Absolute One   作:宇宮 祐樹

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今回と次回に限り、夜間モード非推奨です


17 Whiteout Memories / 想い出、ホワイトアウト

 

「昨日、チームを立てたんだ」

 

 いつも通り、二人で珈琲を飲み交わしている時だった。

 

「……また、唐突ですね」

「そうでもしないと、このままクビになりそうだからな」

 

 有望そうな生徒を見つけるのは上手いが、なにぶん言葉選びが下手だった。ともすれば、こうして毎日のように珈琲を飲み交わす関係を築けたのは、彼にとってはかなり稀なことなのだろう。

 そのことを、知っているからこそ、先程の言葉には少しの疑問があって。

 

「誰を勧誘したんですか?」

「まだ、誰も。……チームがあれば、とりあえず籍を置いておくヤツが釣れるかもと思って」

「実績もメンバーもいないチームに入りたがる人なんて、いると思いますか?」

「だよなあ」

 

 なんて、参ったような笑みを浮かべながら、彼は白いカップを傾けた。

 それから、しばらくの沈黙があって。

 

「……私で、よければ」

「え?」

「私でよければ、名前を貸してもいいですよ」

 

 自分にとっても、都合の良さそうな話ではあった。

 このままレースに出ることもなく、何もしないまま卒業するよりは、どこかのチームに名前だけでも置いておいた方がいいだろう。それにチームへの所属が決まれば、さすがに同居人からの迷惑行為も収まるかもしれない。それだけの分別が彼女にあるかどうかは、まだ分からないが。

 そして、何より。

 

「こうして付き合ってくれているお礼です」

 

 それくらいの情は、芽生えていた。

 

「……本当か?」

「ええ。……何か、試験とかそういう基準があるのなら、話は別ですが」

「ないよ、ない。大丈夫だ。それなら……後で、書類を持ってくる」

「お願いしますね」

 

 そこで一度、会話は終わった。再びの沈黙が二人の間に流れ始める。

 窓からは春の穏やかな日差しが射しこんでいて、それが曖昧な微睡を誘っていた。心地の良い暖かさが、全身を包み込んでいる。このまま何もせず、ただ午睡に耽るのも悪くない――彼に言葉をかけられたのは、そうやって目蓋を閉じようとした寸前だった。

 

「担当するなら、ちゃんと走りも見てやらないとな」

「……いいんですか?」

「逆に、どうしてダメだと思う?」

 

 おかしそうに笑ってから、彼がカップへ口をつけた。

 

「名前だけ借りてはい終わり、なんて薄情なことはしない。チームに入ったからには、ちゃんと練習も見てやるし、レースにも出す。それか、何だ。俺にトレーニングを見られるのは、嫌か?」

「いえ……見てくださるのなら、ありがたいですが」

「じゃあ決まりだ」

 

 言ってから、空になったコップを置いて彼が立ち上がる。

 

「チームの名前は?」

「決めてない。何人か集めてから、決めようとは思っている」

「……どうやって他の人を勧誘するおつもりで?」

「そりゃ、まあ……お前の方から、声でもかけてくれ。俺もそうする」

「また適当な……」

 

 普段は真面目だし、いくらかマトモなのに、どうしてたまにこういう突拍子もないことを口にするのだろうか。そんな彼の杜撰(ずさん)な振る舞いに慣れたのは、つい最近のことだった。

 

「とにかく、今はお前がリーダーだ」

「リーダーって……そんな役割、私には向いていませんよ」

「だとしても、だ。これから仲間や後輩がお前にできる。そういう奴らが困ってたり、あるいはぶつかり合ったりする時が、必ず来る。その時、お前は皆をちゃんと導いてやれるような……そうだ。()()になってくれ」

「……なれるでしょうか、私に」

「なれるさ、きっと」

 

 そして彼が浮かべた、優しい微笑みは。

 

「このチームのこと、頼んだぞ」

 

 灰になって、さ

 

 

 ▽ Whiteout Memories / 想い出、ホワイトアウト

 

 

「ひどい顔じゃないか、カフェ」

 

 目を醒ましたマンハッタンカフェがはじめに耳にしたのは、そんな実験器具を洗いながらのアグネスタキオンの言葉だった。

 

「悪い夢でも見たのかい?」

「そういう、訳では……」

 

