Absolute One   作:宇宮 祐樹

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書き溜めおわっちゃったんで次回からよくて二週間に一回、たぶん月一での更新になっちゃうと思います すまね~


06 No one Knows / 知らないキモチ

 

 六月も最後の週に突入し、蝉の鳴く声もそう珍しくなくなった、ある日。

 

「あっつ……」

 

 額に張り付いた前髪をかき上げながら、トウカイテイオーは鬱陶しそうに呟いた。

 今年の夏は、去年に比べればかなり過ごしやすい気候になるらしい――SNSを巡回しているうちに、どこかのネットニュースがそんな記事を書いていたことを思い出す。その時は気に留めなかったが、今になってトウカイテイオーはその記事をもっと読み込めばよかったと後悔した。虚偽の情報を流したその執筆者を、自らの脚で蹴り倒すために。

 階段を上がり、閑散とした廊下を進んでいく。ふと目をやった窓の外には、呆れるほどに青い空が広がっていた。突き抜けるようなその群青の中央には、燦々と照る太陽がぽつんと浮かんでおり、その光を受けた校舎の壁がぎらぎらとした輝きを反射させている。どこか遠くから、蝉の羽ばたく音が微かに聞こえてきた。

 そんな光景を眺めながら足を動かしていると、やがてトウカイテイオーはチームルームの前へと辿り着く。携帯で現在時刻を確認すると、ちょうど午後の三時になろうとしているところだった。

 どうせまた一番乗りだろうな、と考えたところで、彼女はがっくりと項垂れる。一番乗りということは、部屋の冷房はまだ点いていないのだ。いつもこうだ。この時だけ、トウカイテイオーはマンハッタンカフェとゴールドシップ、そしてその二人以上にここへ来る時間が遅い彼のことを恨んだ。

 肩を落とし、息をだらしなく吐いたところで、トウカイテイオーが意を決したようにチームルームの扉へと手をかける。そして、がらがら、と少し建付けの悪い音を立てながら扉を開けた、その瞬間。

 

「うわ、さっむ!?」

 

 途端に全身を包み込む冷気に、思わずトウカイテイオーが声を上げた。

 

「お、テイオー」

「……お疲れ様です」

「おつかれじゃないって! 設定温度、いくつにしてるのさ!?」

 

 両腕を抱えながら叫ぶ彼女に、ゴールドシップが視線だけをマンハッタンカフェへと向ける。既にこの二人がチームルームにいること、そしてこの気温で平然としていることは疑問だったが、それ以上にこの冷気が問題だった。

 やがてマンハッタンカフェが面倒くさそうに、机の上のリモコンへと手を伸ばす。

 

「13℃ですけど……」

「カゼ引いちゃうよ! もっと上げて上げて!」

「なんだよテイオー、涼しい方がいいだろ?」

「限度ってものがあるでしょ!」

 

 唇を尖らせるゴールドシップへ返しながら、トウカイテイオーがマンハッタンカフェからリモコンを奪い取ると、そのまま設定温度を25℃まで引き上げた。

 

「まったくもう……二人とも、何考えてるのさ」

「何ってそりゃ、涼みたいだけだっての」

「だとしても13℃はおかしいって。部屋に入った時、北極に来たのかと思ったもん」

「お前、北極のことナメてるだろ。マジの北極はこんなモンじゃねえからな?」

「行ったことあるの……?」

 

 冗談でしょ、と言い切れないのが、彼女の恐ろしいところである。

 

「カフェセンパイもちゃんと止めてよ」

「まあ、どちらかといえば私は寒い方が好みなので」

「そういう問題じゃないって!」

「……テイオーさんも来たことですし、コーヒーを淹れましょうか」

 

 叫ぶ彼女に煩わしそうな視線を向けながら、マンハッタンカフェが立ち上がる。そのまま彼女はま逃げるようにコーヒーメーカーの方へと歩いていき、そのスイッチを入れた。そんな彼女を遠目に眺めていると、ふと先程の疑問を思い出したトウカイテイオーが、ゴールドシップへと問いかける。

 

「そういえばさ、今日は二人とも早かったじゃん。どうしたの?」

「ヒマだったんだよ。なんか知らねーけど、今日はみんなバタバタしてて、アタシに全然構ってくれねえからさ。じゃあここで適当に時間でも潰そうと思ってたら、アタシより先にカフェがいてよ」

「え、そうなの?」

 

 視線を投げると、彼女はこちらに背を向けたままで答えた。

 

「今日は確か、職員やトレーナーの方で大きな会議がありましたから……私も授業が早めに終わったので、ここに」

「なるほど。だからどいつもこいつもなんだか気合入ってたのか」

「ってことは、今日はもしかしてトレーニングなかったりするの?」

「それについては……」

 

 ちらり、と視線を流した方へ、トウカイテイオーも目を向ける。

 その先にあるホワイトボードには、大きな文字でこう書かれていた。

 

『会議で遅くなるとは思いますが、俺が来るまで待機しておいてください。

 勝手にトレーニングしないように! 

