■
いったいどうすれば、この渇きが満たされるのだろう。
レースも終わり、控え室の椅子に力なく体を預けるトウカイテイオーは、そんなことを考えていた。
一着だった。二着とは三馬身差。圧勝、とは少し言いにくいかもしれないが、そこまで苦戦した試合でもない。つまるところ、いつも通りだった。レースが終わった後に感じる、この虚しさも含めて。
一度、これまでにないくらいの敗北を実感してみたい、と思うのは傲慢だろうか。ジュニア級も終わりに差し掛かったこの時期にそんなことをしたら、それこそ彼にも迷惑をかけるだろうし、トウカイテイオー自身も挫折を味わうことになるだろう。だが、そうでもしなければ、この寂しさにも似た感情は消えないような気がした。
「……はは」
そこまで思考を巡らせたところで、酷い考えだな、とトウカイテイオーが苦笑する。そして、そんな自分に嫌気が差した彼女は、傍にあったタオルを自らの顔へと被せた。視界が濁った白色で塗り潰される。そのまま天井を仰ぐと、かすかに透ける蛍光灯の光が、彼女の瞳をゆっくりと焼いていった。
ふと、他のウマ娘もこんなことを考えるのだろうか、とトウカイテイオーは疑問に思った。そうして初めに浮かんだのは、友人であるメジロマックイーンの顔だった。ゴールドシップやマンハッタンカフェは普段から一緒にいるので、その考えもある程度理解していることを踏まえれば、彼女が真っ先に思いつくのは当然のことだった。
しかし、メジロマックイーンが自分のようなことを考えるとは到底思えなかった。それこそ彼女は名門の産まれであるから、レースに対する真摯さはトウカイテイオーは当然のこと、他のウマ娘よりも上だろう。だから自分のように虚しさを感じることもなければ、負けたいなどと思うこともないはずだ。
劣等感とはまた違う、例えるのなら羨望に近い感情がトウカイテイオーの心をじわじわと支配する。
「きっと、今のボクじゃマックイーンに勝てないんだろうな」
控えめなノックの音が聞こえてきたのは、呟きの直後だった。
「誰?」
タオルをずらして出した片目だけで、トウカイテイオーがドアの方へ視線を投げる。
「私だよ。篠崎。今、入ってもいいかな?」
「うん」
短く答えると、扉がゆっくりと開かれる。そうして椅子にもたれ掛かる彼女を見ると、篠崎はにっこりと、いつものどこか頼りないような笑みを浮かべた。
「お疲れさまだね、テイオーちゃん。いいレースだった?」
「……まあ、そこそこ」
「そっか」
短い言葉を交わすと、篠崎は一度口を噤んだ。きっと、悩みを抱えているというところまでは見抜かれているのだろう。けれど彼女は、それ以上を聞かないでくれた。その優しさは、どこか彼に似ている気がした。
そのまましばらくの時間が過ぎる。静寂と、何より彼女に気を遣わせているのがいたたまれなくなって、トウカイテイオーは顔に掛けたタオルを取った。そうして、いつの間にか後ろの椅子に座っていた篠崎の方へ振り向くと、彼女は一度首を縦に振ってから、口を開いた。
「京都ジュニアステークス一着、おめでとう。これで芙蓉ステークスから二連勝だね」
「ありがと。今年はもうレースは出ないんだよね?」
「うん。九十九トレーナーの予定だと、次のレースは来年の若駒ステークスかな」
「それって何月だったっけ?」
「一月だよ。今から大体、二か月後になるかな?」
「ふぅん」
予想していたよりもずいぶんと先の話ではあるが、年末年始の些事を考えると、そこまで時間はないかもしれない。正月休みは返上かな、なんてことを考えていると、ふとトウカイテイオーは、彼女が何か思慮しているような、難しい顔をしていることに気づく。
「篠崎さん?」
「え? ああ、ごめんねテイオーちゃん。ちょっと考えごとしてて……」
「考えごとって?」
どうせウイニングライブまでは、まだかなり時間がある。椅子の背もたれを前にして、組んだ両腕の上に顎を乗せながら、トウカイテイオーは篠崎へと問いかけた。
「えっとね、今のテイオーちゃんならホープフルステークスにも出られるな、って」