 上手く言葉が出てこなかった。言い淀むマンハッタンカフェへ、ビーカーを机に置いたアグネスタキオンがじっと視線を向ける。鬼灯の色をしたその瞳は、まるでこちらの全てを見透かしているようにも思えて、たまらずマンハッタンカフェが視線を逸らすと、彼女はからかうようにうすらとした笑みを浮かべた。

 そんな彼女に息を吐いてから、マンハッタンカフェがソファから立ち上がる。

 

「……もう、トレーニングに行きます。テイオーさんも待っているので」

「その脚でかい?」

 

 渡された言葉に、マンハッタンカフェが歩みを止める。

 見下ろした脚には、じんじんとした鈍い痛みが走っていた。

 

「青葉賞の疲れが、まだ抜けていないんだろう。今日だけでもいいから、休むべきだよ」

「……私に、そんな時間は残されていませんから」

「君はいつからそんな意固地になったんだろうねえ?」

 

 扉を塞ぐように立って、アグネスタキオンが肩をすくめる。そんな彼女を退かそうとマンハッタンカフェが肩へと腕を伸ばすが、それは彼女の手によって強く叩き払われた。少しだけふらついた体は、しかし痛む両脚では支えきることができなくて、そのままマンハッタンカフェは近くの机へともたれ掛かるように倒れ込んだ。

 顔を上げると、そこには冷たい表情でこちらを見下ろすアグネスタキオンの姿があって。

 

「邪魔をしないでください、タキオンさん」

「断るよ。これ以上、君が傷つくのを見過ごすわけにはいかないからね」

「……もう私は、あなたの実験材料ではありませんよ」

「私も、君のことをそう思ったことは一度もないさ」

 

 そうして彼女は、机の上にある錠剤の入った小瓶を手に取って、

 

「今までも、そしてこれからも、私は君と友人として接するつもりだよ」

 

 差し出されたそれを、マンハッタンカフェはしばらくの時間を置いてから受け取った。

 

「これは?」

「なに、市販の睡眠薬さ。槻谷君から普段、懇意にしてくれているお礼にと」

「……そこまで、私は弱々しくみえましたか?」

「あんな顔をされてはねえ」

 

 うすらと笑うアグネスタキオンは、しかしすぐに嶮しい顔になって続ける。

 

「いいかいカフェ。私の立場ではもう、以前のように君のことを診れないんだ。それがどういうことを意味しているかは、聡明な君なら理解しているはずだよ。……それでも君は、走り続けるつもりなのかい?」

「ええ。今の私には、それだけしかできませんから」

「……なあ、頼むよカフェ。私はこれ以上、君が傷つくのを見たくは――」

 

 そこから続く言葉を遮るように、マンハッタンカフェは彼女の胸ぐらをぐい、と強く掴んだ。ぼうっとした光を灯したその瞳は、驚いたような表情を浮かべるアグネスタキオンをしっかりと映している。そんな彼女を揶揄うように、マンハッタンカフェは口の端を吊り上げた。

 

「カフェ……?」

「……あなたはいつから、そんな腑抜けた顔をするようになったんですか?」

 

 手を離すと、足元から崩れていくようにアグネスタキオンがその場へ座り込む。

 

「相変わらずあなたは世間知らずなので、ひとつだけ教えておきます」

「なに、を」

「友人が無茶をしそうなときは、それを止めずに黙って送り出してあげるものですよ」

 

 言葉を渡しながら、マンハッタンカフェがくるりと手の内で小瓶を回す。

 

「この薬はもらっておきます。どうやら本当にあなたの作成物ではないようですし。それに……もう、あんな夢を見ないでもよくなりそうですから」

「ああ、勝手に持って行きたまえ。その方が槻谷くんも喜ぶはずさ」

「……今更ですが、あなたと彼はどういう関係なんですか?」

「彼が口にしていた、お得意様、というのが今のところ一番しっくりくる表現だね」

 

 その言葉に、マンハッタンカフェはああ、と軽く納得した。そして同時に、メジロマックイーンの将来が心配になった。先日の様子を見る限り、自分でも納得して手を組んだのだろうが、とはいえ彼が後ろで繋がっているとなると、好き放題に振り回される未来しか見えなかった。ともあれ自分のチームの問題ではないので、そう気に留めることしかしなかったが。

