Absolute One   作:宇宮 祐樹

8 / 18
08 Into the Stage / ほんとうのボクは

 

 夏が終わる。

 

「はあ……」

 

 茜色の空を見上げながら、トウカイテイオーはいつもの喫煙所で寂れた息を吐いた。

 光陰矢の如し、というのは本当で、気が付けば八月もあと数日で終わろうとしていた。ただただ、トレーニングの毎日であった。どこかへ遊びに行くこともなければ、何か思い出ができたわけでもない。変わったことと言えば、マンハッタンカフェが無事に未勝利戦を勝利し、晴れてチームメンバーが全員、ジュニア級に突入したことくらいか。それ以外に何かないか、と彼女が思考を巡らせるが、すぐに無駄だと悟って止めた。

 変化のない毎日ではあったが、無為な日々ではなかった。デビュー前から続いて行っているフォームの改善はかなり効果が出ているし、タイムも微々たるものではあるが、確実に早くなっている。ゴールドシップやマンハッタンカフェも、夏に入る前と比べれば明らかに成長していた。チームとしての成長は、確かに感じられた。

 ただ、何か思い出が欲しいと言えばそうだった。下積みの期間であることは承知しているが、かといって何もない、というのも物悲しいものである。今朝がた、同室であるマヤノトップガンから、トレーナーと二人きりで海へ行ったという惚気を聞いたトウカイテイオーは、それをひしひしと感じていた。

 

「……まあ、海は来年行くけどさ」

 

 なんて呟きをしてからしばらく、聞き覚えのある足音がトウカイテイオーの耳に入る。

 

「おう」

「ん」

 

 果たして現れたのは、いつも通り煙草とライターを持った彼であった。そのまま彼はトウカイテイオーの隣へと腰を下ろし、慣れた手つきで煙草へと火を点ける。白い煙が空へ上がっていくと共に、枯れた香りが二人を包み込んだ。

 

「……八月も終わりか」

「そうだね」

 

 短く言葉を交わしたのち、沈黙が訪れる。彼は煙草を燻らせながら、遠くで沈んでいく夕陽を眺めていた。そんな横顔を一度目にすると、トウカイテイオーも同じように西の空へと顔を向ける。夜の帳は、すぐそこまで降りていた。

 

「秋に入ってからが勝負だ。気合入れろよ」

「……分かってるって」

「どうだか。目標にしてるレース、忘れてないだろうな」

「芙蓉と京都ジュニアでしょ? 大丈夫だって」

「……みたいだな」

 

 それからしばらくの間、会話が起こることはなかったが、この何もない時間がトウカイテイオーは好きだった。思えば、沈黙が続いても気まずくない相手は彼が初めてかもしれない。こういう時、普段の彼女なら間を埋めるために何か会話を持ちかけるが、彼に対してそういうことをする気は全く起きなかった。このまま一夜を過ごし、明日になってもいいとさえ思えた。

 やがて煙草を吸い終えた彼が、吸い殻を灰皿へと捨てる。

 

「夏の間に、お前らをどっか連れてってやりたかったんだけどな」

 

 ふと漏らした彼の言葉に、トウカイテイオーは少しの驚きを感じつつ振り返った。

 

「どこかって……どこに?」

「息抜きになる場所なら、どこでも」

「……なんでまた、そんなこと」

「今朝、同僚から担当と海に行ったって話を聞かされた」

 

 何か思い当たるような表情を浮かべる彼女を置いたまま、彼が続ける。

 

「考えたことはあるんだ。そうやって休憩というか、リフレッシュできる場所を用意するのもトレーナーの役目だからな。それに、カフェも未勝利戦を抜けたことだし。打ち上げにも丁度いいと思って、予定は立ててたんだが……」

「やめちゃったの?」

「いい場所が思いつかなかった、ってのもあるし……何よりお前らの場合、それぞれに時間を作ってやった方が休憩になると思ってな。それに俺がいたら、気を抜けないところもあるだろ。だったら、別にいいか、と」

「ヒクツだなあ、トレーナーは」

 

 トウカイテイオーが呆れたように口を尖らせる。それを見た彼は、少し考えたあとに、珍しく恐る恐る、といった様子で問いかけてきた。

 

