■
「っしゃあ! 今日はアタシの勝ちだな!」
茜色に染まる空を背負いながら、ゴールドシップは高らかに声を上げる。足元で大の字になって寝転ぶトウカイテイオーは、そんな彼女をぼんやりと眺めていた。毎回どこにそんな元気が残っているのさ、という言葉は、干上がった喉から出てくることはなかった。
額に張り付いた前髪をかき上げて、軋む体を起こす。それでも整わない息を無理やり方で落ち着かせているうちに、目の前にボトルが差し出される。顔を上げたそこには、少しだけ息を切らしているマンハッタンカフェの姿があった。
「あ、カフェセンパイ……ありがと……」
「お気になさらず」
短く答えて、彼女も自分のボトルへ口をつける。思えば、彼女もかなりスタミナはある方だった。少なくとも、未だに立ち上がる気力すら湧いてこない自分より。おそらく、基礎体力はある方だと思う。チームに入る前からトレーニングはサボらずこなしてきたし、それこそ体は彼女よりも丈夫――否、彼女の体がか弱いというのは、この二ヶ月の付き合いで理解できた。
では、何故ここまでスタミナに差が産まれているのだろう。そんなことを考えながら、トウカイテイオーがじっと横顔を眺めていると、その視線に気づいたマンハッタンカフェは不思議そうに首を傾げた。
「……どうか、しましたか?」
「いや……カフェセンパイもゴルシも、どうしてそんなに体力あるのかな、って……」
「ペース配分を気にかけてるからだよ」
言葉をかけたのは、ストップウォッチを手にした彼だった。
「ボクも、ちゃんと考えてるつもりだけど」
「別にお前が何も考えてない、とは思ってない。ただ、根本的な走り方が違うんだよ」
腕時計で時計を確認しながら、彼が続ける。
「ゴルシもカフェも、どちらかと言えば後半でスパートをかけるタイプ、ってのは一緒に走ってるうちに分かっただろ?」
「うん。特にカフェセンパイは差しで、ゴルシは追込だよね?」
「そういった走り方で最も重要なのは、スパートをかけるタイミングだ。そのためにはレース全体のペースを読み取る力も重要だが……そもそも、スパートをかけるだけのスタミナが必須になってくる。ここだ、って時にスパートがかけられなかったらおしまいだからな。だから二人とも、ペース配分には人一倍気を使ってるんだよ」
「そうなんだ……」
感心したように呟くトウカイテイオーに、彼は呆れたような息を吐いていた。
「……今更だが、そんなことも知らないでよく今まで勝ってきたよな、お前」
「む、何その言い方。もしかしてバカにしてるの?」
「褒めてるんだよ。まあ、真面目な話をすると、多分勝てる走り方を体が覚えてるんだろうな」
「ボクの体が?」
こてん、と首を傾げながら、トウカイテイオーが自分の足へと目を向ける。話し込んでいたおかげで、脚にはだいぶ力が入るようになってきた。そうしてようやく立ち上がった彼女へ向けて、彼が話を続けていく。
「お前はどちらかと言うと、レースの展開を自分で作って、そのまま走り切るタイプだ。だからスタミナは温存するもんじゃなくて、ゴールまで出し切るものだ、って体が覚えてるんだよ。今までそうやって走ってきただろうし、それで勝てるだけの自力があったからな」
「……もしかして、直さなきゃダメ?」
「二人みたいな走り方をするつもりなら、好きにしろ」
突き放すような彼の物言いにも、そろそろ慣れたころだった。
「それとカフェ、お前はもう少しスパートをかけるタイミングを焦った方がいい。今は三人で走っているから簡単に詰められるが、本番……それこそ、デビュー戦は八人でレースするんだ。今のタイミングだと、遅すぎるかもしれない。正味、実戦にならないと分からないところではあるが……もう少し、前へ行く意識をつけておけ」
「わかりました……」
「あとゴールドシップ。指示したことはできるようになっているから、課題はやはり持久力だな。今のままでいけばデビュー戦はおそらく問題ないが、今後のことを考えるとそこを集中的に強化したいところだ」
「はいよ」
「それと……そうだな、次から試しにレースの展開をいくつか予想しながら走ってみろ。無論、今もそうしているだろうが、それ以上に思考に集中力を割いて走ってみてくれ」
「何か意味あるのかよ、それ」
「物は試しだ。今のお前なら難しいことじゃないだろ」