 壁にかけられた時計へと目を向けてから、もう一度だけマンハッタンカフェは座り込んだままのアグネスタキオンへと向き直る。

 

「では、私はこれで。また、後ほど」

「……ああ」

 

 静かに閉じられた扉の向こうから、遠のいていく足音を耳にしながら。

 

「やっぱり、悪い夢だったんじゃないか」

 

 一人残された部屋で、アグネスタキオンはそう呟いた。

 

 

 沈んでいく夕陽を、トウカイテイオーは喫煙所のベンチに座ってぼんやりと眺めていた。

 耳に嵌めたイヤホンからは、聞き覚えのない静かで繊細なメロディーが流れている。あの日、彼の遺品の中から見つけた、新しいアルバムに入っていたものだった。人気の低迷したバンドが路線を変更し、今までとは毛色の違うバラード系の曲をいくつか出して批判を受けたことは知識としてあるが、こうして実際に聴いてみると、あまり悪い気はしなかった。

 新しくトウカイテイオーが作ったプレイリストは、そんな小さな驚きに満ち溢れていた。たった今流れているバラード風の曲調のものや、映画の主題歌を飾ったもの、はたまたトウカイテイオーでも知っているような、有名なミュージシャンがリミックスを手掛けたものもあった。

 そして、そんな驚きを覚えるたびに、彼と言葉を交わしたい気持ちが強くなっていた。多くなくてもいい。一瞬だけでも、構わない。この曲が好きだと彼に伝えられれば、それだけでよかった。

 今となっては、そんな小さな願望すら叶うことはないが。

 

「……はは」

 

 そこまで考えたところで、トウカイテイオーが乾いた笑みを浮かべた。

 後ろ向きに考えているわけではない。後悔、していないというと嘘にはなるが、そのまま抱え込むつもりもない。ただ、やはりそうした気持ちを抑えることはできなかった。そこまで考えたところで、どうしようもない寂しさが襲ってきて、トウカイテイオーは泣きたくなった。張り付いたような笑みは、それを誤魔化すためのものだった。

 掻き鳴らされる音楽が、やがて終わりを告げる。

 

「……帰ろっか」

 

 誰に呟くわけでもなく、トウカイテイオーは静かにベンチから立ち上がった。

 校門を抜けて、いつもの帰路に着く。他の生徒は見当たらず、ぽつぽつと並ぶ街頭だけがトウカイテイオーの隣に並んでは後ろの方へ去って行った。光と影が、何度も足元へやってくる。自分が下ばかりを見て歩いていることに気づいたのは、信号の赤い光が足元に差し込んだときだった。

 歩みを止めて、顔を上げる。トラックが目の前を通り過ぎたのは、それと同時で。

 

「……あれ、ツインターボ?」

 

 夜闇でも目立つ蛍光色の髪色を二つに纏めた小柄なその人影に、思わずトウカイテイオーが小さく呟きを漏らす。その瞬間、彼女の耳がぴくりと動き、こちらに振り返ると、彼女は嬉しそうにこちらへと大きく手を振った。

 前々から彼女のことは知っていたし、何ならマンハッタンカフェのデビュー戦や、青葉賞で彼女の姿は見た。言葉もいくつか交わしたことはあるが、しかしこうして二人きりで会うのは何気に初めてのことだった。

 イヤホンを外して、こちらも片手を上げる。青に変わった信号を渡ると、ツインターボはとてとてと小さな歩幅で歩きながら、トウカイテイオーの方へと寄ってきた。

 

「テイオー!」

「わぷ」

 

 勢いよく飛びついてきた体を、トウカイテイオーが受け止める。

 相変わらず、誰彼構わず抱き着いてくる癖はそのままらしかった。

 

「今から帰るのか?」

「うん。……ターボは?」

「ちょっと喉が渇いちゃったから、何か買ってこうと思って」

 

 ちらり、とツインターボが自販機へと視線を投げる。それにああ、と納得したように声を漏らしながら、トウカイテイオーもついでに何か買っていこうと、ポケットから財布を取り出した。

 

「テイオーも買ってくの?」

「ま、ついでに。ちょうど何か、飲みたいくらいだったし」

 

