Absolute One   作:宇宮 祐樹

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03 ReTrail One / 目指すべきモノ

 

「ほんとに誰もいない……」

 

 寂し気に漏らしたトウカイテイオーの言葉が、閑散としたチームルームに響き渡った。

 

「さすがに、誰か出迎えてくれると思ったんだけどなあ」

 

 渋々、といった様子でぼやきながら、机の上へ荷物を載せる。ゴールドシップはともかく、あの二人すらいないというのは意外だった。しかしながら、あの二人ならおかしくもないか、という妙な納得も心のどこかにあった。マンハッタンカフェも彼も昨日初めて話したが、それぞれが独特のペースを持っているということは、なんとなく理解できた。

 ふと壁に掛けてある時計へ目をやると、文字盤は午後の二時四十二分を示している。トレーニングを始めるには、いつもより少し遅いくらいの時間だった。先日までなら教官に小言を言われる前に急いで準備をする必要があったが、今日からそれが無いと考えると、少しだけ気分が楽になった。

 深く息を吐いてから、そういえば、と気づいたようにトウカイテイオーが視線を巡らせる。

 

「ホワイトボード……」

 

 視界に入ったそれには、いくつかの短い文が記されていた。

 

『本日は晴天のため、トレーニングはいつも通り第二レース場のAコートを借りました。

 四時には顔を出すので、それまでに最低でもウォームアップは済ませておいてください。

 合流したら最初にタイム測定をしてから、デビュー戦に向けてそれぞれメニューを伝えます。

 カフェとゴルシは面倒くさがらず、きちんとテイオーの面倒を見ること!

 テイオーも遠慮せず、分からないことや手伝ってほしいことがあったら二人に聴くこと!

   

頑張れ! 九十九』

 

「……ホントに駅の伝言板みたい」

 

 言ってから、何の中身もない感想だな、とトウカイテイオーは思った。強いて言うなら、彼はもう少し淡泊な文章を残すかと予想したが、それ以上のものはなかった。

 もう一度時間を確認してから、ふとトウカイテイオーは自分が入ってきた扉を見つめると、そこからひょこりと顔を覗かせる。このチームルームがあるのは、普段彼女が授業を受けている本棟からかなり離れたC棟の四階、それもその最奥だった。当然、人の気配は全くなく、廊下には窓から吹き込む風の音が響いているだけであった。

 

「誰も来ない……よね?」

 

 ぴしゃりと扉をしっかり閉じると、トウカイテイオーは制服のボタンへと手をかけた。

 学園指定の赤いジャージに袖を通し、最後にジッパーを首元までしっかり上げる。背が伸びるから、と少し長く注文したズボンの裾を挙げたところで、ふと彼女が顔を上げる。

 

「伝言板なら、ちゃんと書いておかないとだよね」

 

 マジックの蓋を開けて、少し考えてからホワイトボードに筆を走らせる。

 そうして満足したように頷くと、彼女はレース場へと向かって駆けだした。

 

『先に練習してます。みんなも早く来てね!』

 

 

「テイオーさん」

 

 控えめな声がかけられたのは、ウォームアップを終え、それでも時間が余ったので何週かレース場を回ったのち、少し休憩している時だった。振り向くとそこには、トウカイテイオーと同じくジャージ姿に着替えたマンハッタンカフェの姿が見える。流れる風が、微かなコーヒーの香りを運んできた。

 

「あ、カフェセンパイ」

「……ですから、その呼び方はやめてくださいと」

 

 小さく息を零して、マンハッタンカフェはトウカイテイオーの隣で柔軟を始める。ふと携帯で時間を確認すると、液晶には15:40の文字が映し出されていた。

 

「それにしてもセンパイ、遅かったよね。何か用事でもあったの?」

「チームルームで少し、コーヒーを頂いていました。時間も少しあったようなので」

「……サボり?」

「自分の時間を大事にしているだけです。このチームの方針ですから」

「え、初めて聞いたよそんなの」

「面倒だから誰も口にしていなかっただけですよ」

 

 肩の調子を確かめながら答える彼女に、トウカイテイオーは取り残されたような感じがして、少しだけ不満になった。けれどすぐに、あのメンツならおかしなことではないか、とくたびれた納得を覚えていた。