不服そうなゴールドシップがマンハッタンカフェに視線を送るが、彼女は首を傾げるだけであった。
「じゃあ、また十分後にタイムの測定するぞ。時間もちょうどいいし、今日はそれでラストだ」
「うげ、まだやんのかよ! これがラストだと思って気合い入れたのに!」
「つべこべ言ってないで、さっさと戻れ。それとも、お前だけ先に帰るか?」
「わーったよ! ほら、お前らも覚悟決めていくぞ!」
「うわ」
「ちょっと……」
ずい、とゴールドシップが二人と無理やり肩を組みながら、スタート位置まで歩き出す。それを鬱陶しく思ったトウカイテイオーは何とか抜け出そうとするが、首元に回された腕はびくともしなかった。いつもならすぐに離してくれるのに、と思って見上げた彼女の顔は、どこか訝し気に歪んでいる。マンハッタンカフェもそれに気づいたようで、どう声をかけるか迷っているようであった。
そうしてゴールドシップは一度背後を振り返ると、自分たちについて来る彼に聞こえない声量で、話をはじめた。
「……なあ、おかしくね?」
「確かに、違和感はありますが……普通に戻った、というのが正しいのでは?」
「アタシたちのデビュー戦が近いからか?」
「順当に考えれば」
「テイオー、お前はどう思う?」
向けられた二人の視線に、トウカイテイオーがこてん、と首を傾げる。
「えっと……何の話?」
「何って、トレーナーに決まってるだろ。あいつ、ここ二週間くらいむちゃくちゃマジメにトレーニングしてくるじゃねーか。前はアタシたちに任せて、自分は勝手にヤニばっか吸ってたのに」
「いいことだとは思いますが……」
「そりゃそうだけどよ。でも、あの変わりようは絶対になんかあっただろ? 少なくとも、ああやってアタシたちに講釈垂れるようなヤツじゃなかったし。それが気になってよ」
「あー……」
思わず声を漏らすトウカイテイオーに詰め寄ったのは、意外にもマンハッタンカフェであった。
「……何か、あの人とあったんですか?」
「この前、少し二人で話したんだ。えーっと……もっとトレーニング見なくてもいいの、って。ちょうどその日、他のチームの練習のことを聞いててさ。だから気になって……」
「なるほど。……アイツもアイツなりに、他のチームと比べられて思うことでもあったのか?」
「確かに自堕落ですが、それで私たちに迷惑をかけるような人ではないですから……心を入れ替えた、というのもあながち間違いではないのかもしれません」
「なら、テイオーには感謝しねーとな」
うりうり、と頭を乱暴に撫でてくるゴールドシップに、トウカイテイオーが鬱陶しそうに目を瞑る。
てっきり、文句を言われるかと思った。趣味の時間が無くなったぞどうしてくれるテイオー、とかそれこそ彼女なら言いそうなものだが、今の彼女はかなり満足しているようであった。マンハッタンカフェの方も、満更ではない表情を浮かべている。総じて、いい方向に話は進んでいるようであった。しかしながら、トウカイテイオーは一抹の不安を拭いきることができなかった。
レースのためだけに生きるなんて、哀しい――あの夜に伝えられた彼の言葉が、頭の中で反芻される。言ってしまえば、それはただの杞憂に過ぎなかった。言葉を選ばなければ、大きなお世話だ、と切り捨てられるようなことである。しかしながらその言葉は、トウカイテイオーの耳に残って離れなかった。
「どうした、テイオー?」
じっと思考を深めていた彼女へ、ゴールドシップが語り掛ける。
「……なんでもないよ」
首を横にふって、トウカイテイオーは力のない笑みで返した。
■
「まだ帰ってなかったのか」
イヤホン越しに聞こえてきた言葉に、喫煙所のベンチで座っていたトウカイテイオーが振り返る。そこに立っていたのは、煙草とライターを手にした彼だった。
「CD、返したかったからさ」
「毎回思うが、トレーニングが始まる前でもよかっただろ。こんな遅くまで待つ必要なんて……」
「トレーナーって、ほんっと何も分かってないよね」
頬を膨らませながら、トウカイテイオーがイヤホンを外す。そうして鞄の中からCDケースを取り出すと、未だに言葉の意味が分かっていないのか、不思議そうに首を傾けたままの彼へ突き出した。