 小銭を取り出して、迷いなく珈琲のボタンを押す。

 がこん、と乱暴に缶コーヒーが投げ出された。

 

「……コーヒー、飲めるのか?」

「そうだけど……」

「オトナなんだな、テイオーは!」

「カフェセンパイがいつも淹れてくれるから、慣れただけだよ」

「それがオトナなんだって、ターボは思うぞ!」

 

 的を射ているのかよく分からない発言だった。

 

「ターボは?」

「まだ決めてない。どれが美味しいのかよく分かんないし」

「ふーん」

 

 プルタブを開けてから、トウカイテイオーは缶に口をつけると。

 

「とりあえず、ここに置いてある珈琲はあんまり美味しくないよ」

「え?」

「お茶も少し歩いたところにあるコンビニで買った方が安いし。……ま、お金使いたくないならスーパー行けばいいんだけどさ。あとは……このオレンジは味の少しクセが強いから、あんまりオススメしないなあ。でも、好きな人は好きな味だから試してみてもいいかもね。隣のアップルも同じ感じかな」

「…………」

「だから、ここで買うなら……」

 

 そうして炭酸飲料を指でさそうとしたところで、ふと。

 

「……どうしたのさ」

「テイオーって、よくこの自販機使うのか?」

 

 視線を感じて振り向くと、ツインターボからそんな疑問を投げられた。

 

「あー……ちょっと前まで、よくここで飲み物買ってたんだ。夜、こっそり抜け出してだけど」

「抜け出して……? もしかしてテイオー、グレちゃったのか?」

「いやいや、そんなんじゃないって。てかさ、他のコだってするでしょ。ちょっとくらい」

「……ターボの周りには、そんなヤツいないぞ?」

「ホントにぃ?」

 

 揶揄うような笑みを浮かべて、トウカイテイオーが珈琲を傾ける。そうして缶を口から離したあと、ツインターボの視線がまだ自分へ向けられていることに気が付いた。ばらばらの色に染まる瞳には、不信よりも心配の方が強く表れている気がして、それが少しだけ嫌になったトウカイテイオーは、缶を持ったままの手で自動販売機を指した。

 

「ほら。早くコーラ買えば? 美味しいよ? どこでも美味しいけど」

「……テイオー、なんか怒ってる?」

「なんで?」

「だってテイオー、目がなんか怖いし……もしかしてターボ、なんか言っちゃいけないこと言った? あ、抜け出したことは誰にも言わないから、大丈夫だぞ! だから……その目、怖いからやめてほしい……」

「……怒ってないって。ホントだよ」

 

 笑いながら、トウカイテイオーがツインターボの背中を叩く。

 しばらくの時間を置いて、自動販売機が乱暴にコーラの缶を吐き出した。

 

「……ねえターボ、この後時間ある?」

「あるぞ。あとは帰って寝るだけだから」

「じゃあさ、ちょっと歩かない?」

 

 ほら、とトウカイテイオーが寮とは逆の、暗闇に包まれた道へと指を向ける。

 

「……もしかして、ターボのこと口封じするつもりか?」

「いやいやいや、しないってそんなこと! 普通に飲み終わるまで歩くだけ!」

「ターボがグレちゃったら、トレーナーが悲しんじゃうから……」

「だーかーら、ボクはグレてないよ! ってか、どこ見てそう思ったのさ!」

「……だって」

 

 そこでふと、ツインターボはトウカイテイオーの方を向いてから、

 

「テイオーから、タバコの匂いするぞ?」

「……え?」

 

 その言葉に、トウカイテイオーの動きが止まる。

 ゆっくりと袖口に鼻孔を近づけるが、そんな香りは一切しなかった。そのまま手の甲でも何度か確かめるけれど、あの枯れた香りは感じられない。ただ、こうしている間にも向けられるツインターボの視線に、嘘は感じられなかった。顔に近づけた腕を戻すと、ツインターボは少しだけその場から後ずさった。

 トラックが、二人のすぐ隣を過ぎっていく。

 

「ボクのじゃないよ」

「じゃあ、誰の?」

「……もう、とっくに落ちたと思ったんだけどな」

 

 くたびれた笑みを浮かべながら、トウカイテイオーが珈琲に口をつける。

 

「行こうよ、ターボ。お話してあげる」

「……わかった」

 