九十九』

 

「珍しいね」

「な」

 

 呟いたトウカイテイオーに、ゴールドシップが応えた。

 

「いつもだったら、勝手にやってろ、みたいに言うのに」

「……何か大事な報告でもあるのでしょうか」

「だったらそこに書いときゃいい話じゃねえか?」

 

 彼女の言う事も尤もだった。事の大きさに関わらず、何かを伝えたいときは必ず、彼はあのホワイトボードを使用する傾向にある。それこそ、トウカイテイオーが自分のデビュー戦の日程を知ったのも、彼からの口伝されたのではなく、ホワイトボードに書いてあったのを目にしたからだった。

 だからこそ、今回のような事例は珍しい。他にすることもないので、うんうんとトウカイテイオーが考え込んでいると、ふと隣でゴールドシップが何かに気づいたように、口を開いた。

 

「もしかして、誰か連れてくるんじゃねーか?」

「なるほど……」

 

 納得しながら、マンハッタンカフェが二人の前へコーヒーを運んできた。

 確かにそれならあり得るかもしれない。誰かが来るという情報そのものなら、彼はホワイトボードにそのことを書くだけで済ませるだろう。しかしその人物との顔合わせが必要であれば、いちいち別にやるのも面倒だから、なんて理由で彼は自分たちをここに留めておく気がした。実際、トウカイテイオー自身が顔合わせをするときも、彼が二人にメッセージを送っていたことを思い出す。

 そこまで予想が着いたところで、浮かんできた別の疑問をマンハッタンカフェがそのまま口にする。

 

「……連れてくるとしても、誰を?」

「さあ?」

「もしかして、新しいチームメンバーとか?」

「なわけねーだろ」

 

 トウカイテイオーの言葉に返しながら、ゴールドシップは肩をすくめて、

 

「カフェがまだ未勝利なのに、他のヤツの面倒見始めるか?」

「あ」

 

 ちらり、と視線を向けると、マンハッタンカフェはただ静かにカップを傾けていた。

 トウカイテイオーのデビュー戦から、一週間後のことだった。三着であった。コンディションも十分、満足のゆくものであったし、不調というわけでもなかった。全力でぶつかって、その結果だった。

 ただ、仕方のないことではあった。彼女に情熱や覚悟がなかったわけではない。けれど、それだけで勝てるのなら、きっとトウカイテイオーはレースを好きになってはいなかった。つまりは、そういうことだった。

 やがてマンハッタンカフェがカップから口を離すと、ふと呟く。

 

「どうでしょう。案外、見限られるかもしれませんよ」

「バカ言え」

「うん、そうだよ! もしそんなことしたら、ボクがトレーナーのこと蹴ってやるから!」

「……ありがとうございます」

 

 思わず立ち上がったトウカイテイオーに、マンハッタンカフェが小さく笑みを零した。

 

「実のところ、そこまで気にしていませんから、変に気を遣わなくてもいいですよ。次の未勝利戦で勝てばいいですし……もしそこで負けても、まだ時間に余裕はありますから。適当にやります」

「ま、アタシもカフェもそれといった目標はないしな……テイオーはなんかあるのか?」

「ボクはカイチョーみたいになりたい! って思ってたけど……」

「……なんだよ。なんかあるのか?」

「ううん、何も」

 

 首を振りながら、トウカイテイオーが笑う。頭にはまだ、シンボリルドルフの放った言葉が残っていた。

 

「なんだよ、気になるじゃねーか」

「あまり関わりすぎるのも良くないですよ。テイオーさんにも自分で考えたいこともあるでしょうし」

「……カフェ、お前いつからそんな先輩風吹かすようになったんだ?」

「気のせいです」

 

 呆れるようなため息と共に、マンハッタンカフェはミルクと砂糖がそれぞれ入った容器を二つ、トウカイテイオーの前へ運んだ。差し出されたそこから砂糖を二つほどコーヒーの中へと入れてから、彼女がカップへと口をつける。そうしてしばらく考え込んでから、トウカイテイオーは再び砂糖の入った容器へと手を伸ばした。

 

「なんだよ、まだ飲めねーのか?」

「これでも飲める方になってきたんだよ?」

「……好みは人それぞれですからね」

 

 マンハッタンカフェの言葉に、トウカイテイオーは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

 

「それで、何の話してたっけ、アタシら」

「誰か連れてくるにしても、新メンバーではない、と」

「それにしたって、他に連れてくる人っていったら……」

「…………」

「…………」

 

 言葉は、そこから続かなかった。沈黙が流れる中で、いずれ彼が来れば分かることか、と諦めながらトウカイテイオーがカップを傾ける。伝わってくる苦みはやはりあまり好きにはなれなかったが、頭は冴える気がした。

 そこでふと、思い出したようにトウカイテイオーが声を上げる。

 

「あ、そうだ! カフェセンパイ、英語って得意?」

「……まあ、それなりですが」

「実は英語の小テストが近くてさ。どうせトレーナーが来るまで時間あるし、教えてくれない?」

「そういうことでしたら、構いませんよ……」

「やった!」

 

 小さく跳ねたトウカイテイオーが、鞄からノートを取り出してマンハッタンカフェの隣へと席を移す。そんな彼女を眺めていたゴールドシップが、口を尖らせてから、言った。

 