 よく言えば自由にのびのびと、悪く言えば意識が低いのがこのチームの特徴らしい。先行きは言ってしまえば昨日から不安であったが、縛るものが何もないというのは、少しだけ魅力的に感じた。

 

「テイオーさんはいつから?」

「三時前にはもうここにいたよ。今は時間が余ったから走ってたとこ」

「マジメですね。よければあの人が来るまで併走、付き合いますよ」

「ホント!? ありがと、カフェセンパイ!」

 

 朗らかな笑みを零す彼女に、マンハッタンカフェは静かに頷くだけであった。

 

「そういえば、ゴルシは?」

「さあ? 時間になれば来るでしょうから、気にしなくてもいいですよ」

「テキトーだなあ……」

「それより併走しましょう。時間もそこまでありませんし」

「あ、うん! よろしく!」

 

 嬉しそうに声を挙げながら、トウカイテイオーがマンハッタンカフェと共にスタート位置に着く。

 思えば、こうして誰かと走るのは久しぶりのことであった。実力が乖離しているのか、もしくは疎まれているのか、あるいはそのどちらもなのか、トウカイテイオーの併走に付き合うウマ娘は少なかった。その中で付き合ってくれていたゴールドシップも、チームの関係でここしばらくは顔を合わせていない。そう考えたところで彼女は、なぜか身体が上手く動かなくなっていることに気が付いた。レースでなく他人と走るとき、自分はどうしていただろう?

 ふと隣のマンハッタンカフェが足を止めるのを見て、トウカイテイオーも少し先で振り返る。

 いつもより上がっていた息を肩で無理やり落ち着かせながら、首を傾げた。

 

「どうしたの?」

「時間です」

「え」

 

 彼の呼びかけが聞こえてきたのは、そんな辺鄙な声を上げた直後だった。

 

「お疲れさん、二人とも」

「と、トレーナー? 早くない?」

「早いも何も、時間通りだろ。それとも何だ、俺が聴いたらマズい話でもしてたか?」

「別に、そういうわけじゃないけど……」

 

 ボードを脇に抱えながら、彼は疲れたように息を吐く。そんなに時間は経っていないと思っていたが、気づけば三十分も走っていたらしい。普段より息が上がっていることも当然のことだった。

 熱くなっている顔を手で仰ぐトウカイテイオーの隣で、マンハッタンカフェが言葉を続ける。

 

「併走をしていました。私とテイオーさんも、ウォームアップまで終わっています。ですが、テイオーさんは少し調子が悪いようで……走っている最中も、どこか上の空でしたが」

「当然だろ、初のチーム練習なんだ。大方、足並みを揃えられなくて困ってただけだろ」

「……ご、ごめんね。併走なんて久しぶりだったから、やり方忘れちゃって」

「謝らなくていい。それに、二人が自分から何かやってるだけで俺としては嬉しいよ。それぞれが別々に練習してたら、どうやって全員の仲を取り持とうか来る途中に考えてたくらいだからな」

 

 そうやって笑っていたところで、ふと彼が何かに気づいたように周囲を見渡した。

 

「……ゴールドシップはどこだ?」

「知りません」

「またか……アイツ、今日はタイム測るって書いたのに」

「そもそも見てすらないと思いますが……」

「つまり、いつも通りか」

 

 短く呟いてから、彼は胸に吊るしてあったストップウォッチへと手をかける。

 

「二人とも、ウォームアップまでは終わってるんだったよな?」

「うん」

「じゃあ早速だが、一人ずつタイム測定するぞ。テイオーからな」

 

 言われるがまま、息を整えながらトウカイテイオーがスタート位置に立つ。足回りの調子を確かめながらふと横を見ると、準備ができたか、と言わんばかりに首を傾げる彼と、その隣でボードをじっと覗き込んでいるマンハッタンカフェの姿が見えた。親指を立てて合図をすると、彼が頷いてから口を開く。

 

「とりあえず好きに走ってみろ。でないと調整の意味がないからな」

「わかったよ」

 

 応えて、トウカイテイオーが両脚に力を込める。

 

「スタート」

 

