茅ヶ崎が出て行くと、風呂場は静かになった。が、「みんなよしなさいよ」という雪ノ下の声が聞こえてきた。何かをたくらんでいるようだ。
すると、「せーの」という合唱が聞こえると同時に、天井から大量の水が、ザバンと頭の上に落ちてきた。滝のように。ビシャっと水の塊に頭を叩かれ、湯船に浸かっていてもヒヤリとする。
おそらく、その行為に反対していた雪ノ下を除く、全員で水を投げ込んできたのだ。
なんで俺がこんな目に……。
「もう茅ヶ崎はここにいないぞ。帰った」
「帰ったって。ヒッキーに水かけちゃったよ」と誰かの声。
「ヒッキーも罰を受けるべきだし」
由比ヶ浜の声だった。
「なんでだよ!」
「自分の彼女の悪口言われているのに守らなかったし!」
「大丈夫よ、あれくらいのことは。もう散々言われて慣れているし」と雪ノ下の静かな声。
「あのな、あいつが何かやると言い出したら止められない。一種の暴君だろ」
俺は言い訳を言った。
「それって、電車の中で痴漢に会っている彼女を見捨てるみたいな感じだよね」
東雲までそんなこと言い始めた。
「わかった。悪かった。今度は止めるよ」
と言うしかなかった。
「でも茅ヶ崎君って、口ではセクハラみたいなこと散々言うけど、それ以上のことは絶対やらないよね」
これは目黒の声だ。
「そうだよね~」「うんうん」と納得する声。
「そういえば、結衣ちゃんが学校から救急車で運ばれたとき、セクハラじゃないって気にしていたよね」
これも目黒の声だ。
「なにそれ? 私、何かされたの?」
不安そうな声を出すのは由比ヶ浜だ。
「あ……。でも、別にいいか。
結衣ちゃんが倒れたとき、茅ヶ崎君が脈とか呼吸を確かめるために、結衣ちゃんの体を触っていたんだよ。これは別にセクハラじゃないんだけど、彼は気にしていたみたい」
「そうだったんだ? なんか水かけちゃって悪い気がしてきたかも……」
「意外にも彼の評判が上がってきたようね。私は許せないのだけれど」
目黒と由比ヶ浜の会話に雪ノ下が割り込んだ。
俺は湯に浸かりすぎてのぼせてきた。言う必要ないとは思ったが、「出るぜ」と声をかけて脱衣所に移動した。
イスの前に扇風機が置いてあった。そこで風に当たると眠くなってくる。自動販売機で飲み物を買いたかったが、財布を忘れた。仕方ないので、壁にある洗面台のコックをひねり、水を手にためてゴクゴクと飲んだ。
女子たちの入浴は長い。そういえば部屋のカギを持っているのは雪ノ下だ。カギを手に入れれば部屋に戻れる。
俺は、浴室に戻って、声をかけ、壁の上からカギを放ってもらった。十センチくらいのプラスティック製のタグが付いているので、落とすと割れてしまう恐れがあったが、うまく受け取ることができた。
部屋に戻ると、浴衣を着た。そして、クーラーボックスの残りのジュースを小型冷蔵後から取り出した。ちゃんと冷えていた。爽やか系の炭酸飲料が売り切れ、ミルクティーとお茶がそれぞれ3本ずつあるだけだった。
窓際のイスに凭れてミルクティーをグビグビ飲む。窓の外はまだ明るい。すでに日が当たらない海面は青黒くくすんでいる。遥か遠く、水平線の上に浮かぶ積乱雲には、まだ日が当たっていた。
ここから見ると、勿来ヶ崎の出っ張りは見えるが、その先にある四つの島は見えない。覆い茂る緑がなければ見えるのかもしれないが。
俺は携帯を取り出して、守護天使に話しかけた。
『小町いるか? 明日は危険はないのか?』
『いるよ~! 危険度ゼロかな。今日は楽しそうだったね~! 大活躍だったね! ガイアのお兄ちゃん!』
『おまえまで言うか。俺より茅ヶ崎のほうが活躍していたがな。危険がないってのがどうも信じられない。しつこくってムカつくかもしれないけど、明日も予測頼むわ』
『は~い! 常に未来予測はしているよ。あ、これからお兄ちゃんにいいことあるよ! これはありがたき守護天使のお告げであ~る』