「……もしかして、どこか行きたかったのか?」

「まあね。大事な時期ってことは分かってたから、言わなかっただけ」

「すまない」

 

 顔を俯かせる彼の顔を覗き込みながら、トウカイテイオーが声をかける。

 

「じゃあまた今度、どっか行こうよ」

「……今度って、いつだ?」

「いつでもいいよ。秋でも、冬でも。来年になってもいいからさ。トレーナーが決めてくれれば、ボクも合わせるし。カフェセンパイもゴルシも、篠崎さんも一緒に行ってくれると思うよ?」

「全員の予定が合えばな。けど、そんなに都合よくいかないだろ」

 

 そうやって肩をすくめる彼に、トウカイテイオーは少し悪戯めいた笑みを浮かべながら、

 

「ならさ、ボクたち二人だけで行く? その同僚さんみたいに」

 

 返答があったのは、しばらくの時間があってのことだった。

 

「……アイツと知り合いだったのか?」

「ううん。でも、マヤノとは同じ部屋だから」

「なるほど」

 

 トウカイテイオーの言葉に彼は頷いて、また少しの時間が過ぎる。続いた沈黙は、先程のものより少しだけ緊張感に満ちていた。彼の息遣いや唇の動きの一つにさえ、無意識に気を遣ってしまう。心臓の鼓動がいつもより早く、どこか弱々しいものになっていることに、トウカイテイオーは気が付いた。

 そうして彼が口を開き、言葉を続けようとしたその瞬間、

 

「なんてね。冗談だよ、トレーナー」

「……テイオー?」

「行くなら、ちゃんとみんなで行って楽しまないと。ボクたちだけで行ったら、それこそゴルシにアタシも連れてけよ~、なんてこと言われそうだし。そうやってうるさくなるのは、トレーナーもイヤでしょ?」

「それは……まあ、そうだが」

 

 並べた言葉が少し早口で、まくし立てるようになっている自覚はあった。頬が少しだけ震えていることにも気が付いた。ただ、それでもトウカイテイオーは笑顔を浮かべなければならなかった。そうでなければ、この空気に耐えられない気がした。驚いたような彼の瞳は、鋭いナイフのようになって、トウカイテイオーの胸に突き刺さった。

 いっそのこと、卑しくなりきることができればどれほど楽だっただろうか。二人だけで誰の邪魔も入らないところへ行って、この時間の続きを過ごそうと言えればよかった。きっと彼なら、そんな自分でも受け入れてくれると信じられた。ただ、それを口にすることはできなかった。その言葉は喉の奥でどろどろに溶けたまま、彼女の胸にこびりついている。それを元の形を整えるのに、一朝一夕では済まなさそうだった。

 情けない自分が嫌いになる。そうして曇りそうになった顔に、無理やり笑顔を張り付けながら、トウカイテイオーは不思議そうにこちらを覗く彼へと、言葉を続けた。

 

「遊びに行きたいってのはホントだよ。だから、いつでもいいからみんなで一緒に行こうよ」

「ああ。予定が合えば、な」

「約束だよ? もし破ったら……」

「……破ったら?」

「その時、考えるよ」

 

 そこで少し乱暴に言葉切ってから、トウカイテイオーが立ち上がる。

 

「じゃあ、ボクはもう行くね」

「ああ……早いんだな、今日は」

「ちょっとマヤノとの用事があるんだ。それとも、トレーナーはもっとボクと一緒にいたかった?」

「……誰が教えたんだ、そんな卑怯な聞き方」

「さあね」

 

 首を小さく傾げながら、トウカイテイオーは少し力のない微笑みを浮かべた。それが自分の言葉であること、そして自分がそんな言葉を吐けることに誰よりも彼女自身が驚き、そして嫌な気持ちになった。こんな浅ましい言葉遣いができるようになったのは、いつからだろう。少なくとも、彼と出会う前なら絶対に言わないことは確かだった。

 

「じゃあね、トレーナー。また明日」

「ああ。また、明日」

 

 短く挨拶を交わしたトウカイテイオーが、喫煙所を去る。

 

「……何してるんだろ、ボク」

 

