由比ヶ浜をつれて部屋に戻った。部屋の玄関で、雪ノ下がタオルを濡らして足を拭く。俺と由比ヶ浜もそれにならう。部屋の中では、当然の如く目黒が寝ていた。暗さに目が慣れてくると、豆電球一個の明かりでその寝姿が如実に見える。
夏の暑い夜だ。網戸の内側で窓は少し開いている。そこから海風が入ってくる。周囲がコンクリートの都市とは違って、涼しい風だ。
目黒はタオルケットをかけて寝ていたが、東雲は何もかけていない。それも浴衣を着て、右を下にして寝ている。浴衣のすき間から胸の奥深くのほうまで白く見えている。後ろの雪ノ下に悟られないうちに、目を逸らした。
起きているのは俺と由比ヶ浜と雪ノ下だけだった。他の女子を起こさないように小声で話す。
「結衣ちゃん。もう大丈夫だから、寝て」
雪ノ下にそう言われて、由比ヶ浜が布団の上に座る。
「私どうしたらいいし……。なんか幽霊に憑かれているし……」
「大丈夫よ。私たちがちゃんと見ているから」
「ありがとう。ヒッキーにも迷惑かけてるね」
「俺も問題ない。明日になれば茅ヶ崎も来る。あいつもおまえを守ってくれるぞ」
由比ヶ浜が微笑んだ。そして、タオルケットをかけて横になる。
俺と雪ノ下も寝た。
しばらく俺は考えた。佳乃の幽霊が出たときは、別に何もなかったのだが、由比ヶ浜だけは皆川美由紀、藤木めぐの幽霊に誘われて海へ行こうとした。なぜだ……。それに、武田真結の霊はまだ出ていない。次に出るとしたら武田真結なのだろうか。
また空気の微細な動きを感じた。そして、パジャマを着た女の影が俺の頭の上に立った。雪ノ下だった。かがみ込んだ彼女が「携帯を持ってついて来て」と囁く。
枕元に放置していた携帯をつかんで廊下に出ると、雪ノ下がおいでと手招きする。一階ロビーの方へ行くようだ。
正面玄関近くにあるロビーは、ロビーなんていうほどの規模はないが、ソファが四つ置かれ、中央には低いガラス製のテーブルもあった。
照明は落とされて薄暗い。玄関の天井近くには「非常口」と表示されたグリーンの箱が設置されている。右側の壁には消化設備らしき赤い電灯が光っている。
俺たちは誰もいないソファに並んで腰を下ろした。薄暗くても、彼女の着ているパジャマがスケスケで、白いブラジャーが透けて見えている。
「そんなスケスケルックするんだな」
「なにそれ。いやらしい言い方しないでちょうだい」
彼女が自分の体をあらためて見回す。
「通気性があって、夏はこれがいいのよ」
「ここに連れて来たのは、由比ヶ浜のことだろ?」
「当たり。小町さんに聞いてみてくれないかしら」
「わかった」
携帯を取り出して、メモ帳を開き、守護天使を呼び出した。
『今の由比ヶ浜の夢遊病は見ていたか?』
『うん』
雪ノ下が身を寄せて、携帯画面を覗き込んでくる。
『予測できなかった?』
『できなかった……。実は、この前の花火大会のときも……』
『幽霊みたいなパラメータは設定不可能なわけか……』
『そうだねぇ。どうして予測漏れが起こるのか、いま調べているところだよ』
『何か原因でもありそうなのか?』
『あるとしか思えないよ。何かを見落としているのかも』
『明日の予測はどうだ?』
『……一応、誰にも危険なことは起こらないよ……』
『なんか、自信が無くなってきたみたいだな』
『わかる? でもちゃんと調べるから、待ってて。誰かが介入しているのかも……』
『なんだと? おまえのいるシミュレーション世界は、今はおまえだけじゃないのか?』
『小町だけじゃないよ。色々な人の意識が混じりあって、お互いに干渉し合っているよ。小町を走らせている量子ビットをローカルな範囲に寄せ集めて、やっと自分を維持しているような感じかなぁ』
『他人もいるのか? そこには』
『いるいる。たくさん。自意識をしっかり保っていないと、小町が小町じゃなくなっちゃうよ~!』
