■
チームのサブトレーナーに篠崎がついてからしばらくした、ある日のトレーニング後。
「すまない。急な話になるが、明日の学校って全員サボれるか?」
唐突にそんなことを言いだした彼に、マンハッタンカフェは呆れたような息を吐いた。
「……なんですか、その最低な質問は」
「少し頼みたいことがあってな。今のままで、すっかり忘れてた」
「それって、みんなが学校を休まなきゃいけないほど大切なことなの?」
「ああ。勝負服の受け取りだよ」
返ってきた彼の言葉に、トウカイテイオーはなるほど、と頷いた。
トレセン学園はレースを中心とした学業体系を取っているので、それに関連した――それこそ、レースに出場する、といった理由があれば、余程のことがない限りは欠席することができる。勝負服の受け取りであれば、欠席理由としても十分とおるだろう。
だが、そこでふと、ゴールドシップがおかしそうに首を傾げる。
「ん? 確か勝負服って、向こうから送ってくれるんじゃねーのか?」
「それが、運送業者に少し手違いがあったらしくてな。できればこっちから受け取りにきてくれないか、って頼まれたんだよ。どういう訳かは分からんが、向こうに頼んだままだと届くのは最短でも秋になるらしいからな」
「でも、そういう理由ならボクたちが行く必要なくない?」
「仮にこっちへ運んでから何かしらの不備があった場合、また向こうに運ばなくちゃならないだろ? だったら、向こうで試着して不備がないか確かめた方がいい。何かあってもそこですぐ直してくれるしな」
トウカイテイオーに答えてから、彼は今一度、三人へと向き直って、
「とにかく明日、学校をサボれる奴はいるか? テストとか学校の用事があるなら、そっちを優先。ただ、友人と遊びに行くとかだったらこっちを優先。それで一回、判断しろ」
告げた言葉に、はい、と一番に手を挙げたのは、トウカイテイオーだった。
「ボク、明日英語のテストあるんだよね。だから無理かも」
「……ああ。そういえばこの前、言ってましたね」
「別にサボってもいいんだけどさー……英語の成績、ちょっとヤバいんだよね。だから、そこで何とか点数稼ぎたいんだ。それに、今回はカフェセンパイが手伝ってくれたから、いい点数も取れそうだし!」
「まあ、仕方ないな。テスト頑張れよ」
「うん!」
声を張る彼女に、ゴールドシップが続く。
「悪いけど、アタシもパスだわ」
「……理由はなんだ? 滅茶苦茶なものだったら、無理やり連れていくぞ」
「いや、ルドルフに今度のファン感謝祭でやる企画レースの会議に呼ばれててよ。面倒だが出席しなくちゃいけねーんだよな。……あ、言っとくけどマジだからな。何なら、今からルドルフに確認してくれてもいいぜ?」
「……お前がそこまで言うなら、本当なんだろ。構わない。そっちに出てくれ」
「おうよ」
一瞬、荒唐無稽な理由に思えたが、シンボリルドルフを引き合いに出してくあたり嘘ではないのだろう。それに何より、二人の仲が妙にいいことを、トウカイテイオーはうっすらと知っていた。
しかしながら、これで二人は同行できないことが決まってしまった。本来なら確認のために全員を連れていくつもりだったのだろう。しかし、話をここまで急なものにしてしまったのは彼自身である。彼にしては珍しいミスだな、とトウカイテイオーは思った。呆れたような溜息は、彼自身へと向けたもののように感じられた。
そうして肩を落とす彼へ声をかけたのは、マンハッタンカフェであった。
「あの……トレーナーさん」
「なんだ、お前も何かあるのか?」
「いえ、私は特にこれといった用事もないので……同行できますが」
「……そうか、助かる。お前にも断られたら、日を改めることも考えてたからな」
溜息と共に、彼がそう言葉を漏らしてから、
「じゃあ、明日は俺とカフェがいないから、二人はシノの主導でトレーニングしてくれ。シノはトレーニングの内容を纏めて、メールで送ること。いつもの課題も忘れずにな」
「うん!」
「テイオーとゴルシもサボらずに、ちゃんとシノの指示に従ってやれよ。いいな?」
「分かってるって」
「はーい」
「じゃあ、今日は解散で。カフェは明日のことがあるから、少しだけ残ってくれ」
そうして、レース場から去っていく彼女たちを見送った後に、彼が残ったマンハッタンカフェの方へと向き直る。