 気だるげなその掛け声と共に、彼女はターフを蹴りだした。

 目に映る全てが背後へと流れてゆき、全身を打ち付けるような風が包む。併走によってほど良く暖まった身体はきちんと動いてくれて、一歩ずつ大地を踏みしめる感覚が鮮明に伝わってくる。先程まで感じていた緊張が嘘のように消えていて、思わず口元に笑みを浮かべながら、トウカイテイオーは疾走を続けていった。

 最終コーナーを曲がり、いつものようにスパートをかける。肺が干上がるような、しかしどこか心地よい感覚が全身を支配する。そしてトレーナーの隣を通り過ぎたところで、とつ、とつと速度を落としながら、トウカイテイオーは背後を振り返った。

 ぱつぱつと手首だけで拍手をするマンハッタンカフェの隣で、トレーナーがボードへとペンを走らせる。

 

「二分十一秒〇七」

「お、いいじゃん!」

「ああ。基礎は申し分ないな。流石だ」

 

 ペンのボタンをノックしてから、彼がトウカイテイオーと目を合わせる。

 

「だが、まだ伸びる部分もあるな」

「っていうと?」

「細かいところはいくつかあるが……強いて言うなら走行フォームだな。多分お前のソレ、我流だろ。所々で粗削りな部分が見える。それがダメだ、とは言わないが、かといってそのままでいい、とも言えない」

「……つまり、いいところは伸ばして、悪いところは矯正する、と?」

「下地は出来上がってるから、デビュー戦に向けてはそうした調整になる。頑張れよ」

「うん!」

 

 正直、退屈そうな練習になるな、とは思った。他人に走り方を矯正されたことはないし、それはやり方一つ変えるだけで済むような簡単な話ではないだろう。長い時間を要することに不安を感じたが、それはそれとして基礎は出来上がっている、という評価は嬉しかった。

 

「じゃ、次はカフェだ。テイオーと同じように、とりあえずいつも通り走ってきな」

「分かりました」

 

 小さく頷いたマンハッタンカフェが、とてとてとスタート位置へ走っていく。そうしてストップウォッチを構えた彼が抱えたボードを、トウカイテイオーは先程の彼女のように覗き込んだ。薄いインクで印刷された表には、びっしりと数字が並ぶ欄が二つと、その隣にぽつんと残されたように数字が記されている一つの欄があった。

 二.十一.〇七。その隣の欄の最後尾に刻まれていた数字は、二.一四.五九。

 

「スタート」

 

 間延びした彼の掛け声で、マンハッタンカフェが走り始める。遠のいていく彼女の影を眺めていると、ふと彼が声をかけた。

 

「まだ発展途上なんだ。といっても、最低限は出来上がっているが」

「……うーん、まあ、確かに」

「ただ、アイツの武器はスパートにかけての爆発力だ。そのための導火線をきちんと引けるように、ってのがこれまでの課題だったが……今後はその引かれた導火線へ、適切なタイミングで火を点けられるように、ってところだな」

 

 ぐるりとコーナーへ差し掛かるマンハッタンカフェを見ながら、彼はそう言葉を漏らす。

 確かに他のウマ娘よりは、トウカイテイオーから見てもきちんと走れているように見えるが、言ってしまえばそれまでだった。敵ではない、とまでは言わないが、かといって実力が拮抗してるとも言い難い。そこまで考えたところで、センパイに対して失礼かな、なんて思った。

 立っているままというのも疲れたので、トウカイテイオーがその場に座り込む。そんな彼女の背後から声が聞こえてきたのは、ほとんど同時だった。

 

「お、やってんじゃねーか」

 

 振り向いた先に立っていたのは、ジャージ姿に着替えたゴールドシップであった。

 

「遅刻だぞ」

「しょーがねーだろ。ちょっくら人と会ってたんだからよ」

「……急ぎだったのか?」

「ま、そこそこ」

 

 頭の後ろに手を回しながら答える彼女に、深く息を吐いてから、

 

「ウォームアップは」

「来る前に柔軟とストレッチはやっといたぜ!」

「なら、カフェの次だ。タイム測定するから準備しておけよ」

「あいよっ」

 

 ゴールドシップが答えてからすぐ、マンハッタンカフェが二人の前を通り抜ける。その影は、遠くで見ていたそれよりもずっと早く、吹き抜ける風がターフに静かな波を立てていた。

 そのまま減速したのち、膝に手を当てながら荒い息を整える彼女の傍へ、彼が近づいていく。

 