「……そうなの?」
「うん。だって、さっき走った京都ジュニアステークスが、ホープフルステークスの優先出走権獲得レースだからね。申請さえしちゃえば、すぐに受理されると思うよ」
ホープフルステークス。ジュニア級で開催される、数少ないG1レースである。それを知らなかったわけではないし、むしろ出走できるならしたいとも思っていた。漠然と、もしかすると今の戦績ならいけるんじゃないか、とも。そして結果的にその予想は当たっていたので、このままレースへの申し込みをするのが流れだと思っていた。
ただ、一つ疑問があるとすれば。
「そんな話、トレーナーから一度も聞かなかったよ? このレース走ったら今年は終わり、って言われた」
「私も。さっき確認してきたけど、テイオーちゃんはホープフルステークスには出さないって」
そう話したところで、篠崎が不満そうに口を尖らせる。レースに出るつもりだった自分がそうやって拗ねるのは分かるが、サブトレーナーである彼女がそんな表情を浮かべているのが不思議になって、トウカイテイオーは首を傾げた。
「……篠崎さんは反対なの?」
「もちろん! だって、ジュニア級でG1に出られるんだよ? それってとってもすごいことだし、テイオーちゃんにとってもいい経験になると思うんだ。それなのに出走しないなんて……勿体ないなあ、って」
わたわたと慌てるように言葉を並べてから、篠崎は大きく息を吐いた。そんな熱が入っている彼女に対して、トウカイテイオーは、そんなものなのか、と思うだけであった。ふと目をやった時計の針は、さっきから十分ほどしか動いていない。あまりにも早く終わったその話に、トウカイテイオーはため息を零した。
そんな、興味のなさそうな表情を浮かべる彼女に、篠崎が恐る恐る問いかける。
「もしかして、テイオーちゃんは出たくなかった?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど」
言葉を置いてから一度、トウカイテイオーは考え込んだ。自分の実力に自信がないわけではない。G1レースの経験を軽んじているわけでもない。出走できる条件がこれほどまでに揃っているのなら、挑みたいと思う。
けれど、何よりも大事なのは。
「走らなくてもいい、ってトレーナーは言ってるんだよね?」
「うん……」
「じゃあ、ボクは走らないよ」
言い切ったトウカイテイオーに、彼女は一度、目を見開いたかと思うと、心配するように聞いてきた。
「我慢してるわけじゃない、よね? もしそうだったら、私も一緒に九十九トレーナーに相談して……」
「そんなんじゃないって。ただ、トレーナーが言うならボクはそれでいいってだけ」
「……テイオーちゃんはそれで後悔しないの?」
「しないよ、絶対」
言い切ったトウカイテイオーは、しかしその顔に僅かな曇りを浮かべていた。
あるいは、ずっと後悔し続けているのかもしれない。だが、今のトウカイテイオーはその判別すらもできなくなっていた。彼と一緒にいれば、そんなことは些細な問題に過ぎないと思えたから。たとえそれで破滅したとしても、仕方のないことだと納得できる気がした。
そこまで考えたところで、依存してるな、とトウカイテイオーは呆れるように笑った。それがいずれ自分の身を亡ぼすということは、何となく理解できる。けれど、この心地よさを手放すことになどできるはずもなかった。
「テイオーちゃん……?」
「……なんでもない」
「でも」
心配そうにこちらの顔を覗き込む篠崎へ、トウカイテイオーはどこか儚い笑みを浮かべる。
「トレーナーが何も言わなかったってことは、きっと考えがあるんだよ。なら、ボクはその考えを信じてみたいかな。ボクが考えるよりもトレーナーが考えた方が絶対いいし」
「……あったとしても、テイオーちゃんに相談しないなんてことあるのかな?」
「あるんじゃない? ほら、トレーナーってあんなんだしさ」
「それはそうだけど!」