『どんな?』
『それは内緒であ~る。でも、お兄ちゃん、ほとんど初体験かも』
『初体験? 初体験なら一応しているんだが』
『その初体験じゃないよ! 言葉がわるかったね。初経験。でも、それが何なのかは言えないな~』
『なんだろうな。わかった! 幽霊を目撃する』
『それは良いことじゃないと思いま~す!』
『疲れて想像力が働かないな』
『まあ、いいじゃん? その時が来ればわかるよ』
『危険はないんだな? 俺たちの誰にも』
『ないと思うよ~』
『ならいい。ありがとう。明日もよろしく』
『あいよ!』
携帯を閉じた。窓の外がさっきよりも暗くなっている。この地域では夕焼けが見れないのか? 空が赤く染まっているが、地平線に沈む太陽の赤い輝きは見えない。
女子たちが部屋に帰ってきた。全員が昼間と同じような軽装をしている。十二畳とはいえ、五人の女が溢れると、室内が狭く感じられる。本当にこいつらに混じって寝るの? 今晩。消灯したあと、変な想像力や妄想が起こって欲しくない。今回だけは……。
「ヒッキー、今何時?」と目黒が聞く。携帯のボタンを押して時間を表示させる。
「六時半だ」
「そろそろね」と雪ノ下が言うと、「じゃあ、私が女将さんに確認してくるよ」と東雲が部屋を出て行った。
「バーベキューするんだって?」と俺が訊ねると、「そうそう」という誰かの声が返ってきた。
数分で東雲が帰ってきた。
「裏庭でできるって。食材は取りに来てくれって」
「ほう。裏庭でバーベキューか。腹減った」
「小町もおなかすいた! ペコペコ」
雪ノ下が荷物を漁って虫除けスプレーを取り出し、足や腕に吹き付けている。用意がいい。あと、スプレーを持参してきたのは小町と目黒だった。
俺も虫除けスプレーを借りて吹き付けた。おそらく、ここではデング熱は関係ないと思うが。小町が蚊取り線香を一巻き取り出している。
裏庭に、厨房の脇にある勝手口から出た。大きめな木のテーブルがあり、その上にはお皿の山やトングなどの調理器具が置いてあった。その横にはバーベキューコンロがあり、中には炭が用意されていた。
着火用の燃料やライターも置いてあり、さっそく俺は火をつけ始めた。
「結衣ちゃん、一緒に食材取りに行こうよ」と東雲が誘っている。
「行こう行こう」と由比ヶ浜が答えているが、旅館の右手のほうから人影が現われた。大きな皿を二つ持って。
人影は、電灯の下まで来ると女の子だとわかった。それも俺たちと同じ年ごろで、黒髪、セミロング、髪型は東雲に似ていた。そう、どことなく顔の輪郭も東雲に似ている。だが、体から滲み出る雰囲気には暗いものがあった。
その女の子は、「バーベキューセットです」と言いながら、テーブルの上に二つの皿を置いた。一つには、牛肉や豚肉がきれいに並び、もう一つにはエビ、サザエ、アワビなどの魚介類がひしめいていた。
女の子は、「まだあります。持ってきますね」と言って去っていく。
東雲が「私も手伝いますよ。運ぶの」と言うと、「大丈夫ですよ。座って待っててください」と微笑んだ。どことなく生気のない声で。
火が十分に起きた。さっそく肉でも焼き始めようかと思ったが、飲み物とかが揃うまで待った。あわてることはない。女の子が次々と野菜を盛った皿やコップ、ジュース類を運んできた。
「これで全部揃った?」
俺がそう問いかけると、女の子は「そうですね。これで揃いました」と答えた。少しうつむき加減で。
その様子には今どき珍しい清純なはにかみのようなものが混じっていた。しかし、俺にはにかんでいたというわけではない。誰にでもそういう態度をするずだった。
「あ、ねぇねぇ、名前なんていうの?」と由比ヶ浜が、テーブルにコップを配っている女の子に訊ねた。
「よしの、っていいます」
「ここの人?」
「そうです」
「私。結衣です。よろしく!」
「よろしく」
