最初は微笑んでいたが、俺がコーラを十秒間噴き出すのを見ると、雪ノ下の顔が目の前で風船でも破裂したかのような表情に変わった。
「驚いた。あなたがあの有名なマーライオンだったとは知らなかった。念のために教えてあげるけれど、ここはシンガポールじゃないのよ」
「驚いたのはこっちだ。おまえら、そんな話してんのか。二人で結託して俺をからかってんな?」
「からかう?」
身を乗り出すようにして彼女が不思議そうな顔をする。
「東雲の発言には続きがあること、知っているよな?」
「知っているけれど。何かやましいことがない限り、マーライオンに変身するなんてありえないはずよ」
「やましくない。マスコミの手法みたいに話の一部だけ取り出されたから、一瞬おまえが誤解しているのかと思っただけだよ」
「話だったら全部聞いたわ。あなたのことは好きだけど、私のことがもっと好きだって言って、緊張をほぐしたって」
「だったら何もやましいことないじゃん。要するに東雲は俺をLIKEしているんだろ? LOVEじゃなくて。そして、東雲はおまえをもっとLIKEしている」
「そういうことになるわね。でも、志乃ちゃんが『私ヒッキーのこと好きだよ』って言ったときに、あなたはすごくうろたえていたって言ってた。想像したらおかしくって」
雪ノ下が口に手を当てて笑いをこらえている。
「当然じゃん。ついこの間も、東雲に目を奪われていたことをおまえに告白して怒られたばかりだし。好きだなんて言われたら困る」
「私は怒った記憶はないけれど。まあ、そういうことにしてもいいわ」
「何か誤解している」
「なにが?」
「俺がうろたえたのは、やましいからじゃない。つまり、俺が東雲に浮気心があったからうろたえたんじゃない」
「じゃあ、どうして?」
彼女が両ひざを俺のひざにくっつけるようにして、こちらを向く。
「おまえとの関係が壊れるのを怖れたから動揺したんだよ」
言い終ったところで、俺は誘導されたような気がした。隠していた悪事がばれて弁解している子供のような気分だった。悪事など何もしていないのに。
「私は……」
雪ノ下が何かを言おうとしたとき、邪魔が入った。
会話に熱中して花火の音が聞こえていなかったが、気がつけばドドンドドドドドドンという破裂音が聞こえ、その合い間に、小町の呼び声が聞こえてきたのだ。
「お兄ちゃ~~ん! ゆきねぇ~!」
小町が浴衣なので走りにくそうにしながら近づき、ベンチに座っている俺たちの前で急ブレーキをかける。
「どうした?」
雪ノ下も小町のほうを向く。すると、「結衣さんがおかしくなっちゃった」と、荒い息の中でかろうじて言葉を吐く。
「なんだって? どう変になったんだ?」
「フェンスを乗り越えて、海に入ろうとしたんだよ。驚いたから、みんなで止めて……、そしたら、結衣さんブルブル震えて、幽霊がいたって……」
ドドドドドドドドッッドドド~ン。バリバリバリバリ。
花火大会ラストを飾るクライマックスが、ちょうどいま、盛大に打ちあがっていた。俺たち三人も照明弾に照らされたように光を浴びた。小町の顔がいくぶんか青ざめているのが見えた。
少しあとに、観客たちの歓声や拍手が聞こえてきた。
それにしても、また由比ヶ浜に異変かよ。どうなっているんだ?
