【完結】ウマ娘プリティーダービー ー夢のおわりのその先でー 作:プレリュード
インスピレーションが降ってきてしまったから仕方ないよね。
◇
トレセン学園理事長秋川やよい。彼女は私財を投げうってウマ娘たちのために機材やらを購入することがしばしばある。
そう、これだけを耳にすればウマ娘のために自身のポケットマネーを使う人徳ある人間だ。
しかし、そうした機材を管理するのは彼女ではない。トレセン学園だ。
一応、形式的には秋川やよいからトレセン学園に寄付されたことになる。管理がトレセン学園に移るのは当然の話なのだが。
それはつまり。機材の電気代やら水道代などのランニングコスト、そしてメンテナンス代はトレセン学園持ちということだ。そうしたものの諸手続きはすべて秋川やよい理事ではなく、経理課がすることになる。
つまり、だ。
「んにゃああああああ! なんだ、この全自動シューズ洗浄機って! 経理課通してからモノは買え、秋川ぁああああああああ!!」
トレセン学園経理課。そこのデスクに籍を置いているナイスネイチャ、今年で31歳。
今日も今日とて、しこたまの怒りがこめられた彼女の叫び声が響いている。
今でも思い出す光景がある。夢に見るほど鮮烈な思い出が。
ターフを駆ける16の影。年末の有馬の舞台で走っていたあの光景だ。
「ここで8番ナイスネイチャ! 差してきたぁ! 一気に詰め寄ります」
テイオーの背中が見えた。アタシの前を猛然と走っていくその背中へ必死に食らいつく。
並んだ。
有馬に参加しているウマ娘は16。なのにアタシとテイオーだけが走っているような錯覚に陥る。
勝てるかもしれない。その興奮に心臓が早鐘を打つ。あのテイオーに、このアタシが。
でも、その時。アタシは見てしまった。
笑っているテイオーの顔を。走る事が、そしてレースの場で競い合うことが楽しくて仕方ない。そんな笑顔だった。
今、私は笑えているだろうか。
たぶん笑えていない。笑う余裕なんてない。テイオーみたいに心の底からレースを楽しむ余裕なんて微塵もない。必死で汗水垂らして歯を食いしばって。そこまでしてようやくこの場に立てているアタシに勝負を楽しむことができるとは到底思えなかった。
ああ、勝てないかもしれないな。なんて、その瞬間にアタシは察してしまった。
「しかし10番トウカイテイオー、突き放す! いや! ナイスネイチャも食らいついていく!」
酸素が足りない。視界が狭くなり、空気を欲してかすれたような呼吸になる。
それでも前を睨み続けた。ただひたすらにゴールを目指して鉛のように重くなっていく両脚を交互に前へ出していく。
ゴールが見えた。届け、届けとわずかに残った体力をすべて絞り出す。
あのゴールに辿り着けばいい。少しでも早く。だんだんとあごがあがってきた。フォームが崩れそうになる。もはや前に進むため走っているのか、それともフォームを維持するために走っているのかわからない。
「トウカイテイオー、一気に離した! そのままゴォォォォル!」
テイオーに遅れてアタシもゴール。どっちが一着かなんて論ずる必要もないくらい圧倒的だった。1バ身の差というのはそれだけ開いている。
届かなかった。
長距離を走ってからいきなり止まると身体によくない。なにより、ウマ娘の速度で急に制動をかけることは難しい。ジョッグで流してだんだんと速度を落としていく。
真冬の冷たい空気にアタシの息は白く色づく。正直、今すぐにでもターフの芝に寝転がりたい。膝が笑ってしまって立っているのも一苦労だった。
見上げた電光掲示板。レースの結果が出る。
一着は10番。テイオーだ。
アタシの8番は2着だった。
「やりました、トウカイテイオー! 1バ身の差をつけて有馬を制しました! 勝ったのはトウカイテイオー!
