもしれないですから、持ち帰って整理しようとも思ったんですけど……」

 

 答えた篠崎が、机の前に腰を下ろしてノートパソコンを開ける。すると液晶には、おそらく初期設定の壁紙であろう夕焼けの景色と、その中央に空欄のメッセージボックスが映し出された。

 

「パスワードが分からなくて……槻谷先輩は何か知ってます?」

「……わり、俺も知らねーわ」

 

 頭を抱える槻谷の隣から、ゴールドシップが液晶を覗き込んだ。

 

「どうせ誕生日じゃねーのか? アイツ、携帯もそうだっただろ」

「そっか。確か、つっくんは一月二日だったから……0102とか?」

 

 入力と同時にエンターキーを弾くと、すぐにエラー音が聞こえてくる。

 

「あっ」

「ま、そんな簡単なわけねーか」

「じゃあ……そうだ。啓介って普段、何吸ってたっけ?」

「セブンスターをよく好んで吸ってましたよ」

「なら、それは? ……てか、よく知ってんな」

「人の隣で構わず吸う人でしたので」

 

 そんなマンハッタンカフェと槻谷の言葉を聞きながら、篠崎がキーボードを叩く。

 今度は少しの時間を置いて、エラー音が返ってきた。

 

「ダメだね……」

「ヒントを書いたメモとか、残してないんですか?」

「無いだろうな。そういうのをメモったところ、見たことねえ。……変なところで適当だった」

「つーかそもそも、残す必要がなかったんじゃねーの?」

「というと?」

「記憶とか、心とかさ。残した、ってよりは、勝手に残されたものってお前にもあるだろ、カフェ。んで、そういうのって大抵、初めて出会ったモンだ。お前だって初めて飲んだ珈琲の味、覚えてるんじゃねーのか?」

 

 問いかけに続いたのは、マンハッタンカフェでも篠崎でも、槻谷でもなく。

 

「ちょっと、いい?」

 

 遠慮がちに篠崎の肩へ手を置く、トウカイテイオーだった。

 

「テイオーちゃん……?」

「……何か、分かったんですか?」

「本当かどうか、ボクも怪しいけど」

 

 そうして机の前に腰を落としたトウカイテイオーが、人差し指の先だけでキーボードを叩く。慣れない手つきだった。ただ、迷いはないように見えた。覚束ない操作で打ち込まれるそれを、四人は黙って見守っていた。

 やがて入力を終えたトウカイテイオーが、エンターキーを軽く打鍵する。

 すぐに画面が切り替わり、いくつものファイルが並ぶデスクトップが液晶に映し出された。

 

「……何て打ったんだ?」

不死鳥(The Phoenix)

 

 ゴールドシップの問いに答えたトウカイテイオーは、どこか情けない笑みを浮かべていた。

 

「初めて聞いたのが、この曲って言ってた。そこからロックが好きになったって。……ボクも同じ。初めにトレーナーに勧められた曲が、これだった。だから……もしかしたら、と思って」

「お手柄だな。にしても……そうか、お前のことだったのか」

 

 槻谷が呟いたその言葉に、トウカイテイオーが振り返る。

 

「……ボクのこと、トレーナーは何て?」

「もしかしたら、俺の理想を叶えてくれるかもしれないヤツだって」

「理想?」

「そこまでは話してくれなかった。というより、自分で分かってるんじゃないの?」

 

 問いかけに、トウカイテイオーは何も答えることができなかった。彼が目指していたものなんて分からないし、願っていたことなんて知る由もない。だって、彼の好きな食べ物すらも、トウカイテイオーは知らないのだから。

 ただ、どうしてか、あの曲を聞いた夜のことが思い出された。

 

「とにかく、これでデータの整理ができるよ。ありがとね、テイオーちゃん」

「うん」

 

 いつも通りの柔らかい笑みを浮かべる篠崎へ、トウカイテイオーは浮かない顔のまま首を縦に振る。

 産まれた疑問は楔のようになって、トウカイテイオーの心に残り続けていた。

 

 

 そして迎えた皐月賞当日、地下バ道の一角、等間隔で並ぶ古びた蛍光灯の下で。

 

「今聞いてるそれ、この前の奴か?」

 

 唐突にかけられたゴールドシップの言葉に、トウカイテイオーが片耳のイヤホンを外す。

 

「うん、そうだけど……」

「アタシにも聴かせてくれよ」

 

 何かを返す前に、彼女はトウカイテイオーの手のひらにあるイヤホンを奪い取って、それを片耳へとはめ込んだ。相変わらず勝手だな、なんてぼやきを心の中だけで漏らしながら、トウカイテイオーは再生ボタンを指先で押した。

 流れた始めたのは、荒々しいドラムのイントロだった。そこからギターとベースが入り乱れるような旋律を奏で始める。その音色に合わせて歌うボーカルの声色は、しかし繊細なものであり、総じて乱雑な、けれどどこか軽快な曲であった。そしてそれは、このバンドにしては珍しい曲調であった。

 