確かに彼の言う通りだと思う。いつ終わるか分からない、ましてやその日にここを訪れるかどうかすら怪しい彼を待つのは、あまりにも非効率だと思う。けれど、皆が見ている前でこのケースを渡すのは、それも何か違う気がした。二人だけの知っている場所で、二人だけしか知らないやり取りをすることに、きっと意味があるのだと思う。そのためなら、トウカイテイオーはいつまでもここで、彼を待つことができる気がした。
けれど、それを口にして彼に伝えるのはどうしてか憚られる。もやもやとした、けれどどれがどこか心地よいという曖昧な感情が、その言葉を遮っているような気がする。その感情を理解するのには、どれだけの時間が要るのだろう。少なくとも、明日や明後日、来月のような短い期間ではないと、それだけは理解できた。
やがて、口を噤んだままのトウカイテイオーへ彼が口を開く。
「どうだった?」
「やっぱり、よく分かんなかった……でも、いい曲だったと思うよ。ボクは、好き」
「なら、良かった」
軽く息を吐くと、彼はケースを受け取りながらトウカイテイオーの隣へと腰を下ろし、そのまま煙草へ火を点けた。そうして白い煙を、すっかり暗くなった空へ吐き出す彼へ向かって、トウカイテイオーが語り掛ける。
「そういえば、トレーナーはいつから吸い始めたの?」
「成人して、親父に祝いでライターと一緒に貰ってからずっと」
「トレーナーのお父さんも吸ってたの?」
「未成年に喫煙誘うようなクソ親父だったけどな。トレーナー目指すからにはそんなことできない、っつって断ってきた。だから、俺が二十歳になった時は嬉しそうにしてたよ。俺も……悪い気はしなかった」
「……じゃあさ。ボクも大人になって、一緒に煙草が吸えるようになったら、トレーナーも喜んでくれる?」
「さあな。走りに影響が出るからそんなの吸うな、って怒るかもしれないし、今みたいに適当な会話をしながら吸ってることを、嬉しく思ってるかもしれない」
「もー……そこは素直に『もちろん喜ぶ』、って言ってほしかったな」
「それ以前に、お前はこんなの吸えないだろ。苦いし臭うし、周りからも煙たがられるぞ」
けれど、トウカイテイオーはそれを嫌だとは思わなかった。今までのように彼と同じ時間を過ごせるのなら、それでも悪くないな、とさえ思えた。枯れた香りが、心のどこかに染み渡るようであった。
灰を落とす彼に、トウカイテイオーがそういえば、と口にしてから続ける。
「今日、二人が話してたよ。トレーナーのこと」
「……鬱陶しがってたか?」
「ううん、全然。むしろ、やっとちゃんとしてくれた、みたいなこと言ってた」
「本当か?」
訝し気に目を細める彼に、トウカイテイオーが首肯する。
「ボク、感謝までされたよ? お前のおかげだ、って」
「……そう、か」
じわりと染み出すような呟きを放って、彼が煙を燻らせる。そうして夜空を見上げた彼の横顔を、トウカイテイオーはじっと見つめていた。その口元には、どこか満足そうな笑みが、うっすらと浮かんでいる。
「よかったね、トレーナー」
「ああ」
やがてしばらくの沈黙のあとに、彼が煙草の火を消して立ち上がる。
「じゃあ、俺はもう行くぞ。三日後にはデビュー戦も控えてるんだから、お前もしっかり休んでおけよ」
「あ、ちょっと待ってよ、トレーナー」
「何だ」
「明日、また新しいCD持ってきてよ。まだ容量あるからさ」
じろり、と視線だけをこちらへ向ける彼に、トウカイテイオーは携帯を手にしながら告げる。すると彼は、少しだけ考える素振りを見せたあと、彼女の持っている携帯へ指をさしながら、答えた。
「次のCDだが、デビュー戦で勝てたら渡してやる」
「……急に? どうして?」
「まあ、少しな」
そこには何か考えがあるらしかったが、今のトウカイテイオーにそれが分かるはずもなかった。
「この前みたいなことせず、早く寝ろよ」
「分かってるって。……また、明日ね」
「ああ」
背中を向けたままってを振る彼に、トウカイテイオーが頷く。
そうして彼女は、ふたたびイヤホンを耳に着けると、プレイリストの続きを再生しはじめた。
■
どうにも、実感が沸いてこない。
薄暗い道の壁に背中を預けながら、トウカイテイオーはそんなことを考えていた。
緊張しているわけではない、と思う。産まれて初めてのデビュー戦なのだ。チームメンバーの二人や、友人たちと繰り返した模擬レースや、学園内で行った選抜レースとはわけが違う。一世一代の大勝負、と言うと少し誇張しすぎているかもしれないが、それくらいの気概で臨むウマ娘も、同じレースで出場している中にはいるかもしれない。