「明日、八時半には寮の前で集合な。車で迎えに行く」
「……何か、必要なものはありますか?」
「あー……学生証と携帯くらいか? それと、何か車内で暇潰しになるものとか」
「分かりました」
「あと、欠席届は後で俺の方から出しておくが、一応カフェの方からも連絡しておいてくれると助かる」
「そうしておきます」
「……伝えることはそれくらいだな。カフェは何かあるか?」
「特には」
「そうか。じゃあ、俺はもう戻る。明日は頼むぞ」
「はい」
いくつかの言葉を交わし終えたあと、彼がその場を立ち去った。そうして、誰もいないレース場に一人残されたマンハッタンカフェは、小さく息を吐いてから、ぽつりと。
「……テイオーさんへの言い訳を考えておきますか」
かくして。
■
「……なあ。一ついいか?」
「はい」
翌日。
車窓から顔を出した彼が、今一度、マンハッタンカフェの全身を見まわしてから、
「どうして私服なんだ」
「隣にいるのが制服、それも中央のものを着ているウマ娘では、アナタも吸いにくいでしょう」
「……なるほどな。気遣いの利く担当を持てて、俺は幸せだよ」
ため息交じりにそう呟いてから、彼が手で車に乗るよう合図する。マンハッタンカフェはそれに従って、助手席のドアを開けて、シートベルトを締めた。煙草の枯れた香りが漂ってくる。
そうしてマンハッタンカフェが彼の方へ視線をやると、車が静かに走り始めた。
「帰ってくるのは五時くらいになるかもな」
「そうですか」
「……何か、持ってきたのか?」
「本を一冊……」
「そうか」
短く答えると、彼が片手で携帯を操作する。しばらくすると、スピーカーから音楽が流れ始めた。それは、マンハッタンカフェが何度か聞いたことのある、彼の好きなロックバンドの曲だった。そうして、読書をする彼女を気遣ってのことだろう、音量を少し下げた彼へ、マンハッタンカフェが訝し気な視線と共に問いかける。
「最近、テイオーさんが音楽をよく聴いているらしいですが」
「みたいだな。デビュー戦でも携帯を持ち込んでいたみたいだし」
「……もしかしなくても、アナタの趣味ですか?」
「向こうから頼まれただけだ」
責任を押しつけるような彼の物言いに、マンハッタンカフェは口を閉ざした。これ以上、そのことを追求しても彼は答えないだろうし、きっとそれを探られるのは可愛い後輩であるトウカイテイオーも嫌がることだろう。それに何より、彼とこうして音楽を聴くことは、嫌ではなかった。
信号に差し掛かったところで、車が止まる。流れる空白を埋めるように、彼が口を開いた。
「チームの方はどうだ?」
「……騒がしくなったとは思います」
「嫌だったか?」
「いえ……」
「そりゃよかった」
彼がくすり、と小さな笑みを零すと共に、車がまた走り始める。
「でも、騒がしいのは当然だろ。チームメンバーが三倍に増えたんだから」
「……ゴルシさんが入った時点で、既に今の騒がしさでしたよ」
「そうか? テイオーも大概だと思うけどな」
「あの娘はあの娘で、弁えているところはありますから。それに、ゴルシさんに比べれば可愛げのあるものですし。いい後輩ですよ、あの娘は」
「……ずいぶん気に入ってるな?」
「それはアナタもでしょう」
返事はなかった。横目で見た彼の横顔には、どうしようもないような疲れた笑みが浮かんでいた。
「思えば、ゴルシが入ってきたのは謎だったな」
「……え? アナタが声をかけたのではなかったんですか?」
「言ってなかったか? 向こうからだよ。面白そうだからお前のところに入れろ、って」
「そうなると、アナタから手を出されたのは私だけ、ということですか」
「誤解を招く言い方をするな」
眉をひそめる彼に、マンハッタンカフェが小さく微笑む。小気味のいい、いつものやり取り。しかし、それはマンハッタンカフェにとってはそれがどこか懐かしいものに感じられた。思えば、こうして二人だけで会話をするのはいつ振りだろうか。それを思い出す前に、彼がまた言葉をかけてくる。
「ゴルシから何か聞いてないのか?」
「何か、とは?」
「いや……なんでこのチームに入ったのか。アイツに正直に聴くのも野暮だろうし」
「特に、これといった理由は聞いていませんが、ただ……」
「……ただ?」
「前にそのような話をしたとき、『カナリアには止まり木を用意してやるもんだ』と言っていたことは覚えています」