 ぼそりと呟いた言葉は、宵闇の中へ消えていった。

 

 

 錯綜している自覚はあった。そんな自分がひどく情けなく、惨めだという自覚も。

 ただ、その自覚があったとして、今の自分に何ができるのだろうか。

 肘をつきながら考えるトウカイテイオーの右手では、一本のペンが慰みに転がされていた。手の内を前後して勢いをつけたペンは、そのまま宙に放られたあと、また同じところへ戻ってくる。そんな遊びを何度か繰り返していると、ふと勢いをつけすぎたペンは彼女の手を離れ、机の上に真っ逆さまに落ちていく。誰もいないチームルームに、かたん、という甲高い音が響き渡ったが、それはイヤホンに塞がれた彼女の耳には届かなかった。

 ペンを拾い上げると、またトウカイテイオーがペンを転がし始める。

 

「二人で一緒に、か……」

 

 呟いたところで、いつまで気にしてるんだよ、とトウカイテイオーは呆れたような笑みを浮かべた。

 もしもあそこで遮らなかったら、彼はどんな言葉を自分へ送ってくれたのだろう。もちろん、二つ返事で肯定してくれるとは信じている。だが、仮にもし否定されてしまったらと思うと、トウカイテイオーは自分でさえ、自分がどんな行動を起こすのか分からなかった。そして、そんなことをしてしまいそうな自分が、少しだけ怖くなった。

 そこまで考えたところで、彼女の手のひらからペンが離れていく。

 かたん、とまた甲高い音が鳴り響いた。

 

「……いつから、ボクはこんなに臆病になったんだろうね」

 

 拾い上げたペンを見つめながら、トウカイテイオーがまたペンを遊ばせる。

 自分でそう表すのもどうかと思うが、傍若無人な性格ではあった。好きなことは好きなだけしたし、やると決めたことは何があってもやり遂げた。その過程で他人へ迷惑をかけたり、トラブルになったりすることも多々あったが、だからといって自分を曲げたりすることはなかった。そうでなければ、自分が自分でなくなると思ったから。

 けれど、彼に対してそう振る舞うのはどこか違う気がした。

 怖がっているのだと思う。これまでのような我儘や傲慢を彼に向けたとして、彼との間に溝が出来てしまうのが。そして何より、喫煙所で過ごす彼との時間が無くなってしまうと思うと、そんな振る舞いなどできるはずがなかった。臆病というのは、そういう意味だった。

 そんな考えを巡らせたところで、改めてあの時間が自分にとって特別なものになっていることに、トウカイテイオーは気が付いた。初めて煙草の香りを知った。初めて聞いたことのない音楽を聴いた。初めて、こんな気持ちになった。次はどんな初めてを教えてくれるのだろう。願わくば、それが別れでなければいいが。

 ペンが手のひらから零れ落ちる。甲高い音が鳴り響く。

 

「どれもこれもトレーナーのせいだよ、やっぱり」

 

 次に机の上に転がったそれを拾い上げたのは、トウカイテイオーの手――ではなく。

 苛立ちを隠そうともしない、乱暴な仕草の手であった。

 

「おい」

 

 驚く間もなくイヤホンを引き剥がされた彼女の耳に、そんな荒々しい声が聞こえてくる。戸惑いを抱えたまま、トウカイテイオーが声のする方へ振り返ったその瞬間、

 

「いい加減、うるせーんだよ」

 

 不快そうに眉を(ひそ)めるゴールドシップが、ペンの後ろでトウカイテイオーのことを小突いた。

 

「……ごめん」

「ったく」

 

 弱々しい彼女の声を背中で受け止めながら、ゴールドシップが少し離れた椅子へと乱暴に腰を下ろす。するとそのまま、彼女は机の上に置いてあったルービックキューブを手に取って、気怠げに遊び始めた。

 かちゃかちゃと乾いた音が鳴り響く中で、トウカイテイオーが静かに口を開く。

 

「いつからいたの?」

「二回目」

 

 振り返ることもなく、ゴールドシップは短く答えた。

 

「考え事か?」

「……ちょっとね」

「ちょっと、って風には見えなかったけどな」

 

