二階の部屋の軒先に吊り下げられた風鈴が、りん、と鳴った。
溺死した四人の女の子の中に、松下佳乃という名前があったことを思い出し、俺は席を立った。よしのという女の子が去っていった旅館の右側へ急ぐ。
だが、そこには人影がすでにない。女の子が出てきたであろう勝手口のドアを過ぎて、旅館の前面に回りこんでみる。
そこも無人。
ということは、勝手口から中に入ったことになる。俺はそのドアを開いた。すると、さっき水かけ合戦の行われた風呂場への入り口が見えた。
変だった。厨房のほうへ帰るんだったら、旅館の左側の勝手口を使うのが早い。
裏庭に戻ると、和装の女将がいて、女子たちと一緒に後片付けをしていた。女将は「いいんですよ~、やりますから」と言うが、みんなお皿を動かしたり、残飯をまとめたりしている。
「みんなで運べば一回で終わりますよ~」と由比ヶ浜が言うと、「ありがとうございます。うちはスタッフ三人でやっているものですからね~」と女将が答える。
「すると、女将さんとよしのさんと、あとは誰なんですか?」という由比ヶ浜の質問に、女将は持ち上げかけていた皿をテーブルにガタっとぶつける。
「なんですって? よしの?」
「そう。よしのさんです。さっきお皿を運んでくれましたよ」
女将が固まる。しばらく唖然とした顔をして動かなかった。口が何かを言おうとしているが、言葉が出てこない。
「どうかしたんですか?」
「佳乃は十七年前に死んでいますが……そこの海で溺れて……」
「ええ~!!!」と一同すごい声をあげる。
「うそでしょ?」と雪ノ下が青ざめた顔をすれば、「さっきいたもん!」と小町が叫ぶ。「じゃあ、さっきのは……」と東雲が言いよどめば「幽霊?」と目黒が受ける。
「ゆきねぇ、怖い……」と小町が雪ノ下の腕にしがみつく。後片付けどころではなくなり、みんな体を寄せ合って、震えている。
「今まで佳乃さんの幽霊が出たことは?」と俺は質問した。
「いいえ、そんなことは一回も……」
ふ~む。同じ年代の女の子がいるもんだから、寂しくて出てきたのだろうか。
とりあえず、俺たちは食器類を持って厨房に運び、その足で女将の居住区画に入れてもらった。居住区画といっても、六畳の部屋が二間あるだけで、台所は旅館の厨房を使い、風呂も共用しているらしかった。
六畳間の奥には、普通の仏壇があり、いくつかの位牌が立っている。その脇の箪笥の上には、写真立てが数個あった。
女将が俺たちをそこに案内し、写真を示す。いくつかの写真立てには女将の旦那さんらしき男のもの、両親が二人で写っているもの、そして、若い女の子の写真もあった。
「これが佳乃です」
見ると、さきほど現われた女の子に間違いがない。先入観のせいだろうが、どことなく暗い雰囲気が漂っている。髪型もほぼ同じだったが、写真のほうは目鼻立ちがくっきりしているような気がした。
五人の女子と俺は、しばらくその写真の前から動けなかった。そして、女将の「よかったら線香でもあげてください」という声にしたがって、仏壇の前に正座した。
女将が香炉に線香を数本立てて、
俺たちは合掌瞑目した。
一階の一番奥の部屋に戻る。バーベキューをしているときの雰囲気とは打って変わって、しばらく静けさに包まれた。
「なんか怖いね~」と由比ヶ浜。「でも、幽霊ってもっと怖いものかと思っていたけど……」と目黒が呟く。
「怖くなかったし……、幽霊だとは思えなかったから、かえって怖いのかも……」と、東雲が雪ノ下の隣りで震えるような声を出した。
「そうね。でも、私にはさっきの人が幽霊だとは思えないのよ。幽霊なんているはずがないし」
さすが雪ノ下だと思う。しかし、みんなが目撃し、会話をしたあの現象は何だというのだろうか。遺影まで確認した今となっては。
「由比ヶ浜、おまえは花火大会のときも見たんだよな?」
俺が話しかけると、由比ヶ浜は無言でうなずいた。
「そのときのは雪ノ下に似ていたと言ってたよな」
「うん。似てたような気がする」
「いまの佳乃っていう子はどことなく東雲に似ているような気がしたんだが」
「そういわれてみればそうかも」と目黒が答える。東雲は「ええ~、やめてよ~」と顔を両手で覆った。
「さて、こんな話ばっかりしてても始まらないわね」そう言いながら雪ノ下が立ち上がってバッグの中にあった水着を取り出した。洗面所に行って水をためて、洗い始めた。
女子たちが洗い終わった水着は、部屋のタオル掛けやハンガーに吊られた。四方の壁に水着があり、どちらに目を向けても視界に入ってくる。だが、こいつらとかかわるようになってから、こういう状況には慣れてしまっている。
「あんまり見ないでね」
と目黒が言う。白いビキニのセットが壁のハンガーにかかっていた。雪ノ下のやつ、こういう状況を予測して、ワンピース水着にしたのか?
