由比ヶ浜の恋と勿来ヶ崎奇譚   作:taka2992

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比企谷小町は俺が狂ったと狼狽する

 

 ショッピングセンターに入ると、俺たちは別行動をとった。雪ノ下は什器とか小物を見に行き、俺は小町のアドバイスをかなえてくれる店を探した。

 それなりにファッション雑誌を読み漁っている小町の助言だったら、まあ、信じて問題ないだろう。昨晩、小町のウザイ講釈を数十分にわたって聞くことになった。

 

「あ~、お兄ちゃんもとうとう色気づいてきたかぁ~。流行りのファッションを聞いてくるなんてね~。その短パンとTシャツ姿じゃどうしょうもないもんね~。

 これから夏だから、やっぱり涼しげな恰好がいいんだけど、

 ……でもな~、お兄ちゃんのようなどのタイプとも判別不能な変人に合ったファッションというのも思いつかないなぁ、とりあえず、今、七分丈のパンツとデッキシューズが流行っているみたいだから、それにしたら?

 え? 七分丈のパンツがわからないって? よく町歩いているとさ~、くるぶしからふくらはぎにかけて足を露出している若者を見かけない?裾を折りたたんだりして。

 あれって以前は女性がスリムパンツでやってたんだけど、最近は男もやるようになったんだよね~。

 ……で、パンツもスリムなものにしないとダメだよ? ダボダボなパンツなんて、今じゃヒップホップ系のお兄さんしか着ないし。ジーンズにするんでもスリムタイプを選びなよ? わかった?

 パンツの色はカーキ色系統が無難かな~。で、デッキシューズはこういうの。この写真をそっちの携帯に送っといてあげる。この靴を裸足か、すっごく浅めの靴下をつけて履くのが流行り。お前ら石田純一かって小町なんか笑っちゃうんだけど~。

 それから、トップスというか上に着るもの。これは別にTシャツでもいいんだけど、違うものも欲しいよね。ポロシャツでも普通のボタンシャツでもどっちでもいいと思うよ。

 色はなんでもいいんじゃないかな? あ! ボタンシャツの場合はチェック柄だけはやめてね! お兄ちゃんが持っているやつも、もう着ちゃダメ! なんでって? それは慈悲深くて倫理的な小町の口からは言えないよ~。え? はっきり言えって? あ~、ちょっと控えめにいうとね、チェック柄の上はダサいという意見が定着しつつあるからだよ。

 まあ、上下と靴を揃えれば、なんとかなるんじゃない?

お兄ちゃんも高校生になったことだし、今年の夏は彼女ができるといいね~」

 

 小町の講釈の内容を反芻しながら、複数の店を回って一つずつアイテムをゲットしていった。

 俺がイメージする涼しい色といえば、薄青。だから薄青のポロシャツを一枚まず購入。次に、白い綿生地に薄青の横ストライプの入ったボタンシャツも買った。

 パンツは小町のいうとおり、カーキ色の七分丈。デッキシューズは紺色のものを買った。

それらを試着するたびに着替えていった。合計二万円弱。すると、ヨレヨレの短パンとTシャツ姿だった俺も、少しはマシに変身できたような気がする。紙の手提げ袋にはボタンシャツと元の服と草履が入っていた。ああ、めんどくせぇ~。

 

 待ち合わせ場所に行くと、すでに数個の手提げ袋を脇に置いて、雪ノ下がベンチに座っていた。俺の姿を認めると、一瞬、目をパチパチとさせた。

それって好印象というサインですよね? そうですよね?

 

「ずいぶんとマシになったじゃない。泥んこ遊びの小学生からゲームセンターで午後6時すぎまで遊び呆けて巡回の先生に見つかりしぼられてしょげ返っている中学生くらいには昇格したわね」

 

「たとえがややこしい! それから少しは句読点を打つことを考えような?」

 

「じゃあ、ナメコ茸からシメジ茸くらいに成長した……?」

 

「俺は菌類か! 密かに俺が昔比企谷菌と呼ばれていたことを一瞬で計算しただろ!」

 

「じゃあ、ショウジョウバエからギンバエに昇格?」

 

「いくら俺でもハエと言われたことはない! ハエにたかられているお前は何なの?」

 

「そうね。久しぶりに墓穴を掘ったわ。じゃあ、ミツバチからスズメバチに昇格、ということにしておきましょうか」

 