ただ、トウカイテイオーはそれが自分ではない、ということだけは理解していた。
これからレースに臨むのだ、という覚悟は確かにある。負けられない、というプレッシャーも。ただ、それ以上に大きかったのは、早くこのレースが終わってほしい、という願望であった。それは諦めや恐怖からくるものではなく、とにかく早くレースを終わらせたいという、言葉を濁さずにいえば、面倒からくる願望らしかった。
「こんなこと、なかったのにな」
レースを面倒だと思うことなど、これまでのトウカイテイオーには考えられないことだった。レースに勝てば皆からの視線を集められるし、たくさんの賞賛の言葉をかけられる。その質に差異はあれど、やはり誰かから褒められるというのは嬉しいものだ。だから、トウカイテイオーは褒められることを楽しみに、今までレースを走ってきた。
しかしながら、今回ばかりはどうしてか、それを楽しみにすることができなかった。
「トレーナーに怒られるかなあ」
言ったところで、そんなわけないか、とトウカイテイオーは苦笑した。
他のトレーナーならまだ分からないが、彼にこんなことを言っても、いつものように突き放した返しをされるだけだろう。もしかすると、ワガママなのはまだ直らないのか、と笑ってくれるかもしれない。そう考えると、自然とトウカイテイオーの口元に笑みが浮かんだ。
「……まだ、時間あるよね」
レースの開始までは、まだ三十分以上時間がある。携帯でそれを確認したトウカイテイオーは、そのままイヤホンを耳に着けて、再生ボタンをタップした。そうして、耳元の小さなスピーカーから音楽が流れ始める。あの夜、彼の車の中で聴いた曲だった。歌詞の意味も分からないし、それが何を意味しているのかも不明であったが、なぜかトウカイテイオーはその曲が気に入った。
流れるメロディーに合わせて首で小さくリズムを取りながら、軽く鼻唄を歌う。しばらくすると、一緒にレースに出るであろうウマ娘が何人かトウカイテイオーの前を通って、レース場へと出ていくのが見えた。その全員が、トウカイテイオーに対して不思議そうな視線を向けていたが、それはあまり気にならなかった。それだけ、自分がこのレースに対しての意気込みが薄いということに、トウカイテイオーが改めて気づいた。
「テイオーさん?」
ふと、声がかけられて、トウカイテイオーがイヤホンを外す。
視線の先に立っていたのは、不安そうにこちらを見つめる制服姿のマンハッタンカフェであった。
「あれ、カフェセンパイ? なんでここに?」
「様子を見てこい、と言われたので……デビュー戦だから、声でもかけてこい、とも……」
「そっか」
携帯にイヤホンのコードを巻きつけながら、トウカイテイオーが小さく答える。そんな彼女の様子を見て、マンハッタンカフェはじとっとした視線を彼女に送っていた。
「……余裕そうですね」
「そういうわけじゃないけど……なんだか、気が乗らなくて」
「不安なんですか?」
「ううん、勝つつもりだよ。ここで負けたら、なんて考えてたら、この先に行けないだろうしね」
そこでふと気づいたように声を上げると、トウカイテイオーが携帯をマンハッタンカフェへと手渡した。
「そうだ。カフェセンパイ、これ預かっといてよ」
「構いませんが……もし私が来なかったら、どうするつもりだったんですか?」
「ポッケに入れて走ってた。まあ、多分バレないだろうし」
「……たまに、テイオーさんが真面目なのか不真面目なのか分からなくなる時があります」
「最近、ボクでもそう思うよ」
溜息を吐いた彼女に、トウカイテイオーが笑って返す。
「じゃあ、行ってくるよ」
「お気をつけて」
小さく手を振るマンハッタンカフェに見送られながら、トウカイテイオーがレース場へと足を踏み入れる。数十分ぶりに顔を合わせた初夏の太陽が、彼女の瞳へと差し込んでくる。眩し気に目元を手で覆いながら見上げたそこには、いつの日にか見た、空っぽで空虚な空が広がっていた。
ざわついた風が肌を撫でる。それは微かな土の匂いと同時に、同じレースを走る彼女たちの圧をトウカイテイオーに伝えていた。デビュー前とはいえ、ここに立っているということは、それ相応の覚悟を胸に宿したウマ娘たちである。そんな彼女らに対し、こんな腑抜けた態度で挑むのは失礼かな、なんてことをトウカイテイオーは考えていた。それでも、このレースに対する情熱というか、そうしたものは結局湧いてこなかったが。