 返される言葉に、トウカイテイオーが思わず自らの顔へと手を伸ばす。気づかぬうちにこちらへ振り返っていたゴールドシップは、そんな仕草をする彼女へ小馬鹿にするような、嫌気のある笑みを浮かべていた。

 

「冗談だよ。ま、珍しくはあったけどな。あのテイオーが一丁前に考え事なんて」

「もー……やめてよ。こっちは真剣なんだから」

 

 頬を膨らませる彼女に、ゴールドシップは言葉ではなく、持っているルービックキューブを投げ渡した。受け止めたそれは、既に六面が同じ色に揃えられており、トウカイテイオーが首を傾げる前に、彼女が口を開く。

 

「色、バラしてくれよ。アタシがやっても意味ねーから」

「いいけど……」

 

 少し考えてから、キューブが静かに回り始める。

 

「で、考え事ってのは?」

 

 そこで初めて、トウカイテイオーはゴールドシップの意図に気が付いた。不器用なその気の遣い方に、少し呆れた笑みを浮かべながら、トウカイテイオーはぽつぽつと語り始めた。

 

「……ゴルシはさ、ボクが変わったって思う?」

「そりゃ、まあ」

「どこが?」

「……それこそ、そんな風に考え事なんてする性格じゃなかっただろ、お前」

「まあね。それはボクでも思うよ」

 

 崩れていく六色のキューブに目を落としながら、続ける。

 

「きっとさ、考えなくちゃいけないことができたんだ」

「チームのことか?」

「それもそうだけど……」

 

 会話はそこで一度、途切れた。怪訝そうなゴールドシップの視線を浴びながら、しかし彼女は口を閉ざしたままでキューブを回す。そうしてバラバラに色の分かれたルービックキューブを眺めると、トウカイテイオーがふと口を開いた。

 

「ゴルシは、どっちのボクが好き?」

「あ?」

「何でもかんでも考えこんじゃう今のボクか、何も考えず自分勝手だった前のボク。ゴルシだったら、どっちのボクが好きなの?」

 

 答えが返ってきたのは、すぐだった。

 

「友達としてなら、前までの好きにやってたお前の方がいい」

「……そっか」

「けど、同じチームメンバーとしてなら、しっかり考えるようになったお前がいい」

 

 その言葉にトウカイテイオーは手を止めると、きょとん、と呆けたような表情を浮かべて、

 

「答えになってなくない?」

「真面目に答えるのもアホらしいって気づけよ」

 

 ふん、と鼻を鳴らすと、ゴールドシップがルービックキューブを返すよう、トウカイテイオーに手を上げる。ほとんど原型がなくなってしまったそれを投げ渡すと、彼女は一度だけその全面へと目を通してから、すぐにキューブを回し始めた。

 

「前のテイオーに戻りたいのか?」

「そうじゃないよ。でも、変わっちゃったなあって」

「だったら、変わったことが悪いことだって思ってるのか?」

「……ゴルシはどう思うの?」

「そのまま足踏みを続けてるよりは、遥かにマシだろ」

 

 ルービックキューブに目を落としたまま、ゴールドシップが続ける。

 

「今の自分が嫌いなのか、なんて野暮なことは聞かないけどさ。別に、変わったならそれでいいんじゃねえか? だってよ、それってつまり、変わらないとできない目的とか何かがあって、お前はそのために自分を変えられたってことだろ。アタシはそういうの、褒められるべきことだって思うぜ」

 

 かちゃり、と軽い音を立てて、ルービックキューブが組み上がる。そうして指の先でくるくるとキューブを回し始めた彼女に、トウカイテイオーは緊張の解けたような、どこかゆったりとした微笑みを浮かべながら、口を開いた。

 

「なんだか、ゴルシも変わったよね。前までのゴルシなら、絶対にこうやって悩みとか聞いてくれなかったし、そんなことも言ってくれなかったよ」

「アタシもここに来て、お茶目なゴルシちゃんから真面目なゴルシちゃんにジョブチェンジしたんだよ。ま、チームとしてやってくからには勝手なことできねーしな。そこらへんの分別はつけてるつもりだよ」