「なんでそこでアタシに聞かねーんだよ。アタシのことバカだと思ってんのか?」

「だってゴルシに教えてもらったら、英語以外のいらない雑学とか聞かされそうだもん」

「いいだろ別に。知ってて損することじゃねーし」

「よくないよ! ボクは今、英語の文法の方が知りたいの!」

「……それで、教えてほしいところはどこですか?」

 

 言い合う二人の間に挟まれたのか、鬱陶しそうにマンハッタンカフェが口を挟む。

 

「あ、ごめんねセンパイ。えっとさ、ここなんだけど……訳し方が分かんないんだよね」

「……ああ、なるほど。まず、この文の主語がどこまであるかは分かりますか?」

「えっと……ここまで?」

「もう少し先です。分かりにくいですけど、ここの……」

 

 などと言葉を交わしながら、トウカイテイオーがノートへとペンを走らせる。驚いたのは、何かを聞けば予想以上に早く、分かりやすい返答が来るところだった。日頃はレースのことや、それを除いてもコーヒーの飲みやすい方法だったりしか話題にしていなかったので、ここまで丁寧に教えられることは想定外だった。

 やがて一通り文章を(さら)ったところで、マンハッタンカフェがコーヒーを傾ける。

 

「他に、聞きたいところは?」

「大丈夫! ありがとね、カフェセンパイ! すっごく分かりやすくてびっくりしたよ!」

「この程度でしたら、いつでも教えますよ……」

「ホント!? じゃあ、また分からないことがあったら持ってくるね!」

「おう! 言っとくけどカフェは地味に成績いいからな! 英語以外も頼るといいぜ!」

「なぜアナタが自慢げに言うんですか……」

 

 扉の開く音がしたのは、そうやってトウカイテイオーがノートを閉じた直後だった。

 

「……全員、集まってるな」

「あ、トレーナー!」

 

 顔を上げたトウカイテイオーの視界に映ったのは、扉をくぐる彼――と、もう一人。

 

「こ、こんにちは……」

 

 見知らぬ、スーツを着た女性であった。

 まず気になったのは、おどおどとしたその雰囲気だった。どこか自身のなさそうな、悪く言えば卑屈そうな佇まいが印象に残る。伸びた黒髪は首の後ろで纏められており、かけられた眼鏡の奥にある瞳は、きょろきょろと辺りへと向けられている。総じて、気の弱そうな、見る者に少し不安を抱かせるような女性であった。

 そんな彼女へ三人が視線を集中させる中、彼は机の上へと目をやってから、口を開く。

 

「何だ、もしかしてカフェが何か教えてやってたのか?」

「……そう、ですが」

「結構、結構。お前ら、実はトレーニング以外であんまり仲良くないんじゃないかと思ってたんだが、これなら安心できそうだ。今後もそうしてくれると助かる。喧嘩だけはするなよ、俺が面倒だから」

「あ、うん……」

 

 珍しく饒舌な彼に、トウカイテイオーはそんな曖昧な言葉でしか返せなかった。なんだか最低なことを言っていた気がするが、そこに突っ込む余裕は今の彼女になかった。それはマンハッタンカフェも同じだった。

 そうして黙り込んだ二人の代わりをするように、ゴールドシップが口を開く。

 

「それで、トレーナー? 誰だよ、そいつ」

「ああ、今から紹介する……」

「もしかして、新しい女か?」

「やめろ、困ってるだろ。……悪い、ああいうヤツなんだ。気にするな」

「あ、うん……」

 

 乾いた笑みを浮かべるその女性に、彼も呆れて息を吐く。

 

「とにかく、まず自己紹介してもらうから。しっかり聴けよ」

 

 その仕切り直しに続くように、彼女は深呼吸をしてから、

 

「ほ、本日づけでチーム『モナークス』のサブトレーナーになりました、篠崎(しのざき)です! まだまだ新米ですけど、よろしくおねがいしまはひゃふッ!」

 

 噛んだ。

 

 

「……どう、思いますか?」

 

 彼女――篠崎の自己紹介が終わってからすぐ、いつものトレーニングを見せる、とレース場に駆り出されてから、しばらく。ウォームアップとランメニューを終えた休憩中に、ふと漏らしたマンハッタンカフェの小さな呟きに返したのは、ゴールドシップだった。

 

「珍しいじゃねーか、カフェからその手の話を切り出すなんて」

「そういうアナタこそ、珍しく話のタネにしませんでしたね。真っ先に食いつきそうなものですが」

「だってよ、あんなんタネどころかもう花まで咲いちゃってるじゃねーかよ。多分、バラだぜ。それも真っ赤な」

「……どういうこと?」

 

 不思議そうに首を傾げるトウカイテイオーに、彼女は自慢げに指を立てながら、

 

「つまり、ホの字ってことだよ」

「………………?」

「……篠崎さんはトレーナーさんに惚れている、ということです」

「あ、そうなんだ。…………え、そうなんだ!?」

「バカ、声大きいって!」

 