「一緒に食べない?」
「ありがとうございます。でもお客さんと一緒に食べることは……」
「そうだよ、結衣ちゃん。普通はダメだよ」と目黒がフレンドリーすぎる由比ヶ浜をたしなめている。だが、由比ヶ浜ネットワークはこうして形成されるのだ。
「では、何か必要なものがあったら、呼んでください」
そう言って、女の子は旅館の右側に消えていった。
「なんか不思議な雰囲気の子だったわね」と雪ノ下が感想を言った。
肉が焼けた。それをみんなに配る。次は野菜をコンロに乗せた。
「小町、手伝え」と言って、コンロ係を交代した。小町が野菜を焼いているうちに、俺は肉にかぶりついた。塩コショウの味だけで十分に美味かった。そこそこの肉であることはわかっているが、こういう場所で食うものは、たいていのものでも美味い。
タマネギとかニンジンとか、コーンとか、シイタケとかの野菜類も配られてきた。しばらくすると、全員の皿に肉や野菜がてんこ盛りになっていた。
小町が自分の席で不意に立ち上がって、司会を始めた。
「ではみなさん! 今日のバーベキュー大会の趣旨を発表しま~す!」
すると、女子たちがパチパチと拍手を始めた。これから、由比ヶ浜の誕生パーティが始る予定だ。そのために、みんなプレゼントを入れたリュックや袋を持参している。俺は、そんな荷物を持っていない。デコレーションラッピングされたカラオケ券は、ポケットに入っていた。
「よっ、小町ちゃん、名司会!」という声も飛ぶ。
「えへへっ。このような宴席の司会をさせていただく光栄にあずかり、不肖小町は汗顔の至りでございますが、今晩、この宴をご用意させていただきましたのも。そこにお座りの由比ヶ浜結衣さんのお誕生パーティだからなので~す!」
「え? そうなの?」
と、由比ヶ浜がビックリしている。
「私は違う目的だとばかり……」と由比ヶ浜が言うのを小町が止める。
「お~っと、結衣さん、それ以上はまだまだ秘密ですよ~! それもおいおい発表します!
由比ヶ浜結衣さんの誕生日は六月十八日でしたが、部活では色々あって、みんな忘れてしまっていたそうです! これはなんとしたことか! 一生の不覚! そんな反省の念が集まって、本日この宴が開催されたわけです」
「そうなんだ。みんなありがとう」
「では。みなさん、お手にグラスをお持ちください。用意できましたか~! ほらほら、お兄ちゃんも! よろしいですね? それでは、結衣さんのお誕生日を祝して、かんぱ~い!」
みんながジュースの入ったグラスを掲げた。そのあとカチカチとぶつけ合って飲んだ。
「では、ここでプレゼント披露とさせていただきます! みなさん、ご用意したプレゼントを出しちゃいましょう!」
由比ヶ浜以外の全員がカバンから包みを取り出した。
「ではまず、不肖、小町から! 結衣さんの愛犬の首につける、ペンダントです!」
そう言って、小町が小型の包装を由比ヶ浜に渡すと、「ありがとう」と言って包みを受け取った。
「次は私ね、これは犬用の首輪じゃなくて、ハーネスよ。これで散歩すると首が絞まらないそうよ」
雪ノ下が包みを渡す。次は目黒のようだ。目黒はショッピングセンターにいなかったので、何を用意しているのか知らなかったが、どうやら犬の絵柄のTシャツのようだった。
東雲と俺は同時にカラオケ券を渡した。合計すると二十時間分もあるというと、由比ヶ浜は感激していた。
だが、一番変なプレゼントは茅ヶ崎からのものだった。茅ヶ崎がプレゼント?と思ってしまったが、小町が託されていたのだ。小町が包みを渡す。内容は何か知らないという。
「何かな~?」と由比ヶ浜が紙を開いてみると、なんと、哺乳瓶が出てきた。
「なにそれ? 哺乳瓶でしょ?」という声が上がる。俺は、なんとなく意図がわかってしまった。本当にしつこくて粘着質だな、あいつは。陵辱行為が好きなんじゃないか?