『意外に大変なんだな』
ここまでの守護天使との会話を見て、雪ノ下が割り込んできた。
「小町さんにもう一回確かめて。他の人格が私たちの世界に干渉してくる可能性はあるのかしら」
その質問をすると、『わかりませ~ん』と表示された。
『小町、予測漏れの原因を調べてくれ。頼む』
『りょ~かい!』
携帯を閉じた。困った。小町の予測がアテにならない可能性が出てきた。
「明日や明後日は海に入らないほうがいいかもしれないな」
「私は大丈夫だと思うのだけれど。だいたい、この世に心霊現象なんてあるわけないでしょ?」
「だが……。由比ヶ浜が幽霊に誘われて海に行こうとするのはどうしてだ?」
「それは……。自己暗示とか?どこかに海に行かないといけないという強固な意識があって……」
そう言う雪ノ下の顔には自信が見られなかった。
「現に、俺たちだって佳乃の霊を目撃した。おまえも見ただろ」
彼女が何かを言いたそうにしているが、言葉が出てこない。そのむず痒さに耐えている。
そのとき、玄関のガラス戸がカラカラと開いた。薄暗い戸口を、一人の和装の老人が入ってくる。玄関の床を歩く音が、カランコロンと響く。下駄を履いているようだ。
グレーの着流し姿の老人は、白髪で細面、袖口には星型のマークとしてお馴染みの五芒星が見えた。
確か五芒星とは、陰陽道の魔除けの呪符で、安倍晴明がよく使っていた図形だ。
なんでこんな時間にそんな着物を着ている老人が……。外で何をしてきたんだろう。第一、この人は宿泊客なのか……。え? なんかこの人、どこかで見たことのあるような? 見たことあるというよりも知っているような気がするのだが。
下駄を脇の靴箱に収めると、老人は俺たちに一瞬だけ鋭い視線を投げ、別に挨拶するでもなく飄々と歩いた。痩せ型の体はずいぶんと身軽そうだった。ロビーを抜けると、二階への階段をトントンと上がって行った。
俺たちはその風体や場を威圧する雰囲気に気押されて、しっかりと見送ってしまった。
「誰?」と彼女が尋ねる。「さあ」と俺が答えた。老人が去ると、ロビーには静寂が訪れた。外からは、気の早い秋の虫の声が聞こえてくる。
「ところで……」
隣りからまたその言葉が聞こえた。
「ところではよそうぜ」
「ここに来る途中でのことだけれど、ずっと二人きりでいられるときに言ってくれればよかったのに」
あのことか。俺が道端で告白したこと。
「この状況じゃ、それに応えてあげられないじゃない」
そう言って、少し不満そうな顔をしたあと、彼女が微笑んだ。
★ ★ ★
翌朝、部屋が明るくなっているので、一瞬だけ目が覚めた。時計も見ていない。そのうち、「ふあ~」とか「う~ん」という声がしたり、バサバサ・ガサガサする音がして、本格的に目が覚めてしまいそうだったので、俺はタオルケットを頭の上に載せてうつ伏せに寝た。
その間に、女子たちは着替えたようだ。トイレに押し込まれないで済んでよかった。
朝食は確か午前七時から八時の間に、食堂へ行って食べると聞いている。全然食欲がなかったので、俺は女子たちが「ごはん行こう~」とゾロゾロ頭の上を通っても、寝続けた。
静かになった後の二度寝を破壊したのは、朝食から戻ってきた目黒のはしゃいだ声だった。
「ねぇねぇ、さっきのお爺さん、あれって絶対中禅寺秋彦だよ!」「誰?それ……」「京極夏彦の小説に出てくる人」「和服着ていたお爺さん?」「あの人は夜中に玄関で見たけれど」「夜中?」「そう。午前二時ころに外から玄関に入ってきたの」「で、どういう人なの?」「超天才だよ」「あ、まだヒッキー寝てる~!」「お兄ちゃん! ごはんなくなっちゃうよ?」
ぼんやりした頭で聞いていたが、中禅寺秋彦という名前にひっかかった。