「それだと明日までに乾かないと思うぞ」
「海水に濡れたままよりマシでしょ」
就寝前の女子たちの雑談が始まった。午後十時半。俺は座布団の上に寝転がって、すでにウトウトしていた。大またおっぴろげて。周囲は女子だけだということがどうでもいいほど疲れていた。
そのうち、バサッバサッという音と共に、ホコリっぽい空気の圧力を感じた。布団が敷かれているらしい。
「ほら、ヒッキー起きて!」という由比ヶ浜の声に目を開ける。
「お布団敷いてあげたよ! ヒッキーは一番廊下側」
由比ヶ浜が廊下側の襖を指差している。
「幽霊が入ってきたら、真っ先に餌食になるんだね、お兄ちゃん」
小町が笑っている。俺の隣りは小町でその隣りが雪ノ下だった。その三列の向こうには、窓側に足を投げるようにして、三列の布団が敷かれていた。
「ありがとう」と言って、俺は浴衣のまま布団に入った。消灯すれば五分で眠れそうだった。
だが、しばらく女子たちの雑談が半眠半覚の状態で耳に入ってきた。
「大丈夫かな」「幽霊?」「もう現われないかな」「出てきても何もしないよ、きっと」「私たちって呪われている?」「そんなことないでしょ」「ヒッキー寝ちゃった?」「もう動いてないし」「サーフィンで疲れたんだよ」「こんなとき茅ヶ崎君がいると心強いかも」「そうだよね~」「幽霊が出ても退治してくれそう」「こんなときだけ」「お兄ちゃんは頼りないからね~」「でも女だけよりはマシかも」「明日は大丈夫かな~」「幽霊が出たのって夜だけでしょ?」「そうだよね、花火大会のときも」「昼間は大丈夫じゃないかしらね」「あのときは結衣ちゃんだけ?見たの」「そうそう」「どうして?」「わからないし」
ガサガサとお菓子の袋が開く音。
「幽霊って何か言いたいから出てくるんでしょ?」「恨み?」「恨まれるようなことしてないでしょ?」「生きてること自体が恨めしいとか」「まさか」「今度出たら訊いてみればいいのよ」「そんな勇気ないし~」「私が聞く」「さっすがゆきのん!」「ちゃんと仏壇があって、供養されているのに、どうして」「やっぱり何か言いたかったんだよ」「そうかなぁ」「………」
いつの間にか寝入っていた。
………サワサワと音がした。足が畳を擦る音。何かがゆっくりと俺のほうに近づいてくる。だが、廊下のほうからではなく、窓のほうからだ。
微細な空気の揺れも感じた。夏の夜だというのにどことなく冷たい。
目を開けた。すると、頭の上に女が立っていた。だが、女は俺の横にある襖を開けて、外に出たいようだった。
横を見ると、小町は熟睡している。
室内灯の小さい電球がついていた。そのわずかな黄色い光に白っぽく浮かぶのは、パジャマ姿の由比ヶ浜だった。
スルリと襖が開く。由比ヶ浜もスルリを出て行く。その後をもう一人のパジャマ姿の女がゆっくりと追いかけている。それは雪ノ下だった。
俺も上半身を起こして、出て行く二人の女を追いかけた。
廊下をゆっくりと歩いている由比ヶ浜。その後ろについていく雪ノ下。そして、俺も廊下に出て、事態を見守った。
廊下の外れに来て、勝手口のドアを開け、由比ヶ浜は裸足のまま裏庭に出た。
そこで立ち止まり、何かと話をしているような雰囲気を見せている。
勝手口の内側にいた雪ノ下においつくと、「どうした?」と小声で訊ねる。「結衣ちゃんが起きて出て行ったからついてきたの」という。
「あれは、何かと会話しているのか?」
「そのようね」
しばらくすると、由比ヶ浜が旅館の側面に回り、正面入り口のほうへ歩いて行った。俺たちも裸足のままおいかけた。
「どうする?」
「このまま歩くと旅館を出ることになるから止めましょう」
二人で由比ヶ浜の肩に手をかけた。すると、その肩がビクンと震えて、由比ヶ浜が振り返った。
「あ、ゆきのん、ヒッキー」
「どうしたの? なんでこんなところにいるの?」
「だってめぐみんが、夜の海を見に行こうよっていうから」
「めぐみちゃん? どこにもいないけれど」
「え?」と周囲を見回す由比ヶ浜だったが、目黒の姿はどこにもない。
「いままでここにいたのに」
由比ヶ浜が足元を指差す。
「目黒なんていないぞ。ひょっとするとまた幽霊を見たのか?」
「そんなことないと思うけど……」
「戻りましょ。今午前二時くらいよ。そんな時間にめぐみちゃんが海に誘うわけないでしょ」
由比ヶ浜がぼんやりとしている。やがて、「そうだね。また幽霊に誘われちゃったのかも……」と言いながら、勝手口の方へ歩き始めた。
俺と雪ノ下は顔を見合わせた。その顔には「また?」と書いてあった。
今度は目黒に似た幽霊だったようだ。花火大会のときも、雪ノ下に似た幽霊は由比ヶ浜を海に連れて行こうとしたフシがある。そして、今度も……。幽霊たちは由比ヶ浜を海に連れ出したいようだ。