その日、学校から帰ると6時過ぎ。ちょうど買い物して帰ってきた母親が、テーブルの上のレジ袋からせわしなく食材を出して、冷蔵庫に入れていた。
ソファには小町がぼんやり座っていた。すぐ目の前のテレビには夕方のニュース番組が映され、手にはゲーム機、耳にはiPODのイヤホンが入り、ひざの上には雑誌までが開かれてあった。小町はヒマなときに、時々このような情報メディアに囲まれて、いや、溺れて並列処理をしていることがある。脳がマルチコアならともかく、やっていることがアホに見えてしかたがない。
俺は知っている。こういう状態の小町は、すこぶる退屈しているのだ。テレビもゲームも音楽も雑誌も、すべて彼女を満足させていない。
俺は、小町の顔の前に手を出して振った。ボケッとした顔の中で、目の焦点がしっかりする。
「小町、ちょっと散歩行こうか」
「あ、お兄ちゃん、お帰り~。何で散歩?」
「ちょっと話がある。夕飯前の散歩だよ」
深刻な顔に見えたのだろうか。イヤホンを耳から引き抜く小町の表情がこわばった。思い出してみれば、今まで話を外でしようともちかけたことはない。
わざわざ外に連れ出そうとするほど重大なこと?
小町の目がそう言っていた。
俺は、カバンからノートPCを取り出して持った。
外に出ると、青空がまだ明るい。西日がマンションの上のほうの壁面を射している。その反射が眩しい。
俺と小町は日陰になった歩道を並んで歩いた。
行き先は500メートルくらい離れたところにある、比較的大きな公園だ。真ん中に芝生があり、取り囲むようにベンチがたくさん並んでいる。
PCをひざの上に乗せて腰を下ろすと、隣りの小町がふぅ~、と深呼吸した。
陽の当たらない場所なので、体をすり抜ける風が涼しい。
「なんだよ。なんか緊張していないか」
「だって、こんなとこまで連れて来られちゃって、構えちゃうよ。何の話?」
「俺と雪ノ下のことだ」
「それ? やっと話してくれんの? ずいぶんもったいぶってたね」
興味深そうに顔を覗き込んでくる小町に、シミュレーション世界での出来事をすべて話した。ずいぶんと時間がかかった。それでも、小町はおとなしく聞いている。話終わる頃になると、あたりは少し暗くなっていた。
「信じられない……」
あたりまえの感想が小町の小さな口から漏れてきた。
「でも……、ある日突然のように、お兄ちゃんに彼女ができた理由がわかったような気がする」
「あっちの世界の記憶が、俺と雪ノ下だけに植え付けられたんだ。この世界でまたくっつくのは自然だよな」
「でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんであって、お兄ちゃんじゃな~い、ってこと? 実はまったく別人になっちゃったとか」
「なんか聞いたことあるような言い回しだな。まあいいや。俺は正真正銘の俺だ。おまえと14年間一緒にいた俺だよ。ただし、2年分の記憶が余分にあるだけだ」
「よかった。実は、お兄ちゃんは宇宙人なんじゃないかと思ってた。ゆきねぇと一緒に地球に送り込まれたスパイとか」
「そうだったら面白かったんだけどな」
「あっちの世界の小町は、どんな感じだったの? 16歳ってことなの?」
「16歳だったよ。必死に勉強して総武高に入ったんだぞ。あっちの世界でもお前はまったくお前だった。その性格も変わりがない」
「ふ~ん」
「そうだ」
PCを開いて電源を入れた。16歳の小町は答えてくれるだろうか。14歳の小町が画面を覗き込んでくる。
『小町、いるか、答えてくれ』
『は~い! いるよ! そっちの小町ちゃんに話したんだね』