困ったような、怒ったような表情を見せる彼女に、トウカイテイオーは苦笑した。そこで初めて自分が身を乗り出していることに気が付いたのか、篠崎は姿勢を正してから、こほん、と一つ咳払いをして、
「とにかく、ホープフルについては一度、九十九トレーナーと話し合っておいた方がいいよ。出るにしろ出ないにしろ、考えを共有しておかないとダメだし。もしかすると、単純にすれ違ってるだけかもしれないしね」
「わかったよ」
そろそろこの話題について若干の面倒さを感じてきたトウカイテイオーが、短く返す。
「そういえば、テイオーちゃん」
「なに?」
「これ、忘れないうちに返しておくね」
果たして、何かに気づいた彼女が上着のポケットから取り出したのは、トウカイテイオーの携帯だった。それは、出走前に音楽を聴いていたトウカイテイオーから篠崎が取り上げたものであった。イヤホンが巻かれたそれに手を伸ばそうとすると、彼女は一度、その手を避けるように携帯を遠ざける。その仕草に、トウカイテイオーはむ、と眉を顰めた。
「……返してくれるんじゃないの?」
「ちゃんと返すよ。でも、レースに携帯を持ち込まない、って約束してくれる?」
「えー?」
「えー、じゃないよ! テイオーちゃん、この前の芙蓉ステークスで携帯ポケットに入れたまま出走したでしょ? あれがバレたら出走停止になったかもしれないんだからね! こっちはヒヤヒヤしたんだから!」
「あはは。ごめんってば」
「軽いよ! もー!」
後ろ手で頭を掻きながら謝るトウカイテイオーに、彼女が口を尖らせる。きっと本気で叱っているつもりなのだろうが、言葉を並べるだけの彼女からは、威厳も何も感じられなかった。怒るの慣れてないんだろうな、なんて適当なことを考えつつ、トウカイテイオーが口を開く。
「でもボク、音楽聴かないと調子出ないんだ。ルーティーンになっちゃってる」
「……じゃあ、こうしよっか。レース直前まで音楽は聴いてもいいけど、必ず私とか、他の人を連れてきて、入場前に携帯を預かってもらう。それで、レースが終わったらその人から控え室で返してもらう。いい?」
「それなら、まあ」
頷くと、差し出した手に篠崎が携帯を渡してくれた。
そのまますぐ、巻き付いたイヤホンを解くと、トウカイテイオーが携帯の電源を入れる。慣れた手つきでミュージックアプリを起動すると、篠崎は呆れたような深い息を吐いた。
「……ウイニングライブに遅れちゃダメだからね」
「わかってるって」
視線を返すことなく返したトウカイテイオーが、イヤホンを耳に嵌める。
どこか懐かしさを感じさせるロックが、小さなスピーカーから流れ始めた。
■
翌日、カフェテリアにて。
「テイオー」
言葉をかけられると同時、肩を叩かれたので、トウカイテイオーは嵌めていたイヤホンの片方を外しながら振り返る。果たしてそこに立っていたのは、呆れたようにこちらを見下ろすメジロマックイーンであった。
そんな彼女と視線を合わせたまま、トウカイテイオーが甘口のカレーをスプーンで口へ運ぶ。気だるいスパイスの香りが広がり、舌に染み渡る辛さと共に嚥下する。そうして口の中が空になってからようやく、トウカイテイオーは言葉を返した。
「どうしたの?」
「……食事中に携帯を操作するのはやめなさいな。はしたないウマ娘だと思われますわよ?」
「別にいいよ。実際、ボクって結構そういうとこあるし」
「まあ、そうでしたの。では、私はそんなはしたないウマ娘と張り合っている、情けないウマ娘ですのね」
「ズルい言い方するなあ」
不満そうに口を尖らせる彼女に、トウカイテイオーがもう片方のイヤホンを外す。そうしてメジロマックイーンは疲れたように息を吐くと、隣の席へと腰を下ろした。どうやら食事はもう済ませているようで、テーブルに置いたのは水の注がれたコップだけであった。
「らしくないですわね、テイオー。あなたは自分を下げるような物言いをする方ではなかったはずですが」
「……色々あってさ。難しいよ」