割り当てられたゲートを見つけて、トウカイテイオーがそこに入っていく。既に両隣のウマ娘は準備を整えている最中だった。両側から向けられる注目にも奇異にも似た視線を無視して、トウカイテイオーは小さく息を吐いた。
「ふぅ」
思考を切り替え、視線を前だけに集中。煩わしい情報を全て無視すると、先程までうるさく響いていた実況すらも、耳に入って来なくなった。全身に伝わってくるのは、頬を荒く撫でる風の感触だけ。それに僅かな心地よさを感じたトウカイテイオーは、研ぎ澄まされた
静寂。そして。
ゲートの開く音が、した。
「っ!」
踏み出した一歩目は、しっかりと大地を捉えていた。
そのまま二歩目、三歩目とターフを踏み抜いて、トウカイテイオーが速度を乗せていく。前に並ぶウマ娘は、二人。どちらも作戦は逃げらしく、既にぐんぐんとトウカイテイオーを含めた集団から距離を伸ばしていく。しかしながら、焦りはなかった。全速力で呼吸を乱しながら走る彼女たちを見ていれば、逆にこちらが落ち着くぐらいである。あれじゃあすぐにスタミナが切れるな、なんて考えていたころには、既に第一コーナーに差し掛かっていた。
「後ろは……」
ちらり、と視線を横へ流すと、後方の様子が見えてくる。前の二人に比べて、後方はそれほど白熱していなかった。おそらく、あの二人がすぐにバテると気づいているのだろう。となると、次に標的になるのは自分か――と、背後からじっとりと向けられるプレッシャーを感じながら、トウカイテイオーはターフを駆けて行った。
第二コーナーを抜けても、先頭の位置は変わらない。そうして直線に差し掛かったところで、すぐ後ろのウマ娘が速度を上げて、トウカイテイオーの横を通り過ぎていった。スパートをかけるには早すぎる気もするが、彼女の横顔から焦りは見られない。たぶん最後はあの娘と競るだろうな、なんてことを予想しながら、トウカイテイオーは今のポジションを保ち続けたまま、第三コーナーへと突入していく。
「うわ!」
堰き止めていた川が氾濫するかのように、周囲のウマ娘がどんどん競り上がってくる。絶対に勝たなければならない、という意志からくる荒いスパート。それに気圧されそうになりながらも、トウカイテイオーは何とか今の順位を維持し続けることに専念した。二度、抜かされはしたがそれでも、まだ本気を出す時じゃない。
すると、そこでふと、トウカイテイオーが自分へ伸し掛かってくる圧が薄くなっていることに気づく。
「……あれ?」
その違和感の正体は、三馬身先にあった。レース当初で抜け出していた逃げのウマ娘の二人のうち、一人がまだ先頭に残っていたのだ。それは、トウカイテイオーを含めた出走者の全員が予想だにしなかったことだった。息も途切れ途切れになった彼女へ向けて、全員の圧が向けられる。
きっと、このレースのターニングポイントはそこだった。ぎりぎりまで残していた彼女のスタミナが、多重に襲ってくるプレッシャーによってすり減らされていく。そうして、彼女の足取りが変化したその瞬間を、トウカイテイオーは見逃さなかった。
「ここ、だ!」
脚にこれまで以上の力を込めて、全速力で順位を押し上げていく。第四コーナーは既に通過し、ゴールまで残り二百メートルを切ったところ。スタミナの尽きた逃げウマ娘を追い上げたのは、トウカイテイオーともう一人、直線で迫ってきた彼女であった。そうして並んだとき、ふと視界の端に彼女の焦ったような表情がちらつく。その瞬間、勝った、とトウカイテイオーは口元に確かな笑みを浮かばせた。
余っていた体力を全て脚にかけて、大地を駆ける。目に映る景色は、流れていく芝と、突き抜けるような青空のみ。どこか寂しいその景色を疾走して、トウカイテイオーはゴールを踏み切った。
『一着は八番、トウカイテイオー! その差は四馬身! 見事、最後の競り合いを……』
遠くから響き渡る実況の声を右耳から左耳へ流しながら、トウカイテイオーがぽすぽすと芝の上を歩く。そこでふと、後ろを振り返ると、これまで共に走ってきた七人が自分へ視線を送っていることに気が付いた。