画面に現れる自動筆記の文字を見て、14歳の小町が驚く。
「なにこれ? 私? どういうこと?」
「あっちの世界の小町だ。PCの画面だったら会話ができる」
『そうだよ! 自分に話しかけるのも変な気分だね。でも、なんか楽しい』
ちょっと貸して、と14歳の小町がPCを自分のひざの上に置く。そして、文字を打ち始めた。
『小町お姉さんということ? 信じられないよ! 本当に私の2年後なの?』
『そうだよ! お兄ちゃんに入学式の日にシミュレーション世界の記憶が転送されなかったら、今の私と同じになったはずだよ。でも、お兄ちゃんとゆっきーが、入学式の日から自分の運命を変えたから、そっちの世界では、小町ちゃんの運命もちょっと違ってきてるね』
「そうなの?」と14歳の小町が訊いてくる。
「たぶんな。あっちでは雪ノ下が作った部活は奉仕部だったが、こっちでは創発部だ。もう、ぜんぜん俺たちの運命は変わってきている」
「ふ~ん。ゆっきーってゆきねぇのことでしょ?」
俺はうなずいた。小町が文字入力を再開する。
『でも、小町お姉さんは 14歳までの同じ記憶を、私と共有しているのかな~? すっごく不思議な感じ』
『ふふん。小町ちゃん、小さいころからのお兄ちゃんと一緒に撮った写真を一冊のアルバムにまとめているでしょ? 机の三番目の引き出しの一番底に……』
14歳の小町が、ひっ、としゃっくりした。
『それから、半月くらい前に、同級生の男の子から告白されたでしょ? そして、断った』
また14歳の小町が、ひっ、と引きつった。
『それから……』
『わかったから、もうやめて!』
14歳の小町が慌てて文字を打ちつけた。「本物だ…」と呟く。顔色が白くなっている。
『16歳の私は、18歳のお兄ちゃんと仲がよかったの?』
『うん。仲良しだったよ。お兄ちゃんに関しては、一番面白かったのは、ゆっきーとくっつくあたりだったかな』
『そのあたりをリアルタイムで見れたんだ』
『夜、ゆっきーを助けに飛び出して行ったり、陽乃さんがからんできたり、面白かったよ。私はハラハラしていたんだよ。どうなるんだろうって。結衣さんも関わっていたんだけどな~』
「結衣さん?」と、小町が訊いてくる。「俺の同級生だ。今、部活が一緒だ」と答えて、PCを取り上げた。文字を速攻で入れる。
『小町、余計なことは言うなよ! 今の由比ヶ浜は違うやつに関心を持っているからな』
『そうだね。お兄ちゃんも気を使うね~!』
『じゃあ、小町、もう帰るから、またな!』
『は~い! またね~!』
PCを閉じた。公園は薄暗い。気がつけば、蚊に刺された痒みが足にある。
俺たちは家路をたどった。帰ればすぐにメシにありつけるはずだ。腹が異常に減っている。
小町が俺の腕に手をからめてきた。さっきよりも表情が和んでいる。
「なんか話聞けて嬉しい。よかった。お兄ちゃんがやっぱりいつものお兄ちゃんで」
「そりゃあ、俺は俺だからな。変わりようがない」
「16歳の小町とも仲よくしてくれてたのも嬉しかった。ちょっとシスコンぽいけど」
「シスコンってのは絶対否定するぞ。お前こそブラコンじゃないのか?」
「ちがうと思うよ!」
小町が俺の腕から手を離して隣を歩き始めた。アルバムの件を暴露された手前、少しバツが悪そうだった。
「ただ……」
しばらくしてもその続きが聞こえてこない。
「ただ、なんだ?」
「ただ……。お兄ちゃん、あっちの世界から来たんだよね?」
「2年分だけな」
「そうだけど、ただ……」
「ただ、の先が気になるぜ!」
「お兄ちゃん。この世界からもう、どこにも行かないよね?」