「それについて深く尋ねるつもりはありませんが、やはり先程のような言い方はよろしくありませんことよ? それこそ私のように他人を下げることにもなりますし、あるいは恨みを買うことにもなりかねませんもの」
「大丈夫。恨みを買うのには慣れてるから」
「他人を下げること……それこそ、あなたのトレーナーに迷惑をかけることも、ですか?」
問いかけに、トウカイテイオーはスプーンを握る手を止めた。そうしてメジロマックイーンの方へ振り向くと、彼女はどこか心配するような、憂うような瞳でこちらのことを見つめていた。それがどこか鬱陶しくて、トウカイテイオーはスプーンを皿の上に置いてから、改めて問いかける。
「説教しに来たの?」
「まさか。祝いに来たんですのよ」
答えたメジロマックイーンが制服のポケットから取り出したのは、二枚のチケットだった。
「京都ジュニアステークス一着、おめでとうございます。素晴らしいレースでしたわ」
「……ありがと。見てたの?」
「ええ。友人としても、好敵手としても」
そうやって正面を切って言えるところが、きっと自分と彼女の違いなのだろう。どこか勇ましくも見える、柔らかな笑みに、トウカイテイオーは何も答えることができなかった。苦し紛れにカレーを口へ運ぶ彼女に、メジロマックイーンが続ける。
「このままホープフルに出走するつもりですの?」
「それはないかも。トレーナーが出なくていい、って言ってたから」
「でしたら、丁度いいかもしれませんわね」
「どういうこと?」
返答の代わりに、メジロマックイーンは手にしたチケットを机の上に置いた。
「メジロ家が管理している植物園のペアチケットですわ。あなたに差し上げます」
「……いいの?」
「ええ。もっとも、テイオーには少し退屈な場所になるかもしれませんが」
「そんなことないよ。……うん。多分」
「きちんと言い切れるようになってくださいな」
ばつの悪そうに耳を垂らすトウカイテイオーに、メジロマックイーンは思わず笑みを零す。そんな彼女に釣られるようにトウカイテイオーも笑顔を浮かべると、机の上にあるチケットを受け取った。
「とにかく、ありがとね。ボクなりに楽しんでくるよ」
「喜んでいただけたなら何より。私もレースが近くなければ、一緒に行けたのですが」
「……レースって、まさか」
言葉を遮るように、メジロマックイーンはこくり、と頷いて、
「もちろん、ホープフルステークスですわ」
そこでトウカイテイオーは、ほっとした気持ちになった。そしてすぐ、そんな自分に嫌気が差した。
あまりにも惨めだった。確かに、今のままでは彼女に勝つことはできないだろう。であれば、同じレースに出走しないことになったのは僥倖とも言える。ただ、それに安堵したことをトウカイテイオーは恥じた。これでは、彼女に負けを認めたのと同然ではないか。心の中を巡る自責の念が、涙となって溢れそうだった。
変わったという自覚はある。いつの間にか卑しくなったことも、レースに対する心意気が変わったことも、受け入れられる。ただ、ここまで哀れになってしまったとは思わなかった。きっと今の自分では、メジロマックイーンどころか、こうなってしまう前の自分にすら負けてしまいそうで、トウカイテイオーは怖くなった。
そうして俯いてしまったままの彼女に、メジロマックイーンが声をかける。
「……テイオー?」
「ううん。何でもない。応援してるよ、マックイーン」
いつもの笑みを顔に張り付けながら、トウカイテイオーが答える。
こうやって取り繕うことに慣れたのは、いつからだろう。
「でしたら、いいのですけど」
少し考えてからそう答えたメジロマックイーンが、椅子から立ち上がる。
「もう行きますわ。これからトレーニングがありますから」
「そっか。頑張ってね」
「ありがとうございます。あなたも……そうですわね」
「……どうしたの?」
「頑張って、とは言いませんが。それは賢く使ってくださいな」
渡された言葉へ問いかけを返す前に、彼女は立ち去ってしまった。