目を右手でこすって、左手で頭をかいて身を起こした。女子全員が布団の上に座っている俺に注目していた。
「中禅寺秋彦だ? そんなの実在するわけないだろ?」
俺がそう言うと、「あれは絶対そうだよ! 星型の紋とか、雰囲気とか、年齢とか、あの眼光の鋭さとか」と、目黒が目を輝かせている。
「じゃあ、あの小説はノンフィクションなのか?」
「そういうことになるよね」
「まさかぁ~」と俺はぶっきらぼうに笑った。だが、俺も昨夜の老人との邂逅を思い出していた。あの雰囲気は京極夏彦の小説に描かれている中禅寺秋彦そのものだった。ただし、八十歳の。
「まだ食堂にいるかなぁ。私、聞いてくる。中禅寺さんですかって」
目黒がすごい勢いで部屋を出て行く。ファンなものだから舞い上がっている。
俺は、立ち上がって浴衣の上から短パンをはき、浴衣を脱いでTシャツを着た。トイレに行って歯を磨き、水を飲んだ。コーヒーが飲みたい気分だ。頭がぼんやりする。
部屋では、四十歳くらいの男が布団をたたんでいた。従業員のようだ。普通は、朝食中に部屋に入ってきて、布団をたたんでくれるのだが、女将は三人でやっていると言っていた。おそらく人手不足なのだろう。
そこへ、目黒が宝くじにでも当選したように上気した様子で、部屋に飛び込んできた。
「ヒッキー! やっぱり中禅寺さんだって! 信じられない!」
目黒が息を弾ませている。…んなこたぁない! とニヤケるタモリの顔を思い出した。
「中禅寺秋彦さんですか? って訊いたら、そうです、って答えたよ。小説に登場する架空の人物じゃないんですか? って訊いたら、あれは一部がフィクションでノンフィクション部分も含まれるって言ってた」
「本当かよ!」思わず俺も叫んでしまった。
「あとでお部屋訪ねてもいいですか? ってお願いしたら、今日の午前十一時ごろだったら来てもいいって。二階の山側の部屋だって」
「行くのか?」
目黒が「うん、行く!」と体を弾ませる。俺も凄く興味を感じた。京極夏彦の作品のうち、どれがフィクションでどれがノンフィクションなのか、とても聞いてみたい。それに、中禅寺秋彦という天才と話をしてみたかった。
東雲と由比ヶ浜はあまり興味のない顔をしていたが、俺たち全員で中禅寺の部屋を訪ねることにした。
午前十一時まで、まだ時間がある。それまで自由行動ということになった。すでに九時近い。俺は、一人で食堂に行き、朝飯を食った。女子たちは、旅館の周辺を散策するために出て行った。
食堂には誰もいなかった。一〇畳ほどの部屋で、テーブルが三つ並んでいる。棚に部屋の名前が書かれた区画があり、そこに一つだけ朝食セットが残っていた。
トレイの上に乗っているのは、アジの開き、納豆、生卵、味付け海苔、煮物、漬け物、みそ汁だった。ごはんは横の大きな炊飯器から自分でよそうようになっている。
速攻でメシを食い終わると、俺は裏庭を見たくなり、勝手口のドアを開けた。夜は見えなかったが、旅館の北川が緑の濃い瓦山で塞がれているのわかった。山の頂上を見上げると、いくつかのアンテナが立っていた。
庭の外れには、朽ちたブランコや鉄棒があった。旅館の日陰になり、もの寂しい雰囲気だ。勝手口の石台の上に、ツッカケがあったので、それを借用して庭に出た。たちまち、湿気を含んだ涼しい草いきれに包まれた。
シンシンシンシンという蝉の声。青い空には、ちぎれ雲が瓦山の方へ流れている。その様子をしばらく眺めていると、まるで瓦山が覆いかぶさってくるような錯覚に陥った。
体がフラフラしてきそうだったので、慌てて目を地上に戻した。すると、雑草に包まれたブランコに、女の子がいた。すぐにわかった。その子は松下佳乃だった。
ブランコが軽く揺れていた。そのイスに座っている佳乃は横顔を見せている。真昼間、いや、朝っぱらから幽霊出現かよ!