 言われた彼女が、思わず口を両手で塞ぐ。そのままちらり、と視線だけで振り返るが、どうやら二人はこちらの様子には気づいていないらしい。ほっと胸を撫で下ろしてから、トウカイテイオーは流れるように二人の――主に、篠崎の様子を観察しはじめた。

 

「どうだ、うちのメンツは」

「みんなすごいよ! ゴルシちゃんもカフェちゃんもよく育ってて……あ、あとテイオーちゃん! あの娘は特にすごいね! 皆から話は聞いてたけど、やっぱり頭一つ抜けてるよ!」

「だろ? でも、やっぱり三人ともまだ課題はあるんだ。当面はカフェの……」

「…………」

「……聞いてるか?」

「え、あ、うん! バッチリだよ! 大丈夫!」

 

 最初は、新人トレーナーだから緊張しているのかと思った。妙に早口なところや、おどおどした態度もそうだし、時折物思いに(ふけ)っているのも、トレーニングのことについて考えていると思った。

 しかしながら、先のゴールドシップの話を聞けば、それは全て想いを寄せている異性の行動に当て嵌まる。それも、分かりやすすぎて見ているこちらが恥ずかしくなってくるような、そんなレベルのものであった。

 今だってそうだ。おそらくトレーニングのことを話しているのだろう。言葉の端々は真面目なものであるが、彼女の態度はまさしくそれであった。あわあわと忙しない手の動きに、彼の顔に決してまっすぐ向かない視線。頬が紅潮しているのは、きっと夕陽のせいではなかった。

 その惚気具合に中てられたのか、あるいは呆れたのか自分でも判別はつけられないが、トウカイテイオーはそれ以上、彼女の方に視線を向けられなかった。そうしてこちらに顔を戻すと、によによとしたゴールドシップの顔が視界に映る。

 

「なあ、賭けねえか?」

「……何で、何を?」

「あの篠崎ってヤツの惚気がいつまで続くか。見たところ、ありゃ確実に一目惚れだ。ウチのトレーナー、顔だけはよく見たらいいから、そこに惚れたんだろ。勝ったヤツは一週間、トレーニングの片づけ免除でどうよ」

「んもー、また意味わかんないことする……行こ、カフェセンパイ。付き合ってられな――」

「面白そうですね。乗りましょう」

「センパイ!?」

 

 答えたマンハッタンカフェは、いつになく真剣な表情(カオ)をしていた

 

「じゃあ、アタシは手厚く二週間で」

「甘いですね。あの人のクズっぷりに常人がそこまで耐えられるわけがありません。五日で」

「いや、どうだろうな? 案外、あの調子だと普通のヤツよりは保ちそうだぞ?」

「それも込みです。あの人でなければ、私は三日で賭けてました」

「テイオーは?」

「ボク、やるって一言も言ってないんだけど……」

「ここまで来て逃げるのはナシですよ」

「あとなんでカフェセンパイはそんなに乗り気なのさ!」

 

 うきうきと目を輝かせる彼女に観念したトウカイテイオーが、観念して頭を捻る。思えば、他人の恋愛にこうして口を出すのは初めてな気がする。そう考えると、トウカイテイオーは今の自分がどこか気恥ずかしく感じた。

 やがて考えを纏めたトウカイテイオーは、恐る恐る指を一つ立てる。

 

「お、一日か? 攻めるなオマエ」

「分かりませんよ。一時間かもしれません。それこそあの人ならやりかねない……」

「いや、そうじゃなくて……い、一ヶ月、とか?」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 …………。

 

「っし、カフェ。負けねえからな」

「それは私の台詞です。空いた時間で新しい豆でも挽かせてもらいますね」

「待ってよ二人とも! 何さ今の間! ねえ!」

「ちょっと、いいかな?」

 

 唐突にかけられた言葉に、ぎくり、とトウカイテイオーが肩を震わせる。

 振り返った先に立っていたのは、申し訳なさそうな笑みを浮かべる篠崎だった。

 

「し、篠崎さん……?」

「お話ししてるところ、ごめんね? ……ちなみにだけど、みんなはいつもどんなこと話してるの?」

「勉強を教えたりしてますよ。今日も、テイオーさんの課題を見てました」

「そ、そうそう! カフェセンパイってとっても分かりやすく教えてくれるから、いつも見てもらってるんだ!」

「アタシは毎回ハブられてるけどな!」

「そうなんだ。でも、仲良しそうで羨ましいなあ」

 

 のほほんとした笑みを浮かべる彼女に、三人が全員、心の中で安堵の息を吐く。口裏を合わせていないにしては、かなり連携の取れたやり取りであった。思えば、初めてチームの気持ちが一致した瞬間な気がした。

 額に浮かんだ冷や汗を手の甲で拭いながら、トウカイテイオーが口を開く。

 

「それで、どうしたの?」

「あ、そうそう。実はこの後、皆のタイムの測定があるんだけど……今日は、私がやってもいいかな?」

「アイツの指示か?」

「うん。いつも見てる人じゃなくて、初めて見た人の意見が聞きたい、って言ってたから」

「……では、誰からにしますか?」

「えっと……じゃあとりあえず、テイオーちゃんからお願いできるかな?」

「わかったよ」

 