やがて一人取り残されたトウカイテイオーは、携帯を取り出そうとしてその手を止めた。さすがに、ついさっき言われたことを守るくらいの良心は残っていた。今の彼女には、それくらいしか縋れるものがなかった。
空っぽになった手でスプーンを握り、すっかり冷めきったカレーを口へ運ぶ。
味なんて、分かるはずもなかった。
■
友人や顔見知りは多い方である、という自負はある。
ただ、浅く広い付き合いをしていると言われると、否定できなかった。
「んー……」
消灯時間もとっくに過ぎたころ、ベッドの上で真っ暗な天井を見上げながら、トウカイテイオーが思考する。ふと傍らにある目覚まし時計へと目をやると、その針は零時半を指している。寮を抜け出したあの日もこれくらいの時間だったな、なんてことを思い出しつつ、彼女は再び思考を巡らせた。
そもそも自分の交友関係は、学園内での選抜レースや模擬レースが土台になっているところがある。そこで成績を残したので多くの人々にトウカイテイオーの名が知れ渡り、結果的に顔が広くなったのだ。故に、彼女が自分から誘える、かつ二人きりでも気兼ねなく過ごすことができる人物となると、その数はかなり絞られてしまう。
その上、行き先が植物園ともなると、候補が殆どいなくなるのは当然のことだった。
「友達、もっと増やしとけばよかったな……」
自分で口にして悲しくなった。掛け布団を目元まで持ち上げてから、トウカイテイオーは今日、声をかけた人物を改めて思い出した。
チームメンバーであるゴールドシップとマンハッタンカフェには断られた。ゴールドシップが興味を示さなかったのは言わずもがな。マンハッタンカフェは他に人がいなければ、とこちらを気遣った言葉を選んでくれたが、彼女がそもそもそこまで乗り気ではなさそうだったため、申し訳なくなって誘うのをやめた。
シンボリルドルフは年の瀬が迫っているから忙しくなる、という理由で断られた。普段ならもう少し粘っていたところだが、彼女の疲れたような、申し訳なさそうな表情で、トウカイテイオーは引き下がった。
となると同年代の友人に声をかけることになったが、そもそも今時、彼女と同じような年頃の少女が植物園のような落ち着いた場所に興味を示すはずがなかった。その最たる例が同室のマヤノトップガンであり、トウカイテイオーの誘いは二秒で断られた。他にも何人かに声をかけてみたが、興味を示したのはナイスネイチャくらいであり、その彼女もまだ年末にレースが残っているため、泣く泣く断られてしまった。
今後はネイチャに優しくしようかな、と考えながら、ふとトウカイテイオーが携帯を手に取る。
「他に誰か、行ってくれそうな人いたっけ」
連絡先をスクロールで漁っていくが、これといって誘いに乗ってくれそうな人物の名前は目に入ってこない。いっそのこと、誰かにチケットを譲ってしまおうかと考えたところでふと、指が止まる。
暗い部屋の中、ぼんやりと光る携帯の液晶に映っていたのは。
「トレーナー……」
小さく呟いてから、トウカイテイオーは携帯を伏せると同時に、顔を枕に埋めた。
「……あんなこと言った手前、誘えるわけないじゃん」
はっきり言えば、彼を意図的に選択肢から外していた。今更、二人きりでどこかに出かけないかと言えるはずもない。それこそあんな取り繕いをしたくせに、いざ機会が巡ってきたらやっぱり誘いの声をかけるなど、卑しいにも程がある。つくづく都合のいい女だな、とトウカイテイオーは伏せてままの顔で苦笑した。
しかし、まあ、勿体ないと言えばそうである。
「……みんなに断られちゃったし、なあ」
見え透いた建前を呟いた時には既に、指が彼の連絡先を押していた。
画面が切り替わり、一度もやり取りが為されていないメッセージ画面が表示される。そうして入力欄に指を添えたところで、トウカイテイオーはふと、どんな誘い文句にしようかと思考に耽る。
植物に興味は――話が急すぎるから、そこで入力をやめた。
今度、植物園に行くんだけど、みんなに断られて――言い訳が見苦しすぎるので、そこで入力をやめた。