 頷いてから、ツインターボは暗闇へ向けて歩き始めたトウカイテイオーの後を追った。

 

 

「よく、ボクのトレーナーが吸ってたんだ」

 

 縁石に腰を下ろして、トウカイテイオーはそうやって話を始めた。

 

「学園の隅っこにさ、喫煙所あるの知ってる? 前まで使われてたヤツ」

「そうなのか?」

「……そう。そこでよく、トレーナーは吸ってた。今は学園が全面禁煙だし、ホントはそこでも吸っちゃダメで立ち入り禁止なんだけど……ボクとトレーナーは、そこで会ったんだ。立ち入り禁止の場所に勝手に入るウマ娘と、そこで隠れてタバコを吸ってるトレーナー……仲間なんだな、って思った。もしかしたら、ボクが勝手に思ってただけかもしれないけど」

「それが、“なれそめ”か?」

「どこでそんな言葉覚えたのさ」

 

 くすりと笑って、トウカイテイオーが缶へ口をつける。それと同じタイミングで、ツインターボもコーラの缶を開けてごくりごくりと飲み始めた。

 

「でも、それが始まりだったよ。トレーナーと契約して、カフェセンパイやゴルシと一緒にいるようになった。レースにも出るようになったし……あと、音楽とか聴くようになった。トレーナーが教えてくれたんだ。よく、その喫煙所でCDを貸してくれた。煙草を吸いながらね」

「……ターボは、タバコ嫌いだ。変なニオイだし、ケムいし」

「ボクも最初はそうだった。でも、もう慣れちゃったよ」

 

 それこそ、自分からその香りがしていても気づかないくらいには。これも、彼女が言うオトナということなんだろうか。それはきっと、トウカイテイオーにはまだ分からなことだった。

 ツインターボがコーラの缶から口を離したのを見て、またトウカイテイオーが口を開く。

 

「さっき、あの自販機よく使うって話したじゃん」

「うん」

「実はあれ、トレーナーが死んじゃってからなんだよね」

 

 ツインターボの顔を見ないまま、トウカイテイオーが続ける。

 

「……一人になりたかったんだ。他の人に色んなことをぶつけちゃいそうになったし、何よりどうすればいいのか自分でも分からなかったから。気持ちの整理、って言えばそうだけど……たぶん、あの時のボクが受け止めるまでは、それだけの時間が必要だったんだと思う。練習もサボったし、ずっと部屋に閉じこもってた。……ターボの言う通り、ボクはグレてたのかもね。そうしないと、やってられなかったからさ」

「テイオー……」

「あ、でも今は違うよ? ちゃんとトレーナーがいなくても走るんだ、って決めたし、練習もサボってない。夜に抜け出すのは……たまには、するけど。でも、誰にもバレてないから大丈夫」

「……ターボには話してよかったのか?」

「うん。だって、ターボもオトナでしょ?」

 

 こうして夜遊びしてるんだし、なんて笑いかけながら、トウカイテイオーが珈琲の缶を呷る。

 

「テイオー、あそこの自販機のコーヒーは美味しくない、って言ってた」

「うん、そうだよ。これもちょっとイマイチ。まあ、カフェセンパイの淹れるのがとびきり美味しいから、それで舌が肥えちゃった、ってのはあるけど」

「……でも、飲むんだ」

「よく飲むようになったから。……カフェイン中毒なのかもね」

「そっ、か……やっぱりみんな、オトナなんだな」

「ターボだってそうでしょ?」

「ううん、違う。ターボはまだ、子供なんだ」

 

 寂し気に笑う彼女に、トウカイテイオーは首を傾げた。

 

「どうしてそう思うの?」

「だってターボ、テイオーと違ってタバコは苦手だし、カフェみたいにコーヒーも飲めない。ジョーダンみたいにオシャレのこと詳しくないし、ネイチャみたいに料理もできない。マックイーンみたいに上品になれないし、何より……ずっと、寂しいって思ってるから」

「寂しいって……」

「実はターボね、テイオーのことはちょっと子供だって思ってた。若駒ステークスを見たとき、テイオーもなんだか寂しそうだったから。ターボと同じなんだ、って。一緒だって思ってた。でも、違った。テイオーもオトナなんだ。子供なのは、やっぱりターボだけ……みんな、ターボと一緒にいてくれない」

