結局、由比ヶ浜は一日入院して、精密検査を受けた。その結果はまったく異常なし。すこぶる健康体で、意識を失わせる原因となりそうな循環器系統も、内分泌系も、脳神経を含めた全身の神経系もまったく異常が発見されなかった。
それどころか、健康診断で行われているような血液検査のデータは理想的な値を示していて、翌々日に学校に出てきた由比ヶ浜は「私って健康優良児なんだって」と笑っていたほどだ。
で、それ以降、由比ヶ浜に異変は現れなかった。もしかすると、メッセージを伝える媒体としての役割を終えたからかもしれない。確かに得体の知れないメッセージは俺と雪ノ下には伝わった。
部室の机の上には、刷り上がってきた『総武新聞』が数部広げられていた。新聞といってもタブロイド判で計四ページだ。俺たちが担当したのは半ページだから、全体の八分の一ということになる。
それでも、自分たちが作った記事を見るのは感慨深いものがあった。自分の書いた文章が媒体の載るのは気持ちのいいものだ。些細なものとはいえ、高校時代のいい思い出になる。
あのころ、雪ノ下という美女と奇跡的に付き合っていたり、東雲のフェロモンに憑依されて猥褻な妄想に耽ったり、由比ヶ浜が茅ヶ崎をぶん殴ったり死にかけたり、女子が泥レスしたり、陽乃さんがギャル乃になったり、小町がいきなり脳ハッキングを仕掛けてきたり、由比ヶ浜が救急搬送されたり……、
数ヶ月間なのにずいぶんと色々なことがあったものだ……、何十年もの後に、新聞を押入れから引っ張り出してそんな感慨に浸るのだろう。
遠い目をしてそんなことを考えていると、ガラガラと扉が開いて、久しぶりに平塚先生が入ってきた。室内を見回して、一番入り口側に座っている俺の近くに立つ。海の話や試験の話をしていた女子四人も中断する。
「お、全員いるな? いや、茅ヶ崎はいないな」
「茅ヶ崎でしたら、今日は用事があるとか言ってましたが」
平塚先生が入ってくると、どうしても一番近くにいる俺との会話になってしまう。
「それは都合がいい。最近の彼の様子はどうだ?」
「そうですね、少しは真面目になったんじゃないんですか。最近はちゃんと部活の仕事もしていますしね」
興味がなさそうな声でいうと、女子四人もうなずいていた。彼の場合は監禁に恐喝、傷害などの犯罪をやりたい放題だったので、そんなことを止めました、とは先生に言えるはずがない。抽象的にしか答えられない。
「そうか……。それはよかった」
先生は半信半疑の表情だった。もう少し突っ込んで聞き出したいらしい。
「雪ノ下、君の意見はどうだ? 彼は真面目になったのか」
遠いところで雪ノ下がアゴに指を当てて考えている。
「確かにあることがあってから悪事は止めて、過去に迷惑をかけた人たちに謝罪しているようです」
「それは本当なのか? すると君たちは彼が具体的に何をやって誰に謝っているのか知っているのか?」
平塚先生が驚いていた。確かに本当なのだが、俺には過去の悪因縁がそう簡単に切れるとは思えなかった。口には出さないが、茅ヶ崎がそのことで悩んでいるような気がする。
「誰に謝罪しているのかは知りません。しかし先生、具体的に彼のやってきたことを知ったとなると、教師の立場としては看過できなくなると思います」
雪ノ下の言葉の意味を色々と吟味して、結論を出したように、先生が「うむ……」と唸る。
「そうか……。彼をこの部に連れてきて正解だったようだな。もし君たちの手に負えない問題が発覚したら言ってくれ」
「先生、おおざっぱに言って、今の茅ヶ崎は、……そうですね、ギャンブルに狂っていた過去と決別して、借金の返済を始めたような感じですかね。ただ、借金取立ての連中がどう出るかの問題だと思います」
俺は横から先生に声をかけた。先生が俺のほうを向く。
「わかりやすい言い方だな。自己破産してきれいサッパリとは行かないようだな」
「法律が介入してきたら、関係者全員逮捕の世界ですよ」
「……なるほど。困った話だな……」
「でも、直感に過ぎませんが、大丈夫な気がします」
「なぜだ?」
「ヤツは頭が切れる、それに自分の身も守れる。誰にも助けてもらわずに」
「ずいぶんと買っているな」
「そういう面を嫌というほど見せ付けられてきましたから」
「君たちも巻き込まれないようにな。気をつけてくれ」
「そうですね。気をつけます。それより、ヤツはこの部よりも運動部のほうが向いていると思うんですけど」
「それはそうだな。あの身体能力だったら。運動部に打ち込んでもらうのが理想的かもしれんな……」
そんな会話をふつうに聞いていた由比ヶ浜だったが、顔のどこかに落胆の表情が潜んでいた。俺は、思っていたことを率直に言ったのだが、余計なことを提案してしまったと後悔した。
そのとき、カツカツと廊下から歩行音がして扉が開き、茅ヶ崎が入ってきた。「ち~す」と小さく挨拶して俺の隣りに座る。興味があるかどうかわからなかったが、一応、新聞を一部、前に出した。
「お、茅ヶ崎か。噂をするとやはり現れるもんだな」