「戻りましょう」と雪ノ下が立ち上がり、早足で歩き始める。俺も小町もそれに続く。
敷かれたシートに戻ると、由比ヶ浜が足を崩して座り、その左右で目黒と東雲が由比ヶ浜の背中をさすったり、手をもんだりしていた。由比ヶ浜はうつむいている。
「大丈夫? どうしたの?」
雪ノ下の声に顔を上げる由比ヶ浜。だが、花火が終わって暗くなってしまったので、顔色や表情があまり見えない。雪ノ下が由比ヶ浜の前に座る。
「あ、ゆきのん。私、幽霊を見たんだよ。花火を見ていたら後ろから声をかけられて、トントンって肩を叩かれて振り向くと、女の子がいて……。
よく見るとゆきのんにそっくりだった。でも浴衣姿じゃないから変だなって思っていたら、一緒に来てっていうの。それで、立ち上がってついていったら、その女の子が海の中に入っていったんだよ……」
「私に似ていたの?」
「そう。髪の毛も長くて、でも今日はゆきのんは浴衣だし髪型もちがうでしょ。だから別人だってわかったけど、なんかついて行きたくなって……」
「ついて行きたくなったのはどうして?」
「わからない……。そうしないといけないような気がして…その子の顔を見たら、何も考えられなくなっちゃって」
「そう。気分が悪くなったの?」
「幽霊だったんだって気がついたら少し……。怖くなったから。でも、もう大丈夫だよ。この前の感じとは違うし」
雪ノ下が東雲と目黒に質問する。
「あなたたちはその女の子を見たの?」
二人揃って首を振る。目黒が当時の状況を説明する。
「見えなかった。結衣ちゃんが立ち上がって海のほうへ歩いて行ったとき、一人だったよ。フラフラ歩いて行ったから変だなって思って、私もついて行ったら……、フェンスを乗り越えようとするから……、志乃ちゃんと小町ちゃんと三人で体を押さえたんだよ」
依然として東雲が由比ヶ浜の背中を撫でている。
話を聞いて俺も雪ノ下も考え込んでしまった。このまえも突然気を失い、何者かのメッセージを伝える媒体になったり、いまも幽霊に引かれて海に入ろうとしたり……。
由比ヶ浜は霊感体質なんだろうか。そんなふうには見えないのだが。しかし、一連の勿来海岸での溺死事件と、俺たちを結びつけるものの中心に由比ヶ浜がいるような気がしてならない。いや、中心というか、カギというか、メディエーターというか……。何がしかの重要な役割を果たしている。
「とりあえず、帰りましょうか。花火大会も終わったことだし」
周囲を見回しながら雪ノ下がいう。あたりはもう、人気がほとんどなくなっていた。芝生の海側には歩道があって、そこをゾロゾロ人が歩いている。
シートをたたんでバッグに収納し、俺の肩にかけた。歩き始めると、由比ヶ浜の足取りはしっかりとしていた。大丈夫そうだ。だが、雪ノ下、東雲、目黒は念のために由比ヶ浜を家まで送っていくという。
駅前で四人と別れて、俺と小町は家電量販店に行った。買う必要のあるものを思い出したからだ。それは携帯の防水ケース。これを首からぶら下げておけば、海に入っても守護天使と会話ができる。
携帯コーナーにいくと、目的の物はすぐに見つかった。さっそく購入し、小町と二人で帰途についた。
★ ★ ★
翌日の日曜日は予定が何もなかった。今日は親がいるので午後からでも図書館に行って暇つぶしをするつもりだ。
小町は夏休みの宿題や課題に取り組んでいる。部屋に閉じこもって出てこない。
午前中から天気が荒れてきていた。台風が関東に接近しているからだ。窓から見える空には雲の塊がすごい速さで移動している。
昨日の出来事を思い出しながら、しばらくぼんやりする。
雪ノ下に似た幽霊か……。
もしかすると溺死した皆川美由紀の霊? その名前を雪ノ下は新聞のコピーで読んだ。知っていたら何か言うはずだ。
そうだ。由比ヶ浜、東雲、目黒も、それぞれ武田真結、松下佳乃、藤木めぐという名前に心当たりがないのだろうか。
俺は東雲と由比ヶ浜に、対応する名前を知っているかどうかを問うだけの簡単なメールを送った。だが、目黒のメアドだけは知らなかったので、送れない。どちらかに聞けばいいだろう。
天気が悪化しそうな雰囲気なので、二人とも家にいたようだ。すぐに返事が来た。