「……そういえばさ、ゴルシってどうしてこのチームに入ったの?」

「まあ、そうだな……強いて言うなら」

「言うなら?」

「カナリアには止まり木を用意してやるもんだからな」

「……何それ」

「ただの言葉遊びだよ。もう行くぜ、アタシは」

 

 気だるそうに答えると、ゴールドシップはルービックキューブを制服のポケットへ放り入れてから、うん、と一つ伸びをした。そうして立ち上がった彼女に、トウカイテイオーも身を乗り出すように椅子から腰を離して、言葉をかける。

 

「あ、あのさ……ありがとね、ゴルシ」

「礼なんていらねーよ。その代わり、少し野暮用を頼まれてくれねーか?」

「野暮用?」

 

 ゴールドシップの言葉に、ふとトウカイテイオーが思い出す。

 

「そういえばゴルシって、どうしてここに来たの?」

「カフェから頼まれたんだよ。本をチームルームに忘れたから、ヒマなら取りに行ってくれって」

 

 語るゴールドシップの指が示した先には、机の上に置かれている一冊の本があった。持ち上げたその表紙には、『モンテ・クリスト伯』という題名だけが記されている。耳にしたことがないその題名に、トウカイテイオーが眉を顰めていると、ゴールドシップがチームルームのドアを開いた。

 

「じゃ、頼んだ」

「え? ちょ、ちょっと待ってよ! ボク、カフェセンパイがどこにいるか知らないんだけど!」

「この時間なら多分、旧理科室じゃねーか? アイツ、寮かここにいる時以外は大体、あそこにいるしな」

「旧理科室? それって……」

「あと、もしカフェがいなかったとしても、それ置いて早く帰った方がいいぞ。捕まるから」

「何に!?」

 

 困惑した叫び返ってきたのは、ぴしゃりと扉が閉じられる音だけで。

 

「……旧理科室って、どこ?」

 

 呟いたトウカイテイオーは、しばらくすると何かを思いついたように携帯を操作し始める。

 通話アプリを起動して発信のボタンを押すと、液晶にはカイチョーという文字が浮かび上がった。

 

 

『旧理科室に用事? どうしてまた』

 

 薄暗い廊下の突き当りにある、古ぼけたドアの前でトウカイテイオーが先程の会話を思い出す。

 

「カフェセンパイの忘れ物を届けなくちゃいけなくて」

『……他の誰かに頼めなかったのか?』

「逆に、ゴルシに頼まれちゃったんだよ。ちょっと借りができちゃって」

『そうか……』

 

 電話先のシンボリルドルフが、終始怪訝そうな声色だったことを覚えている。普段の彼女にしては珍しい、どこか萎んだその雰囲気を、トウカイテイオーは疑問に思った。ただ、それを口にするよりも先に、シンボリルドルフが言葉を繋げる。

 

『まあ、話が通じない相手ではないか。断る時は、はっきりと断るんだぞ』

「……どういうこと?」

『会えばわかるさ』

 

 それから短く旧理科室の位置を伝えて、彼女はすぐに通話を切ってしまった。

 ゴールドシップとシンボリルドルフの物言いに、トウカイテイオーは不安も当然ながら、少しの憤りを感じていた。気を付けることがあるならはっきり言えばいいものを、二人が妙に遠回りな言い方をするせいで、どこか揶揄(からか)われているような気がする。

 

「……何なのさ、もう」

 

 頬を膨らませ、不機嫌な表情を浮かべながら、トウカイテイオーが旧理科準備室のドアを引く。

 軋むような音を立てて開いたドアの先には、暗幕によって薄暗くなった部屋の中に、実験器具や標本などが所狭しと並ぶ光景が広がっていた。しかしながら、それは部屋の中央で途切れており、そこからは何やら奇妙な置物や小物が並んでいる。そんな不思議な光景に首を傾げながらも、トウカイテイオーが先へと足を進めた。

 そうして実験器具と置物のちょうど境目に到達したところで、ふと彼女が机の上へと目を向ける。高級そうな装飾が施されたカップの隣には、深緑の液体が入ったフラスコが置かれていた。その表面にはいくつかの泡が浮かんでおり、それはその液体がフラスコに注がれてから、まだ間もないと言う事を示していた。