二人でどこかに――文字にすると改めて自責の念が迫ってきたので、そこで入力をやめた。
というより、そもそも。
『トレーナー、起きてる?』
思考のまま入力し、送信ボタンを押したところで、一番ない選択肢だったなと頭を抱えた。
そもそも、こんな深夜に連絡すること自体が迷惑だと何故気づかなかったのだろう。明日にでも話せばすむことではないか。そこで初めて、トウカイテイオーは彼からの返答が早く欲しかったことに気づき、そんなことを明日まで待てない子供な自分に息を吐いた。
ぱたん、と携帯を布団の上に伏せて、もう一度トウカイテイオーが枕に顔を埋める。
そうしてから弁明のメッセージを送るため、再び画面へ目を向けたところで。
「……既読、ついてるじゃん」
そんな呟きに返答するかのように、携帯が小さく震え、メッセージが送られてきた。
『起きてる。どうした?』
またこんな時間まで仕事を、という心配がはじめにあったが、それはすぐに動揺によってかき消された。何度もタイプミスを繰り返しながら、ああでもないこうでもないとトウカイテイオーが思考する。
急な話じゃないんだけど――なら、何故こんな時間に連絡してきたとなるから、却下。
またファミレスでご飯食べて――心配するくらいなら要件を早く伝えた方がいいので、却下。
ちょっと話がしたくて――だから、どうしてこんな面倒な言葉しか出てこないのか。却下。
うんうんと唸りながら彼からのメッセージを見つめるトウカイテイオーが、ふと気づく。
――こうして悩むくらいなら、直接話をした方が早いのでは?
『えっと』
『無理だったらいいんだけどさ』
『今、話せる?』
どうしてこういう悪手に最終的に行き着くのだろか。送ってしまった後に気づき、枕に顔を埋めようとしたところで、また携帯が小さく震えた。
『話せる。こっちからかけた方がいいか?』
返ってきたメッセージに、ゆっくりとベッドから起き上がると、
『マヤノが起きちゃうから場所変える』
『ちょっと待ってて』
携帯と、マックイーンから譲り受けたペアチケット手にして、トウカイテイオーは部屋のドアをそっと押した。
■
果たして、トウカイテイオーが場所に選んだのは寮の裏口のすぐ手前であった。あの時と同じように外した、ダイヤル式の南京錠を指の先に掛けながら、閉じたドアへとそのまま背中を預ける。十一月も終わりに差し掛かったこの時期は、夜になるとかなり気温も下がる。かじかむ指先で携帯を操作すると、彼女は一度、意を決したように両目をつむってから、通話アプリのボタンを押した。
コール音は一巡することもなく途切れて、微かなノイズ音が聞こえてくる。
『テイオー?』
そうして聞こえた彼の声に、トウカイテイオーが口を開く。
しかし言葉はすぐに出てくることはなく、かすかに白くなった息が夜の空に昇っていった。
「……あー、っと」
やがて彼女が漏らしたのは、そんな絞り出したような一言で。
「こんな遅くにごめんね、トレーナー」
『気にするな。だいたいこの時間は暇してる』
「……いつもこの時間まで起きてる、ってこと?」
『大人だからな』
「ふぅん」
もちろん彼の言葉には心配したが、その中には少しの憧れがあったような気がした。すると、電話の向こうにいる彼が深く息を吐く音が聞こえてくる。きっといつものように煙草を燻らせているのだろう。そんなことを訪ねるのも野暮か、と考えたところで、彼が言葉を続けた。
『それで、要件は?』
「あー……大したことじゃ、ないんだけどさ」
そこでトウカイテイオーがポケットに入れていたペアチケットを取り出し、日程を確認してから答える。
「今度の日曜日って、時間ある?」
『……空いてはいるな』
「じゃあさ、一緒に植物園とか……どう?」
会話はそこで一度、途切れた。ざわざわとした焦燥が、トウカイテイオーの中に広がっていく。スピーカーから聞こえてくる微かなノイズが、まるで自分の鼓動と直結しているようにも思えた。震える指先は、寒さだけのものではないようだった。
吐息が聞こえる。同時に、トウカイテイオーも白い息を空へ吐き出す。