そこには敬意や悔しさといった色々なものが混ざっていたが、トウカイテイオーにとってそれは、今まで向けられたものとほとんど変わらないものだった。唯一違う点があるとすれば、今自分が立っているところが、ちゃんとしたレース場であることくらいか。それくらい、この勝利は普段のそれと代わり映えしないものだった。
走り終えれば情熱が湧いたり、いいレースだったという感想を得られるかと思った。
それこそ、ここから全てが始まるんだという、未来への希望を抱けるかと思った。
しかしながら結局、最後に残ったのは、全身に感じる疲労感と、この青空のような虚無感だけである。
故に。
「大したことなかったな……」
誰にも聞こえないよう、トウカイテイオーは小さく口の中だけで呟いた。
もしこれが彼に聴かれたら、もっと一緒に走ってくれた彼女らに敬意を払え、みたいに怒られるのだろうか。もしくは、そりゃよかった、なんていつものように突き放した言葉で流してくれるのだろうか。どちらかといえば言いそうなのは後者だが、何故かトウカイテイオーは前者の方が嬉しく思える気がした。そして、そこで真っ先にマンハッタンカフェやゴールドシップからではなく、彼からの言葉を想像するあたり、自分の中で彼の存在が大きくなっていることを自覚した。
何とも言えないその気分に曖昧な笑みを浮かべていると、ふとトウカイテイオーがあることを思い出す。
「そういえば、これでCD貸してくれるじゃん」
思えば、自分はそのために走っていたのかもしれない。だからレースのことを面倒に思っていたし、早く済めばいいと考えていたのだろう。そう考えると、このレースはトウカイテイオーにとって、初めて勝利のためではなく、モノのために走ったレースだった。ましてやそれが自分のデビュー戦ともなると、よりいっそう不純な動機に思えてくる。ただ、悪い気はしなかった。これでまた、彼とのやり取りが続くと思うと、自然と口元に笑みが浮かんだ。
「今度は、どんな曲かな?」
あるいは、レース前よりもうきうきとした足取りで、トウカイテイオーはターフから去っていった。
■
ウイニングライブも終え、全員でチームルームへ戻ったころには、既に夜の七時を回っていた。
「とりあえず、よくやった」
彼の言葉に、ゴールドシップとマンハッタンカフェが思い出したような、まばらな拍手を添える。それに挟まれていたトウカイテイオーは、ぽかんとした表情を浮かべたかと思うと、すぐに我を取り戻して口を開いた。
「……あれ、それだけ!?」
「なんだ、もっと盛大に祝ってほしかったか?」
「そこまでしなくてもいいけど……もっとこう、これから頑張ろうとかさ! いろいろあるじゃん!」
「でも、大したことなかっただろ」
「……まあ、そうだけどさ」
面倒くさそうに答えた彼に、トウカイテイオーはそれ以上の言葉を続けなかった。確かに言い分はどうかと思うが、それ以上に、彼が自分の抱いていた感情を理解していたことに驚いた。もしかすると、走りに出ていたのだろうか。いずれにせよ、彼とその気持ちを共有できたのは、少しだけ嬉しかった。
そんな感傷に浸っている彼女のことなど露知らず、彼が言葉を続けていく。
「ウイニングライブの出来も良かった。正直、そこまでしっかり見てはやれなかったから不安だったが」
「ボク、ダンスは得意だもん。それにどうせ勝つだろうから、センターの振り付けはたくさん練習しておいたんだ」
「いい心がけだ。……いや、ちょっと待て。他のポジションの練習も当然、したんだろうな?」
「全然うろ覚えだよ? たぶん今ここで踊ってみて、って言われてもすぐにはできないかも」
「お前なあ……ちゃんとしてくれよ。それで怒られるのは俺なんだからな」
「はーい」
不満そうに頬を膨らませながら、トウカイテイオーは間延びした声で答えた。そんな彼女の態度に呆れたような息を吐いてから、彼はマンハッタンカフェとゴールドシップへ向けて、言葉を投げる。
「二人もしっかり本番に備えとけよ。一週間後にはカフェ、その次の週にはゴルシのデビュー戦だ。走りに関しては予定通りの仕上がりになってるから、後は本番に向けての調整……それこそ、今日のレースを見て分かったことだったり、気づいたこともあると思う。それを自分のレースで活かせるよう、確認しとけ」
「おうよ」
「分かりました……」
「あと、テイオーみたいにセンターだけの練習じゃなくて、しっかりどのポジションでも踊れるようにしろよ」
「何だったらボクが教えてあげるよ! 今度、みんなでカラオケ行ってさ!」