「意味が分からん」
「今に始まった話ではないでしょう」
そう言って、マンハッタンカフェは小さく肩をすくめる。気づけば、窓の外には見慣れない風景が流れていた。通り過ぎていく見慣れない看板たちを眺めていると、ふとまた彼が口を開く。
「シノのことはどう思ってる?」
「……どう、とは」
「ちゃんとチームに馴染めてるのか気になってな」
彼の言葉に、しばらくの間を置いてからマンハッタンカフェが言葉を紡いだ。
「優秀な方だとは思います。私たちのことを一人ひとり見てくれていますし、指示も分かりやすいですし……ゴルシさんとテイオーさんも、見直していましたよ。アナタよりもよくできたトレーナーだと」
「俺よりも出来がいいのは分かっているから特には言わないが……見直した、ってのはどういうことだ?」
「……もしかしたら公私混同をしているのではないか、と思っていたので」
「公私混同? アイツが?」
「気づいていないのですか?」
「全く」
不思議そうに首を傾げた彼へ、マンハッタンカフェが呆れたように息を吐く。
「……まあ、杞憂でしたから追及はしなくても大丈夫ですよ」
「そうなのか? もし何かあったら、遠慮せずに――」
「ですが」
続く言葉を遮るように、彼女はそうやって強く言い放ってから、
「私は、どちらかと言えばテイオーさんを応援していますので」
「……すまん。どういう意味だ?」
「個人的に差しウマの方が好き、というだけです」
会話はそこで終わった。というのも、マンハッタンカフェがその言葉を最後に、手元の本を開いて黙り込んでしまった。そんな突き放すような態度の彼女に、彼は何か言おうと口を開いたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
先程よりも静かになり、エンジン音がよく聞こえるようになった車内で、ぽつりと。
「お前はたまに、ゴルシよりも分からないことを言うよな」
零したその言葉に、マンハッタンカフェは何も答えなかった。
■
「着いたぞ」
耳元で聞こえる声に、マンハッタンカフェがぱちりと目を開く。
そうして彼の方を振り向いた瞬間、煙草の乾いた香りが漂ってきた。
「……もしかして、寝ていましたか?」
「少しな」
「申し訳ありません」
「怒ってるわけじゃない。ま、ヒマなのは分かる」
白い煙を吐き出して、彼が頭を下げたマンハッタンカフェに答える。きっと車を停めてから吸い始めたのだろう、咥えている煙草は既に半ばほどまで燃え尽きていた。そうして彼女の視線に気づいた彼が、灰皿の上で煙草を叩きながら、言葉を続ける。
「予定よりも早く着いたからな」
「……構いませんが」
短く言葉を返して、マンハッタンカフェが窓の外へと目を向ける。広がっているのは当然、見慣れない住宅街であったが、それはどこか懐かしさを感じさせるものであった。それがあまり開発の進んでいない郊外の都市だったからなのか、あるいはもしかしたらここに一度訪れたことがあるからなのか、マンハッタンカフェには分からなかった。
そんなことを考えているうちに、吸い終えた煙草を灰皿へ押し付けた彼が、シートベルトを外す。
「待たせたな、行くか」
「はい」
扉を開けると、ごつごつとした荒い砂利の感触が足裏に伝わってきた。
「少し歩く」
「どれくらいですか?」
「すぐそこだよ」
彼が顎で示した先には、公園を一つ挟んだ先にある、小さな建物が見えた。周囲には用水路が通っており、その後ろには大きな川に掛けられている橋の一部が見える。それを確認すると、マンハッタンカフェは塗装の殆ど剝げた、所々が欠けた縁石の並ぶ道路を歩く彼に続いた。
公園を迂回するように歩いていると、どこからか鳩の鳴く声が聞こえてくが、けれどそれはすぐに用水路から聞こえてくる荒い水音にかき消されてしまう。ふと隣にある緑色のフェンスに目をやると、おそらく児童に向けたであろう、妙に新しい用水路の立ち入りを警告する看板がかけられていた。
そうして視線を正面に戻すと、彼が訝し気にこちらを見つめていることに気づく。
「どうした?」
「いえ……随分と、遠くの方まで来たんだなと思って」
「思ったよりも田舎で驚いた、くらい言ってもいいんだぞ」