 彼女の言葉にこくりと頷いてから、トウカイテイオーが立ち上がる。そのままスタート位置へ並ぶと、ストップウォッチを握る篠崎の姿が見えた。やや前傾姿勢で、食い入るような姿勢なのが気にかかった。

 脚の調子を確認して、その場で二、三回ほと跳ねる。そうして彼女の方へ目をやると、しばらくしてからこちらに気づいたようで、慌てたような声が返ってきた。

 

「あ、ご、ごめんね! もう大丈夫かな!?」

「うん、走れるけど……」

「それじゃあ、行こっか!」

 

 頷いた彼女に答えるように、姿勢を整える。

 

「よーい、スタート!」

 

 少し裏返ったような掛け声が聞こえてから、トウカイテイオーは地面を蹴った。

 彼に教えられた走行フォームを崩さないように、体幹やストライドを意識しながら足を動かしていく。正直、この走り方はあまり好きにはなれなかった。自分の思うように走れないし、今まで使ったことのない身体の部位も使うため、疲労度も高くなる。けれど、タイムは確実に伸びているし、何よりも彼に伝えられたことを無下にはできなかった。視線をずっと遠くへと集中させながら、トウカイテイオーがコーナーを曲がっていく。

 最終直線に入ったところで、一気にスパート。最高速度に脚を乗せながら、トウカイテイオーは彼女の横を通り抜けた。とん、とんと徐々に減速をかけてから、トウカイテイオーがその場へ両脚を投げ出して座る。篠崎がやってきたのは、息を整える間もないほどにすぐのことだった。

 

「二分と九秒七二……すごいよ、テイオーちゃん! 同年代の()の平均タイムより四秒も上回ってる! さすが、このチームのエースだね! 九十九トレーナーの言ってた通りだよ!」

「あ、あはは……ありがと……」

 

 初耳だった。知らぬ間にチームを背負わされていたトウカイテイオーが、曖昧な笑みを零す。

 

「それよりも、篠崎さんから見たボクの走りって、どうだった? 確かそれが目的だよね?」

「あ、そういえばそうだった! えっと、ちょっと待っててね……」

 

 思い出したように手を叩くと、彼女は少し考えるようにしてから、再び口を開いた。

 

「そうだね……基礎はできてると思う。フォームもしっかり整ってるし、スパートの位置も申し分なし。多分、レースも他の娘より何度もしてるでしょ? だから、レースの感覚とかも冴えてる。今のままだったら多分、同世代の娘には負けなしだろうね。テイオーちゃんも実は、そんなこと思ってるでしょ?」

「……まあ、うん」

「悪いことじゃないから、もっと自信持っていいよ! となると、今後の育成方針だけど……あ、あくまで私がするとしたら、って仮定の話ね? それで、多分テイオーちゃんの今までの勝ち方って、他の子を大差で抜かしてるような勝ち方だと思うんだ。負けたとしても、多分競り合ったところで負けてる……違うかな?」

 

 首を傾げながら問いかける彼女に対して、トウカイテイオーはぽかんとした表情をその顔に浮かべていた。

 意外だった。先程の慌ただしい様子から一転して、的確な分析をしているのもそうだし、そこから自分の走りのクセを正確に予測している。そして何より、たった一度の走りでここまでの分析ができる観察眼に、トウカイテイオーは驚きを隠せなかった。

 もしかすると、そうした分析や観察と言った観点で見れば、彼よりも優れているかもしれない。篠崎から声がかかってきたのは、そんな考えがトウカイテイオーの頭に浮かんだのとほぼ同時だった。

 

「……あ、あれ? もしかして私、すごい見当違いなこと言っちゃった!? ごめんねテイオーちゃん!」

「そうじゃないよ! 篠崎さんの言ってることは、全部合ってる……うん。篠崎さんの言う通り、ボクっていっつも競り合いで負けちゃうんだよね。そこまで見抜かれてたから、驚いちゃっただけだよ」

「よかった〜……じゃあ、テイオーちゃんの課題は競り合いで勝てるための筋力作りとか、コース取りとかの見直しになるのかな? もしかしたら九十九トレーナーは違う意見かもしれないけど……これから一緒に頑張っていこうね!」

「うん。よろしくね、篠崎さん」

 

 握手を交わすと、彼女はにひゃ、と力の抜けた笑みを浮かべた。

 

「じゃあ次は、カフェちゃんにしようかな。伝えてきてくれる?」

「いいよ」

 

 答えてから、トウカイテイオーが遠くで腰を下ろしていた二人の元へと歩いていく。何やら話をしていたらしく、二人がこちらに気づいたのは、声をかけてからだった。

 

「次、カフェセンパイだって」

「ああ、分かりました。……ちなみに、何か言われましたか?」

「特におかしなことは言われてないよ。むしろ、すごく普通に指導されて驚いちゃった。ホントに新人トレーナーなのかな、あの人」

「テイオーがそこまで言うって相当じゃねーか? まったく、トレーナーの野郎ってば変なヤツ連れてきたよな」

「……とりあえず、行ってきます」

 

 会釈を交わしてから、マンハッタンカフェが篠崎の方へと歩いて行く。その後ろ姿を見送りながら、トウカイテイオーはゴールドシップの隣へ腰を下ろした。

 