東雲も由比ヶ浜も、その名前を知らないという。
「でもどうしてそんな名前を知っているか聞くの?」みたいな質問を、二人とも発していた。俺は「気にしないでくれ」と返信した。
由比ヶ浜の返信にだけは、「目黒にメールして藤木めぐという名前に心当たりがあるかどうか聞いてくれ」とつけ加えた。
すると、これもまた数分で返事が来た。その内容は、やはり目黒も知らないという。
ふと思いついた可能性が消えた。
そのあと、気になったのは昨日の雪ノ下の「私は……」の後の言葉だった。小町が駆けてきたので途切れてしまったのだが。
雪ノ下はここ数日、実家に帰っているという。ということは、合宿まで会うことができない。
俺は、二人の小町におどかされ続けていた。「きれいなお花には水をちゃんとあげないと枯れちゃうんだよ」とか、「いつまでもつかな~」みたいな言葉で。この脅しが非常に効いている。最近、不安がつのってきている。
雪ノ下は小町や姉の前で俺を彼氏だと言ってくれた。俺も雪ノ下を彼女だと思っている。しかし、そうなんだろうか。
というのも、俺たちはそんなに頻繁に会わないからだ。学校では毎日会っているが、学校の外では、週に数回しか会わない。まったく会わない週もある。電話やメールのやりとりも少ない。それが普通なのだろうか。そこらへんの彼氏彼女の関係にある男女は、どうしているのだろう。
この疑問の答えを知るには誰かに聞くのが一番だが、聞ける人といえば……。
男ではまずいない。陽乃さんか? でもあの人にこんな質問をすると、解くのが面倒臭い誤解を与えそうだ。
由比ヶ浜と目黒は? この二人の答えはなんとなく想像できる。おそらく、「好きになった人とだったら毎日会って、ずっと一緒にいたいよ~!」とか言うはずだ。
東雲は? 彼女は、ついこのまえ、彼氏を当分作る気はない、と言っていた。それに、男性経験は豊富な方だし、雪ノ下に一番近い。俺のことも観察しているようなところがある。
東雲に電話してみることにした。ちょっと気が引けるが、思い切ってかけてみると、すぐに出た。
「あ、ヒッキー? 珍しいね~、私に電話なんて」
「そうだよな。ちょっと聞きたいことがあって」
「なぁに? 例の名前のこと? それだったら知らないよ~」
「それじゃない。なんか聞くの恥ずかしいんだが……」
「言ってごらん? 聞いてあげるよ?」
「おまえは男と付き合ったことあるんだよな?」
「付き合い方にも色々あるけど……」
少し詰まっている。東雲は援交の経験もあるし、どう答えたらいいのか迷っているのだろう。
「彼氏として男と付き合ったことだよ」
「あるよ? それが?」
「そのときって、彼氏と頻繁に会っていたのか? 毎日のように」
「どうしてそんなこと聞くの? やっぱりヒッキーって一味違う人だね。面白い」
「俺の面白さというか変人ぶりなところはこのさい、どうでもいいじゃん」
「う~ん。毎日会っていたかな~」
「電話とかメールもたくさん?」
「うん。してたと思うよ」
「そうか」
「私って依存症なところがあるからね~。かまってくれないと耐えられないから」
「なるほど」
「でも、相手はそれが重いと感じたみたい。嫌われちゃった。何回も……」
「おまえを嫌いになるのか? 信じられないな」
「どうして?」
いや、おまえ美人だから、とは言えなかった。質問に答えないでいると、
「そんなこと聞いてくるのって、どうしてか気になるな~?」
俺がまだ無言でいると、「わかった! ゆきのんとの仲を悩んじゃってる~? 質問の内容からすると。だってヒッキーってあんまりゆきのん誘ってどっか行こうとか言わないもんね」
と、図星を突かれてしまった。しかたなく、俺は「そうだ」と答えた。
「う~ん。そのことに関しては私も言えることがあるな~」
遠い空を眺めながらそう言う東雲の顔が思い浮かんだ。
「どんなこと?」
俺の質問に意外な言葉が返ってきた。
「あ、ヒッキーって今日ヒマ?」
「一応……」
「じゃあ、会ってそのこと話しようよ。じっくりと」
「会う? どうして会うんだ?」
「ヒッキーと会いたいから。デートしようよ!」