笑いながら、彼が再び歩き出す。マンハッタンカフェはその背中を追いかけるように歩幅を広げ、そして彼の横に並んだ。それから、しばらく無言のままで歩く。用水路から聞こえてくる荒い水音は、絶え間なく響いていた。
やがて辿り着いた建物の扉を彼が開く。ちりん、とあまり響かない、錆びついたベルの音が鳴った。
こじんまりとした店内には、おそらくウマ娘の勝負服であろうものがいくつか、大きなショーケースに入れられて並んでいた。そこで改めて、ここが勝負服を専門に取り扱っていることにマンハッタンカフェが気が付いた。しかしカウンターに店員はおらず、どうしたのかと疑問に思う前に、隣の彼が声を上げる。
「すいません、勝負服を受け取りに来たんですが」
しゃがれた声が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。
「ええよ、いつものところから入ってき」
その言葉に迷うことなく、彼がカウンターの仕切りを上げて、そのままカーテンを捲る。マンハッタンカフェは少し困惑しながらも、両手でカウンターの仕切りを上げてから、彼と同じようにカーテンの奥へと足を踏み入れた。
果たして、その先にあったのは小さな工房のようなスペースだった。大きな古ぼけた木のテーブルの周囲には、布地のかけらが点々と落ちており、奥にあるハンガーラックには何着もの服が並んでいる。そして何よりも印象的だったのは、古びた衣料店の強い匂いで、マンハッタンカフェは顔を顰めなかった自分を褒めた。
「早かったじゃないか」
「道が空いてたので。まあ、平日の昼間ですし」
「すまないね、手間取らせちゃって」
「仕方のないことです」
「それで? 連れてきてくれたのかい?」
「一人は」
「ほぉ」
そこで初めて、先程の声の主であろう、椅子に座った老婆がマンハッタンカフェへと視線を送る。曲がった腰と、伸ばした白髪がかなりの老年であることを示していた。しかし、こちらを見つめる視線に老人の弱々しさは感じられなかった。むしろ、自然と背筋がぴしりと整うような緊張感を、マンハッタンカフェは感じていた。
やがてしばらく時間がたつと、彼女が優し気に目を細める。
「そんなに怖がらないでおくれよ。お嬢ちゃん、お名前は?」
「……マンハッタンカフェ、です。今日はよろしくお願いします」
「あら、いい娘じゃないの。別嬪さんだし、礼儀正しいし」
「そうでしょう」
「いや、その……ええと、ありがとうございます」
しどろもどろになったマンハッタンカフェへ、彼女は片手を上げるだけであった。
「服はもう用意してあるから、一度着てみな」
「はい。……ここで、ですか?」
戸惑いながら、マンハッタンカフェがちらり、と隣へ視線を送る。
「流石に出るから安心しろ」
「分かってるならさっさと出てって店番でもしてな!」
「はいはい……」
すごすごと頭を下げながら、彼がカーテンの外へ消えていく。
それを見送るマンハッタンカフェの背後で、彼女はハンガーラックから一着の服を手に取った。
「ほら、アンタのは多分これだろ?」
「はい……」
「注文を受けた時は真っ黒すぎてびっくりしたけどね。でもまあ、アンタを見て納得したよ」
「というと……」
「アンタみたいな黒髪が綺麗な美人さんには、こういうのがぴったりなのさ」
「……ありがとうございます」
静かに頭を下げながら、マンハッタンカフェが上着へと手をかける。
着替えは思っていたよりもだいぶ早く終わった。黒いコートを最後に羽織り、部屋の隅にある姿見で全身を確認する。裾の丈も指定した通りだし、袖の長さも丁度いい。尻尾を通す穴も小さすぎず、鏡に映る尾は余裕を持って動かすことができた。
「似合うな」
いつの間にか入ってきた彼の言葉で、マンハッタンカフェが振り返る。
「そうでしょうか」
「ああ。……少し暗すぎる気もするが、むしろそれくらいが丁度いいのかもな」
「当たり前だよ。こんなに暗い色が似合う娘なんて、そうそういないんだから。だったら、そういう衣装を着るべきだと私は思うね。それで、着てみて何か違和感はあるかい?」
「特には。とても着心地がよくて、これなら満足に走れそうです」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの」
そうやってにかりと笑いながら、彼女はマンハッタンカフェの肩へと手を置いた。