「由比ヶ浜、それはな、おそらく茅ヶ崎のジョークで、ミルク入れてくれっていう意味だと思うぞ」
「あいつめ~!! しつこいし!!」
む~っと膨れる由比ヶ浜。だがジョークにはジョークで返すべきだ。
「それにミルク入れて渡してやれよ」
「出ないし!」
「牛乳でいいんじゃね。でも、塩とか、辛いもんとかまずいもんを混ぜておく。あいつ、ひと口吸って噴き出すぞ」
「それいいね~! やるやる~!」
「そんな程度じゃ仕返しにならないわね」
と雪ノ下が怖いことを言う。
「みんなありがとう」と由比ヶ浜が微笑む。すると、小町の司会がまた再開された。
「さ~て、結衣さんのお誕生会に便乗して、もう一つやりたいことがありま~す! それは不肖、小町の兄、比企谷八幡の、初めてのお誕生会で~す!」
「なんだと?」
俺はうろたえた。ショッピングモールでは、俺の誕生日はスルーということになったのではなかったか。
「では、みなさん、いま一度、ご面倒ながらグラスをお願いします。いいですか? いいですね。それでは! ちょっと早いですが、八月八日に来る比企谷八幡の誕生日を祝して、かんぱ~い!」
「かんぱ~い!」と全員が声を揃えてグラスが掲げられた。
信じられない光景だった。俺の誕生日を祝ってくれる人が、五人も、それも全員女子。
心の中で感激してしまったが、なんとかそれを外に出さないようにした。
「お兄ちゃん! 何かお言葉は?」
「あ、ああ……、みんなありがとう」
なんか茫然としていた。たぶん、俺の笑った顔はひきつっていたはずだ。
「それでは、お兄ちゃんへのプレゼントですが、これがなかなか、何にすればいいのかわかりませんでした。だいたい、変人のお兄ちゃんが喜ぶものなんてこの中にわかる人はいません! そこで、小町が提案したのは、これです!」
小町が薄い紙包みを取り出した。それを俺に差し出す。
「全員一致でこれにしたんだよ!」
受け取って、開いてみると、なんと、一万円分の図書カードが出てきた。一万円分といえば、好きな本がしこたま買える!
「マジ嬉しいわ。これ」
「くれぐれもエロいものは買わないように! 女子から贈られたものでそんなの買っちゃだめだよ」
四方からクスクス笑う声が聞こえる。
「そんなの買わねえよ!」
「それから、なんと茅ヶ崎さんからもお兄ちゃんにプレゼントがあるそうです」
そう言って、小町がまた紙包みを取り出した。さっそく開いてみると、
『比企谷へ
貸し金のうち、二千円を免除する! したがって、おまえの借金は一万三千円に減免された。早く払え!』
と書いてあった。それを読み上げると、クスクスした笑いがまた起こった。「らしいね」「金額がせこい」「本当だね」「一応、あれでもプレゼントにはなるよね」と女子たちが話している。
「それではみなさん、結衣さんとふつつか者の兄の合同お誕生会を終了させていただきま~す! お食事の方をバクバクと勧めちゃってくださ~い! あ、あとからお誕生日の定番のケーキも来ますよ~!」
小町の司会が終わった。みんな座って残りのバーベキューを平らげ始めた。俺はしょう油の香りのするサザエを食いながら、色々思い出していた。
ショッピングセンターで東雲が、雪ノ下からの電話を受け、覚えておいて、と言っていたのは、このことだったのか。あのとき、雪ノ下が小町と相談していたんだろう。
みんなでお茶を飲んでいるとき、小町が「あ、お兄ちゃんの誕生日も近い! 八月八日だ」と言った瞬間に、雪ノ下は今日のことが頭に浮かんでいたはずだ。そして、「比企谷君の誕生日は今回もスルーね」と咄嗟に言った。
東雲が「ゆきのんはヒッキーのことすごく考えているよ」と言うのがよくわかった。
それに、白い秘密が二重構造になっているとは思いもしなかった。
由比ヶ浜の前に哺乳瓶が立っていた。肌色をしたゴム製の乳首が上を向いている。
