由比ヶ浜の恋と勿来ヶ崎奇譚   作:taka2992

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救出され、頭を撫でられ、由比ヶ浜が赤くなる

 県立中央病院の廊下を歩いているとき、再びピキーンと音がして目の前に閃光が走り、ホワイトアウトした。身の回りの景色が変わり、俺は学校の部室に突っ立っていた。

 顔が濡れていた。顔だけではなく、アゴから首、胸のあたりまで湿って、シャツが皮膚に張り付いている。

 右には茅ヶ崎が椅子に座り茫然とし、左には目黒や東雲、一番遠くにいる雪ノ下も何かにとり憑かれたような顔で座っていた。そして、女3人の顔も、やはり涙でグチャグチャに濡れていた。気がつくとハンカチを出して拭い始める。

 

「みんな、今の見たのか」

 

 俺は問いかける。

 

「今のは………」とあっ気にとられている雪ノ下。「結衣ちゃんが死にかけていたけど……」目黒がハンカチで目を押さえている。

「今のって本当に起こることなの?」と東雲が俺に聞き返す。

 

「たぶん、そうだ。転送されてきたシミュレーションが同じ時間から開始されたから、気がつかなかったんだ」

 

「シミュレーション? 転送?」

 

 東雲と目黒が狐につままれたような顔をしている。

 

 時計を見ると、4時半。つまり、由比ヶ浜が出て行ってからまだ30分くらいしか経過していない。一瞬の間に6時間ほどの経験をしたことになる。

 しかし……。

 今のは「見た」というよりも「経験した」のに近い。確かに俺たちは小町から送られてきたシミュレーションの内部でそれを経験していた。

 もしかすると、俺たちはシミュレーション世界の中に取り込まれて、実際に動いていたのかもしれない。現実的な体験とまったく区別がつかないのだ。

 

「茅ヶ崎、黄色いタグのついたカギを探せ!」

 

 俺は右を向いて叫んだ。茅ヶ崎がカバンを探る。当然、そこにはカギはない。やらなければならないことは、おのずとわかる。

 茅ヶ崎が立ち上がって時計を見る。そして携帯を操作し始めた。いくつかの番号にかけているようだが、いずれもつながらない。

「くそっ」と茅ヶ崎が毒づいて俺を睨む。

 

 

「比企谷! 一緒に来い! 行くぞ! まだ間に合う!」

 

 茅ヶ崎が駆け出して扉を開けようとする。すると、後ろから呼び止められた。

 

「待って! 私も行く!」

 

 雪ノ下が駆け寄ってくる。息が荒い。しかし、バイクに乗れるのは2人だ。

 茅ヶ崎が振り向く。

 

「お前はここで待っていろ。必ず由比ヶ浜を無事に連れ帰る! 危険な状況になるかもしれない」

 

「だけど、警察に連絡したほうがいい!」

 

「警察に連絡してもいいが、間に合わないぞ。内側からカギがかかっていれば、入れない。入ろうとすれば管理者に連絡したりして時間がかかかる。俺はスペアキーの隠し場所を知っている」

 

「とにかく、私も行くから」

 

「だったらタクシーでも走らせろ!」

 

 茅ヶ崎と俺は階段を駆け下り、上履きのまま校庭を走った。バイクの置いてある狭い路地まで、息をぜぇぜぇ切らして急いだ。

 こんなに真面目に走ったのは久しぶりだった。全力で走る茅ヶ崎に追いつけなかった。すげぇ体力だ。やがて、茅ヶ崎の姿を見失った。

 それでも走っていると、バイクの排気音が聞こえてきた。向こうから見慣れたバイクが走ってくる。俺の前で止まり、ヘルメットを渡された。

 

 千葉市までの幹線道路は比較的空いていた。その中をバイクが容赦なく飛ばす。ふぉぉぉ~ん。と噴け上がるエンジン音が、この前より甲高い。二車線を仕切る線の上を滅茶苦茶なスピードで走る。クルマが針路変更したら俺たちは終わりだ。

 前方の信号が赤だった。それでも茅ヶ崎は突っ込んでいく。減速したものの、アクセルを煽る右手が上下に動き、爆音をふぁ~ん、ふぁふぁふぁ~ん。ふぁ~んふぁん。と変化させ、まるで珍走団のように爆音でクルマを威嚇する。