寂しそうに小町が俺を見つめる。そう言われてみると、ふと、俺はこのままこの世界に居続けられるのだろうかという疑問が頭に浮かんだ。
「当然だよ。俺はここにしか居場所はない。どこにも行かないし、行けない」
「よかった……でも、あっちの世界の小町は寂しくないのかな……」
小町の手がまた俺の二の腕にからんできた。
★ ★ ★
翌日の部活は何もやることがなく、ほとんど紅茶とお菓子の女子会になっていた。
茅ヶ崎はまだ来ていない。残務整理に勤しんでいるのかもしれない。しかし、茅ヶ崎のような男がこんな部でくすぶっていていいのだろうか。あの身体能力を知ったら、運動部がこぞってスカウトに来ること必定だ。とはいっても、あの男、やはり集団行動や団体競技には向いていないような気がする。
女子ども四人の雑談は、主に夏休み中の合宿についてだった。合宿とは名ばかりで、要するに遊びに行きたいだけなのだが、俺が勿来海岸について情報をバラまいて洗脳し続けた甲斐があって、そこへ行ってもいいような話になってきている。
合宿だったら別に山や高原に行ってもいいのに、みんながいつの間にか海に行くことを前提にしているのは俺の勝利だ。
とにかく、外房の海だったら近いし、千葉県民だったら千葉の海しかないでしょう。みたいな雰囲気だった。ここで、重大な懸念をみんなに思い知らせることにした。
「ところでさ、千葉の海に行くのはいいけど、今から宿が空いていると思うわけ?」
「そういえばそうだよね。ヒッキー賢いね。でも探せばあるんじゃない?」
由比ヶ浜が俺のほうを振り向いたあと、目黒のノートPCをポンポンと手で叩いた。
「宿探し?」と目黒がノートPCを開いた。
「そうだよね。先に宿を押さえないと、こんな話していてもしょうがないよね」と東雲が笑った。
「あなたが何かたくらんでいたから、てっきり宿の件はクリアしているものとばっかり思っていたのだけれど。案外使えない人なのね」
そう言いながら雪ノ下が立ち上がった。プリントアウトしたらしき紙を俺の前に置いた。そこには、『
「獄釜旅館? すげぇ名前だな。読み方は違うが、地獄の釜みたいだ」
プリントアウトをマジマジと見る。勿来海岸近辺の宿についてはまったく調べていなかった。幸いなことに10部屋あるうちの数部屋が点々と空いていた。
「ほぉ。行く気満々なんだな。海とか嫌いっぽいお前が」
「どうせ、ここに誘導するつもりだったんでしょ? ヒマだったから調べておいただけ。でも、まだここにするとはまだ決まったわけじゃないのよ」
「そうだよ。なんか怖い。溺死事件の多発する海なんか行くの」
東雲が同調する。由比ヶ浜もうんうん、とうなずいている。ただ、獄釜旅館のホームページを探し出して眺めている目黒は、興味がありそうな顔をしていた。この子、そういうの好きそうだからな。
「いいか? 溺死事件が17年前に発生してからというもの、それ以降は一件も起こっていない。これは何を意味するかわかるか? つまり、ここは溺死事件が頻発する危険な海だとみんな知っているから油断しないんだ。これだけの情報を詰め込んで行けば、俺たちだって溺れたりしないだろう。溺れたら恥ずかしいレベルだ。だから、勿来海岸こそ一番安全なんだよ」
「そうかしらね」
「それに、マイナーな場所だから、客も少ない。湘南みたいに人がウジャウジャいたら、お前らも嫌だろ」
「それはそうよね」
リーダー格の雪ノ下が説得されてきた。あともう一息だ。
「でも……。旅館の名前といい、事件といい、地名といい、不吉だよね」
抵抗勢力の東雲がいい顔をしていない。東雲をひっかけるにはどんな釣り針を用意したらいい?
