海に近づくにつれ、道が細くなり、くねくねと曲がってきた。林の切れ目や鬱蒼とした緑の上に、瓦山のてっぺんが現われた。あの麓に獄釜旅館があるはずだった。
うねり響く蝉の声に混じって、そよぐ風の音と、遠い潮騒が微かに聞こえてくる。
ふと、人工的な機械音が、脇道のほうから漂ってくるのを感じた。しかもだんだんと大きくなってくる。
やがて、それが聞いたことのあるバイクの音だとわかった。
脇道から見慣れたバイクが出てきて、十メートル先で止まった。乗っているのはアロハシャツ姿の茅ヶ崎だった。図太いエンジン音も止まる。バイクにまたがったまま、近づく俺たちを待っている。ヘルメットをかぶったまま。
予期せぬ横槍に、雪ノ下が俺の腕にからめていた手を解いた。
フルフェイスのヘルメットからは、ニヤケた目が見えた。
「こんなところで何してんだ?」
俺がそう訊ねると、茅ヶ崎は腕時計を見た。時間はまだ十二時になっていない。
「あいつらまだ着いてないみたいだぞ。待ち合わせ場所に指定された海の駐車場に車がない。だから、この辺をパトロール中ってとこかな」
「ヒマ潰しか」
「お前らでもそうやってイチャイチャすることがあるんだな」
「おまえだって富津崎でイチャイチャしたんだろ。どうせ」
「してねえし。自分がリア充だからって他人までリア充だと思ってんじゃねえ」
リア充と言われて返答に困った。言い返す言葉が見つからない。
「まだ時間あるから、俺は海パン買ってくるわ。手ぶらで来ちまった。あとバスタオルも必要だな」
見れば、バイクに乗った茅ヶ崎の背中にはリュックがない。本当に手ぶらで来ている。俺よりも気楽な男だ。
「そんなもの売ってる店が、このへんにあるのか。駅前にはなかったぞ」
「アホだな。こういう田舎は駅よりも幹線道路沿いに店があるんだよ」
茅ヶ崎がキーを回す。キュルキュルとセルモーターがが始動し、ガチャンとギアが入る。
「じゃあな! リア充のリア谷くん」
と言ってバイクが発進した。が……、少し走って止まった。茅ヶ崎が振り返る。
「言い忘れた、リア充爆発しろ!」
そう聞こえた。だが、見えている目が笑っていた。
遠ざかるバイクを見送る俺の横で雪ノ下がクスクスと笑っている。
「あんな罵声を浴びるようになって、あなたも想像以上に出世したのね。この前はミツバチからスズメバチにランクアップしたから、今回はクマンバチかしらね」
「またそれですか……」
「ご不満なら水くらげから越前くらげでどうかしら」
「はいはい……今度は海シリーズですか」
「海にも色々あるわね。ウミウシからナマコとか。オキアミから桜エビとか。シオマネキからヤシガニとか……」
「もういいです。要するに大きさの違う同類を並べるだけだろ。それより、旅館が見えてきたぞ」
雑木林が薄れて、道の左手に二階建ての日本家屋が見えた。瓦屋根の下に、規則的に窓が並んでいる。その背後には、瓦山がのしかかるように迫っていた。
瓦山の上空には、トンビが数羽旋回して、時々声を出していた。確かにピーヒャラララと聞こえる。
近傍に存在する旅館はこの一軒だけだった。現在位置からは歩いて五~六分くらいだろう。
「あの旅館からは海が見えるらしいわね。ホームページに書いてあった」
「一応、オーシャンビューなんだな」
旅館のほうへ行ける小道には入らず、俺たちは勿来海岸の方向へ歩いた。道は右へ曲がっていた。