 交差点に青信号で進入してきたクルマが止まる。止まらないクルマもあるが、間を縫って、バイクは交差点をクリアした。道路交通法違反。信号無視に進路妨害。

 交番の前を過ぎるとき、爆音と猛スピードで走るバイクを、警官がただ見ているだけだったのには少し笑った。

 

 なんと、千葉市の中心街には10分もかからなかった。駅前を過ぎて目的の雑居ビルの前についた。バイクを止め、ヘルメットを脱ぎ捨て、階段を駆け下りる。すると、スチール製の大きな扉が5センチほど開いていた。

 2人で飛び込むと、由比ヶ浜が床に仰向けになり、監禁されていた男が首を絞めていた。

 

 茅ヶ崎が駆け寄り、老人のような男の腹に蹴りを入れる。「グワッ」と声を出して、男が横に転がる。近くに落ちていたバールのような棒をつかんで、男が茅ヶ崎に反撃に出る。

 振り下ろされるバールを茅ヶ崎がよけ、体を斜めにして男の足を蹴る。その衝撃で男はストンと横倒しになる。ドスンと音を立てて床に打ち付けられる体。それがすぐ近くだったので、由比ヶ浜が「きゃあ」とよける。上体を起こして、座ったまま足で床を蹴り、あとずさりする。

 男は「うう~」と唸ってまだ動いている。茅ヶ崎がまた腹に蹴りを入れると、汚らしい絨毯の束の横で沈黙した。

 

 

「茅ヶ崎君! ヒッキー!」

 

 由比ヶ浜が俺たちを見て、叫ぶ。スクールシャツの前のボタンが取れ、肌が見えていた。その顔から涙がどっとあふれて、手で目をこすっている。

 

「由比ヶ浜! 大丈夫か!」

 

 茅ヶ崎が駆け寄り、由比ヶ浜を立たせる。背中やスカートについているホコリをはらいながら、その体を後ろからも見回す。

 

「怪我は? どこか痛むところはないか!」

 

「何回かお腹殴られた。少し痛いかも。……助けに来てくれたの?」

 

「当然だろ!」

 

 茅ヶ崎が由比ヶ浜を椅子に座らせた。部屋の奥では、男が監禁されていたトイレのドアが開き、外から取り付けられていた南京錠が垂れ下がっていた。

 

「バカやりやがって」という声には力がなかった。

 

「だって………」

 

「わかった。もう何も言わなくていい。お前のやりたかったことは理解している」

 

「そうなの?」

 

 ポカンと口を開けている由比ヶ浜に近づいて、聞いてみた。

 

「由比ヶ浜、お前は、ここに来る前に、何か変なものを見なかったか。たとえば、お前が病院に運ばれて、手術するところとか」

 

「見たよ。ここについて、カギを壊しているとき。私、このまま死んじゃうんだって思った。あれは何だったの? すぐにこの場所に戻ったけど……」

 

「お前が見たものはあとで説明する。どうして逃げなかったんだ?」

 

「わからない……。やっぱりやらなきゃダメだと思ったから……」

 

 由比ヶ浜がうつむいてしまった。そのとき、蹴られて沈黙していた男がゴソゴソと動き出し、逃げようとして立ち上がった。ドアのほうへ駆ける。だが、その手を茅ヶ崎がつかんだ。

 

「お前、そいつどうするんだ?」

 

 俺の問いに、茅ヶ崎が考えている。男をこのままあのトイレに戻せば、茅ヶ崎は元通り、ダークな世界に戻れる。

 その手を離せば、由比ヶ浜の意思を尊重して、彼は普通の世界に生きることを選択したことになる。

 

 どっちだ? 