 そのことにトウカイテイオーが気が付いたのと、背後から声をかけられたのは、ほとんど同時だった。

 

「ノックくらいしたまえよ」

 

 どこか丸みを帯びた、とろんとしたその声に、トウカイテイオーが振り返る。

 視線の先、隣にある準備室へと続く扉から姿を現したのは。

 

「……アグネスタキオン、さん?」

「そういうきみはトウカイテイオー君じゃないか」

 

 右手に青い液体が入った試験管を持った彼女が、くつくつと笑う。そこで初めて、トウカイテイオーは先の二人が口にした言葉の意味を理解した。捕まる、というのはそういうことか。

 一度、シンボリルドルフから話されたがある。目についたウマ娘を有無を言わせず、自らの実験材料とする危険人物がこの学園に存在すると。それを聞いたトウカイテイオーは、変な人もいるんだな、とあまり気にしていなかったが、実際にこうして相対すると、妖怪とか幽霊に遭遇したような驚きと、得体の知れない不安を感じていた。

 そして何よりも強かったのが、マンハッタンカフェのような人畜無害なウマ娘が、彼女のような危険人物と関わっていることに対する疑問だった。そこで初めてトウカイテイオーは、本を忘れた彼女のことを恨んだ。

 などと思考をして固まってしまった彼女に、アグネスタキオンが声をかける。

 

「聞いているよりずいぶんと大人しそうなんだね、きみは」

「……聞いてる? 誰から……です、か?」

「そんなに畏まらなくてもいいさ。それとも、何だ。私が怖いかい?」

 

 即座に頷きそうになった首を必死に抑えつけて、トウカイテイオーが落ち着いて息を吸う。

 

「誰から聴いたの? ボクのこと」

「マックイーン君からだよ。なんでも、色々と見てみて不安になると」

「不安って……」

「まあ、マックイーン君はしっかりしている娘だからね。彼女からすれば、きみも私も大差なく不安に見えるのだろう。違うのは、私にはその自覚があって、きみにはその自覚がなさそうなところか」

 

 アグネスタキオンが口にした通り、不安と呼ばれているのも気になったが、それよりも彼女とメジロマックイーンに関わりがあることに、トウカイテイオーは驚いた。その理由を質そうと口を開く前に、彼女が話を続けてしまう。

 

「それで? 生徒会長から私に何か言伝でも頼まれたのかい?」

「ああ、えっと……そうじゃなくて。カフェセンパイの忘れ物を、届けに」

「ほぅ」

 

 そうやって差し出した本を、アグネスタキオンは受け取ろうともせず、

 

「生憎とカフェは今いなくてね。それは向こうの方に置いておいてくれ」

「置いておくって……どこに?」

「さあ? 適当に空いてるスペースへ置いてくれればいいよ。ただ、モノを動かして置こうとするのは止めてくれ。巡り巡って、また私の研究資料が燃えてしまうかもしれないからね」

 

 言葉の意味がまるで分からなかったが、トウカイテイオーは言われた通り、机の上の空いているところへ本を置く。そうやって帰ろうとした彼女へ向けて、アグネスタキオンがふと、声をかけた。

 

「何か飲んでいくかい?」

「え?」

「カフェが迷惑をかけたお詫びだよ。丁度、紅茶を淹れようと思ったところだから」

「じゃあ……うん。飲んでく」

 

 不安そうに答えたトウカイテイオーへ、アグネスタキオンがうっすらとした笑みを浮かべる。しばらくしてから、トウカイテイオーの前に湯気の立つ白いカップが運ばれた。その中をじっと見つめると、弱々しさを感じる自分の顔がぼんやりと映る。なるほど、これなら大人しそうと言われても仕方ないか、とトウカイテイオーは呆れたように息を吐いた。

 そうやってカップを持って、口に着けようとしたところでふと、トウカイテイオーが問いかける。

 

「……もしかして、これも何かの実験?」

「そこまで信用されてないのかい? 自分の振る舞いが招いたこととはいえ、少し悲しくなるねえ」

 

 言葉とは裏腹に、どこか楽しんでいるような口調でアグネスタキオンがカップを傾ける。少し失礼だったかな、なんてことを思いつつ、トウカイテイオーも同じようにして紅茶を喉の奥へと流し込んだ。