「しずかちゃん、久しぶりだね。なんでいんの?」
「それはだな。私がこの部の顧問だからなのだよ。今ごろ気づいたようだな。覚えておきたまえ」
「ははは。そうだったんだ?」
「ところで茅ヶ崎、君は運動部に転部する気はあるか?」
「運動部? なにそれ、メンドクセ~。この学校の運動部なんざ、入ったって県大会すら行けねぇじゃん。つまらん」
「そこをなんとかするのが君じゃないか」
「そんなアツアツな青春ドラマ、真っ平ごめんで~す」
平塚先生が笑う。
「君らしいな。ん?」
平塚先生が、机の上にあるプリントを気にしている。それは『夏の合宿~勿来海岸』
という文字があり、その下には日程と参加者名も記されていた。
「君たちは部で合宿に行くのか? 初耳だぞ?」と、プリントを目の前に掲げる。
「あ!」と、雪ノ下が気まずそうに声を出す。
「すみません。最近色々なことがありすぎて、先生に報告し忘れていました……」
「七月三十日から三日間か。ちょうど教員研修がある。私は参加できないな」
「それは残念だなぁ~! しずかちゃんのお宝水着生写真、バッチリ撮影しようと思ってたのに。夏の海辺にたわわに実る熟れた女のエロス、いいじゃないですかぁ~。次の新聞に載せよう」
「生写真とか女のエロスとか、何だ! 猥褻すぎるぞ。君は教師をそんな目でしか見れないのか!」
「え? しずかちゃんて先生だったの? 変わり者の三年生だと思ってた」
「そこまで言うとさすがに怒るぞ」
「いや、だから、先生に見えないほど若いってことですよ~」
「そうか……、なんて騙されると思うなよ! そういう言い方されるのは比企谷で慣れているんだからな」
あはは、そうですか。でも先生、少し嬉しそうな顔しましたよ、ほんの一瞬。
なんかブツブツ言いながら先生が出て行った。その後の部室内は試験の話でもちきりになった。というのも、あと三日で試験だからだ。その翌々日からは夏休みとはいえ、俺も頭が痛かった。いくら雪ノ下ペーパーを手にしていても、見て読んだだけじゃ点数は上がらない。書いてあることに沿って勉強しないとダメだ。特に授業中は涎をたらして寝ていた俺にとっては。
例によって由比ヶ浜が目黒に数学を教えてもらっている。問題を出されても、シャープペンが鼻の下に挟まれたまま、文字を書く役目を果たしていない。う~ん、が~、ぐぅ~、うちぃ~、みたいな声が聞こえてくるだけだ。
「由比ヶ浜。その紙に、が~、とかぐぅ~、うちぃ~って書いてあるんだったらともかく、うるさい」
「じゃあヒッキーこれ解いてよ!」
由比ヶ浜が紙をつかんで俺に渡そうとする。
「数学だろ? 俺に解けるわけないだろ」
「じゃあ、だまってて!」
「目黒、由比ヶ浜にいきなり問題を解かせようとしても無駄だ。数学わからない俺だからよくわかる。お前みたいにできるやつなら問題を見て、どういう解きかたが可能なのか、脳内で記憶を参照するんだろうが、俺たちには参照するものがないんだからな。
実際、予備校の教師で数学なんて思考力じゃなくてパターン認識だと言っているヤツもいる。どれだけ解法のパターンを記憶しているかの勝負だと。
そのリソースが脳内にない由比ヶ浜は、ぐぅ~、とか、うちぃ~って言うだけなんだよ。基礎的なアプローチ法から示してやらないとダメだぞ。そう、中学の数学レベルから」
「へぇ~、そんだけわかってるのに、どうしてヒッキーって数学ダメなの?」
目黒が不思議そうに訊いてくる。
「嫌いだから。数学なんて要するに解法を覚えれば誰でも同じ解答に至るだろ。つまらん。その点、フレキシブルな独自の解答が許されるのが現国だ。実際には許されないがな。どっちがクリエイティブで高尚で素晴らしいか、俺は問いたい」
「確かに中学高校の数学なんてそんなレベルかもしれないけど、現代数学の最前線、つまりまだ整地されていない未踏の荒野みたいな分野では、新しい解法を創造している人たちもいるし、そのためには直感とかクリエイティビティが必要なんだな~。決まった答えなんてありえないし。だから、どっちが高尚とか素晴らしいとか言えないと思うな~」
やはり目黒は頭がいい。その向こうで雪ノ下と東雲が、合宿に持っていく物をリストにしていた。漏れ聞こえてきたのは、アウトドア用のテントを持っていけば、パラソルを借りる必要がないとか、それってウチにあるかな……、そんな内容だった。
さっきから俺たちの数学に関する会話を聞いている素振りはあるが、珍しくこういう議論に首を突っ込んでこない。自分が出るまでもなく、俺のドグマの粉砕には目黒で十分だとたかをくくっているのだろう。くやしい。確かに目黒によってイーブンに持ち込まれた。
「なんだかわからないけど、わたし、頑張る」
由比ヶ浜がペンを握ると、目黒が俺の助言に従って、基礎的な概念から説明し始めた。うん。これでよし。っていうか俺も一緒に聞きたいんだが……。でも、偉そうなこと言ってしまった手前、適当にPCで遊ぶことにした。俺の右隣では茅ヶ崎がまた寝ていた。こいつは試験は大丈夫なのか?