ドッキンと全身が脈打った。こんな感じで東雲にはやられっ放しだ。今の言葉の真意がわからず、俺はしどろもどろになってしまった。
「おまえ……、デート……とはどういうつもりだ…? また変なこと言うなよ!」
「あはは。そうだね。ヒッキーって面白いから、会って話すの楽しそうなんだもん。今日、私、時間あるし。デートっていう言葉を軽く使っちゃったけど、やっぱり不適切だったかもね。友達として会おうよ」
友達……。俺はその言葉をかみしめていた。もしかすると、俺には彼女がいるだけで、友達はいなかったのではないだろうか? 考えてしまったおかげで俺の口からは言葉が出てこなかった。
「ヒッキー? 聞いてる? 私たちって友達じゃないの? そう思っているのは私だけ? だったら悲しいな……」
「おまえ、言葉を選べよ。女性経験の少ない男にデートとか言うな」
「また~! 女性経験少なくたって、すっごい女性と付き合っているくせに~! 私を女として見ているとしか思えないよね。そのこだわり方。このまえもそうだし。あ、念のために言っておくけど、二人で会っても、私、ヒッキーとエッチなこと絶対しないよ。ゆきのん裏切れないから」
さすが東雲だった。サラリとこういうことを言ってのける。俺の不安があっという間に消えていく。
「わかった! それだけ言われれば俺でもわかる。友達だよな。友達だったら気軽に会うのはあたりまえだな。午後二時に駅前でいいか?」
「いいよ。行くから。それじゃ、あとでね!」
電話が切れてから、しばらく携帯を見つめていた。東雲と二人で会う? 本当かよ。駅前を指定してしまったけど、人に見られたらどうする?
いや、それは意識しすぎだ。東雲とは友人関係だ……。
いそいそと出かける準備を小町に見られなかったのは幸いだった。窓から空を見ると、どんよりと曇っている。傘は必要ないだろう。俺は手ぶらが好きだ。
駅前につくと、ちょうど東雲も向こうから歩いてきて、手を振る。俺も手を振り返す。
今日はショートパンツじゃなく、白いスリムパンツ姿。ほっとする。上はオレンジ色のボタンシャツ。その裾をおへそのあたりで結んでいる。腕には小型の黄色いバッグが下がっていた。
「ヒッキー、無理やり引っ張り出してごめんね~! 迷惑だったかな」
ふんわりとした雰囲気でニコリとされる。どうしてもドキドキしてしまう。
「いや、そんなことはないけど。俺もヒマだったし」
しばし並んで歩く。ちょっと離れたところにあるコーヒーショップに行こうと思った。駅前だと誰かに見られるかもしれないので。っていうか、そんなこと気にするのもおかしいが。やっぱりこれは、なんというか、デート気分だった。
フロントでアイスコーヒーをもらってカウンター席につくと、東雲はバッグをテーブルの上に置き、俺のほうへ体を向けた。そのとたん、富士山の裾野に該当するなだからな傾斜が見えた……。
が……、すでに東雲には引導を渡されているので、ショッピングモールみたいに般若心経を唱える必要はなく、落ち着いていた。
「やっぱりヒッキーとゆきのんて、淡白? 特にヒッキーのほうが?」
いきなり電話で話していたことを切り出してきた。でも、それを話に来たのだから。
「そう見えるよな? おまえにも」
「見えるよ。学校じゃベタベタいちゃいちゃしないのは普通だけど、学校終わったら普通のカップルって、思い切りくっつくよね」
「やっぱりそうか。妹からは『綺麗なお花には水をあげないと枯れちゃうんだよ』っていうようなこと、散々言われているんだ」
「小町ちゃん? すごいこと言うんだね。普通はその通りだよ」
俺はコーヒーにガムシロップを入れた。東雲は何も入れないまま、ストローで何回かかき回して吸った。コーヒーがストローを上がっていき、小ぶりで形のいい口が離れると、それが下がっていった。
「ふむふむ」
「だって女って、やっぱり好きな人には、愛してるって何回も言われたいんだよ。できればハグしてもらって」
「また欧米かよ」
「ふふふ、欧米か! でしょ?」
「やっぱりそうすべきなの?俺も? 俺が? 俺でも?」
東雲の笑顔がさらに強くなった。クスッと息を吐いて笑いをこらえている。