この旅館の女の子がまた皿を手に持って現われた。そこには、大きめのホールケーキが乗っていた。
雪ノ下がそれを受け取り、テーブルの上で切り分け始めた。
「ねぇねぇ、よしのさんもケーキ食べなよ!」と由比ヶ浜が誘っている。
女の子は「でも……」と固辞しているが、「さ、ケーキケーキ。みんなで食べるから美味しいんだよ!」と隣りに座らせる。
ホールケーキは、切り分けられるとイチゴの乗ったショートケーキになった。それが全員の前に配られる。由比ヶ浜とその横の女の子の前にも並んだ。
「お仕事ご苦労さま~。どうぞたべてね~」と声をかけて、由比ヶ浜がケーキをつつき始めた。
女の子も「では、お言葉に甘えて」と言ってフォークを手に持った。
女の子も混じって、雑談が始まった。俺は聞き役。女子の雑談に混じれるわけがない。
「それじゃあ、ここの生まれなんだ?」「海が近くていいねぇ」「寂しいところですよ」「この近くに学校ないよね~」「そうですね」「この旅館の女将さんの子?」「そうなんです」「じゃあ、将来、女将さんになるんだね」「それはないですかね」「どうして?」「……接客に向いていないし」「ふ~ん」「できてると思うけどなぁ」「じゃあ小町が夏休み中手伝いにくる!」「それいいかも!」「あ、みんなで記念写真撮ろうよ!」「そうだね」「賛成!」
雑談が中断して、みんなが電灯の下に集まった。テーブルの上にデジカメを置き、セルフタイマーをセットして、この場にいる七人が写真におさまった。
また、雑談が再開した。
「で、その哺乳瓶どうするの?」「あ、よしのさん、牛乳ある? 塩とかコショウとかも」「ありますけど」「あとで少しちょうだい」「いいですよ」「バカに仕返しするんだ」「そんなことするとまた海に投げられるかも」「今度は逃げるし!」「足速いよ」「ねぇねぇ、結衣ちゃんと茅ヶ崎君ってどうなってんの?」「え?別に……」「仲よさそうだよね」「それほどでもないと思うし」「明日も彼は来るの?」「そう言ってた」「セクハラ発言だけは止めて欲しいわね」「今度やったらげきおこだよ」「明日は何する?」「ヒッキーにサーフィン教えてもらおうか」「クスクスクス」「ガイアって何」「地球とかいう意味だったかな」「あれってネットで話題になった言葉だよ」「そうなんだ?」「結局明日なにする?」「寝てる?」「日焼けしちゃうもんね」「イベント考えてあるよ」「どんなの?」「宝探しゲーム」「砂に埋めて探すやつ?」「そうそう」「スイカ割りは?」「あれ危ないから禁止されてない?」「看板にそう書いてあった」「あ、蚊がいた。線香焚いてあるのにぃ~」「はい、虫除けスプレー」「ありがとう」「みなさん明後日も海で遊ぶんですか?」「その予定よ」
…りん…りん…、と二階の部屋の軒先に垂れている風鈴が、微かな音を立てた。
「あ、よしのさんも海で一緒に遊ぼうよ」由比ヶ浜がそう言うと、女の子はうつむいた。髪がパラパラと顔の前に落ちて表情が隠れる。
ふたたび、……りん……と風鈴が鳴った。
「私はダメです。あそこの海に、暗い記憶があって……」
「というと?」
由比ヶ浜が突っ込んだが……、雰囲気を察した目黒に「それ以上聞いちゃダメだよ」とたしなめられた。
「友人が行方不明になっているんです。十七年前に……、まだ見つかっていないんです」
場がシーンとしてしまった。
「ごめんなさい。思い出させて」と由比ヶ浜が謝る。
そよ風が吹いて、風鈴の音が若干強くなった。……りん…りりん……。
「いいえ、いいんです。それでは、私は戻らなければならないんで、このへんで失礼します。ご馳走さまでした」
「あ、こちらこそ、強引に誘ってごめんなさい」
雪ノ下がそう言うと、一礼して女の子が旅館の右側へ消えていった。俺はその様子を眺めながらハッと気がついた。
女の子の名前、よしの、だって?