 

 普段の彼女からは想像もできないほどに、微かで消え入りそうな声だった。それこそ、今まさに泣き出してしまいそうな子供のように。震える彼女の背中に手を回すと、驚いたような視線が返ってくる。浮かべた笑みには、どこか情けないような、自責の念が込められているような気がした。

 

「……なんで、寂しいって思うの?」

「ターボ、レースのときはいつも一人だから」

 

 言われてから、トウカイテイオーがああ、と納得する。

 レースで走る時、いつだって彼女は先頭を一人で走っていた。

 

「みんな後ろにいるんだ。隣で走ってくれるヤツなんて、誰もいない。でも、それはまだいいんだ。一番イヤなのは、負けたとき……みんな、ターボのことを追い越していっちゃう。ターボのことなんか、置いて行っちゃうんだ。だから、置いて行かれないように走るんだけど……結局、ターボはいつも一人だ」

「……ターボ」

「ホントはターボ、逃げって名前も嫌い。だって、みんなから逃げるんでしょ? なんで? ターボはみんなと一緒に走りたいのに、どうして逃げなくちゃいけないの? それとも……そうやって思っちゃうのは、ターボがまだ子供だから、なのかな?」

 

 その問いかけに返す言葉を、今のトウカイテイオーは持ち合わせていなかった。向けられる潤んだ視線に、トウカイテイオーは口を紡ぐことしかできなかった。けれど、ツインターボはそれを許してくれた。

 コーラの缶は、未だに半分以上残っている。

 

「けどね、最近はちょっとだけ寂しくなくなった」

「……そうなの?」

「うん」

 

 迷いのない首肯に、トウカイテイオーが優しく笑みを向ける。

 きっとそれは、チームの仲間がいるからだった。ナイスネイチャに、トーセンジョーダン、そしてトレーナーの槻谷が、今の彼女を支えている。だからこそ、ツインターボは走れるのだろうと、そう納得したところで。

 

「だって、今のターボにはカフェがいるから」

「……え?」

 

 彼女が口にした名前に、トウカイテイオーは思わず声を漏らした。

 

「ターボがどれだけ引き離しても、カフェはついてきてくれるんだ。この前の青葉賞だって、カフェは一緒に走ろうとしてくれた。ターボのすぐ後ろでゴールしてくれたんだ。デビュー戦だってそう。いつでも、カフェはターボと一緒に走ろうとしてくれる」

「……そっか。だから、カフェセンパイなんだ」

「あと、ホントは……ホントは、こう思うのはダメかもしれないけどね? ターボ、どっかのレースでカフェと一緒にゴールしたい。どっちが一着か分からないぐらいギリギリで。それでカフェに抜かされちゃうなら……ターボ、別にそれでもいいかな、って思うんだ」

 

 語り終えた後に、ツインターボは缶の中に残っていたコーラを一気に呷った。ごくごくと気持ちのいい音を立てながら、すぐに缶の中身が空になる。そうして、口の端に着いたコーラを手の甲で拭いながら、ツインターボはトウカイテイオーへと笑いかけて。

 

「甘いな」

「……うん、甘いよ。でも、それでいいと思う」

「そっか」

 

 答えたツインターボが、縁石からぴょん、と跳ねて立ち上がった。

 

「それじゃあ、ターボはもう行くぞ。門限そろそろ過ぎちゃうし」

「うん」

「……テイオーは?」

「ボクはもう少し残るよ。まだちょっと、涼みたいから」

「そっか」

 

 短く返し、ツインターボが帰路に着く。それを見送りながら、トウカイテイオーは携帯を取り出して、イヤホンを耳に嵌めた。液晶を操作すると、新しく作ったプレイリストが目に入る。まだ聞きなれないそのリストの再生ボタンを押そうとしたところで、ふと。

 

「テイオー!」

「……なにー?」

「言い忘れたけど、日本ダービー負けないからな!」

 

 遠くでぶんぶんと手を振るツインターボに、トウカイテイオーがくすりと笑みを零す。

 

「ボクだって、二冠め取ってやる! ターボの隣なんて、すぐに追いついちゃうからね!」

 