「他の二着はどうするんだい? このまま持っていくつもり?」
「あなたの仕事を疑うわけではありませんが、万が一不備が見つかったら面倒ですから」
「でも、連れてこれなかったんだろ? どうするつもりさね」
ふむ、と顎に手を当てた彼は、しばらく考え込んだのちに、
「……カフェ」
「なんでしょう」
「お前、テイオーとそんなに背丈は変わらなかったよな?」
「……はあ」
彼の言わんとしていることを嫌々汲み取ったマンハッタンカフェは、勝負服のコートへと手をかけた。
「悪いな」
「ゴールドシップさんのはあまり参考になりませんよ」
「着てくれるだけで十分だ」
言葉を残し、彼がまたカーテンの向こうへと消える。
「アンタも大変だね」
「慣れました」
そうして彼女から渡された勝負服へと、マンハッタンカフェが袖を通す。袖のボタンを締めると、もう一度姿見の前に立って全身を確認した。腕や脚を動かしたり、体を大きく捻ったりするが、特に動かしにくいところは見当たらない。強いて言うなら、白が強い衣装なので自分には絶対に似合わない、ということくらいか。
「ほら、これ」
などと適当なことを考えていると、隣に立っていた彼女からゴムが渡される。
「これ着る娘は、髪上げてるんだろ? 写真は見たよ」
「はい」
「それなら、ちゃんとその通りにしてあげないとね」
「……ありがとうございます」
カーテンを捲って彼が現れたのは、それとほとんど同時だった。
「……どうだ?」
「大丈夫だと思いますよ。ただ……」
「ただ?」
「……やっぱり、スカートが短い衣装はあまり慣れません」
そうやってマンハッタンカフェが首を振る。纏められた髪が尾のようになって、彼女の背中で揺れた。
「背中の布は気にならないかい? 手に引っかかるとか、髪に絡まるとか」
「特には。この衣装を着る娘も、あまり気にしないと思います」
「だったら問題ないね。ほら、次行くよ。アンタはさっさと出な」
「分かってますって」
追い払うような手つきに、彼がやつれた顔でカーテンをくぐる。そんな様子を見送りながら、マンハッタンカフェは纏めていた髪を解き、袖のボタンを一つずつ外し始めた。
最後に渡された衣装は、当然ながらかなり大きいものだった。そもそも、普段ゴールドシップと話をするとき、マンハッタンカフェは若干彼女のことを見上げているのだ。だから手袋が外れそうになったり、パンツが若干ずり落ちそうになったり、胸元がかなり寂しいことになっているのも、仕方のないことであった。
姿見の前に立つと、何とも言えないような自分の表情が目に映る。
「おっきな娘だねえ」
「ええ、本当に」
先程と同じように体を動かしてみるが、参考になるはずもない。ただ、邪魔になるような装飾や、手足に干渉するところもなさそうなので、走る分には問題なさそうだった。
そうして全体の調子を確認していると、またいつの間にか入ってきた彼が声をかける。
「着てるというより、着られてるな」
「率直な感想をどうも」
溜息を吐いた彼女が、ゆっくりと振り返る。
「どこか気になるところはあるかい?」
「そこまで……ええ、サイズが大きいこと以外は特にありませんよ」
「……みたいだな」
彼が答えたところでふと、視線に気づいたマンハッタンカフェが目を細めた。
「すいません、人並みに胸が無くて」
「いや、そういうことを言った訳では……」
「やはり男の人は大きい方が好みなんですか?」
「だからそういうことを言ったつもりはないし、俺はそいつの身の丈に合ってればなんでもいい」
うわ。
「逃げましたね」
「実際その通りだろ。何事も丁度いいのが一番なんだよ」
「つまり胸がついてればなんでもいいと」
「……お前、偏向報道の才能あるぞ。職には困らないな」
「恐縮です」
明後日の方を向いて答える彼女に、彼はやり切れないように息を吐いた。
「とにかく、確認は全て終わったんですよね?」
「一応だけどね。でも、やっぱり本人が着て初めて分かることもあると思うから、一回着せてやりなよ」
「勿論ですよ。では、カフェの着替えが終わり次第呼んでください」
「あいよ」
そうやって彼が出ていくのを確認してから、マンハッタンカフェが身に着けていた衣装へと手をかける。やがて彼女の手によって丁寧に包装が施された三着は、段ボールの中へと収納されていった。そんな様子を横目に眺めながら、マンハッタンカフェが自らの服へと袖を通す。ブラウスのボタンを閉じて、姿見の前に立って調子を整えていると、ふと背後から声がかけられた。