PCを適当に眺めていると、小町からメッセージが届いた。現実世界の小町ではなく、守護天使のほうだ。
『お兄ちゃん、いるよね』とGoogleの検索ウインドウに文字が現われたので、テキストエディタを立ち上げた。
『いるよ。どうした? 何か危険があるのか?』
『うん。あると思う。それほど危険じゃないとは思うけど……』
『何があるんだ?』
『隣りで寝ている人だよ』
『茅ヶ崎か』
『あと三〇分でケータイに着信。話の内容は簡単にいうと果たし状かな。相手は一三人、この前、ボコボコにされた連中。でさ、もし来なかったら、総武高やバイトしているコンビニを破壊したり、ゆっきーと結衣さんとお兄ちゃんの三人をバラすって脅される』
茅ヶ崎が数日消えたとき、集団で追い込みをかけていた連中がいたが、そいつらがリベンジするつもりらしい。学校やコンビニを襲撃したり、俺たちをバラすというのも、あの半グレの連中のことだから本当にやりかねない。
『それはヤバイな。結果はどうなるんだ?』
『今回も半グレ集団の負け。でも茅ヶ崎さんも相当ケガするよ。入院する。拳銃持ってる人が二人いたし』
なんだと? 拳銃だ? 信じられね~。拳銃持っているクセに一人に負けるのかよ。爆笑だな。しかし茅ヶ崎が勝つにしても、結局、また恨みを買うことになる。また同じことが起こるだろう。
悪因縁とは恐るべし。切っても切れそうもない。もっともそんなに簡単に悪因縁が切れると思うのはムシのいい話には違いないが。
『なんとかならないか?』
『う~ん。この前みたいにシミュレーションを送信しても、茅ヶ崎さんは行くと思う。相手の一三人も来ると思う。止められないよ』
俺は茅ヶ崎の背中をたたいて起こした。
「なんだよ」
眠そうに目をこする茅ヶ崎。俺は守護天使小町から聞いた話を説明した。それを部室にいる全員が聞いていた。
「かったるいな。あいつらまだ懲りねぇのかよ」
「ああいう奴らはしつこいに決まってるだろ。メンツもあるんじゃないのか?」
「三〇分後か? しかたない、行ってやっか」
「よく考えろ。そんなことしてもまた恨みを買うだけだ。同じことの繰り返しだ。それを断ち切るにはどうしたらいい」
「断ち切れないだろ。簡単に許される話じゃない」
「お前も大怪我をして入院するぞ。それでもいいのか」
「死なないだけマシだな」
そこに由比ヶ浜が入ってくる。半分懇願するような顔だ。
「茅ヶ崎君、絶対行っちゃダメだよ。やめて」
「行かないと学校ブチ壊しに来るんだろ? それにお前らも危ない。どうするっての?」
「警察? そうだ、警察に相談しようよ」
「今警察に相談しても意味がない。事件化しないと取り合ってもらえない。仮に相談しても警察の職質に、俺をバラそうとしてましたなんて言うと思うか?」
「今回ばっかりは、茅ヶ崎や相手の連中に小町を介入させても意味ないだろうな。困った。どうすりゃいい?」
どうしても名案が浮かばない。そのかたわら、ウォーミングアップでもするかのように、茅ヶ崎が指をポキポキと鳴らし始めた。
「残念だな、海に行ってお前らのエロい水着見れると思ったんだがな。入院するんだったら無理っぽい」
茅ヶ崎がニヤニヤしている。
女子四人はそんな場違いな冗談に反応せず無言だった。
「アホかよ。こんなときにのん気なこと言ってんな。運命は変えられるとか能天気なこと言うヤツがいるが、変えられない運命ってものもあるんだな」
「変えられない運命か。きっと俺はテロリストになったり、闇で裏の仕事を続ける運命だったんだろうな」
「それでいいのか?」
「仕方ないだろが。これも闇の世界からのお迎えだろ」
「バカなこと言わないでくれる?」
雪ノ下が会話に入ってきた。
「問題解決なんて簡単でしょ。
茅ヶ崎君が呼び出された場所に警察官と一緒に行けばいいだけの話よ。拳銃を持っているんだったらそれだけで即逮捕でしょ。言い逃れできない」