「そういえばさっき、カフェセンパイと何の話してたの?」

「一ヶ月は流石にねーよ、って話」

「う、し、仕方ないじゃん! ボク、そういうコトあんまり考えたことないもん! それにボク、そもそも賭けるつもりなかったんだし!」

「はいはい。まだテイオーにゃ早い話だったな。悪ぃ悪ぃ」

「そう流されるのもなんかムカつく!」

 

 頬を膨らませながら、トウカイテイオーがふん、と顔を背ける。マンハッタンカフェが走り出したのは、それからすぐのことだった。

 

「カフェセンパイ、次のレース勝てるかな」

「楽勝じゃねーか? アイツ、別に弱くはねーし。微妙にやる気が薄いだけで」

「……もしかしてそれ、悪口?」

「違う違う。ただアイツは、走るためだけに生きてるワケじゃないって言いたいんだよ」

 

 それは、どこかで聞いたことのある言葉だった。

 やがて走り終えたマンハッタンカフェは、篠崎との会話を終えてからこちらへと歩いてくる。それを見たゴールドシップは立ち上がって、体を伸ばした。

 

「どうだった、カフェ?」

「特におかしなことは言われませんでしたよ。体や走りは出来上がってるから、後はレースの感覚さえ掴めれば次のレースは絶対に勝てるらしいです。それよりも……」

「……それよりも?」

「まあ、何と言うか……そうですね。意外としっかりしている方でしたよ」

 

 かなり言葉を選んだマンハッタンカフェに、ゴールドシップが呆れたような息を吐いた。

 

「よく分かんねーけど、とにかく走ってみれば分かるんだろ? じゃ、ちょっくら行ってくるわ」

「悪いようには言われないと思いますので、いつも通り走れば大丈夫ですよ」

「そうそう! 頑張ってきてね!」

 

 肩をぐるぐると回しながら篠崎の元へ向かう彼女を、トウカイテイオーは小さく手を振って見送った。そんな彼女の隣に腰を下ろしたマンハッタンカフェが、ふと小さく語り掛ける。

 

「……切り替えるところはしっかり切り替える人なのでしょうね、あのトレーナーは」

「だよね。正直、あんまり期待してなかったけど、ちゃんと指示とかしてくれてびっくりしたもん」

「そう考えるとますます、あの人がどうやって彼女を連れてきたのか気になりますが」

「んー……賄賂とか? これだけお金あげるから、指導してくれ、って」

「案外、どこかで偶然引っかけたのかもしれませんよ。お酒の席なんかで」

「……何の話だ」

 

 ため息交じりのその声に、トウカイテイオーとマンハッタンカフェは同時に背後へ振り向いた。

 

「あ、トレーナー。どこ行ってたの?」

「少し彼女のための資料を取りにな。それよりも、賄賂だの酒だの聞こえたが」

「アナタのような人が、篠崎さんのような方と知り合うにはそれくらいしかないと思いまして」

「お前らは俺を何だと思ってるんだ」

 

 片手に持った紙の束を自らの頭に当てつけながら、彼がそんな言葉を漏らす。そうして視線をレース場へと戻すと、既にゴールドシップはコースを走り終えており、篠崎が言葉をかけるために彼女の方へ近づいているところだった。それを確認した彼が二人の元へと歩き出すのを見て、トウカイテイオーとマンハッタンカフェも立ち上がり、彼の後ろを追っていく。

 

「――――思うに、ゴルシちゃんの武器は視野の広さだと思うんだ。レースに対する順応性が高いっていうのかな。それに、走り方もかなり独特だし……多分、初めて戦う娘にはあまり負けたことないんじゃない?」

「あー……確かに。言われてみればそんな気もするな」

「でも多分ね、二回目や三回目ってなってくると、ゴルシちゃんの走りって対策されちゃうと思うの。だから今後の課題はそれかな。対策の対策、って言っちゃうと変だけど……うん。そうしたことが必要になってくると思うの。そのためには、レースの展開の予測と、ゴルシちゃんが切れる手札をもっと増やす……あ、そうだ。過去のレースの映像とかを見て、どんな展開があるか、こういう時に自分だったらどうするか、って考えてみるといいかもね」

 

 やがて聞こえてきたのは、そんな若干の早口でまくし立てるような篠崎の言葉だった。しかしながら、ゴールドシップはそんな彼女の言葉を素直に聞き入れているようだった。彼女が初対面の人間の言葉へしっかりと耳を傾けているのもそうだが、それ以上に彼女の観察眼や、その分析力の高さにトウカイテイオーは再び驚かされた。

 そうやって彼女が話を終えたのを見計らって、彼が口を開く。

 

「シノ」

 

 発したその二文字に、トウカイテイオーが思わず彼の顔を見上げて――

 

「……あ、つっくん!? いつからそこにいたの!?」

 

 返ってきた篠崎の言葉に、今度はトウカイテイオーだけでなく、ゴールドシップとマンハッタンカフェも、彼女の方へ訝し気な視線を向けていた。

 