2着で涙を呑んだのは3番人気ナイスネイチャ!」
「素晴らしいレースでした。トウカイテイオーの伸びやかな脚質が見事に発揮されましたね」
「はい。しかし3番人気を覆したナイスネイチャの2着。これはどうでしょう」
「ブロンズコレクターだった彼女がジンクスから抜け出した。これはナイスネイチャにとっても素晴らしいレースだったのではないでしょうか」
「惜しむらくは1着を逃したことでしょうか」
「そうですね。とても惜しかったと思います。1着も十分にありえましたね」
実況と解説の軽妙なやりとりがどこか遠くで聞こえる。あの時のアタシにはそんな気がした。
2着。ブロンズコレクターなんて言われて、ずっと3着続きだったアタシが高かった壁を乗り越えられた。
「これがアタシの引退レース、かぁ」
ナイスネイチャ。永遠の三着。ブロンズコレクター。
そんなアタシが2着だった。最後の仕上げとしては悪くないんじゃないだろうか。うん、よくがんばったよ、アタシ。
実にアタシらしい小さな引退会見と共にアタシのレース人生は幕を閉じた。
「……なあ、ネイチャ」
有馬からの帰り道。運転席でハンドルを握っていたトレーナーさんが口を開いた。
「うん?」
首をかしげてアタシは聞き返す。でもトレーナーさんはなにも言わない。ちょっとだけ口を開けて、空気を吸ったかと思ったら閉じてしまう。
「どうしたの?」
「あ。いや。引退したあと、どうするつもりか聞こうと思って」
「あー……うん。それだよねぇ」
それはずっとアタシたちの間で避けられていた話題だった。
今は最後のレースに全力で挑みたい。そう決めたから、その先のことは話さないようにしていた。
でも、アタシの最後のレース、有馬記念は終わった。ブロンズコレクターの壁を破って、そしてあのテイオーに競って惜しくも2着という結果で。
引退の宣言も世間に対してやった。なら、次に考えなきゃいけないのはこれからどうやって生きていくか。
どうしようか。
有馬は年末。もうじき今年も終わる。そしたら来年の4月にはアタシもトレセン学園から卒業する。
「もう競争バは引退したし。まあ、入着した賞金がいくらかあるからしばらく生きていけるよ」
「そっか。賞金があった」
「これでもブロンズコレクターなんですよ、ネイチャさんは」
「有馬は
「いやぁ、こんなネイチャさんでもやればできるぞ! ……なんてね。妥当よりちょっと先には行けたかな?」
たはは、とおどけてみせる。自分の心にちいさな釘がちくっと刺さったような痛みがあった。けど、アタシにはとっくに慣れっこになってしまった痛み。そこまで気になるようなものじゃない。今さらこれしきの自虐で傷つくほど純情じゃない。
「とりあえず、就職かなぁ」
「就職、か」
「うん。おふくろも安心させてあげたいし。いろいろ好きにさせてもらったからね」
「そうだよな。そうなるよな」
夜の闇に隠れてしまって、トレーナーさんの顔はアタシからうまく見えない。どんな表情なのか、窺い知ることができない。
「その就職先さ、ネイチャがよければなんだけど」
赤信号で車が停止する。そのわずかな時間でトレーナーさんがバッグから出してきたのは本屋のブックカバーがかけられた本。アタシに差し出しているようだから、おそるおそる受け取った。
「えっと……。中、見てもいいんですかね?」
「そのために買ったからね」
「じゃあ、その……失礼します」
表紙をめくる。最初の1ページ目には「初級者向けの簿記3級」という文字列。
簿記? え、どうしてこの状況で簿記?
この状況で渡してくる本に正解なんてあるとは思えない。でも簿記が正解じゃないことだけはわかる。
いや、ゼクツイとか出てきたらそれはそれでびっくりするけど。正直、ちょっと期待を……あ、やっぱこれなし。だいぶ恥ずい。
「あの、トレーナーさん。これは?」
「トレセン学園の経理課の事務員さんが今年度で辞めるらしい」
一瞬、トレーナーさんがなにを言っているのかわからなくてアタシの頭は思考を放棄しかける。
「うまくやれば空いた席にネイチャをねじ込める、と思う」
ああ、アタシも本当にニブい。ここまでトレーナーに言わせてしまってから、ようやく気づくなんて。
「えーっと。それはネイチャさんにOLをやらないかってお話ですかい?」
あえてアタシはトレーナーさんに聞いた。すでにわかりきっていることなのに。
「もちろん、資格取得の勉強やらは必要になる。この4月までに簿記3級は取得していてもらわないといけないはず。厳しいことにはなるし、強制はできないんだが……」