「あのな……。仮にそうしても問題の解決にはならない。また狙われるだけだ。俺が死ぬまでな」
「そう。だったら死ぬしかないわね」
雪ノ下が突き放したように冷たく言い放つ。
「ふっ。残念ながら、今回は死なないようだけどな」
茅ヶ崎がそういったとき、携帯に着信があった。三〇分が経過していた。出ると、やはり半グレ集団からだった。今すぐ来いと言われているようだった。
茅ヶ崎が立ち上がる。俺はどうしたらいいのかわからなかった。茅ヶ崎が行くと言い出したら、俺には力で止めることができない。何か策はないのか。
「終わらせてくるぜ」
「どうやって終わらせるつもりだ?」
「仕方がない。手加減しないで相手を全員ブチ殺してくる。これが運命なんだろ。徹底的にやってやるわ」
その声にはすでに揺ぎない信念のようなものが含まれていた。
「お前。それがどういうことなのか知っているんだろ!」
俺が立ち上がると、「やめて!」と由比ヶ浜も立ち上がる。
「一瞬、まともな生き方ができるのかと思ったが、勘違いだったようだ。アウトローの世界に戻ることにしたぜ。そういう運命だったんだよ。テロリストになったり、この社会を破壊したり。それに気づかせてくれたあいつらに感謝だな」
茅ヶ崎が歩き始める。
「それは違うぞ、茅ヶ崎! この社会を破壊したいんだったら内側から壊せ。外から暴力的な力を加えたって壊れないぞ。一時的に混乱するだけだ。壊したかったらできるだけ多くの人の心を変えるしかないんだ。それに気づけ!」
カバンを取って、ニコリと笑い、茅ヶ崎がドアを開けて出て行った。俺たちはその姿を見つめているしかなかった。
ダッと由比ヶ浜が走った。扉を抜けて茅ヶ崎を追いかける。俺も廊下に出た。そこには腕をつかまれている茅ヶ崎と、必死に引き止めている由比ヶ浜がいた。部室にいたみんなも出てきた。
「やめて、行かないで!」
「悪いけど、決めた。行くわ」
「ダメだよ! 行ったらもう終わりだよ!」
「終わりじゃない、これから始まるのさ」
二人を取り囲んでいる俺たちの真ん中で、茅ヶ崎が困った顔をする。その様子を東雲と目黒が腰に手を回しあって不安そうに見つめている。
こうなったら、小町に乱闘が行われる場所を聞いて、警察に通報するしかない。茅ヶ崎も検挙されるだろうが、もう、こうなったらそれしかない。
「バカなこといわないでよ!」と言いながら由比ヶ浜が腕を離さない。だが、茅ヶ崎の手が自分の腕をつかんでいる由比ヶ浜の手をつかみ、引き離していく。必死にそれに抗うが、力の差が歴然としている。
「由比ヶ浜、お前の相手をもっとしてやりたかったが、そうもいかないようだ。じゃあな」
そういって、茅ヶ崎は由比ヶ浜の手を離れ、歩いていった。残された俺たちは、力無く茫然としている由比ヶ浜を部室に戻して座らせた。
明後日の方向を見つめて座っている由比ヶ浜に、雪ノ下が紅茶を入れてきた。コトンと前に置いても、反応がない。
「結衣ちゃん、彼なら大丈夫よ」
そう言われて初めて「へ?」と不意を突かれたように反応をする。
「どうして大丈夫なんだ? 何か策はあるのか?」
意味がわからなかったので、隣に立っている雪ノ下に訊いた。
「あるわ。茅ヶ崎君に死んでもらいましょう。結局それしかないでしょ」
部室にいた全員が唖然とした。
「ゆきのん……」とかろうじて声を出したのは東雲だった。
由比ヶ浜も目黒も、俺も意味がわからなかった。
「そりゃあ、茅ヶ崎が奴らに殺されれば、問題はきれいに解決するが……。お前、本気で言っているのか?」
雪ノ下の発言が俺には信じられなかった。
「そうよ。本気も本気。茅ヶ崎君が死ねば、あの人たちの恨みも消える。それが一番でしょ」
微笑みながらそう言う雪ノ下を全員が口を開けて見つめていた。