 その言葉を最後に、トウカイテイオーは一人になった。

 ツインターボはオトナだと言っていたが、あれは違うとトウカイテイオーは思った。だって、この胸の内にはいつだって寂しさが残っているのだから。結局、トウカイテイオーはいつまでも子供でしかいられなかった。

 イヤホンを耳に嵌め直して、再生ボタンに触れる。流れ始める音楽が、心にぽっかりと空いた穴に、とくとくと注ぎ込まれていった。口の中には、安っぽい珈琲の苦みが微かに残っている。それと同時に、トウカイテイオーは夜空を仰ぎながら広がっていく寂しさを飲み干した。

 

 流れ始める音楽に身を委ねながら、その目蓋をゆっくりと閉じて――

 

 

 

 「起い、ーさん」

 

 

 ――声が聞こえると同時に、トウカイテイオーは目を醒ます。

 

「カフェ、センパイ……?」

「ええ」

 

 はじめに視界に映ったのは、呆れたように息を吐くマンハッタンカフェの姿だった。

 驚きのまま周囲を見渡してから、自分が地下バ道の一角にいることが分かった。ターフへと続く道からは、湿気を伴った重たい風が雨の匂いを運んでくる。ちかちかと点滅を繰り返す蛍光灯を見上げたところで、ようやくトウカイテイオーは自分の置かれている状況を飲み込んだ。

 日本ダービー当日。天候は雨、バ場状態は重との発表だった。

 

「……もしかしてボク、寝てた?」

「よかったですね、後に来たのが私で」

「あはは……ホントだね」

 

 苦笑を浮かべながら、トウカイテイオーが片方のイヤホンを外す。携帯で時刻を確認すると、既に出走まで15分もないくらいだった。しかし、不思議と焦りは感じなかった。そしてそれはマンハッタンカフェも同じようで、彼女はトウカイテイオーの隣に腰を下ろすと、手にしていたイヤホンを取って自分の耳に嵌めた。

 どこか寂しさを感じさせるギターソロが、二人の中だけで響き渡る。

 

「この前、夢を見ました」

 

 前触れもなく語りだしたマンハッタンカフェに、しかしトウカイテイオーは黙って耳を傾けた。

 

「あの人が出てきました。チームを立てたから、一緒に走らないかと言ってきました。……私が誘われた時と、全く同じ言葉だったんです。ですから私も、あの時と同じように返しました。そして……」

「……そして?」

「灰になって消えました。そして、その夢も終わりを告げた……」

 

 消え入るように呟いてから、彼女はゆっくりとトウカイテイオーの方へ振り向いて、

 

「以前、私は何があってもテイオーさんの味方だとお伝えしましたが」

「覚えてるよ。ボクが後輩だから、って」

「ですが、今日この日だけ、私はあなたの敵になろうと思います」

 

 曲が終わりを告げると同時に、マンハッタンカフェがイヤホンを外して立ち上がる。

 

「負けませんよ、テイオーさん」

「……ボクも。カフェセンパイだからって、容赦しないからね」

「望むところです」

 

 言葉を掛け合って、互いに笑う。

 思えば、こうして彼女と正面から競い合うのは初めてのことだった。もちろん、併走や模擬レースなどで共に走った覚えは幾度となくあるが、こうした勝負の場に二人で立つことは、この一年と少しの間で一度もなかった。

 だからこそ、トウカイテイオーは少しだけ身構えていた。前々から走ったことのあるゴールドシップとはワケが違う。それが緊張なのか、あるいは武者震いなのかは分からなかったが、胸にあるのは新鮮味のある不安だった。

 それからしばらくして、近づいてくる足音に二人が降り返る。

 

「よーっす、調子どうだ?」

 

 果たして、向こうから歩いてきたのは制服姿のゴールドシップだった。

 

「ゴルシ」

「おう、携帯預かっとくぜ。にしても、アタシがこの役回りすることになるなんてなあ」

「……残念です。アナタが出走すれば、このレースは私たち三人で走る初めてのレースになったかもしれないのに」

「ホントだよ、なんで急にやめちゃったのさ。トレーニングにも全然顔出さなくなったし!」

「そこはまあ、仕方ねえよ。ゴルシちゃんは忙しいんだから」

 

 肩をすくめるゴールドシップに、トウカイテイオーはそれ以上を聞かないでおいた。質しても、適当なことが返ってくることは目に見えていたから。ただ、隣に立つマンハッタンカフェは何か心当たりがあるのか、じっと彼女のことを見つめていた。

