【完結】ウマ娘プリティーダービー ー夢のおわりのその先でー 作:プレリュード
◇
このジャージの袖に手を通したのはいつ以来の話だっただろう。
このずしりとした重量感のある蹄鉄のシューズを最後に履いたのはいつだったっけ。
オフィスカジュアルを脱ぎ捨ててかつてトレーニングをしていた頃のような装いになったアタシ。背丈が伸びていたり、顔つきが昔とはちょっと変わっているとはいえ、過去に戻ったみたいな郷愁を感じる。
「わあっ……!」
「いやいや。そんな歓声あげるほどのもんでもないでしょ」
おめめキラキラに輝かされましても。アラサーのおばさんのジャージ姿なんて眼福になりゃしない。
「懐かしいなぁ。昔のネイチャを見てる気分だ」
「ですよね、ですよね!」
「新米のころを思い出すよ。あのころはかわいかったなぁ」
「ちょっと、あなた?」
「今は美人さんだよ、ネイチャは」
「ぐむう……」
まるでその言い方だと今はもうかわいくないみたいじゃん。そう言い返そうとしたのに先手を打たれた。
その返し方はいズルい。あとほかの人が見ている前ではやめてほしい。
「やめやめ! はずいからこの話はなし! ほら、併走やるんでしょ!」
トラックにひとりでアタシは先に向かう。もう。のろけるためにジャージに袖を通したわけじゃないってのに。あくまで後輩のためだ。
とはいえ。
この併走、アタシには不利な要素がいくつかある。
まずひとつ。アタシはアラサーだ。
言ってて自分で悲しくなってきたけど。でも、寄る年波には勝てない。現役と比べると筋肉も体力も衰えている。今まさに成長期を迎えているこの娘に、肉体面で勝てる要素がひとつとしてない。
ふたつ。アタシは短距離を走った経験がほとんどない。
距離適性を測るためにデビューしたばかりの頃、ちょっとだけ走っただけだ。知識として短距離のレースがどういうものかは知っていても、経験がまるでない。短距離専門と定めてトレーニングをしているこの娘とはすでにアドバンテージが存在している。
「ホイッスルの音でスタート。それでいいか?」
「は、はいっ!」
「ほいほーい。了解しましたよーっと」
出走前の簡単な柔軟。緊張を解すために昔はよくやっていた。別に緊張しているわけじゃないけど、身体に染みついた習慣だ。肩を掴んでぐいーっと反対に引っ張る。
「それじゃ、いくぞ」
スタートラインに立つ。彼が口にホイッスルを咥えた。
背筋にピリっとした感覚。コンマ一秒でさえもホイッスルの音を聞き逃すまいと聴覚を尖らせる。
ピィッと甲高い音が大気を切り裂く。まったく同時にアタシと鹿毛の娘は脚を踏み出した。
お互い、走り方が差し。ゆえにいきなり全力ではなく、少し力を抑えめにして脚を交互に前へ出していく。だからレース中盤を過ぎても大きな変動はなかった。
変化があったのは最終直線手前のコーナー。
鹿毛の娘が一気に加速した。
併走していることも忘れてアタシは舌を巻く。
加速が速い。
加速が速いということはすなわち、最高速度までの到達時間が短いということ。
短距離は最終直線が短い。だから加速をあげて、一気に最高速度を叩く。そして少しでも最高速度で走れる距離を伸ばす。
これがこの娘の差し。短距離において差しという定石から外れた作戦を選んだ彼女が練り上げた力だ。
いやぁ、こりゃダメだ。あくまでこの娘のための併走だったのに。
「アタシまで熱くなってきちゃったな!」
後先を考えない加速。コーナーを曲がるよりも前に並びつく。
正直、このペースで加速したらスタミナが最後まで持たない。でも、無理をした意味はあった。
鹿毛の娘の動揺が手に取るように伝わってくる。想定していなかったレース展開にメンタルが揺さぶられた。姿勢が崩れて受ける空気抵抗が増える。せっかくの加速が揺らいだ。
さっきも言った通り、アタシには不利な要素がある。まともな勝負にならなくて当然だ。
そんなアタシがこうして一見互角に持ち込めている理由がひとつ存在する。
それは経験だ。
短距離だろうと、結局のところ走るという行為に変わりはない。競り合いの場において、いかに優位にレースを運ぶか。相手の様子を伺って揺さぶりをかける。そういった勝負のカンはアタシの方が現時点ではまだ上。
先に最終直線へ入ったのはアタシだった。わずかに遅れて彼女が突入。
順調なスパート。少しだけアタシに有利な状況だ。