「なるほど。お前は花か。うまいな。……っていうか。お前こそ蜂だろうが。その傍若無人で女王蜂のような言い回し。さっきから刺されっぱなしなんだが」

 

「ということはあなたは働き蜂で私は女王蜂よね。自分を下僕と位置づける結論を自然に導くなんてさすがね。これで私も少しはポイントアップするのかしら」

 

「お前までポイント貯め始めたのかよ! もういい加減にしてください。買い物して疲れました……。

 ところで、七分丈のパンツが流行っているって知ってた? 小町が言ってたんだけど」

 

「七分丈のパンツだったらいくつか持っているけれど、あなたのがそれなの? 男子に流行っているなんて知らなかったに決まっているでしょ。あなたが着ていると、ツンツルテンなのかしらと疑ってしまうのだけれど」

 

「ツンツルテン?」

 

「昔の言葉で裾が短いことを言うのよ。成長が早い子供ののズボンなんかで、同じものを数年はいていると起こったり、サイズを適当に選ぶと丈が短かったりすること。

 一瞬、あなたの適当でいい加減な性格を考えると、後者だと思ったのだけれど、流行というものは追う人によっては誤解を招くようね。それに、その寂しげな足は石田純一の真似?」

 

「また石田純一かよ。寂しげじゃなくて涼しげと言ってくれ。ニコニコしながらひでぇこと言うよな。お前みたいなお嬢様に少しでも釣り合おうと努力したというのに。ちなみに石田純一の場合は革靴な」

 

「だから少しはマシになったと最初に言ったじゃない」

 

「慣れないことしたから喉が渇いた。ああいう店の店員と喋るのって緊張するのな。本当に客に似合っているかどうかではなく、売りたいだけで勧めてくるだろ。あいつら」

 

「店員がわずらわしいときは、話しかけるなオーラを出すのよ」

 

「さすがだな。俺は喉が渇いたんだが……」

 

「では、紅茶で喉を潤しましょう。すぐ近くに珍しくて美味しいお茶を飲ませてくれるところがあるのよ。今回はおごってあげる」

 

 雪ノ下がベンチから立ち上がって歩き始めた。ベンチには5個の紙袋が置きっぱだ。

 

「忘れ物しているぞ。お前、おれがかっこよく変身したもんだから、本当は動揺してたんだろ」

 

 雪ノ下が振り返る。ニコニコしている表情からすると、俺の指摘が的外れであったことがすぐにわかる。

 

「違うわよ。あなたが荷物を持ちたそうな顔をしていたから、そこに残しておいてあげただけよ。紅茶はそのご褒美」

 

「そうですか………」

 

「あれ~! 雪乃ちゃんじゃない!」

 

 突然、明るい声がした。この声はもちろんあの人だ。あの人以外にいない。いつでもどこでも重要な場面で華麗に登場する本物の女王蜂。俺がこの世で一番苦手で遭遇したくない人! 

 これは予期しておくべきだった。雪ノ下と買い物に行き、犬連れの由比ヶ浜と会い、そして次に起こることと言えば……。

 途中でアロハシャツの喧嘩というイベントが不意打ちで挿入されたので、つい忘れていた。早々にこの場所を辞去するべきだった!

 

 陽乃さんは、青いアースカラーの七分丈パンツとハイヒール姿。ニットのトップスの首にはネックレスが光っている。ずいぶんと動きやすそうだった。

 その陽乃さんが数人の仲間らしき男女から離れて近づいてきた。妹も俺の傍らで少し戸惑っている。

 

「姉さん……」

 

「雪乃ちゃん。こんなところで何しているの? あ、お友達? それとも……。そうかそうか~、高校に入ってすっごく明るくなったと思ったら、こういうことだったんだ。ふ~ん」

 

 明るくなった理由は他にもあるはずだ。さすがの陽乃さんでも想像もできないくらい、異常なエピソードが。

 俺は緊張した。昔の同じ状況では「彼氏じゃない」と言えた。実際にそうだったし。だが、今回のはどう言ったらいいのだ。おそらく、雪ノ下は口を濁すだろう。

 いや、俺を学校用の下僕で、今日は買い物につきあわせているとでも言いそうな雰囲気だ。事実、俺は荷物を持っている。そして、陽乃さんも「ふ~ん。そうなんだ」と納得してしまいそうだ。そんな家に生まれついた姉妹といえばその通りなのだから。

 