しばらく歩くと、数分で海沿いを走る舗装道路に出た。中央分離線がないのに車が数台行き交い、すれちがっている。水着姿の家族連れ。浮き輪を腰につけた子供、軽装の若者たちも歩いている。
その向こうは太平洋が広がっていた。一気に眺望が展けて、閉所の嫌いな俺の空間識が喜んでいる。
信号のない横断歩道を渡り、「勿来海岸」と読める朽ちかけた木の看板を過ぎた。すると、百メートルほどの小じんまりした砂浜が現われた。
海に向かって左には、写真で見たとおり、突き出した岬があり、そのさらに先には小島が四つ、点々と連なっていた。大きな岩と言うべきか、小さな島というべきか、どちらが適当かわからない。小島の上には松の木が数本生えたりしている。一番先の地獄岩は、何キロ離れているのか。グレー一色のギザギザした形をしていた。
千葉県民でもほとんど知らない勿来海岸には、それでも海水浴客が訪れていた。だが、確かにその数は少ない。海の家も二軒しかない。
砂浜にはパラソルが十個くらい並んでいる。それに、ライフセーバーらしき逞しいお兄さんもいた。高いイスになっている監視台もある。
海面には、遊泳ゾーンの設定もある。黄色い浮きが点々と続き、四角形の枠が、大きく波に揺れていた。台風の影響が残っているようだ。
二車線道路から砂浜の間は舗装されていない駐車場になっている。料金は取られないようだ。徴収係のオッサンがいない。鄙びた海岸とはいえ、車がたくさん止まっていた。やはりここは知る人ぞ知る穴場だ。
一番奥に、トヨタ86が見えた。すでに誰も乗っていない。砂にまみれた階段を降りて、パラソルの群れのほうへ移動する。砂の上は歩きにくい。一張羅のデッキシューズの中は、すでに砂まみれ。雪ノ下も歩きにくそうにしている。
俺は靴を脱いで裸足になった。
「ゆっきの~ん! ヒッキー!」という声が聞こえた。あれは由比ヶ浜だ。声の方向を見ると、一番端のパラソルの下に、立って手を振る由比ヶ浜と目黒がいた。パラソルの横にはテントが張ってある。
近づいていくと、二人の女子は揃って、すでに水着に着替えている。由比ヶ浜は青のストライプ、目黒は白一色のビキニだった。目黒がビキニとは意外だった。意外ゆえに、どうしてもその太ももの白さに……。そして、今やパワースポットと呼ばれるまでに発達した由比ヶ浜の……。
いや、いかん……。俺の意思に反して眼筋が瞳孔をそちらに向けようとする。だが、万乳引力の法則はもう古い。雪ノ下によると、現在では万有引力の法則は、アインシュタインの一般相対性理論によって無用の長物にされている。乳トン先生の出番はもうないのだ!
「ふぅ~、やっとついたわね」と雪ノ下がハンカチを出して首すじを拭う。
「お疲れさま~!」と目黒が迎える。
「お前ら茅ヶ崎に会わなかったのか?」
俺が問うと、「見なかったよ~」と由比ヶ浜が答える。
「残りの人たちは?」
「陽乃さんと小町ちゃんは飲み物買いに行ってるよ。志乃ちゃんはテントの中で着替えてる。ゆきのん、荷物はテントの中にあるよ。さっそく着替えたら?」
「そうね。こんな格好じゃ、暑くてかなわない」
目の前のテントのチャックが開いて、東雲が出てきた。この前見たワンピース型の水着姿だった。それと入れ替わりに雪ノ下がテントに入った。
確かにテントがあると便利だ。海の家で着替える必要がない。
その後、俺もテント内で着替えた。海パン一丁になって、防水ケース入りの携帯を首から下げた。
その頃になって、小町と陽乃さんが戻ってきた。手にはコンビニ袋に入った大量の飲料があり、それをクーラーボックスに収納すると、二人もテントの中で着替え始めた。