「…………タイム、は……」

「二分十四秒と二八。自己ベスト更新だな」

「ありがとう、ございます……」

 

 額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、マンハッタンカフェは短く答えた。そのまま彼女はトウカイテイオーの方へ歩いていくと、その隣へぽすり、と腰を落とす。

 

「おめでと、センパイ!」

「テイオーさんには及びませんが……」

「でも、ちゃんと成長してるってことじゃん! すごいよ!」

「……そう、ですか」

 

 黒いタイツで覆われた膝を抱えて、そのままマンハッタンカフェが顔を埋める。急なその行動に大丈夫なのかな、とトウカイテイオーは彼女の顔を覗き込もうとしたところで、ゴールドシップに頭を強く撫でられた。

 

「わわ」

「じゃ、ちょっくら行ってくるわ。見とけよ、テイオー。この生まれ変わったゴルシちゃんの走りをな!」

「あ、うん! がんばってね!」

 

 ぐぃ、と強く親指を立てたゴールドシップは、ボードへ記入する彼の背後に立つと、その足へ思い切り蹴りを入れた。唐突なその足蹴にトウカイテイオーの表情が固まるが、対して彼は驚いたような様子も見せず、慣れたように彼女の頭をぐい、と押さえつける。

 一連のその流れに困惑していたトウカイテイオーが、助けを求めるように隣のマンハッタンカフェへ視線を投げる。しばらくして、ようやく膝から顔を挙げた彼女はトウカイテイオーの視線に気づくと、やつれたように答えた。

 

「いつものことなので。慣れてください」

「た、大変だね……」

「まあ、私に被害は及ばないので大丈夫ですよ」

 

 そういう問題じゃない、という言葉をトウカイテイオーはすんでのところで飲み込んだ。

 やがてゴールドシップがスタート位置に立ち、彼もストップウォッチを構える。

 

「行ってこい」

 

 かけた声は、トウカイテイオーやマンハッタンカフェのものより少し、やつれたものであった。

 

「……そういえば、ゴールドシップとカフェセンパイってどっちが先だったの?」

「私です。……何か、気になることでも?」

「いや、ゴルシがどうしてこのチームに入ったのか気になって。あのね、ゴルシっていっつも自分に合うトレーナーが見つからないー、って文句言ってたんだよね。だから正直、こうやってチームで活動してること想像できなくて」

「……まあ、単純にあの人が都合のいい存在だったからでは?」

「ってことは、カフェセンパイも知らないんだ」

「ある日、急にチームメンバーになってましたから。私も驚きました。まあ、一緒にトレーニングしてくれる時はちゃんとしてくれますから、いいチームメイトだとは思っていますが……」

 

 結局、彼女が考えていることは何も分からない。それはきっと彼も同じなのかな、なんてことを思いながら、トウカイテイオーはレース場を回る葦毛の影を眺めていた。大地を駆ける彼女の姿は、いつか見たあの時とは全く別物だった。それこそ、彼女の言う通り生まれ変わったように感じた。

 そうして、ゴールドシップが走り抜けたと同時、彼がストップウォッチを止める。

 

「全員、集合しろ」

 

 言われて、トウカイテイオーとマンハッタンカフェも、汗を拭うゴールドシップの傍へ寄った。

 

「どうだったよ、トレーナー」

「二分一〇秒〇三」

「げ、マジかよ! いいセン行ってると思ったんだけどなあ」

「タイムは確実に縮まってるから安心しろ。もう少しすれば、九秒も平気で切れるようになる」

「ホントかねえ」

「いつもの強気はどこ行ったんだよ。お前ならできるから心配するな」

 

 呆れたように息を吐きながら、彼はボードでゴールドシップの背中を軽く叩く。そのやり取りで、彼女がこのチームに入った理由が、少しだけ理解できた。

 

「とりあえず全員の測定は終わったが……そうだな、一人ずつ行くか。まずはテイオーから」

「はーい!」

「さっきも言った通り、デビューに向けてはフォームの矯正を主軸にトレーニングしていくか。基礎は他の二人に比べてしっかり出来上がっているみたいだが……だからって基礎練、サボるなよ?」