 ところが、雪ノ下は少し毅然とした態度で、

「彼は比企谷八幡君、学校の同級生で彼氏です」

と、確かに言った。

 

「ふ~ん。比企谷君ねぇ……」

 

 陽乃さんが近づき、俺をなめ回すように見る。その目つきには冷徹で分析的な光が宿っていた。

 ファッションチェンジしておいて良かった! 元のままだったらケラケラと笑われた挙句、「冗談でしょ」と言われてしまいそうだ。そして俺は一層陽乃さんが苦手になる。

 

「はじめまして、比企谷です」

 

「二人はいつから付き合ってるんですか~?」

 

「高校に入ったころからかしら」

 

「雪乃ちゃん、いいの? これがバレると一人暮らしさせてもらえないかも知れないよ」

 

 そうか、雪ノ下はこの頃からあの豪華なマンションでの一人暮らしを狙っていたのか。

 

「黙っていてくれると助かるのだけれど……」

 

「どうしようかな~!」

 

「姉さん」

 

「一応、黙っておくことにしておいてあげるけど。雪乃ちゃんだったらトンネル効果(注1)って知ってるでしょ? 私は喋らなくても、勝手に情報が頭の中から漏れ出しちゃうこともあるかも。この世のすべてはあいまいな確率波(注2)でしか表現できないことくらい知ってるでしょ?」

 

 そういうと陽乃さんはフフフフフと笑いだした。あら~、やっぱりこっちの世界でも性格悪いわ~。陽乃さんも理系だし、雪ノ下が知っている小難しいことは、同じく知っているようだ。

 

「勝手にしてくれていいわ。私たちはもう行くから」

 

「そう。あんまり遅くならないようにね~。遅くなればなるほど、今日はマズイ状況になるような気がするからね~」

 

 珍しく雪ノ下の眉毛にシワが寄っていた。俺の方に向き直ると「行きましょ」と歩き出した。

 

「比企谷くん! 今度お茶しようね~!」

 

 あたりに響く弾けるような声をかけられた。俺は一応、陽乃さんに向かって軽く一礼し、雪ノ下の後に続いた。

 

 紅茶を飲んでいるときの彼女は終始浮かない顔をしていた。ふぅ~とため息をついたり、明後日の方向をぼんやりと眺めていた。

 

「わたしたち別れさせられるかもしれない」

 

 風鈴が、静寂の中で…リン…と響くような声だった。俺は頭を目一杯働かせて色々なことを考えた。

 

「まあ、そうなったとしても、学校で毎日会えるだろ。部活始めるし。今までとあんまり変わらないんじゃないの?」

 

「それもそうね……。由比ヶ浜さんは入ってくれるかしら」

 

「俺のカンだと入るな」

 

「そう……」

 

 家のことが気になっているらしく、上の空だった。

 時計を見ると午後5時近い。荷物も多いことだし、雪ノ下はタクシーを使って帰るという。途中まで俺も便乗させてもらった。

 

  ★   ★   ★

 

 

 家に帰ってリビングに入ると、小町がソファでゲームをしていた。俺の姿を見て、「ほぉ~」と感心する。

 

「少しはマシになったね。今までが泥んこ遊びしている小学生みたいだったもんね」

 

「お前もかよ!」

 

「何が?」

 

「いや、なんでもない。そうだ親父のやつは出張に行っているんだっけ?」

 

「そうだよ。当分帰ってこないみたい。お母さんはもうすぐ買い物から帰ってくるよ」

 

「親を働かせて稼がせてエサを買出しに行かせて作らせて喰らってお前はいいご身分だな」

 

「お兄ちゃんだって優雅に買い物してカッコつけて色気づいて彼女作ろうとしているじゃん?」

 

「お前にはまだ言ってなかったが、彼女だったらいる」

 

 突然、小町がグスングスンと泣きまねを始めた。

 

「お兄ちゃん。大丈夫だよ。大人になってちゃんと就職すれば、必ず誰かいい人見つかるよ。それまで脳内彼女で我慢するつもりなんでしょ。ふぅ~。とうとうお兄ちゃんがあっちの世界に行っちゃった~。服買いたいっていうからこっちの世界に這い上がってきたと思っていたのに~」

 

「バカ言ってろや」

 

 そんな会話をしたあと、俺は自分の部屋で着ていなかったボタンシャツを出してみた。ポロシャツを脱いで着替えてみると、これもなかなかいい。だが、今年はこの2パターンしか服がないということにならないか? 少なくともあの女王蜂の前に出るときの服としては。