「お、いいなそれ! 祝賀会も兼ねて明日あたりに行ってみるか?」
「……ちゃんと練習するなら構わないが」
「わかってるってば!」
「………………」
「……カフェセンパイ?」
「…………予定が空いていれば、前向きに検討します」
「それ、行けたら行くを言い換えてるだけだろ。ちゃんと参加してやれ」
「はい……」
仕方ない、と口にしそうなほど疲れた表情を浮かべながら、マンハッタンカフェは静かに頷いた。
「じゃあ、話したいことも伝えたし今日は解散でいいぞ。明日の予定はいつも通りホワイトボードに書いておくから、それで確認しておけ。それと、テイオーはこのあと残れ。まだ少し話したいことがある」
「あ、うん!」
「……何だよ? アタシたちにも聴かせられない話か?」
「こいつ、レースの前に携帯持ち込んだらしいからな。説教だよ」
「え、話ってそれのこと!? ちょっと、カフェセンパイ!?」
「……では、私はこれで」
「ドンマイだな、テイオー」
「そんなぁ!」
叫びもむなしく、二人は早々にチームルームを去ってしまう。伸ばした手を元に戻しながら恐る恐るトウカイテイオーが振り返ると、そこには腕を組んでこちらを睨む彼の姿があった。いつも以上に厳しいその視線に、いつの間にか目元に涙が浮かぶ。そうして、ぷるぷると震え始めた彼女に、彼は深く息を吐いてから、口を開いた。
「別に、そんなことでいちいち怒るわけないだろ」
「……ほんと?」
「というより、そこまで気に入ったのか? あのアルバム」
「うん……歌詞はまだ分かんないけど、ノリが良くて。つい聴いちゃう」
「それなら、良かった」
小さく微笑みながら、彼が机に置いた鞄を開く。
やがて取り出したのは、一枚の少し古びたCDケースだった。
「ほら、約束してたヤツ」
「そうだよ、それ! びっくりしたよ、いきなり説教なんて言い出すもん」
「ああでも言わないと、あの二人は帰らないだろうからな」
「……それってやっぱり、トレーナーもボクと二人っきりの方がよかったってこと?」
「まあ、そうだな。もしアイツらに見つかったら、自分たちにも貸せ、とか言い出すだろうし」
面倒くさそうに告げる彼に、トウカイテイオーは自然と冷めた視線を送っていた。自分がこの時間を楽しみにしていると知って、あの二人を先に返したと思ったのに。けれどまあ、彼がそんな器用なことをできるはずもない。そうして、やるせないように息を吐いたトウカイテイオーへ、彼が不思議そうに問いかける。
「……なんだ」
「べっつにー?」
ぷい、と不満げに顔を背ける彼女に、彼はただ首を傾げるだけだった。
「よくわからんが……とりあえず、受け取れ」
「うん、ありがと!」
手にしたそのCDケースは、彼の手にある時よりもいっそう古ぼけて見えた。そもそもケースがプラスチックではなく紙で造られており、ところどころ色が落ちているところが目立つ。少しだけ不安になったトウカイテイオーが中身を開くと、そこには表紙と同じくらい損傷の激しい歌詞カードとCDが一枚ずつ収められていた。
不安になった彼女がケースを閉じながら、彼へ問いかける。
「これ……ちゃんと聴けるの?」
「車の中ではちゃんと再生できたから、多分読み込みもできるだろ」
「なら、いいけどさ」
言葉を返すと同時、トウカイテイオーは少し前から気になっていたことを問いかけた。
「そういえばこのアルバム、どうしてすぐに渡してくれなかったの?」
「デビュー戦の褒美に丁度良かったから……ってのが、建前になる」
「本音は?」
「それ、俺の実家から取り寄せたから、少し時間が必要だったんだよ」
鞄の口を閉じながら、彼が話を続ける。
「本当は車の中にあるヤツを渡そうと思ったんだが……思った以上にお前が気に入ってたみたいだからな。だから、もっと聴かせてやろうと思って、三日前……それこそお前に次のCDをせがまれた日の夜、親父に連絡したんだよ。いくつか俺の部屋にあるアルバムを寄越してくれ、って」
「……そこまでしてくれたんだ」
「まあ、約束したしな。色々教えてやるって」
面倒さを隠しきれない口調だったが、それでもトウカイテイオーは嬉しく思えた。それこそ、レースを走り終えた後に向けられる賞賛や敬意の言葉よりも、この一枚の古ぼけたCDの方が、今のトウカイテイオーには価値のあるものに感じられた。その違いは、モノとして残るものと残らないものだけでは、決してなかった。