「今しがた来たところだよ。それよりも、測定は終わったな?」

「うん、ばっちり! 」

「じゃあ、さっき伝えたように計測したタイムとそれぞれの課題点を纏めて、後でメールで送ってくれ。少し時間が要るだろうから、先に帰っていいぞ。今日はご苦労だった。明日からも頼む」

「分かったよ。日付が変わる前には送っとく!」

 

 こくりと頷いた篠崎は、彼からいくつかの書類を受け取ってから、トウカイテイオーたちの方へと振り返って、

 

「じゃあね、みんな! また明日もよろしくね!」

 

 おそらく自分へと向けられている怪訝な視線に気づいていないのだろう、力の抜けた大きな笑みを浮かべてから、その場を小走りで去っていった。

 

「さて、お前らも解散でいいぞ。明日はプールを借りてるから、そこでのトレーニングになると思う。詳細はまた明日、いつものホワイトボードに書いておくが……」

「………………」

「………………」

「………………」

「……なんだお前ら。言いたいことがあるならはっきり言え」

 

 じとりとしたトウカイテイオーたちの視線を感じ取ったのか、彼が面倒そうに吐き捨てる。

 先陣を切ったのは、マンハッタンカフェであった。

 

「単刀直入に聴きますが……あの人とは、どのような関係で?」

「ただの後輩だ。学生時代のな」

「……それにしては、随分と仲が良さそうでしたが?」

「ま、付き合い自体は長かったからな。……というより、そんなこと聞いて何になるんだ」

「大事なことですので」

 

 次鋒として言葉を発したのは、トウカイテイオーであった。

 

「篠崎さんをサブトレーナーに選んだのは、トレーナーなの?」

「向こうからだよ。正直な話、こんな小さなところじゃなくて、もっと大きくてなチームを選ぶと思ったんだが……まあ、アイツの性格上、顔見知りがいるところの方がやりやすいんだろう。こちらとしても断る理由はないし、何よりアイツ、トレーナーとしてはかなり優秀だからな。気が変わる前に捕まえておいた」

「ふーん……」

「……何だ、その文句ありそうな顔。まさか、もう喧嘩したとかじゃないだろうな」

「別に、そういうわけじゃないけどさ」

 

 そうしてトドメの一言を投げかけたのは、ゴールドシップだった。

 

「でよ、ぶっちゃけ二人って付き合ってんのか?」

「まさか。ここ数年、顔すら合わせてなかったんだぞ。それに、向こうも俺のこと忘れてたみたいだしな」

「……その話、ちょっと詳しく聞かせろよ」

「いや……一週間前に新人トレーナーの研修会があったんだが、そこで久しぶりにアイツの顔を見かけて……ちょっと話しかけたら、固まられたよ。持ってた資料とかも床に落としてな。それで、拾おうとしたら急に顔を真っ赤にして慌て始めて……昔から人見知りなのは知ってたが、アレを見るに悪化してるな。しばらくしたら俺のことも思い出してくれたみたいで、研修が終わった後に少し話し込んで……」

「ああ、もういい。大体わかった」

 

 鬱陶しそうに手を振るゴールドシップに、彼が疲れたように深く息を吐く。

 

「あのな……お前らの年だと色恋沙汰に首を突っ込みたくなるのも分かるが、俺とあいつはそういう関係じゃない。期待しても無駄だ。それに何より、アイツにそういう話とか振ってやるなよ。困るだろうからな」

「分かりましたよ……つっくん」

「お前……自分が一番怒られにくいと思って呼んだだろ、今」

「どうでしょうね」

 

 逃げるように明後日の方へ視線を投げるマンハッタンカフェに、彼は頭を抱えるだけであった。

 

「とにかく、アイツはただの後輩だ。それ以上でもそれ以下でもない。いいな?」

 

 その言葉に、トウカイテイオーもマンハッタンカフェも、ゴールドシップも返事をする気はなかった。少なくとも彼の認識が本当にそうだったとしても、篠崎の方がそれを良しとする気は絶対にしなかった。

 向けられる怪訝な三人の視線を払うように、彼が声を荒げる。

 

「あーもう、解散だ解散! 俺はもう帰るから、お前らも暗くならないうちに帰れよ! いいな!」

「はーい」

 

 ずんずんと大股でトレーナー寮の方へと帰っていく彼を見送ったところで。

 ふと、トウカイテイオーが思い出したように呟いた。

 

「そういえばさ、この場合って誰が勝ちなの?」

「期間で言えば一番近そうな、テイオーさんだと思います……」 

「よかったなテイオー! 今後一週間はアタシらが片付けやってやるよ!」

「……ですが、思うに胴元の認識から間違っていたので、全ての責任もそこが取るべきでは?」

「げ」

「あ、そうじゃん! 結局、一目惚れとかじゃなかったしね!」

「それでは今後一週間は、ゴルシさんが一人で片付け、ということで……テイオーさんも、それでよろしいですね?」

「おいおい、そりゃねーよ! ってかカフェ! お前、絶対自分が逃げたいからやっただろ!」

「……では、私はこれで」

「待てコラ! 逃げんじゃねえカフェ!」

 