 物欲とはこうやってどんどん膨張していくのか。困ったものだ。キリがない。俺は強引に物欲を忘れようとして、読みかけの本を開いた。

 母親が帰宅して食事ができてきそうな時間になると、目が疲れたのでベッドの上でノビをした。すると、携帯の着信音が聞こえた。この音はメールだ。

 

『比企谷君、助けて。家出しました。あなたのせいよ。これからそっちに行くから泊めて。そこしか行くところがないの』

 

 数分、この簡単な文面を見つめた。雪ノ下の予言は当たったようだ。折り返して電話してみてもつながらない。家族からの着信を拒否するために電源を切っているのかもしれない。

 

 急に来るっていっても……。

 

 そういえば彼女は俺の家に来たことがある。もちろんあっちの世界での話だが。場所は知っているはずだ。

 20分たつと玄関の呼び鈴が鳴った。俺は階段を駆け下りてドアを開けた。そこには、昼間と同じ恰好をした雪ノ下が、大きなキャリーバッグを引いて立っていた。しかし、特に表情は険しくなく、落ち着いていた。

 

「どうした? 事情はだいたいわかるが」

 

「わかっているんだったら聞かないで。想像の通りよ。あのあと母親と大喧嘩になって、荷物まとめて飛び出してきたの」

 

 いきなり女子高生が家出してきたら俺の家族だって戸惑う。しかし、こうなったらすべてを話して匿うしかない。さしあたって彼女をどこに通すか。俺の部屋? ってのもまずいような気がする。

 

「まあ、あがれよ」

 

「ありがとう。お邪魔します」

 

「誰か来たの? お兄ちゃん」

 

 小町がリビングから廊下に出てきた。一瞬俺を見たあと、そこに見慣れない人がいるので固まる。しかも……。

 

「え? そのきれいな人誰? 友達?」

 

「そうだよ」

 

「おひさし……。じゃなくて、はじめまして。妹さんの小町さんでしょ? 彼から名前は聞いてました」 

 

「……はあ、…はじめまして」

 

 小町がブルブルと震えだした。手に持っていた雑誌やDVDのパッケージをバタンと床に落とす。DVDが裸でこぼれだしちゃったじゃないかよ!

 

「え? えええ~! お母さん! お兄ちゃんが頭おかしくなっちゃったよ~! 狂っちゃった!」

 

「お前な、俺の頭がおかしくなることと、この状況にどういう関係があるんだ」

 

「だって、こんなことありえないもん。夢を見ているような」

 

「だったらお前の頭がおかしくなったんだろ」

 

「二人はどんな関係?」

 

「それは……」

 

「お兄さんの彼女です」

 

「ガッビーン!!」

 

 怪異にでも襲われたように小町が尻餅をついて、驚愕の表情に震える。少し大げさだろが。

 

「あの~、何か兄に弱みでも握られて脅迫されていませんか? 大丈夫ですか?」

 

「ふふふ。弱みだったら私のほうが握っているかもしれないくらい。大丈夫ですよ」

 

 小町が立ち上がってリビングへ逃げていった。さて、どうするか。

 

 直後、リビングのテーブルに俺と雪ノ下、向かいに母親と小町が座っていた。およその経緯を説明すると、緊張気味の表情の母親が、

 

「うちとしては息子の友達を泊めることは問題ないけど、雪ノ下さんの家の許可がないのが少し問題よね」

 

と、ため息をつく。

 

「ご迷惑かけてすみません。うちは過保護というか、過干渉なので。これくらいのことしないとわかってもらえなくて……。しばらくしたら家の者とちゃんと話します」

 

「そう。でも、息子の友達といってもあなたは女性だし、高校生だし、同じ部屋に泊めることは親としてもできない……。だから、小町の部屋ならいいでしょう。小町、いいわね」

 

「もちろん、いいよ」

 

 緊急事態を楽しんでいるかのうように小町が答える。

 

「じゃあ、布団とかあとで持っていくから。はあ~、お父さんがいなくて良かったわね……」

 

「お父さんがいたら、息子よ、よくやった! 役満どころか九連宝燈(チューレンポートー)引いた! なんて大騒ぎしながら酒飲み始めるかも。お兄ちゃんにこんな状況が来るなんて想像もしてないよ、きっと」

 

「チューレンポートーって何?」

 