「やる」
いきなり簿記の勉強なんてできるわけないじゃん! とか。
そもそもアタシはアスリートであって事務方なんでできるの? とか。
いろいろと浮かぶはずの疑問をすっとばして、アタシは即答していた。
「やるよ、アタシ」
「誘っといた手前でなんだが、いいのか? 期間も短い。楽じゃないはずだ」
「うん。ほら、ネイチャさんってば器用貧乏だからさ。本気になれば、なんとかなるって」
たぶん、だけど。尻すぼみにアタシは最後へそうくっつけた。
「急な話でごめんな」
「いやいや。アタシの集中を削がないためにナイショにしてくれてたんでしょ」
「……まあ、そんなところだよ」
回答にちょっとだけ時差。およ、と違和感を抱く。直後にいつもみたいに笑ったトレーナーさんに気のせいだったかな、とアタシは懸念をどこぞへ投げた。
「しかし即決だったな。もうちょい悩んでもよかったんだぞ」
「まー、就活ネイチャさんからすると渡りに船ですから。馴染みの場所での就職先斡旋なんてさ」
「なるほど」
この時、アタシはちょっとだけウソをついた。
ウソ、というのも正確じゃない。だって、完全にはウソではないから。渡りに船だったのは事実だし、ずっとお世話になってきたトレセン学園なら仕事がしやすそうだ、と思ったのも本当。
でも即決した理由は違った。
でも言えるわけない。こう、口にするのがこっぱずかしい。
トレセン学園に就職できたら、トレーナーさんと一緒にいられる。だから決めました、なんて。
お鍋の中のおみおつけがことり、と動いた。沸騰手前の証拠だ。急いでアタシはコンロの火を止める。電子レンジで温めたごはんを食卓に運んでから、お椀に湯気のあがったおみおつけをよそう。
チン、と鳴ったトースターから温まったおかずを引っ張り出して、お弁当箱に詰め込んだ。
廊下に足音。どうやらアタシのねぼすけが起きてきたみたいだ。
「おはよう、ネイチャ」
「おはよー、トレーナーさん」
「もうとっくにネイチャのトレーナーじゃないんだけどなぁ」
「あははは。クセですよ、クセ。朝ごはんならもうできるから待ってて」
「手伝うよ。なにをやればいい?」
「冷蔵庫からきんぴら取ってくれる? 青色のタッパー、上から2段目のヤツ」
「了解」
頼まれた通りに彼は青色のタッパーをアタシの元へ持ってきてくれる。ありがと、とお礼を言ってから小鉢にきんぴらを盛り付けて上から煎りゴマを散らす。
「なんだか今朝はごきげんだね」
「ありゃ、アタシってそんなわかりやすい?」
「尻尾、踊ってる。あと耳も」
「うひー。ウマ娘に生まれた不幸だねぇ」
ぱたぱたと動いている尻尾を止めることは諦めて、朝食の準備を続けていく。朝はお弁当も作らなきゃいけなくて忙しいから手抜き。そう決めているから昨晩の残りものオンパレードと常備菜だけ。あっという間にできあがる。
いただきます、と手を合わせてからテレビのニュースを片手間に朝食をいただく。いつもと同じようにテーブル越しに向かい合って。
朝ごはんを作るのはアタシの担当。そして、皿洗いは彼の担当。あとは任せた、とざっくりとエプロンを畳んでから、アタシは洗面所へ。
洗顔、歯磨き、整髪、お化粧。朝はやることがいっぱいだ。うすくファンデを叩いて、目立ちすぎないくらいに口紅を引いて。エトセトラ、エトセトラとお化粧を続けていく。これでよし、と鏡で確認してから自室でオフィスカジュアルの範囲になるよう服を選んで着替えた。
そうして朝の身支度が終わると、彼も皿洗いが終わっていていつでも準備完了になっている。
「それじゃ、出勤だ。行こうか、ネイチャ」
「ほいほーい。いつも車出してもらって悪いねぇ」
「どうせ行き先は一緒なんだし、大したことはないよ」
「まあ、それでも助かるなってお話ですよ。じゃ、今日もよろしくね。あなた」
ドアが閉まる。がちゃりと鍵がかけられて、家主のふたりは出勤していく。
ナイスネイチャ。今年で31歳。
かつてはブロンズコレクターと呼ばれ、GⅠも含めたレースにおいてコンスタントに成績を残し続けた競争バ。
そして今はトレセン学園経理課勤務のオフィスレディ。そしてある男性の家内。
お相手は過去に自身を担当したトレーナーだ。
超絶お金持ちのイケメン男子ではないかもしれない。家だって、物語のような大豪邸ではなくてごくごく普通の高層マンションの一室だ。
けれど、ナイスネイチャは今の生活を気に入っている。
たったひとつ。
あの有馬に置いてきてしまった忘れものを除いて。