やがて、しばらくの沈黙の後に、ぽつりぽつりと彼女が語りだす。
「あのさ、トレーナー」
「どうした?」
「ボクね、今日のレースは勝つためじゃなくて、トレーナーからCDを貰うために走ったんだ」
「そうだったのか?」
「うん。初めてだったよ。褒められたいからじゃなくて、新しい曲を聞きたいから走ったのは。それに、早くレースが終わってくれないかな、なんてことも思ったんだ。正直に言うと……ちょっとだけ面倒だな、って考えちゃった」
「…………」
「きっと、あのデビュー戦でそんなこと考えてたのボクだけだよ。みんなはさ、もっとちゃんとした理由で出走したんだと思う。それなのに、ボクは勝って……その上で、あんまり大したことないな、って思っちゃった」
「それは……」
「これって、悪いこと……なのかな」
言葉は、すぐには続かなかった。困らせちゃったかな、なんて申し訳なく思いながら、トウカイテイオーは手元のアルバムへと視線を落とす。
叱られたかったのかもしれない。あるいは、引き戻してほしかったのかもしれない。上手く言葉にはできないが、このままでは道を外れてしまうのではないか、と彼女は思っていた。だからこそ、その前に彼に正してほしいと――それこそ、あの日のように手を取って、引き留めてほしいと、そう願ったのかもしれない。でなければ、この得体の知れない寂しさの正体がつかめなかった。
やがて彼が口を開いたのは、わずかな沈黙の後であった。
「別にいいだろ、それでも」
顔を上げたそこには、呆れたような笑みを浮かべる彼の姿があった。
「……いいの?」
「まあ、同じレースを走ったヤツに言うのはダメだけどな。でも、こうして終わった後に思い返すくらいなら、いくらでも構わないと俺は思う。というよりそもそも、口にしなければそんなこといくらでも考えていいだろ。それこそ、今日一緒に走ったヤツらの中に、そんなこと考えてるヤツなんかいない、ってどうして分かったんだ?」
「それは……」
「だから、そうやって考えることは決して悪いことじゃない。勝とうが負けようが、レースに臨む理由は自由だ。良いも悪いもないんだよ。仮にお前のその考えが悪いって、お前に関わってるウマ娘全員から言われたとしても、俺は絶対に味方でいてやるから安心しろ。ま、少し心もとないかもしれないが……」
「そんなことないよ! トレーナーがいてくれるだけで、ボクは大丈夫って思えるから!」
「……みたいだな」
溜息を吐く彼に、トウカイテイオーは自分が声を荒げたことにようやく気が付いた。
意外だった。自分のこの考えが肯定されることも、そんな自分に彼が続いてくれることも。手を取って引き留めてくれるのではなく、手を取って道を外れた自分と共に進んでくれることも。だが、そちらの方がトウカイテイオーには嬉しく感じた。心の中で燻ぶっていた寂しさは、ずっと前に消えていた。
「……ありがと」
「礼なんていい。そこまでのことは、してない」
「そっか。じゃあ……ボクはもう、行くよ」
「そうだな」
荷物を持って、席を立つ。そうして扉の前で一度、深呼吸をしてからトウカイテイオーは振り返ると、
「トレーナー!」
「……どうした?」
「今日、ボクに言ってくれたこと、絶対に忘れないから! どこまでも味方でいてくれるって、ついてきてくれるって! だから……今日から始まったボクのテイオー伝説、最後までしっかり見届けてよね!」
高らかな、あるいは覚悟めいた宣言と共に、トウカイテイオーが彼へと指を向ける。突然のことに一瞬、ぽかんと口を開けていた彼は、やがて何度目か分からない深い息を吐くと、ゆっくりと彼女へ顔を向けてから、
「エンドロールまで付き合ってやるよ」
口元に少しの笑みを携えて、そう答えてくれた。
「……えへへ」
「なんだよ。……もしかして、変だったか?」
「そうじゃなくて、嬉しいだけ!」
満面の笑みを浮かべながら、トウカイテイオーは伸ばした手をそのまま上げて、
「じゃあねー、トレーナー! また明日!」
「……ああ。また、明日な」
そんないつもの言葉を交わして、その日の彼との会話は終わる。
けれど、心に灯った温もりは、いつまでも消えることはなかった。
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