「確かにヒッキーがそういうことするの想像できないよね~」
「やっぱそうだろ?」
「私、ゆきのんがヒッキーに気を使っているのわかるよ。このまえだって、海に行く車に乗る人を決めるとき、ヒッキーをまず除外して、自分も続いたでしょ? あれってちゃんと考えていたんだなって思った」
「あれは成り行きじゃないのかな」
「まさか~。ちゃんとそういうことわかってあげないと、枯れちゃうよ。ゆきのん」
東雲がコーヒーの入ったグラスを手にとって揺らす。カラカラと細かい音がした。
「おまえまで、そういうことを言うか」
「でも、ゆきのんもちょっと変わっていると思う。あの人、たぶんベタベタされるの嫌いかも」
「ふむふむ」
「ベタベタされるのが嫌いというよりも、自分の時間を持っていたい人なんじゃないかな~」
「なるほど。まったく俺みたいだな」
「ゆきのんて難しい本読んでいたり、興味のあることに打ち込む時間を大切にしているよね。あの人って、たぶんベタベタしてくる男とは付き合えないような気がする。だから、ヒッキーがちょうどいいのかも」
「それは言えてるな。俺も一人の時間が必要だからな」
「似たもの同士なんだよ、きっと。私ね、ゆきのんが好きで、もっと仲良くなりたいと思うんだけど、そのへんで跳ね返されているような気がするの」
「おまえ、依存癖があるんだよな。その好きってのはLIKEなのか? LOVEなのか?」
「面白い聞き方するね。自分でもよくわからない。私レズじゃないから、LOVEってことはないと思うけど」
「ははは、そうか」
「私、ゆきのんに依存しちゃっているのかな。援助交際なんてしているのをヒッキーに見つかって、ゆきのんたちに助けてもらったから。恩人だし」
「依存か。おまえ、彼氏作る気ないのか?」
「なんかそういう気にならないな……」
「それは雪ノ下に依存しているから?」
「そうかもしれない」
ここで東雲のふんわりした微笑みが消えた。
「よくないね……」
ポツリと東雲が消えそうな声で言った。
「だから、ヒッキーともこうして話せると嬉しいんだけど、あんまり仲良くしていると誤解されるよね」
「そうだな」
目の前のコップの中で、浮かんでいる氷が小さくなっていた。俺はストローでかき回して甘いコーヒーを吸った。
「私、友達少ないから。はっきり言って、ゆきのんと出会っていなかったり、あの部に入らなかったら、友達いなかったかも……」
意外だった。人あたりがよくて、思っていることを簡単に表現できそうな性格をしている東雲が、友達いなかったかも、と告白するとは。
「そうは見えないな」
「昔から腹を割ってこんなこと話せる友達がいたら、援交なんてしてないよ。ゆきのんたちに友達だって認めてもらえて、私、本当に救われたもん」
東雲がハッと気がついた表情をする。
「ごめん、私のことばっかり喋っちゃってるね。今日はヒッキーとゆきのんについて話する予定だったよね」
「それについては、東雲の意見を聞けてよかった。雪ノ下もベタベタするの嫌いで、一人の時間を大切にしているんだろ? だったら俺と同じじゃん、って思った。俺もさ、ひっきりなしに電話かかってきたり、毎日どっか行こうよ、みたいにベタベタされるの好きじゃないから」
「やっぱり私じゃヒッキーと付き合うのは無理だな~」
「何言ってんの?」
「ヒッキーの性格については見ていればわかるよ。それに、ヒッキーたち二人って、切っても切れない縁で結ばれているよ。それも見ているとわかる。二人揃って宇宙人だよね」
東雲の表情に微笑みが戻った。
「あ、おまえ、ショッピングモールで会話した内容、言ったろ。雪ノ下に。ヒッキーのことは好きだけど、ゆきのんのことはもっと好きってやつ」
「あははは。言った言った! それが原因で何かあったの?」
「特にはないけど……。チクチクいじめられた」
「ウケる。面白いね~。昨日の花火大会のときでしょ」
「そうなんだよ。だから今日の会話のことは言うな」
「でも秘密作るのいやだなぁ」
「じゃあ、今日、俺が悩んでいて、それをおまえに相談したことは俺が直接あいつに言う。それでいいな?」