目黒はさっきからずっとPCに集中している。その隣りで由比ヶ浜も画面を覗き込んでいる。なぜかずっと沈黙しながら。
「私も外房の旅館とかホテルをいくつか見てまわったけど、どこも空室はないのよね。確かに動くのが遅かった。この時期、空いているのはロクなところじゃないはずよ」
雪ノ下がため息混じりでそう言ったとき、由比ヶ浜に異変が起こった。最初に気がついたのは目黒だった。
「あれ? 結衣ちゃん。どうしたの? なんか顔色悪いし、つらそうだよ」
「うん、ちょっと……」
由比ヶ浜が両手で鼻から下を覆って、前かがみになる。心なしか体が小刻みに慄えている。
「なんか急に寒くなって……。頭痛い……。それに肩が重い」
「大丈夫?」
東雲が立ち上がって由比ヶ浜の脇から顔を覗き込む。
「なんかつらそうだね」
雪ノ下も由比ヶ浜の正面にしゃがむ。
「保健室行く?」
「ううん。大丈夫だと思う……」
雪ノ下が紅茶を入れ始めた。だが、少し考え直し、由比ヶ浜のカップにお湯を入れて持ってきた。
「温かいもの飲んでみたら?」
「うん、ありがとう」そう言ってカップを受け取り、ゆっくりと啜る。すると、だんだんと由比ヶ浜の顔色が回復してきたように見えた。
しばらくすると、由比ヶ浜は元に戻っていた。しかし、「最近、私おかしい」と言い始める。
「どういう風におかしいの?」
目黒が心配そうに訊くのを自分の席に戻った雪ノ下や東雲も聞き耳を立てていた。
「夜中に目が覚めて金縛りに会ったり、誰もいないのに誰かが近くにいたりするような感じがあるし。時々寒気とか頭痛がする」
「それだけあれば立派な症状だな」
俺はそう言った。
「そうかな……」と由比ヶ浜が憂鬱そうな顔をする。
「病院行って精密検査でもしてみたら?」
そう心配する目黒に、「あはは、大丈夫だよ!」と由比ヶ浜は少し無理して笑った。
「では、やることもないし、今日は帰りましょうか。試験も近いことだし」
雪ノ下の提案にみんな賛成した。東雲が床に置いてあった由比ヶ浜のリュックを、机の上に置いてやる。
「結衣ちゃんはすぐ帰って休んだほうがいいよ」
「うんわかった。ありがとう」
由比ヶ浜が微笑む。立ち上がって歩く姿を見ると、大丈夫そうだった。
部活が終わって校門を出るとき、たいてい俺と雪ノ下と東雲の3人が一緒になった。ハタから見ると、美女二人を従えて歩く超リア充に見えるのかもしれない。俺の下駄箱に嫌がらせされないのが不思議だ。
この部の女子四人の相性について考えてみると、それぞれが一緒にいる時間が多いのは雪ノ下と東雲、目黒と由比ヶ浜という組み合わせだ。美人コンビ二人と可愛い系コンビの組み合わせといえる。これはクラスが一緒だからしかたがないところもある。
しかし、性格だけを考えてみると、雪ノ下と目黒が近い。理論的に物事を考えるところや理科系に強いという共通点。それに、ちょっと冷たそうな雰囲気も似ている。
東雲と由比ヶ浜は人あたりが巧く、自然に自分の感情を交えたコミュニケーションができる。この系列にはあの茅ヶ崎も入るだろう。俺はいうまでもなく、雪ノ下と目黒派に入る。
男二人はさておいて、この四人の女子の組み合わせは観察していると面白い。組み合わせ方はもっとある。たとえば、自我の強さ。その点で分類してみると、雪ノ下と由比ヶ浜は意外に似ているのかもしれない。一見ソフトで性格が良さそうに見える由比ヶ浜も、実は芯が強い。それに対して、目黒と東雲は自我を押し出す性格をしていない。人間の微妙な性格による精妙な組み合わせ。このパズルをやっていると、時々時間があっという間に過ぎ去る。
学校の最寄の駅前まで来ると、俺は二人にちょっとお茶しようと誘った。部活が早く終わってヒマだったし、少し話してみたいことがあったからだ。
コーヒーが300円のチェーン店で、四人テーブルに落ち着くと、俺は切り出した。雪ノ下と東雲が、対面に並んで座っている。
「由比ヶ浜、少しおかしかったよな」