「いつもああなのかい?」
「まあ……大体は」
「ロクでもないヤツだね、ほんと。昔っからそうなのさ、アイツは」
ふん、と荒く息を吐きながら、鏡に映る彼女は眉間に深い皺を作っていた。
「……お孫さん、ですか?」
「甥だよ。姉の息子さ」
短い答えの後に、彼女がよろよろと立ち上がる。思わずマンハッタンカフェが手を貸そうとしたが、それは突き出した彼女の右腕に阻まれた。そのままおぼつかない足取りで、彼女はマンハッタンカフェの隣に寄り添い、その両肩へと手を添える。戸惑うマンハッタンカフェに、彼女は安心させるような穏やかな笑みを浮かべたかと思うと、その背中を強く叩いた。
「わ」
「カフェって言ったかい? アンタ、もっと背筋を伸ばした方がいいさね。でないと、自分で自分を小さく見ちまう。だからもっと堂々としな。そうじゃないと、勝てるレースも勝てないだろ?」
「ええと……すいません」
「なに、ただの老いぼれの戯言さ。謝るんじゃないよ」
ぽん、ともう一度、背中を優しく叩いてから、彼女がマンハッタンカフェの手を取る。乾いた皺の感覚が、鮮明に手の平へ伝わってきた。
「アンタが走るところ、楽しみにしてるよ」
「……ええ。頑張ります」
「ん」
背をまっすぐに伸ばし、しっかりと彼女の目を見つめながら、マンハッタンカフェが答える。
返ってきたのは、どこか子供らしい、にかりとした笑みだった。
■
「そういえば最近、オトモダチとやらの様子はどうなんだ」
勝負服を車に積み終え、学園への帰路に着いた途中で。
昼食のために入ったカフェで、食後の一服をしながらの彼の言葉だった。
「……まだ、顔は見れていません」
「そうか」
短い彼の返答に、マンハッタンカフェもコーヒーカップへ口をつける。淡い酸味が感じられた後に、ほどよい苦みが口の中に広がった。
「一つ、聴いてもいいか?」
「なんでしょう」
「俺が死んだとしても、カフェには俺が見えるのか?」
その問いかけは、彼女とある程度親しくなった人々から、散々聞かれたものだった。それを彼が口にすることは少し意外だったが、マンハッタンカフェは特に気にすることもなく、いつも通りの言葉を並べた。
「さあ?」
「……そうか」
やり切れないような声を出して、彼が煙草を口に咥えた。それに合わせるように、マンハッタンカフェもカップを傾ける。ゆったりとした音楽が、テーブルの真上にあるスピーカーから小さく流れていた。
「この世を去っても、私に見られたいんですか?」
「話をしたいとは思う」
「物好きですね」
「そうだな……今後のチームのこととか、テイオーやゴルシのこととか、シノのことも。死んでもカフェとそうした話ができるなら、便利だと思ってな」
一つ一つ指を折る彼に、マンハッタンカフェは小さな違和感を覚えた。
あまりにも話題が直近すぎる。普通はもっと未来、たとえば大人になった姿を見られるとか、チームどこまで成長できたか見たい、という話題を口にするかと思った。しかし彼の言っていることにはそれこそ、幽霊になってもチームのトレーナーとしての役割を果たせるのか、という疑問が垣間見えた。
空っぽになったカップを受け皿の上に置いて、マンハッタンカフェが彼へと視線を送る。
「死ぬご予定でもあるのですか?」
「自分では入れていないつもりだが」
「……そうですか」
多くは語られなかった。そのまま会話を終えて、彼が灰皿へ煙草の吸い殻を押し付ける。会計を手早く済ませると、彼はすぐに車の運転席へと乗り込んだので、マンハッタンカフェも助手席へと腰を落ち着かせた。
「じゃあ、帰るか」
「はい」
エンジンがかかると、降りる際に止まったロックの続きが足元から流れてくる。シートベルトを締めると、マンハッタンカフェは車内に置いておいた本の続きへと目を通し始めた。
「聞きそびれたが、何読んでるんだ?」
「……『モンテ・クリスト伯』を」
「『巌窟王』か。どうしてまた、そんな」
「特に理由はありません。この音楽も、そうでしょう」
「……そうだな」
会話はそこで止まった。そして、マンハッタンカフェがページを捲る手もまた、止まっていた。