「しないってば。大丈夫」

「どうだか。昨日の一件を見るにお前、詰めすぎると逃げがちだからな」

「うげ、やめてよもう! アレは例外だって!」

「冗談だって。お前が真面目なのは分かる。しっかり励め」

 

 少し赤くなった頬を膨らませながら、トウカイテイオーが渋々と言った様子で頷く。それを確認すると、彼は次にマンハッタンカフェのことをペンで指しながら、口を開いた。

 

「カフェは順調だが、正直なところを言うともう少し詰めたいところではある。基礎はこのままでいいとして、問題はレース勘だな。スパートをかけるタイミングとか、全体的なペース配分とか……そこのあたりだ」

「分かりました」

「まあ、このあたりは実戦形式でやってみるのが一番だな。それこそテイオーは矯正のために走らなきゃいけないし、慣らすために併走だったり実戦形式だったり、色々してみるといい」

「だってさ、カフェセンパイ!」

「……その時は、よろしくお願いします」

「そして最後、ゴールドシップだが」

 

 すると彼は困ったように後ろ手で頭を搔きながら、まあ、と一つ間を置いて、言った。

 

「強いて言うなら持久力と集中力だな。足りない、というわけではないが、もっと伸ばしたい」

「それだけかよ?」

「予想以上に順調だからこのまま行け、って言ってるんだ。お前、平気で遅刻とか欠席するくせにどこでこんなトレーニングしてるんだよ。俺が教えてほしいくらいだ」

「イヤだね。乙女の秘密はそう簡単に覗くもんじゃねーよ」

「……とにかく。お前はこのままトレーニングしつつ、適宜二人のサポートをしてやってくれ。さっき言ったように併走でも実戦形式でもいい。あと、そのためにちゃんと時間通りトレーニングに来い」

「前向きに努力するわ」

「お前なあ……」

 

 適当に返事をするが、しかし彼女が他人のためならやることは人一倍しっかりやるということを、トウカイテイオーは知っていた。以前から併走には二つ返事で付き合ってくれていたし、マンハッタンカフェとの練習も同じ様子なのだろう。そして彼ならそれは承知の上だから、これ以上は何も言わないのだと彼女は一人で納得していた。

 ボードへのメモを終えると、彼はうん、と頷いてから口を開く。

 

「じゃあ、後は各自でトレーニングしとけ。俺はもう行く」

「え、もう!? 一回タイム測っただけじゃん!」

「今日の目的はそれだからいいんだよ。それぞれの走りとタイムを見て、今後の課題を示し、それに見合ったトレーニングメニューを作成して担当に伝える。それがトレーナーの仕事だ。それに……」

「……それに?」

「ヤニが切れたから、もう集中力ないんだよ」

「ちょっと!」

 

 声を荒げるトウカイテイオーを無視して、彼が背中を向けながら手を振った。

 

「カフェとゴルシは、トレーニング用具とかの場所、テイオーに教えといてくれ」

「分かりました」

「ある程度やったら解散でいいからな。じゃ、頼んだ」

「おぅ、お疲れー」

「あ、ホントに行っちゃうの!? ねえってば! おーい!」

 

 ぶんぶんと手をふっても、彼が足を止めることはなく。ぽかんと口を開いたまま固まったトウカイテイオーの肩に、マンハッタンカフェが優しく手を置いた。

 

「……あの人は基本的に放任主義ですから。慣れましょう」

「慣れられる気がしないよ……」

「大丈夫だって、こういうのは気づいたら順応してるモンだからよ。とりあえずどうする、カフェ? テイオーに場所教えるついでに、ラダーとかいろいろ取ってくるか?」

「そうですね。ではテイオーさん、こちらに……」

 

 手招きを一つしてから、マンハッタンカフェとゴールドシップが歩き出す。

 少しだけ迷ってから、トウカイテイオーは二人の後を追って脚を踏み出した。

 

 

「……まだ、こんな時間なんだ」

 

 ぼうっと眺めていた空は、赤みがかかり始めているころだった。

 もう一度携帯で時刻を確認するが、液晶に映った数字は17:55から変わらない。普段ならあと三十分くらいはレース場に残っていたはずだった。しかしながら十七時半ごろに二人は既に解散してしまい、残されたトウカイテイオーもトレーニングに身が入らなかったため、十分程度でレース場を後にしてしまった。