 特に味も悪くなければ、かといって極上の一品とも言えなかった。それは単にこの紅茶がそういうものなのか、あるいは彼女の前にいるからなのか、トウカイテイオーには判別できなかった。そうやって思考する彼女に、アグネスタキオンが語り掛ける。

 

「カフェのことはどう思っているんだい?」

「……どう、って?」

「何でもいいさ。良いところでも悪いところでも」

 

 藪から棒なその問いかけに、トウカイテイオーは少しの間を置いてから答えた。

 

「優しい先輩だよ。トレーニングもボクが満足するまで付き合ってくれてるし、勉強もお願いしたらすっごく分かりやすく教えてくれる。話もするよ。センパイの好きなコーヒーの話とか、トレーナーのこととか」

「そうなのかい。あのカフェが、ねえ」

 

 返事をするアグネスタキオンは、興味深そうに何度も頷いていた。

 

「……意外だった?」

「そもそも、私は彼女が後輩を持つことすら考えられなかったからね」

「あー……確かに、最初は嫌そうにしてたかも」

「だがしかし、きみと関わることで彼女も新たな一面を見せるようになったんだよ」

 

 その言葉に、トウカイテイオーが気づかぬうちに俯かせていた顔を上げる。そうして目を合わせたアグネスタキオンは、その細い指を一つ立ててから、語り始めた。

 

「ドラマツルギー、という言葉を知っているかい?」

「……何それ?」

「社会学の専門用語さ。人と人との関係を文字通りドラマ(演劇)に見立てて観察する方法でね」

 

 既に難しそうな話になってきたが、トウカイテイオーは彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「人は環境や状況、時間、そして関係を持つ人間によって、それぞれ自分の役割を担おうとするんだ。例えるなら……そうだね。トウカイテイオー君。きみはマックイーン君と、カフェとでそれぞれの対応を変えているだろう? マックイーン君の前では、よき友人として。カフェの前では可愛いお茶目な後輩として」

「可愛い……お茶目な後輩?」

「ああ、カフェが言っていたのをそのまま使ってしまったよ。今のは内緒にしておいてくれ」

 

 立てた指を唇の前に持って行きながら、アグネスタキオンが続ける。

 

「それに、時間や場所でも対応を変えているはずだ。ターフの上にいるときは勝負に生きるウマ娘。教室にいるときは……良くは知らないが、ある程度は優秀な学校の生徒なんだろう? 皆といるときは場を和やかにさせるムードメーカー。そして、君のトレーナーと一緒にいる時は……」

 

 そこでじっとトウカイテイオーのことを見つめた彼女は、すぐにうっすらとした笑みを浮かべて、

 

「答えなくても構わないよ。要するに私が言いたいのは、人というのはそれぞれに応じたドラマ(演劇)の役を演じているということさ。まるで、沢山ある仮面をその場その場に応じて付け替えるようにね」

 

 そこで一度言葉を区切ると、アグネスタキオンは立てた指をトウカイテイオーへと向けて、

 

「では、ここで問題だ。トウカイテイオー君。ここの話における『自己』とは何だと思う?」

「え?」

「仮面の喩えで考えたまえ。人はその場に応じた仮面を付け替えるものだ、と話したが……では、その仮面の下には何があると思う? あるいは、演劇の中での何が『自己』にあたるものだと思う?」

 

 問いかけにトウカイテイオーは少し考えてから、恐る恐ると言ったように口を開く。

 

「演じている役者さんの顔……じゃないの?」

「本物の演劇(ドラマ)だったら、そうなのかもしれないね。意地悪な質問をしたことを謝るよ」

 

 くすり、と少し申し訳なさそうな笑みをアグネスタキオンは浮かべてから、

 

「実は、仮面の下には何もないんだ」

「……何もない?」

「そうさ。つまり、だ。この話における『自己』というのはね、状況に応じて付け替えている仮面そのものなんだ。我々はよく『自己』を一貫性のあるもの……君の喩えで言うなら、演じている本人の顔だと考えがちだが、正しくはその状況や対応する人間によって、『自己』というものは流動的に変化していくのさ。まるで一人の俳優が色々なドラマ(演劇)に出演し、様々な役を演じるように」