でも、そこまで。
最終直線あと半分というところでアタシのスタミナの限界が来た。相手に揺さぶりをかけるためとはいえ、無茶な加速に体力を使いすぎた。
これがブランクか。こみ上げてきた吐き気と戦いながら、かつてはGⅠの一線で走ってきた競争バのプライドだけで前へ進む。
真横を風が吹き抜けた。すぐに目前に鹿毛の尻尾が揺れている。酸欠で止まりかけていた脳が抜かれたことを気づくために刹那の時間を要した。
勝てないかな。そんな直感がアタシの中で浮かぶ。
瞬間、猛烈な既視感がアタシを襲った。
アタシはこの光景を知っている。追いすがるアタシがだれかの背中に手を伸ばしている。そんな光景を。
「……あ」
思い出した。
あの引退前の有馬。その最終直線だ。
テイオーと並んで競ったあの景色。周りは誰もいなくて、アタシとテイオーだけが走っているように錯覚したあの時だ。
そして同時にようやく思い出した。
アタシが見ないようにして、忘れていたものは――――
「ね、ネイチャさん!」
悲鳴混じりの声が聞こえる。すでに狭くなっていたアタシの視界が完全にブラックアウトした。
なんだかあったかい。太陽に干したばかりのふかふか毛布に包まれているみたいな温もりだ。もうしばらく寝てたいな、なんて思い始めたけど、アタシの名前をだれかが呼んでいる。
「ネイチャ!」
彼の声でアタシの目は覚めた。視界にはいっぱいに心配そうな彼の顔。
「アタシは……」
「酸欠で倒れたんだよ。本当に心配した」
そっか。気絶したんだ、アタシは。アラサー過ぎて若いころのような無茶をするものじゃないなぁ、と自虐。
地面に倒れているにしてはやけに頭の後ろが柔らかい。それが彼の上着だと気づくや否や、アタシは慌てて飛び起きる。
「どれくらい気絶してた?」
「3分も経ってないくらい。あと10秒そのままだったら、保健室に運んでた」
「そっか。ごめんね。迷惑かけちゃって」
我ながら無茶しすぎた。併走とはいえ久しぶりのレースだ。いくら短距離でも昔の感覚でペースを作れるわけがなかった。
「俺こそごめん。止めるべきだったのに、あまつさえ走らせる手伝いをするなんて。トレーナー失格だよ」
「そんなことないって。アタシが望んでたんだもん。あなたもわかってたから、アタシのシューズとジャージを用意してたんでしょ?」
「…………まあ、そうだね」
「あの娘は?」
「先に帰した。どのみち、今日のトレーニングは反省会でおしまいにするつもりだったから」
「あちゃー。悪いことしちゃったなぁ」
「すごく心配してたらからあとで電話しておこう」
「うん、そだね」
気弱そうなところのある娘だったから、気に病んでいそうだ。併走を頼んだ私のせいで、とか考えいる姿が目に浮かぶ。アタシが併走をオーケーしたし、その上でアタシが後先を考えずに走って意識を飛ばしたんだから完全に自己責任なんだけど。
「立てるか? 手、貸そうか?」
「いやいや、そこまで迷惑かけられませんて。ちゃんと自分で立ちますよっと」
もうアタシの意識ははっきりしていた。走っているときに感じていた吐き気もない。心臓の音はまだうるさいけど、だんだん落ち着いてきた。
「応急処置の講習を受けててよかったよ」
ん?
落ち着きを取り戻しはじめていたはずの心臓がまた激しく動き出す。さっきとはまったく別の意味で。
酸欠で倒れた人の応急処置って人工呼吸だよね?
今さら口づけくらいで顔を赤くするほどピュアじゃない。でも彼がすぐに応急処置へ移っていたとすると、そばにはあの鹿毛の娘がいたわけで。
い、いや! これ以上は考えないでおこう! なんかこう、考えたらすごく恥ずかしい気がする。そう、それに彼は救命措置としてやってくれたわけだし!
「さて、と。ネイチャが大丈夫なら帰ろうか」
「ねえ、あなた」
帰ることには同意。まあ、その前にシャワー浴びたり、ジャージから着替えたりしたいのだけれど、それよりも前にするべきことがある。
「なんだ?」
「協力してほしいことがあるんだけどいい?」
「わかった。なにをすればいい?」
「内容を聞かなくていいの?」
「大事な
あははは。照れ隠しにアタシは笑う。
つくづくアタシはいい旦那さんに恵まれたと心から思った。
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