考えているのは、先程の会話であった。自らの死期を悟っているような彼の物言いに、マンハッタンカフェは面に出すことはなかったが、かなり動揺していた。もしかすると、彼がある日突然いなくなってしまうのではないかと思うと、不安になった。細い指先は、次のページに手をかけたところで止まっていた。
自殺願望があるのか。あるいは、病に蝕まれているのか。もしかすると、恨みを買った誰かに命を狙われているのかもしれない。それが荒唐無稽な想像であることに気づかないまま、彼女は同じページの同じ行を、何度も読み直していた。それでも、不安が塗り潰されることは、なかった。
悶々とした疑問が、マンハッタンカフェの脳内を埋め尽くしていく。
エドモン・ダンテスは未だ、
「あの……」
やがて、思考の奔流に耐えかねたマンハッタンカフェが、そうやって言葉を漏らしたとき。
彼の携帯から、甲高い着信音が鳴り響いた。
「おっと」
「……出ましょうか?」
「悪い、頼む」
手渡された携帯の液晶には、親父という二文字が映っている。一瞬、本当に自分が出ていいのか問い返そうとしたが、鳴り続ける着信音に迫られたマンハッタンカフェは、スピーカーフォンを起動した。
「……えっと」
『啓介? すまん、今大丈夫か?』
「いえ、あの……すいません。お子さんではない、です……」
もっとマシな返しはなかったのだろうか。自分の発言に、マンハッタンカフェは顔が熱くなる感触を覚えた。そうして少しの沈黙が過ぎた後、電話の向こうにいる彼は、何かに気づいたように小さく声を上げて、
『もしかして、息子が担当してる娘か?』
「はい……その、トレーナーは今、運転中でして」
ちらり、と助けを求めるように彼女が視線を隣へ投げる。
「親父、どうした? なんか用事?」
『いやなに、そこまで急な事じゃないんだが……久しぶりに少し話がしたくなったんだ。今、忙しいか?』
「別に、用事が終わって帰ってるとこ。ちょっと待って……」
ウインカーを起動すると、彼がちょうど通りがかったコンビニの駐車場へと車を停める。そうして煙草とライターを取ると、彼はドアを開けながら、マンハッタンカフェに声をかけた。
「すぐ戻る」
「お構いなく」
答えに耳を貸す素振りも見せず、彼が扉を閉める。車内に残されたのはマンハッタンカフェと、わずかに聞こえるロックの音楽だけであった。どこか懐かしく、聞き心地の良いメロディーは、しかし今の彼女を落ち着かせるのには不十分であった。ふと窓の外へ目をやると、煙草を燻らせながら話をする彼の横顔が見える。
少し考えてから、マンハッタンカフェはこっそりと車窓へ耳を張り付けた。
「ああ……年末はこっちも忙しいから、帰れるのは二月に入ってからになるかも」
少なくとも、二月までは生きるつもりらしい。先の会話のせいで、彼の言葉の一端にすらそういう意味が含まれるのかと想像してしまう。正直、気が気ではなかった。
「……全員の、見てくれたんだ。どうだった? ……うん。そっか。やっぱり?」
期待に胸を膨らませ、子供のように彼が笑う。思えば、彼のあんな表情を見るのは初めてのことだった。しかしながらその表情はすぐに曇り、不安げなものに変わってしまう。そうして白い煙を空へ吐き出すと、彼はぽつぽつと語りだした。
「あの娘……カフェのことを言うのはよしてくれよ、親父。あいつだって頑張ってるんだから。そりゃ、デビュー戦は勿体なかったし、他の娘らに比べて見劣りするかもしれないけど。それはあいつが一番分かってるんだって」
少し情けないような、力のない笑みを浮かべながら、彼が続ける。
「それに俺、あいつには一番期待してるんだよ。他のやつも十分凄いけど、あいつだって負けてない。姉貴に訊いてみれば分かるんじゃない? いや……いつか親父にはレースで教えてやるよ。あいつの走りを」
そこまで聴いたマンハッタンカフェが、自らの耳を窓から離す。
正直なところ、喜びや気恥ずかしさよりも驚きの方が勝っていた。彼が自分にそこまでの期待を寄せているなど、思ってすらいなかった。胸元へ手をあてると、心臓の鼓動がいつもより早くなっているのが分かる。気づかぬうちに深く息を吐いていると、フロントガラスに会話を終えたであろう彼が、運転席に戻ってくるのが見えた。
扉を開いた彼が、乱暴に運転席へと腰を下ろす。
「悪かったな、時間取らせて」