 その視線に気が付いたのかは分からないが、ゴールドシップは手をひらひらと振って口を開く。

 

「ま、次は菊花賞だ。それまで無事でいろよ」

「うん」

「アナタに言われなくとも」

 

 二人がそんな言葉を返したところで、ふと。

 

「……ああ、分かったかもな」

「分かったって、何が?」

「正直な、つまんねーと思ってたんだ。けど、こっち側もそんなに悪くねえな、カフェ?」

 

 問いかけに答えたのは、トウカイテイオーでもマンハッタンカフェでもなく。

 

「テメーら、まだこんなとこいたのかよ」

 

 ゴールドシップの背後から近づいてくる、一人のウマ娘であった。

 不機嫌そうに細められた相貌に、口元から覗く鋭い歯が印象的だった。背丈はゴールドシップより少し小さいものの、彼女の立ち振る舞いがそうさせるのか、一回りも二回りも大きく見える。総じて、荒々しさを感じさせる乱暴なウマ娘であった。

 そんな彼女に気づいたゴールドシップは、その肩へと腕を回して、

 

「シャカールじゃねーか、おい! いつまで経っても来ねーから出走停止したかと思ったぜ!」

「……調子整えてたンだよ。お前のせいでだいぶ調整にズレができちまったから」

「なんだよ、アタシのせいか? 乗ったのはお前の方だろ?」

「ほとんど誘拐だろうが! オレにばっかり計算担当させやがって! 電卓使え電卓!」

 

 乱暴に声を上げながら、エアシャカールがゴールドシップの腕を振り払う。そうして吐き捨てるように舌打ちをする彼女へ声をかけたのは、マンハッタンカフェであった。

 

「……怪我の方は大丈夫ですか、シャカールさん?」

「何とかマシにはなったなァ。お前と張れるくらいには治ってるから安心しろよ」

「なら、よかったです」

 

 短く言葉を交わしてから、エアシャカールが隣に立つトウカイテイオーへと視線を向ける。

 

「……こうして顔を合わせるのは、初めてか?」

「うん。でも、知ってるよ。カイチョーと同じチームだから」

「そうかよ。オレもお前のことは知ってる。皐月賞で無茶苦茶な走りしてくれたからなァ」

「あれは……ほとんどジョーダンセンパイのせいだよ。ボクのせいじゃないもん」

「なら、今日はもっと滅茶苦茶になる。だろ?」

 

 揶揄うような笑みと共に、エアシャカールはゴールドシップへと言葉を投げた。けれど彼女は明後日の方を向いたまま、何も答えなかった。その意味深な素振りに、トウカイテイオーはマンハッタンカフェと視線を合わせるが、彼女は呆れたように目を伏せたまま首を横に振るだけであった。

 そんな彼女に舌打ちを吐いてから、エアシャカールが歩き出す。

 

「じゃあ、オレはもう行く。お前らもこのままだと遅れンぞ」

「だな。よーし、二人とも行ってこい! ゴルシちゃんがしっかり応援してるからな!」

 

 どん、と強く背中を押された二人が、ターフまで続く道を歩き始めた。

 そして。

 

「カフェ!」

 

 降りしきる雨の中、雨粒が地面を跳ねる音に紛れて。

 ツインターボのそんな叫びが、響き渡った。

 

「……ターボさん」

「今日も、待ってるからな! 一番前で、カフェのこと!」

「ええ。私も……今日こそは、必ず追いつきますから」

「約束だぞ! あ、指切りしよ、指切り!」

「……構いませんが」

 

 差し出された小さな指に、マンハッタンカフェが自分の指を絡めていく。

 その仕草に頬を緩めたツインターボは、しかしすぐに残念そうな顔で空を見上げた。

 

「晴れてたら、もっとよかったんだけどなー」

「雨は嫌いですか?」

「うん。だってびちょびちょになるし、髪も重たくなっちゃうし」

「そうですか」

 

 頷いてから、マンハッタンカフェはトウカイテイオーへと視線を向けて、

 

「いったい、誰のせいなんでしょうね?」

 

 その囁きをかき消すように、ファンファーレが鳴り渡った。

 

 

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