雪ノ下、東雲、由比ヶ浜、目黒、それから俺。全員水着姿。それぞれが届いたお茶やらコーラやらコーヒーやら好きなもので喉を潤していた。
そのとき、俺たちの前にダダダと素早く走ってきた影があった。パッと宙を飛んだかと思うと、ザザザッと背中でスライディングし、俺たちの足元に滑り込んでくる。
「なに?」
思わず誰かが声を出す。
滑り込んで来た男は茅ヶ崎だった。しかも、双眼鏡を覗きこみながら。双眼鏡は女子たちに向けられていた。
キャ~~! という声が同時多発的に上がる。女子たちは反射的に股間を手で隠したり、後ろを向いたりする。
「信じられな~い!」とか「変態!」という声が続く。その中で比較的堂々としていたのが東雲だった。
「茅ヶ崎君、それは一体なに?」
怒った顔の雪ノ下が、砂に横たわって、依然として双眼鏡を覗いている茅ヶ崎を見下ろす。
「カメラはダメだけど、双眼鏡は持ってくるなって言ってなかったじゃん。いい眺めだぞ。おい、比企谷! おまえも見るか?」
双眼鏡はまだ茅ヶ崎の目に当てられている。思い出してみれば、さっきは手ぶらだった。そんなものまで買ってきたのかよ。
「いい加減にしなさい!」
バスタオルを体に巻きつけた雪ノ下が、マジで怒っている。由比ヶ浜が「こら~!」と地面の茅ヶ崎を踏んづけようとして、足を上げる。
その足が茅ヶ崎の腹あたりに食い込むかと思われた瞬間、パラリと寝返ってかわされた。由比ヶ浜の足は砂にめり込んだ。
一回転した茅ヶ崎は、しつこくもまだ双眼鏡を覗いている。「この~!」と言いながら、由比ヶ浜が次々に足で踏もうとする。しかし、茅ヶ崎は回転して避ける。
砂浜の上でモグラ叩きゲームがしばらく続いたが、やがて茅ヶ崎の手が由比ヶ浜の足を捕らえた。グイとひねられ、由比ヶ浜が砂の上に転ぶ。
すかさず、茅ヶ崎はその両足をつかんで脇腹に挟み、由比ヶ浜を振り回し始めた。
おまえは狂犬加藤かよ!
キャー、やめて~、と悲鳴を上げる由比ヶ浜。しかし、回転は収まらない。しかも茅ヶ崎は、海の中へ入って行く。やがて茅ヶ崎の太ももぐらいの深さまで水が達したとき、おりゃあ~! というかけ声と共に、由比ヶ浜が宙を飛んだ。
再び砂浜全体に響き渡るほどの悲鳴が上がる。十メートルくらいの飛距離を記録して、飛翔体が水中にワイプアウトした。俺たちはその様子を見守るばかりだった。
「青春してるな~」
俺の率直な感想に、「大丈夫なの? あれ」と東雲が心配そうな顔をする。
見れば、水中から生還した由比ヶ浜が、「こんの~!」と怒って茅ヶ崎に水を浴びせている。なんか、結局楽しそうだな、こいつら……。
その騒ぎを聞きつけ、ライフセーバーが駆け寄ってきた。狂犬加藤の行為を見ていたようだ。ライフセーバーは茅ヶ崎に近づき、厳重注意をしていた。一応、茅ヶ崎は謝っていたようだが。
「なんか騒がしいなぁ」とテントから出てきたのは陽乃さんと小町だった。陽乃さんは何故だか水着に着替えていない。デニムのショートパンツとオレンジ色のタンクトップ姿だった。頭には大きいサングラスが刺さっている。海には入らないつもりなのか。小町は見慣れた黄色いビキニに着替えていたが。
陽乃さんはクーラーボックスからビールを取り出し、パイプ製のリクライニングチェアに寝て、プシュッと開けた。
そして、おや? という顔をする。茅ヶ崎の姿を認めたのだ。