 その様子を由比ヶ浜も見つめている。

 

「決まっているだろ」

 

 茅ヶ崎の手が緩んだ。男は信じられないとでも言うかのような顔をして、一気に走り去った。ガタガタと階段を駆け上がる音が聞こえる。その風体からは、そんな体力が残っているとは思えない。だが、男はまだ30代なのだ。

 

「あいつはどうせ、何かせこいことやってすぐ捕まるさ。時間の問題だ。問題なのは、ここのオーナーだな……」

 

「どうするの?」

 

 由比ヶ浜が心配そうに訊く。

 

「あいつが逃げても、おおっぴらにしたくはないだろう。ただ、多少は怒られるかもな。こっちも弱みを握っているんで安全だとは思うが」

 

「しかし、この仕事はもうできなくなる。そうだよな?」

 

 俺が確かめると、どこか解放感のある目つきで「そうだな」と、茅ヶ崎が答える。

 

「比企谷と由比ヶ浜はそろそろここを出たほうがいい。他人に見られるとややこしくなる」

 

「お前はどうするんだ?」

 

「残務整理がある」

 

「そうか」

 

 由比ヶ浜が立ち上がって茅ヶ崎に近づく。依然としてうつむき加減で、髪の毛が顔を隠している。

 

「迷惑かけてごめんなさい」

 

「いや、いいんだ。お前は気にしなくていい」

 

「じゃあ、そろそろ行くか? 由比ヶ浜、みんな待ってるぞ」

 

 俺が由比ヶ浜に声をかけると、茅ヶ崎が「待て」という。

 

「由比ヶ浜、お前そんな恰好で外へ出るつもりか? パワースポットが……、いや、シャツが滅茶苦茶だぞ」

 

 由比ヶ浜が気がついてシャツを直そうとする。一部破けているので、ブラの紐がどうしても見えてしまう。

「ひゃあ~」と顔を赤らめる由比ヶ浜。両手を組んで胸を隠す。茅ヶ崎が棚の中からバスタオルを出して、由比ヶ浜の上半身にかけてやる。

 

「怖いのによくやったな」そう言って頭を一回撫でた。由比ヶ浜は顔を赤くして無言だった。

 うつむいていたとはいえ、俺の角度からは、由比ヶ浜の顔が恥ずかしそうにはにかんでいたのが見えた。

 

 後ろで地下室の扉が閉まった。階段を上がるとき、由比ヶ浜が「もっと滅茶苦茶に怒られるかと思った」と呟いた。

 

「お前の気持ちが通じたんだろ。さすがに自分のせいで死なれたらこたえる」

 

 地上に出ると、すぐ近くにタクシーが止まった。下りてすぐに駆け寄ってくる3人の女。

 

「結衣ちゃん!」「怪我は?」「大丈夫なの?」「茅ヶ崎君は?」

 次々に飛んでくる質問。取り囲まれた由比ヶ浜は答えに窮していた。

 

 雪ノ下が俺に近づいてくる。

 

「彼は?」

 

「残務整理だと」

 

「そう。心を入れ替えたのかしらね」

 

「俺にはそう見えた。由比ヶ浜の頭を撫でていたぞ」

 

「ちょっと想像できないけど」

 

「由比ヶ浜のシャツが破けている。タクシーで帰ったほうがいいかも」

 

「そうする」

 

「あと、どこか怪我していないか、詳しく調べたほうがいい。男の俺じゃできないだろ」

 

 雪ノ下が微笑む。

 タクシーがまだその場に止まっていた。4人の女が乗り込むと、もう席の余裕はなかった。俺だけ電車での帰還となった。

 

 俺は小町に感謝した。

 だが……。

 

 さっき見せられたシミュレーションの中で、俺は小町に助けてくれと頼んだ。そこから小町が初めて動いて俺たちにシミュレーションを見せるということはありえない。因果律を侵犯することになるからだ。「任意の時間に信号を送れる」というのも怪しい。

 つまり、小町は常にシミュレーションを作動させていて、未来を予知している。おそらく、1000兆個ものパラメータによるシミュレーションは、現実世界を正確に予知することができるのだ。もし、小町の介入がなければ、由比ヶ浜は確実に死んでいたはずだ。

 危険を察知した小町は、俺から頼まれなくても自発的にシミュレーションを送信してきたことになる。そこに、俺が小町に呼びかけるシーンが含まれていたとしてもおかしくはない。

 これが事実だと考える以外にない。俺が頼んで動き始めたように見せかけたのは、お前のテレなのか? お前こそブラコンじゃないのか?

 

 苦笑した。

 小町。お前はやっぱり俺の守護天使だ。

 

 

 

 

 

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