「うん。いいよ。でもゆきのんは海に行くまで実家にいて、会えないみたいなこと言ってたよ」
「じゃあ、海で言うよ」
「海といえば、結衣ちゃんは大丈夫なのかな~。最近調子が悪かったり、幽霊を見たって言ったりして、ちょっと心配」
実は、もっと心配なことがあった。何かに俺たちが呼ばれていること。呼んでいるのは、もしかすると溺死した人たちかもしれない。俺はそれを東雲に言うかどうか迷った。言わないことが申し訳ないような気がしたからだ。しかし、言うとなると雪ノ下に相談してからのほうが良さそうだ。
「由比ヶ浜には海に行くまでに何回か連絡して、体調とか聞いてみてくれ」
「わかった」
「余計なことかもしれないけど、おまえ彼氏作ったほうがいいと思うぞ」
「どうして? ゆきのんと私とか、めぐみちゃんとか、結衣ちゃんが仲良くしているのが妬けるとか?」
首をかしげて、東雲が垂れた髪の毛を両手にはさむように撫でている。
「そんなことあるわけないだろ? おまえは男がいるほうが自然な感じがするだけだよ」
「そう? 自分じゃわからないな」
そういって東雲がしばらく黙り込んだ。そして、微笑みが消えた顔を俺に向けた。
「ヒッキー約束してくれる?」
「内容がわからない約束はしない」
「らしいね。じゃあ、まず最初の約束は、これから私が言うことは誰にも言わないって。ゆきのんにもだよ?」
「おまえの言ったことを秘密にするだけが約束なら、できると思うよ」
「なら言うね……。万が一だよ? 絶対そんなことないと思うけど、もし、ゆきのんとヒッキーが別れることがあったら。私と付き合ってくれない?」
東雲は何回俺をドキドキさせたら気が済むのか。思わず俺は顔筋が全部吹っ飛んだように表情を失った。唖然として口を開け、東雲を見つめていた。
突然、わけのわからない言葉を吐いた小さな口にも、その上の鼻も目もまゆげもクエスチョンマークを付けて問いかけていた。ふんわりと。
「何を言い出すんだ? 俺と雪ノ下が別れることはない、って確信しているなら、そんなこと聞く必要ないだろ?」
「だから聞いてみたんだよ」
「やっぱ、からかってんな?」
「マジもマジだよ? 本気で聞いたんだけど」
「どうして俺なんかと。さっき俺とは付き合えないな~、って言ってたじゃないか」
「付き合うことになるんだったら頑張ってみる。変人さんと付き合えるかどうか」
「アホか」
「答えてくれないの?」
「わかった。絶対俺と雪ノ下が別れることはない。だから、もし別れたらおまえと付き合うよ」
「本当?」
「ああ。雪ノ下と別れたら、どうせ俺なんかにそんなこと言ってくれる女なんていないだろうからな」
「そうじゃなくて……、私のこと嫌い?」
「嫌いなんてことはないが。友達だって言ったじゃんか」
「じゃあ約束ね」
「おまえの精神構造がわからん」
「要するに、絶対に実行されることのない約束でしょ? もし実行しなければならなくなったら、私、ヒッキーを軽蔑するかも」
「なんだそれ」
まさか…。こいつ…。俺と付き合いたいなんて嘘っぱちで、小町と同じことを言いたかったのか? だが、そうだったら、直接そう言えばいいだけで……。なんで自分を約束のネタに持ってくる必要がある? わからん。何の意味があるのか……。近未来か遠い未来かわからないが、この約束の意味がわかるときがくるのかもしれないが……。
とりあえず、俺は東雲のおかげで悩みが薄らいだことは確かだった。
長い会話を交わしたあと、外に出ると、雨が降っていた。バッグから傘を出した東雲が、入りなよ、と無言で手招きする。並んで歩き出すと、傘を俺に渡す。まるで相合傘。
さっきまで盛んに話をしていたのに、俺たちは無言で歩いた。
雨に濡れた歩道の、レンガ色のタイルが光っている。
駅前まで来ると、東雲が言った。
「さっきの約束は内緒だよ」
「言えるわけないだろ」
約束に関しては、別に論理的には何も問題がない。だが俺は、やはり、どうしても後ろめたかった。それも、自己嫌悪に陥るほど。
俺は絶対に雪ノ下雪乃という女を大切にする。そう誓っていた。今まで、俺が何かをこんなに強く誓ったことがあっただろうか。
おそらく、これが東雲の意図だった。