 不安である。自由と自堕落の天秤があるとすれば、このチームのそれは自堕落の方に大きく傾いている気がした。明るい陽が射す下駄箱という、そうそう訪れない場所で靴を履き替えてから、トウカイテイオーが校舎を後にする。帰路に着いた足取りは、先行きに対する不安なのか、心なしか重たいものだった。

 そうして校門に差し掛かり、この後は何をしようか、と考えを巡らせていたとき。

 

「テイオー?」

 

 聞き覚えのある呼び声に、トウカイテイオーはうきうきと笑みを浮かべながら振り返った。

 

「カイチョー!」

「おっと」

 

 ぽすり、と懐に飛び込んでくる彼女に、声の主――シンボリルドルフがくすりと笑う。

 

「奇遇だね、こんなところで会えるなんて! どうかしたの?」

「生徒たちの要望で確認しておきたい場所があってね。そこに出向いてたのさ」

「確認?」

「C棟の裏に前まで使われていた喫煙所なんだが……どうにも不思議なことに、立ち入り禁止の看板が立ててあったんだ。今のトレセン学園は全面禁煙な上、あの喫煙所にも別に立ち入りを禁ずるような危険な箇所はなかった。私の予想では、誰かが勝手に看板を立てて、そこを私的に利用していると思うんだが……」

「あ、あはは……かもね……」

「ん? 何か知ってるのか、テイオー?」

「全っ然! そもそもボク、煙草とかキョーミないし! 匂いも苦手だし!」

 

 あははは、と無理やりいつもの笑顔を浮かべながら、トウカイテイオーが明後日の方向を向いた。明らかな心当たりがあるが、それは言わないことにした。もしここで報告すればまたチームを探さなければいけないし、何よりも、一度仲間と言った手前、それを誰かに伝えることは憚られた。

 困ったように顎に手を当てる彼女に、そういえば、とトウカイテイオーが話題を切り出す。

 

「ボク、チームに入ったんだよ!」

「みたいだな。ゴールドシップがつい二時間くらい前に話をしてくれたよ」

「え、ゴルシが!?」

 

 遅刻の理由は分かったが、それ以上の驚きがあった。

 

「知り合いだったの?」

「たまに彼女の気まぐれで話をするくらいさ。確かに、とんでもないことに巻き込まれることもあるが、彼女は私と対等に話してくれる数少ない人物だ。悪い気はしないし、新鮮な気持ちになるよ」

「さ、さすがカイチョー……」

 

 懐が深いのか、あるいは順応性が高いのか。きらきら、というよりは呆れにも近い目で眺めていると、シンボリルドルフは彼女の頭を優しく撫でながら、口を開いた。

 

「チームの雰囲気はどうだ?」

「んー……正直、ユルいのかな? みんなのびのびやってるみたいだけど、のんびりしすぎっていうか。トレーナーもあんまりトレーニングは見ないみたい。だからこそ頑張らないと! ってなるけどね」

「そうか。まあ、足並みはゆくゆく揃えていけばいいさ。皆に歩み寄るも良し、テイオーが皆を率いるも良し。チームに所属するということは、そういうことも考えなければならない。わかるね?」

「うん!」

 

 ぺか、なんて少し気の抜けた笑みを浮かべる彼女に、シンボリルドルフもつられてくすりとほほ笑んだ。

 

「それにしても、テイオーもこれからレースに出てくるのか。気を引き締めないとな」

「ボクもちゃんとしないとだよ。カイチョーみたいにいっぱい一着を取って、みんなに褒めてもらわないと」

「……それは少し違うんじゃないか、テイオー」

 

 首を傾げるトウカイテイオーの瞳を、彼女はしっかりと見つめながら、

 

「君はもう籠の中の鳥ではない。ここに脚を踏み入れた時点で、目指すべきモノはもう私ではないはずだ」

 

 そうして、今までぴったりとくっついていたトウカイテイオーの身体を離した。

 

「さて、私はもう行くよ。まだ少し、仕事が残っていてね」

「あ……うん、分かったよ。頑張ってね、カイチョー」

「テイオーもだ。レースで会える日を楽しみにしているよ」

 

 去ってゆく彼女へ、トウカイテイオーは手を振り続ける。

 その姿が消えても、告げられた言葉が頭から消えることはなかった。

 

 

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