 

 そこでようやく彼女の話が終わる。カップの中にある紅茶は、既に冷めきってしまっていた。

 言っていることは何となく理解できた。人は、状況や時間、関係を持つ人によって、対応が変わる。仮面を付け替える演者のように。そして、その中における自己とは演者ではなく、変わっていく仮面の全てを言うらしい。

 では、彼といるときの自分もそうなのだろうか。彼女の話によれば、彼と過ごしている時の自分――変わってしまったと思い、少しイヤになってしまった自分も、トウカイテイオーに変わりはないのだ。変わってしまったのではなく、彼とは彼のやり取りがある。誰とも違う、彼だけのトウカイテイオーがそこにはいるのだ。そう考えると、どこか肩の荷が下りた気分になった。

 そこまでトウカイテイオーが話を咀嚼したところで、またアグネスタキオンが口を開く。

 

「カフェはいつも君の話をしていてね。これまでのカフェからは考えられないことだったよ。だから礼を述べようじゃないか。女優、マンハッタンカフェの新たな演技を見せてくれたきみに」

 

 乾杯をするように一人でカップを掲げながら、アグネスタキオンが紅茶を含む。冷めきったそれに一度、彼女は眉を顰めたが、壁に掛けてある時計へと目をやると、すぐにまたにやにやとした浮ついた笑みを浮かべていた。

 そうしてトウカイテイオーも紅茶を飲み干すと、空になったカップを机の上へ静かに置いた。

 

「貴重なお話をありがとうございました……で、いいのかな?」

「気遣いは不要さ。それでも、というなら代わりに、カフェのことをよろしく頼むよ」

「そんな……お世話になってるのはボクの方だよ」

「だとしても、頼めるのはきみしかいないのさ」

 

 そこでふと、アグネスタキオンは暗幕から洩れる光へと目をやって、

 

「……私はもう、彼女の面倒を見られないからね」

 

 扉の開く音がしたのは、その直後だった。

 

「タキオンさん? いるんでしょう?」

「……マックイーン?」

 

 振り返った先に立っていたのは、アグネスタキオンの名前を呼ぶメジロマックイーンで。

 彼女もトウカイテイオーと目を合わせると、驚いたように口に手を当てていた。

 

「あら、テイオー? どうしてここに?」

「カフェの忘れ物を届けに来てくれたついでに、雑談相手に貰っていたのさ。それと、個人的な礼も」

「そうでしたの……てっきり、テイオーを騙して何か聞き出そうとしていたのかと」

「私はそこまで卑劣ではないさ。冷徹になる時はあるが」

 

 メジロマックイーンの言葉に、アグネスタキオンは呆れたように肩をすくめる。普段通り、と言ったように流れる会話に、しかしトウカイテイオーは違和感を拭いきれなかった。そもそも、メジロマックイーンとアグネスタキオンの関係は未だに明かされていないのである。

 その疑問を言葉にする前に、メジロマックイーンが口を開く。

 

「例のデータ、纏めておきましたわ」

「早いねえ。恩に着るよ」

「私のためでもありますもの」

 

 言葉を交わしたあと、彼女が手にしていた封筒をアグネスタキオンへと渡す。するとメジロマックイーンはそのまま、トウカイテイオーをドアの方へと振り返らせると、その背中をぐいぐいと押していった。

 

「ちょちょ、マックイーン? 何すんのさ!」

「何、って機密保持に決まってますわ。あなたがいると話したいことも話せませんもの」

「話したいって……大体、マックイーンとタキオンさんってどういう関係なのさ!」

「おや? てっきり知っているものだと思っていたが」

 

 そうやって振り返った彼女は、困惑する彼女を面白そうに見つめながら、

 

「私はアグネスタキオン。チーム『アリストクラット』のメンバーの一人さ」

 

 放たれたその言葉へトウカイテイオーが何かを言い返す前に、旧理科室のドアはぴしゃりと閉じられた。

 

 




年内にもっかい更新できたらいいな~って感じなので頑張ります
進みがおっそいのも何とかしたいですわね
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