「いえ」
煙草とライターをいつもの位置へ戻し、彼がハンドルを握る。ほどなくして帰路に戻った車は、また静かに走り始めた。まだ日はほどほどに高く、緩やかな陽射しが窓から入ってくる。眠気を誘うようなそれを、彼女はサンバイザーで遮った。裏にあるポケットからは、CDのジャケットが顔を覗かせていた。
そうして車は、赤になった信号の前で止まる。
流れる沈黙の中、マンハッタンカフェは本をぱたりと閉じて、
「デビュー戦、アナタの期待に応えることができず、申し訳ありませんでした」
普段よりしっかりと伝えられたその言葉に、彼が大きく目を見開いた。
「……聞いてたのか」
「聞こえたんです」
呆れたような深い息を吐く彼に、マンハッタンカフェが続ける。
「すいませんでした。私が、もっと速く走ることができれば」
「謝るな」
「でも、アナタを失望させてしまいました。お父様からも何か言われたのでは?」
「考えすぎだ」
答えた彼の指が、ハンドルをこつこつと叩く。普段よりも苛立っているのは、火を見るよりも明らかであった。けれど、それに臆することもなく、マンハッタンカフェが丁寧に言葉を並べていく。
「正直なところ、私はレースの勝敗にさほど興味はありませんでした。あの子に追いついて、その顔を見ることさえできれば、それで満足できると思っていました。言ってしまえば、あの子と一緒に走ることができるなら……レースに出られなくてもいいと。このまま未勝利で終わってもいいとさえ、前までの私は考えていたのかもしれません」
「……今は違う、と?」
「はい」
こちらに視線だけを向ける彼に、強く頷いてから、
「さっき私に、聞きましたよね。アナタが死んでも私と話せるのか、と」
「言ったな。でも、お前には分からないんだろ?」
「ええ。アナタが死んでも、この世界に残るかどうか分かりませんから」
「……どういうことだ?」
「
その言葉で、彼も納得したのだろう。右手はハンドルに添えたまま、左手を顎の下へやりながら、彼は深く考えるような素振りを見せた。しかしそれも長くは続かず、短く息を吐いたかと思うと、彼は諦めたように肩をすくめた。
「見当たらんな」
「そうですか」
「となると、死んでもお前と話すのは無理か」
「かもしれませんね」
視界の端にある歩行者用の信号が、ちかちかと点滅を始める。
「私、有馬で一着を取ります」
信号が青になっても、彼は驚いた表情のままでマンハッタンカフェの方を見つめていた。
「お前、いきなり何言って……」
「あ、青ですよ。ほら、行かないと」
後ろから鳴るクラクションの音に、彼が急いでアクセルを踏みしめる。そうして車が再び走り出したところで、彼は頬を軽く掻きながら、視線だけでもう一度マンハッタンカフェのことを見つめた。
「いや……本気なのか?」
「本気です。来年の有馬で一着を」
「しかもクラシック級のうちにって……まあ、目標は高いに越したことはないが……」
「私では不可能でしょうか?」
「……いや。お前の素質なら、十分狙える」
「そうですか」
頷きながらマンハッタンカフェは短く、いつも通りに答えて、
「では、これであなたにも未練ができたということで」
そんな言葉を、彼の横顔を見つめながら小さく呟いた。
「……こりゃ、そう簡単に死ねなくなったな。本末転倒じゃないか?」
「その方が遥かにマシでしょう。それに、私と話をするのにわざわざ死ぬ必要はありませんよ」
「ああ。まあ、それもそうか」
いつもそうだった。遠慮はいらず、気遣いも必要ない。ただ、気が向いた時に、好きな話をすればいい。出会った時から今この瞬間まで、それが変わったことはなかった。思えば、そんなやり取りがどこか心地よく、落ち着くことができたから、マンハッタンカフェは彼を選んだのだろう。ただの隠れ蓑としてだけではなく、マンハッタンカフェがマンハッタンカフェらしくいられる場所として、このチームでのひとときを選んだのだろう。
「生きてください。そして、有馬で一着を取る私を見ていてください」
「……そうだな。約束しよう」
苦笑を浮かべながら、彼が答える。
その横顔を眺めるマンハッタンカフェも、どこか柔らかな微笑みを浮かべていた。
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