 奇怪な言葉に雪ノ下が反応した。

 

「マージャン用語。滅多に完成することのない伝説の役。これを上がると死ぬと言われている。俺も小町も実際のマージャンなんてやったことないけど、ゲームでさんざん対戦しているからな」

 

「少し大げさです。とりあえず、比企谷君のお母さん、すみませんが、しばらくお世話になります。食事の支度はしますので」

 

「気を使ってもらわなくても大丈夫よ」

 

「雪ノ下の作る食事は美味いよ。任せてみたら?」

 

「へぇ。もうそこまで行っているのかぁ~」

 

 小町がニヤケ顔でそういうと、俺の母親の表情が硬くなった。親としてはこの状況が心配なのに違いない。

 夕食はほとんどできていたので、そのまま4人で食べた。そのあと、雪ノ下は俺の部屋に落ち着いた。といっても寝るまでの間だが。

 

「今頃探しているんだろ?」

 

「おそらく。姉さんに比企谷君のことは知られているから、学校に問い合わせたりして、この家を突き止めるのも時間の問題かしらね」

 

「そうなったらどうする?」

 

「そのときはそのときよ。あなたの家族にこれ以上の迷惑はかけないわ。でも小町さんには迷惑よね。この状況は」

 

「あいつはこういうの好きだから大丈夫だと思うぞ。あっちの世界でもお前のこと慕ってたみたいだし。明日は日曜だからいいとして、月曜はどうすんの?」

 

「一応、制服とか、教科書とか着替えとか、必要なものは持ってきた」

 

 そこで、俺は部屋のドアの向こうに人の気配を感じた。

 

「おい、小町、いるんだろ? 入ってこいよ」

 

 ドアが開く。すると、ティーカップを載せたトレイを持っていた。

 

「立ち聞きとは悪いクセだな」

 

「えへへ。ごめんなさい。ついつい。邪魔したら悪いかとも思って」

 

「小町さん、ごめんなさいね。突然押しかけてきて」

 

 小町が、雪ノ下の座る絨毯の上にティーカップを並べる。

 

「ああ、気にしないでください。ところで、あっちの世界って何?」

 

 これも聞かれていたか。一瞬動揺した。しかし、本当のことを言っても理解できないに違いない。

 

「そんなこと言ったっけ?」と、俺はとぼけた。

 

「まあ、いいや、小町はまだ狐つき? あれ? 狐につかまれる? ん? 狐につかれる? 狐につられる? 狐に………わからなくなっちゃったよ、お兄ちゃん!」

 

 雪ノ下がクスクスと笑う。

 

「それを言うなら『狐につままれる』じゃないかしらね」

 

「そう! それ! さっき、彼女です、って言ってたけど本当なんですか」

 

「本当よ」

 

「いつから? どうやってこんな引きこもりみたいな兄と知り合ったんでしょう」

 

「そうね。高校に入ってからかしらね。正確には少し違うのだけれど」

 

「う~ん、なんか小町の知らない事情がありそうな二人に見えますねぇ~」

 

「そんなこと知らんでいい!」

 

「小町さん、そこらへんのこと詳しく知りたかったら、いずれ説明してあげるから。別に隠すことは何もないのよ」

 

「わかりました。こんな兄ですけど、よろしくお願いします」

 

「突然、大人ぶったこと言うなよ!」

 

 その夜。雪ノ下は母親の言うとおり小町の部屋で寝た。今日は色々なことがあった。由比ヶ浜を部活に勧誘したり、喧嘩を見たり、服を探し回ったり、陽乃さんに襲撃されたり、家出娘をかくまったり。

 

 疲れた……。

 

 俺は、午前零時を回ったところで睡魔に襲われ、電気を消して寝入ってしまった。いつもの週末なら午前2時3時まで起きているのに。

 

 

 ピシャッと頬を叩かれた。

 

 

 眠りから覚めると、俺の上に誰かが乗り、覆いかぶさるように顔を覗き込んでいた。

 

 ヤバイ! これは金縛りか? 上に乗っているのは誰の霊? 金縛りは疲れたときに起こりやすいと聞いたことがある。これがそうなのだろうか……。

 

「人生相談があるの」

 

 ……そう聞こえた。そのあと、押し殺した笑い声が続いた。

 

 

 

 

 




注1)
素粒子が壁をすり抜けるような振る舞いをすること。

注2)
素粒子が存在している場所を確率で表現する物理学の用語。
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