「いいじゃねえか」

「……そう?」

「アタシ好みの曲だ」

「まあ、ゴルシっぽいって言えばそうかもしれないけど」

 

 踵で少しずれたリズムを取りながら、ゴールドシップはにかりと笑った。

 

「じゃあ今日のレース、アタシが勝ったらウイニングライブでこれ歌おうぜ」

「絶対無理だよ」

「なんだよ、つれねーな」

「そもそも曲はもう決まってるし、振り付けも練習してないし。それに……」

 

 言いかけたところで、トウカイテイオーがライターの火を灯しながら、

 

「今日は絶対、ボクが勝つから」

「……そうかよ」

 

 呟いたゴールドシップは、小さく息を吐いてから冷たい壁へ背中を預けた。

 

「思えば、チームで一緒に走るのはこれが初めてだな」

「もしかすると、避けてたのかも。ボクたちがぶつかり合うのを」

「優しさか?」

「それにしては不器用すぎるよ」

「でも、アイツらしいっちゃアイツらしいだろ」

「……まあ、ね」

 

 相変わらず、分かりづらい気遣いだった。

 

「なあ、テイオー」

「うん?」

「恨みっこなしだぜ?」

「そっちこそ、後から文句言わないでよ?」

 

 くすりと笑って、トウカイテイオーがライターのキャップを閉じる。

 こちらへ近づいて来る足音が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。

 

「お二人とも、調子は?」

「カフェセンパイ」

「まあまあ、ってところだな。悪くはねえ」

 

 互いにイヤホンを外して、二人がマンハッタンカフェの言葉に答える。そうして、コードを巻きつけた携帯を渡そうとしたところで、トウカイテイオーがふと。

 

「……本当は、カフェセンパイも入れた三人で走りたかったんだけどな」

「申し訳ありませんが、それは来月まで我慢してくださいね」

「ホント、なんで弥生賞出なかったんだよ。お前だったら余裕で勝てただろ」

「結果論に過ぎませんよ、それは。私が出走していたら、また違う結果になっていたかもしれません。それに……」

「……それに?」

「こうやって皆さんを見守るのも、そこまで悪いものではありませんよ」

 

 浮かべた笑顔には、その言葉以上の感情が込められていたが、そこに諦めの色は混じっていないということは確かだった。あるいは、それこそが彼女の本望にすら思えるような、そんな語りだった。

 そして、それに続いたのはゴールドシップでも、トウカイテイオーでもなく。

 

「いやはや、トレーナーらしい振る舞いが板についてきたじゃないか、カフェ?」

 

 気づかぬうちに彼女の背後に立っていた、アグネスタキオンであった。

 

「……いつからそこに?」

「いちばん最初からさ。君たちの姿が見えたのでね」

「相変わらず、趣味の悪い……」

「君に言われなくとも、自覚してるよ」

 

 どこか含みのある笑みを浮かべると、アグネスタキオンは隣に立つ彼女を一瞥してから、

 

「何せ私は、マックイーンくんにクラシック級という重要な一年を捧げさせているんだからね」

 

 疲れたように息を吐いたのは、勝負服に身を包んだメジロマックイーンであった。

 

「……何度も仰っている通り、私が決めたことですわ。後悔などしておりません」

「私も今更、悪びれるつもりはないさ。とにかく、今日は手筈通りに頼んだよ」

「言われなくとも、万全を期しておりますわ」

 

 呆れたように返事を投げたメジロマックイーンが、そのままトウカイテイオーと視線を交わす。

 しばらくの沈黙があった。正確にはゴールドシップとマンハッタンカフェ、そしてアグネスタキオンの他愛もない会話は続いていたが、トウカイテイオーとメジロマックイーンの二人の間に言葉はなかった。

 そうやって見つめ合う中で、ふと渡す言葉を探そうとして、トウカイテイオーがちらりと視線を逸らす。そんな、どこか怒られる寸前の子供のような振る舞いを見せる彼女に、メジロマックイーンが耐えきれないように小さく笑みを零した。

 

「緊張してますの?」

「……全然、そんなこと」

「威勢を張るなら、もっと背筋を伸ばした方がいいですわよ」

「余計なお世話だって、もう」

 

 ふん、と頬を膨らませるトウカイテイオーに、メジロマックイーンがまた笑う。

 

「若駒ステークスでの一着、見事でしたわ」

「見てくれてたんだ?」

「あなたの出るレースは全てチェックしています。だからこそ、気になったのですが」

「……何が?」

「テイオー、あなたは何をそこまで焦っているのですか?」

 

 少し不安げに眉を顰めるメジロマックイーンに、トウカイテイオーは上手く答えることができなかった。

 首が絞めつけられて、喉が圧し潰されるような感覚だった。そんなこと、という虚勢を張った言葉を吐くことすらできなかった。頭に浮かぶ言葉はどれも少し違う気がして、ずぶずぶと泥に沈むように落ちていく。できることなら、その問いかけの答えを教えてほしいくらいだった。