 そそくさと早歩きで去っていくマンハッタンカフェに、ゴールドシップが声を上げる。

 その悲痛な叫びに、賭け事は絶対にやめておこう、とトウカイテイオーは肝に銘じておいた。

 

 

「あ」

「おう」

 

 夜もとっぷりと更けて、そろそろ門限になろうかとしているとき。

 立ち上がって帰ろうとしたトウカイテイオーの前に、彼はようやく表れた。

 

「……今日は、遅かったね」

「少し、仕事が残ってたからな。……別に、帰っててもよかったんだぞ」

「ううん。今日はトレーナーと話したかったからさ」

 

 小さく笑みを零して、トウカイテイオーが鞄から取り出したCDケースを彼へと渡す。すると彼は中の状態を確認してから、ベンチへと腰を下ろしたので、彼女も同じようにその隣へと座った。

 ライターの火が灯り、白い煙が夜空へと昇り始める。

 

「仕事って、篠崎さんのこと?」

「ああ。面倒、見てやらないといけなくなったからな」

「ふーん……」

 

 どこか不満げに、トウカイテイオーが言葉を漏らす。なぜか心の中には、少しだけもやもやとした、言い表すことが難しい何かがあった。ただそれは、もっと彼といなければ無くならないものだということだけは理解できた。

 やがて灰を落とす彼へ、トウカイテイオーが小さく問いかける。

 

「あの人とも、こういうことってしたの?」

「……何をだ?」

「だから、えっと……こうやってさ、CD貸したり、逆に貸してもらったり……とか」

「何があってお前にそこまで教えなきゃならないんだ」

「いいから答えてよ」

 

 口にしたところで、少し強く言いすぎたな、とトウカイテイオーは後悔した。得体の知れない憤りが、胸の奥で疼いている。やはり、その正体は分からなかった。きっとそれは、今の彼女には決して理解できないものであった。

 次の彼の言葉を待っている間に、心臓が早鐘を打っているのが分かる。どうしてか、彼の目をまっすぐと見ることはできなかった。そうしてしまうと、何かに耐えられなくなってしまうような、そんな気がした。

 やがて煙を吐き出すと共に、彼が静かに言葉を紡ぐ。

 

「アイツと俺の趣味が合ったことは、一度もなかったな」

「……そうなの?」

「クラシックが好きなんだ。高校生の頃、部活でホルンを吹いていたらしい。一度、大学の学祭で聞いたことはあるが……俺には分からなかった。まあ、他人よりは上手いんだろうな、ぐらいは思ったが」

「そっか……」

 

 口では興味なさげに返したが、トウカイテイオーはどこか薄い安心を感じていた。それは、別の言葉を浴びせれば簡単に割れてしまいそうな、薄氷のようなもののように思えた。

 煙草の枯れた香りが鼻孔を刺激する。合わせた指先をじっと見つめながら、トウカイテイオーは自分でも気づかぬうちに、言葉を発していた。

 

「……今日のトレーナー、嬉しそうだった」

「そうか?」

「うん。……トレーナーは、篠崎さんが来てくれて、嬉しかったの?」

「ま、やりやすくなるとは思ったな。俺の仕事が減るとも思ったし、今後は二手に分かれてのトレーニングもできるとも。あとは……やっぱり、顔見知りと久しぶりに会うのは嬉しいよ。いろいろ、昔話もできる」

「……そう」

「あと、アイツが来てくれて安心もした、ってのもあるかもしれない。学生時代は知り合いが少なくてな。いつもアイツと絡んでたから……趣味が合ったこともないのに、今考えればどうしてここまで続いたんだろうな」

 

 時間というのは残酷だな、とトウカイテイオーは思った。どれだけ今を積み重ねたとしても、過去から続いているものには叶わないのだから。うっすらとした笑みを浮かべる彼に、トウカイテイオーは少しの悔しさを感じていた。

 じりじりと煙草の燃える音が微かに聞こえる。すると彼は、まだ残っている煙草を灰皿へ押し付けてから、

 

「俺はそろそろ行く」

「……え、もう?」

「アイツのメール、受け取らないといけないしな。指示を出した俺が受け取れなかったら意味がないだろ?」

「それは、そうだけど……」

「じゃあな、テイオー。また明日も――」

 

 そうやって立ち上がろうとした彼の手を、トウカイテイオーが握り止める。

 

「……テイオー?」

「あの、さ」

 

 喉元まで出かかった言葉を、無理やり胸の内へと閉じ込めて。

 

「……CD、返してくれない?」

「どうしてだ? もう、携帯に入れたんじゃなかったのか?」

「そういえば、まだ入れてない曲があったの思い出してさ。それ、入れたいから」

「……ああ、そういうことか。よかったな、今思い出して」

 

 渡されたケースを、トウカイテイオーは少し強く奪い取った。

 

「じゃあ、俺はもう行く。また明日な、テイオー」

「……うん。また、明日ね。トレーナー」

 

 足早に去っていく彼に、小さく手を振って見送ったあと。

 トウカイテイオーは、手元に残ったCDケースをぎゅっと胸の前で強く抱きしめた。

 

「……これくらいのズルは、許してよね」

 

 

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