「そうね。大丈夫かしらね」
「結衣ちゃん、顔色が悪かったね~」
「あのさ、俺は女性じゃないからわからないんだけど、ああいう日ってあるのか? その、女性特有のというか」
二人の女が少し笑っている。
「あれは違うと思うな~。頭痛とか腹痛とか肩こりがすることはあるけど……」
東雲がそう答えると、雪ノ下も同調する。
「そうよね」
「じゃあ、恋煩いとか? そういうのでああなるのか?」
「それは人に寄りけりでしょ」
雪ノ下がクスクスと笑い始めた。
「ううむ。PTSDとか? ストレス症候群?」
二人の女の顔が真面目になった。
「どういうこと?」
「あれだよ。茅ヶ崎のアジトの件。殺されかかったんだぞ。実際にはその手前で助けられたが、小町のヴィジョンではすべてを体験しているはずだ。無意識に傷を負っている可能性もある」
「それはわからないわね。本人に聞いてみるのが早いと思うけど」
「金縛りに会うとか、人の気配とか、寒気とか、頭痛とか、すべてストレス性の症状かもしれない」
全面ガラス張りの向こうは、駅前の往来だった。ふと視線をそちらに向けると、ロータリーの窪みに赤いクルマが止まった。話し始めた雪ノ下のほうに視線を戻した。
「困ったわね。そうだとすると長引く可能性もあるのよね」
「結衣ちゃんて、ああ見えて意外に繊細? 私も、結局ストレスで自傷行為に走っていたんだけど、そこまで行っているようには見えないけどなぁ」
東雲がコーヒーカップを啜って、テーブルに戻す。
「そうか。東雲も知っているとおり、俺と雪ノ下は由比ヶ浜と付き合いが長い。今まで由比ヶ浜があんな体調不良になったのを見たことがない。いつも元気溌剌だった」
「そうよね。だから驚いた」
「ふ~ん。私はまだ結衣ちゃんと知り合ってから3ヶ月くらいだから気がつかなかったけど」
「ヘイ! バディ!」
突然明るい声がした。誰かが近づいてくるのがわかっていたが、話に熱中していたので気にならなかった。声の主に視線を合わせると、なんとそこにいたのは陽乃さんだった。
数日前にその妹に見せられた写真のような恰好だ。デニムのショートパンツにキツキツなヘソ出しTシャツ。その上にスケスケのカーディガンのようなものを羽織っている。
手首にはカラフルなリングが何本も巻きつき、左肩には蝶のタトゥーが入っていた。
そんなギャル乃さんが空いていた俺の隣に座ってきた。そのとたんに、やっぱりいい匂いにモワモワと包まれる。
姉の突然の登場に、ウザそうな目つきをする妹。その隣りで東雲がマジマジと陽乃さんの変身ぶりを眺めていた。
「深刻そうな顔して、何ヒソヒソやってんの?」
「姉さんには関係ないでしょ」
「比企谷君。この前はありがとう!」
「よくそうやって目ざとく知り合いを見つけますね。これだけ人がたくさんいるのに」
「クルマで通りかかったら、キモ可愛い君の顔が見えたんだよ。あ、ヒッキーじゃんって」
「とうとう俺はヒッキーですか。それにしてもすごいですね。上空から地上の獲物を見つける猛禽類みたいな眼力ですね。驚きました。クルマってあの赤いやつ?」
あんまり皮肉に聞こえなかったようだ。ガラスの向こうを指さすと、「そうそう」と答えが返ってくる。
「どうしたんですか、そのファッションは。すごく似合ってますけど」
東雲がそう訊ねると、陽乃さんが急に沈んだ表情をした。泣きまねの一歩手前だ。
「ヒッキーくんのせいだよ。わたしをこんな風に変えたのはヒッキーのせい。すごく罪な男なんだよ」
「え?」
何だかわからないまま東雲が驚いている。変な目を俺に向けてくる。
「はぁ~」とため息をつく雪ノ下。俺も言葉が出なかった。
「志乃ちゃん、まともに聞かないで。姉さんの言葉は」
「あはははは。というのは冗談で、ちょっと明るく生きようと思って。妹よりも後にやってきた姉の反抗期ってところかな」
「明るくって。前からぜんぜん明るかったでしょうに」