次の言葉は、すぐに伝えられた。
『植物園って……なんでまた』
「マックイーンにペアチケット貰ったんだ。京都ジュニアおめでとう、って」
『なるほど。道理でお前らしくない誘いだなと』
「ま、そうなるよね。多分そのせいで、誰もボクと一緒に行ってくれなくてさ」
『それで、俺か』
「うん」
まるっきりの嘘だった。きっと先日の一件が無ければ、真っ先に彼を誘っていただろう。ただ、今はその方が都合が良かった。結局ボクは都合のいい女なんだな、とトウカイテイオーは笑みを浮かべたままで、続けた。
「トレーナーなら、一緒に行ってくれるよね?」
『ペアチケットってことは、俺とテイオーだけなんだよな?』
「そう、だけど」
『ということは……もしかして、この前の話の続きか?』
「……あはは」
そう言い渡されたトウカイテイオーは、笑うしかなかった。笑いながら、卑しく浅ましい、都合のいい女になるしかなかった。周囲から、最悪彼からどう思われようが構わない。トウカイテイオーは彼と二人の時間を過ごすため――あるいは、必要とする彼を独り占めるために、口を開いた。
「そうじゃないと、トレーナーはボクと一緒に来てくれないんだ?」
『まさか』
「ホントに?」
『ああ。時間が空いてたら、いつでも付き合ってやる』
「それがトレーナーとしての仕事だから?」
こんな嫌な質問できるようになったんだ、と自分を蔑む暇もなく、彼から答えが返ってきた。
『それ以上に、お前といたら音楽の話できるからかもな。正直な話、生徒はおろか同僚でも趣味の話できるヤツいないから、退屈なんだよ。あと、お前なら俺が煙草吸ってても文句言わないから楽でいい』
「……そっか」
並べられたその言葉は、例えまるっきりの嘘だとしても、トウカイテイオーの心を落ち着かせてくれたのは確かだった。
『にしても、卑怯な聞き方が上手くなったな。本当に誰から教わったんだ』
「内緒。もしかして、こういうコト聞いてくる女の子は苦手?」
『お前じゃなかったら、今日の誘いは断ってただろうな』
「……こうやってトレーナーに話す前に、他の娘とかに声をかけたけど、みんな断ってくれないかなってお願いしちゃう子でも? 逃げ道を無理やり塞がないと話ができなくても、トレーナーは行ってくれる?」
それは真実ではなかったが、しかし全てが偽りというわけではなかった。我ながら最低な話をしているな、とトウカイテイオーは俯く。彼からの返答に時間がかかるのも仕方のないことだと、納得できた。
やがて、煙草の火を消すような音が聞こえてから、彼からの言葉が渡される。
『まあ、その、何だ』
「……うん」
『それくらい可愛げのある方が、誘われて良かったと思えるんじゃないか?』
どこか他人事を装うような彼の物言いに、くすり、とトウカイテイオーが先程までとは違う笑みを零す。
こんな風に笑えたのは、いつ以来だろうか。
「悪趣味だね、トレーナーって」
『おい。……変だったか?』
「ううん、安心したよ。ありがとね」
『なら良かった』
安堵するような息と共に、彼が呟く。それが否定だと気づいていないところが変で――彼の言葉を使うなら、可愛げがあって、トウカイテイオーはまた、ふふ、と笑った。
『細かい予定はまた今度決めるか。今日はもう遅いし』
「そうだね。こんな時間までごめんね」
『だから、それはいいって言ってるだろ。それよりもお前の方が心配だよ。寝坊とかするなよ?』
「大丈夫だって」
交わされる言葉の一つが、もう彼との会話が終わろうとしていることをひしひしと感じさせる、トウカイテイオーは、それを少しだけ惜しく思った。
「じゃ、ボクはもう寝るよ。お休み。トレーナー」
『そうか。ゆっくり寝ろよ』
「また明日、ね」
『ああ。また明日』
通話が途切れる。耳に纏わりつくようなあのノイズも、もう聞こえなくなる。
どこか解き放たれたような気分に浸りながら、トウカイテイオーは夜空を見上げて、
「……かなわない、なあ」
苦笑いを浮かべながら、そう呟いた。
■