懸念事項を思い出した。陽乃さんと茅ヶ崎は相性がよくない。それは運動公園で一触即発だったことからもわかる。この二人が一緒に海にいるということは、宇宙開闢以来の奇跡だ。
まずいことに、由比ヶ浜に追われて茅ヶ崎がこちらに近づいてくる。双眼鏡を首からかけたまま。おそらく、茅ヶ崎の視界にも、リクライニングチェアに寝ている陽乃さんの姿が入った。
その顔が曇る。いや、はっきり言って険悪なものに変わる。まずい。この二人の距離を保つ方策を早急に考えなければ……。
だが、俺の心配を無視するように、茅ヶ崎が「あ!」と陽乃さんを直視する。たぶん、いま、この二人は目が合ったはずだ。バチン! という高圧のショート音が聞こえてきた。
「お? そこにいるのは、元チンコロ姉ぇちゃんのギャル乃ちゃんじゃん! なにその恰好。だっせー!」
陽乃さんが上半身を起こしてそれに応える。
「そういう君は、元テロリスト君だね。つまんなくなったね~! あだ名はテロリンだね。テ~ロリン!」
二人はお互いを指さしてカラカラ、ゲラゲラと笑い始めた。
俺は飲み物を選ぶさい、お気に入りの缶コーヒーがなければ、次の候補はコーラにしている。いま手にしているのもコーラ。花火大会のときと同じく、三百五十ミリリットル入りのはずだ。
だが、俺は二リットルのコーラをまた盛大に噴き出したと思う。まるでマーライオンのように。それに要した時間もきっかり十秒。
俺の隣りに立つ雪ノ下もあっけに取られた顔をしていたが、それが二人の掛け合いによるものなのか、それともマーライオンの出現によるものなのか、判然としなかった。
だが、場の緊張が一気に緩んだ。こいつら、本当は仲いいんじゃねぇの?
その後、俺たちはパラソル組と遊泳組に分かれた。
パラソルの下にいるのは雪ノ下姉妹、目黒、俺。波打ち際でギャアギャア騒いでいるのが由比ヶ浜、東雲、小町、いつの間にか海パンに着替えた茅ヶ崎だった。やはり性格で分かれるものだったが、どちらに属しているのかわからないのがギャル乃さんだった。さっきからビールを飲みまくっている。時々プシュッと言う音で、それがわかる。
また、キャーという声が聞こえた。見れば、小町が茅ヶ崎にお姫様だっこされて、投げられていた。崩れ始める波の腹にドボンと消える。
東雲と由比ヶ浜は、並んで浮き輪から上半身を出して、波間に漂っていた。茅ヶ崎がその方向へ平手打ちをする。水が勢い良く二人にかかる。すると、東雲も由比ヶ浜も反撃を開始する。いつの間にか目黒も加勢していた。
なんか平和だし、青春しているな~。俺はボケッとした顔でその様子を眺めていた。
茅ヶ崎が一人、パラソルに戻ってきた。体からは水が滴っている。
「比企谷、おまえも遊ぼうぜ」
「何して?」
「あれだよ。あれ」
茅ヶ崎が海の家の方向を指差す。だが、海の家で何をして遊ぶんだ? 俺がわからない顔をしていると、「サーフィンだよ」と言う。
「え?」
「あそこで板を貸してくれる。やろうぜ」
「アホかよ。俺にできるわけないだろが」
「せっかく海に来たんだぜ。挑戦しろよ」
その会話を聞いていた陽乃さんが首を突っ込んでくる。
「ヒッキー君がサーフィン?」
カラカラと笑い始める。
「ほら。まったく俺には関係ないだろ。世間一般ではそう思われている」
「それを裏切るのが愉快なんだろうが。たまにはそういうこともしろ。来い!」
「面白そうね。行ってきたら?」と雪ノ下がけしかけるので、しぶしぶ立ち上がった。
サーフィンなんてやる羽目になるとは思わなかった。俺にそんなことができるわけがない。