「あれは営業用の明るさだからね~。これが素のわたしだよ。ね? ゆきのん」
ゆきのんて……。この人はどんなキャラを目指しているのだろう。
姉にそう呼ばれたゆきのんがため息をついて手でおでこを隠している。
「そうだ。みんなで海行くんでしょ? ここ数日、ゆきのんがネットで宿を検索しまくっていたんだよ。……目撃者はそう語った」
「ははは。検索しまくっていたんですか。実は、妹さんは海に行く気満々なんですね」
「そうなんだよ。水着出して、買ってこなきゃダメねとか言ってたし。そんなことよりさ、楽しそうだからわたしも行く!」
陽乃さん以外の全員が「は?」と固まる。
「行くよ! いま決めた!」
再び陽乃さんが宣言する。反論を受けつけないほどの笑顔で。
「姉さん。これは部活なの。関係ないでしょ」
「いいじゃん。ゆきのん。最初の一日だけ、それも夜は帰るから。クルマで連れて行ってあげるよ。だから帰りは電車になるけど」
「それは魅力的ですね。外房のほうのローカル電車は本数が少ないうえにノロい。バッグ持ってウロウロしないだけ楽だ」
そう指摘すると、東雲がうんうんとうなずく。
「助かるかも」
雪ノ下もクルマでの移動に慣れてしまっているので、反対する気にならないらしい。黙っている。
「じゃあ、そういうことで」
これで陽乃さんの同行はほぼ決定した。しかし……。俺はギャル乃さんにその妹、東雲に由比ヶ浜に目黒といった女子集団が海辺にいるシーンを想像した。壮観かもしれない。ちょっと怖くなった。相当人目を引くだろうから。そんな不安を見透かされたように陽乃さんに声をかけられた。
「男はヒッキーだけ? ふふふ。ボディガード頑張ってね!」
「それは無理ってもんです。そうだ。茅ヶ崎は? あいつがいればすげぇ心強いんだが」
「テロリスト君も行くの? 彼は一人で敵対勢力やってたんじゃないの?」
「それが、最近、まともになってきたんですよ」
「へぇ~。なんかつまんないね」
「では、明日にでもどこに泊まるかみんなで決めましょう。この様子だと、勿来海岸に決まっているような気がするけれど。それに茅ヶ崎君も来るかどうかわかるし」
雪ノ下が諦めたような顔でお茶会をしめると、みんな立ち上がった。結局陽乃さんは何もたのまず、タダで居座り続けていた。
送ってくれるというので赤いクルマに向かった。おそらく、トヨタの86とかいうやつだ。後部座席に収まると、狭い。いい匂いがしているが、これに詰め込まれて行くとなると……。
陽乃さんの運転するクルマは、最初、雪ノ下のマンションに止まった。そこで東雲も一緒に下りた。少し寄っていくらしい。下りるまで、あの二人は水着がどうのこうのと話していた。
次は俺の家に向かった。最初に俺の家に行かなかったのは、このあと陽乃さんは用事があって、東京の方に行くからだ。助手席に移動すると、後部座席よりは広い空間があった。快適さも段違い。思いっきりリクライニングした。
「ヒッキーくん、君は最近欲求不満でしょう?」
バックミラーやらサイドミラーをチラチラ見ながら、陽乃さんが言ってくる。
「は? 別にそんなことは」
「わたしがいるからあのマンションに来れないもんね」
その横顔がふふふと笑いを漏らす。
「でも、もうすぐわたしも一人暮らしするよ。あっちの豪華なマンションに」
「そうなんですか?」
「あと一年半でしょ? それまで勝手にさせてもらわなきゃ」
「そうですか。それにしてもよくやりますね。その恰好。似合っているだけに怖い」
「そう? ありがとう。みんな驚くから面白いんだよ」
「そういうイタズラ心ありそうですもんね。そうだ。茅ヶ崎が変わったんですよ。だから、海で会ってもあんまり挑発しないでくださいよ」
「どうして変わったの?」
「由比ヶ浜の決死の行動です。詳しくは妹さんに聞いてください。たぶん、陽乃さんでも驚きますから」
「ふ~ん」
クルマが家の前についた。お礼を言って下り、赤いクルマが遠ざかるのをしばらく見守った。