 胸の内に燻ぶっていた何かが、じわじわと這い上がってくる。それが焦燥だと言う事は理解できた。自分が目を向けたくない、逸らし続けたいものだということも。ただ、その奥底にある何かまでは、分からなかった。

 ぼろぼろの、未だに血の滲んだ唇を、トウカイテイオーは開いて。

 

「ボク、は――」

 

 怯えるような、ふらふらと震えた声を遮ったのは。

 

「なんだ、面白そうなメンツだな?」

 

 トーセンジョーダンを連れて現れた、槻谷の言葉だった。

 それと同時に、トウカイテイオーの内で張り詰めていた何かが、ふつりと解けたような気がした。その燻ぶりをそのままにすることは良くないことだと理解していたが、少なくとも今この場において、トウカイテイオーはそれをそのままにすることしかできなかった。

 気づかぬうちに上がっていた息を整えるトウカイテイオーの傍で、アグネスタキオンが彼へと語り掛ける。

 

「ああ、槻谷くんじゃないか。ということは……そうか、君の担当も出走するのか」

「そういうこと。タキちゃんの方はどう? その、何だっけ? プラン……えーっと」

「思い出さないでくれた方が助かるな、この場においては」

「……それもそうか。ま、困ったらまた頼ってくれ。タキちゃんはウチの大事なお得意様だしな」

「君がそう言うのなら、ありがたく利用させてもらうよ」

 

 にんまりとした笑みを浮かべるアグネスタキオンに、槻谷もけらけらと軽い笑みで返す。その一方で、彼の隣に立つトーセンジョーダンへと、マンハッタンカフェが言葉をかけた。

 

「ツインターボさんの調子は?」

「全然ダメ。弥生賞でやらかしたの、まだ引きずってるわ。……ま、あの子ことだし、もう立ち直るとは思うけど……アンタからも、慰めてあげてよ。仲、そこそこいいんでしょ?」

「……今度、そちらに何か持っていきます」

「あの子の好きそうなお菓子で頼むわ」

 

 苦いヤツじゃなくて、と付け加える彼女に、マンハッタンカフェは静かに頷いた。

 

「……ずいぶんと賑やかになってきましたわね」

「嫌か? アタシはこれくらいの方が好きだけど」

「ですが少なくとも、テイオーの緊張は解れそうですわ」

 

 揶揄うような視線と共に、そんなメジロマックイーンの言葉が向けられる。

 

「だから、緊張なんかしてないって」

「あんなにひどい顔でしたのに?」

「うぐ」

「冗談ですわ」

 

 今日はよく笑われる日だな、とトウカイテイオーは不満げに唇を尖らせた。ただ、それは決して悪いことではないように思えた。そうやって揶揄われるだけの余裕が生まれたのは、ともすれば安心できることではあった。

 そんな思考を強引に遮ったのは、槻谷の叫び声で。

 

「てか、もう時間ギリギリじゃねーか! ほらジョーダン、早く行け行け!」

「ちょっと、押すなって! つーかこんな時間まで控え室で話してたのアンタ……」

「他の出走するヤツもさっさと行けよー! でないと係員にドヤされるからな!」

「ドヤされるって……」

「まー、言ってることは正しいな。テイオー、行くぞ」

 

 促されるまま、歩き始めたゴールドシップたちの後を追う。

 そうしてトウカイテイオーがターフへと足を踏み入れた、その瞬間。

 

「雨……」

 

 吹き荒ぶ強い雨風に晒されながら、トウカイテイオーがぽつりと呟いた。

 

「うわ、めちゃくちゃ強くなってっし。今日、そんなに降らない予報じゃなかった?」

「こりゃアレだ、レース出る奴に雨女がいるな。それもとびっきりの」

「いったい、誰がこんな雨雲を連れてきたのでしょうね?」

「ボクじゃないよ」

 

 鈍色に染まる雲を見上げて、トウカイテイオーが答える。

 きっとこの雨は、彼がどこかで見守ってくれている証拠かもしれない。

 だって、エンドロールまで付き合ってくれると、そう約束したのだから。

 

「……してみせるよ。最高のエンドロールに」

 

 ゲートへと入ったトウカイテイオーが、今一度濡れた頬をぐい、と叩く。

 見据えるのは、雨に濡れたターフのさらに先。いつも通り意識を紙縒(こより)のように集中させると、淡々とした実況の声も、詰め寄った観客からの声援も、意識の外へと遠のいていく。ただ、降りしきる雨音だけは、いつまでも耳の傍で響いていた。それが、彼が傍に寄り添ってくれているような気がして、少しの寂しさと、それ以上の確かな強さをくれた。

 左脚をずっと奥まで引いて、すぅ、と大きく息を吸う。冷え着いた空気が肺の中を満たして、意識がより鮮明になっていく。今のトウカイテイオーであれば、宙を落ちる雨粒の一つ一つすらも、両目で捉えられそうだった。

 そうして、発バ機に打ち付ける雨の音に紛れるように、トウカイテイオーがぽつりと。

 

「絶対に――ボクが、勝つから」

 

 ――ゲートの開く音がした。

 

 

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