しかし、何故か恐怖を感じない。それどころか、沈鬱な表情をしている佳乃に話しかけたいと思った。どんな目的があって、俺たちの前に出てくるのかと。
おそるおそるブランコに近づく。佳乃の姿がはっきりとしてくる。昨日の夜と同じで、青いフレアスカートと、白いTシャツ姿だった。五メートルほどの距離まで近づくと、俺は声をかけた。
「佳乃さんでしょ?」
女の子がこちらを向く。その落ち着いた視線が俺をとらえた。無表情の顔を見せたあと、また横顔になった。
「どうして君は、俺たちの前に出てくるんだ? 何か言いたいことがあるのか?」
答えがなかった。代わりに、佳乃は微笑んだ顔を俺に向けた。昨晩はあれだけ喋っていたのに、今日はひと言も発しない。
その体が、あまり重力を感じていないような動きをしてブランコを降りた。その反動でブランコが大きく揺れた。
幽霊のくせに、この現実世界の物体に力を及ぼせるらしい。
佳乃が歩き始めて、立ち木の向こうへゆっくりと消えていく。俺は追った。「佳乃さん! あなたは十七年前に亡くなっている! 気づいているんですか!」そう叫びながら。
低木の茂みの向こうへ出ると、獣道のような筋が地面についていた。すでに佳乃は二十メートル先を歩いている。そのくらいの距離を保ちながら後をつけた。佳乃は時々振り返って、俺がいるかどうか確かめているようだった。やがて、左に階段のような登り道が見えてきた。
歩を止めて、佳乃が俺を見ている。左手で手招きをする。右手は急勾配の道と同じ角度で伸ばされ、その人さし指が上に向けられている。ここを登ると言いたいらしい。
だが……。
その道を登ると、瓦山のはずだった。瓦山には「清子さん」が住んでいて、時々村人を頂上に誘って崖から突き落とす、そんな民話があのブログには書かれていた。
危険だ。佳乃について行ってはいけない。
佳乃が登り道に入り、階段を上がり始める。
すると……。俺の意に反して、体が引っ張られる。いかん! 民話の通りじゃないか。このままだと、意思に反して瓦山を登ってしまう。ということは……。佳乃は清子さんだったのか。
そんなことを思いながら、俺は必死に止まろうとした。だが、止まれない。どうしてだ!
十メートル上には佳乃がいた。スカートをヒラヒラさせて足取りも軽快に歩いている。時々振り返っておいでおいでと手招きするのも、さっきと同じだった。
いったい、俺は、何をしているんだ。もうすぐ、崖から突き落とされて死ぬのか。それが俺の運命だったのか。そうだ。俺は携帯を持っている。いざというときはあいつらと連絡を取ろう。
小町。おまえはこの状況を見ているのか。危険じゃないのか。危険だったらどうして教えてくれない?
頂上につく頃には、足が棒になっていた。立っているのもつらい。十メートル四方の原っぱからは、太平洋が眺望でき、北側にはブログの記事通り、人の背くらいの高さの小さな社があった。その脇には一メートルほどの石碑が立ち、何か彫られているが読めなかった。
しばらく地面に四つんばいになってぜぇぜぇと呼吸した。蝉の声ばかりが聞こえた。今日はトンビが飛んでいない。佳乃は広場の南側に立ち、太平洋を眺めていた。風がスカートをヒラヒラを揺らしている。
「佳乃さん」と声をかける。
すると、佳乃が振り返る。
「あなたは佳乃さんではなく、清子さん?」
四つんばいになったまま、俺は問いかけた。
「ちがいます。私は佳乃です。清子さんではありません」
初めて声が聞けた。
「どうして俺をここに連れてきたんだ」
すると、佳乃は微笑んで、社の方へゆっくりと歩いた。
そして、また手招きする。しかたなく俺はそっちの方へ行った。すると、社の裏側に、五十センチくらいの石積みの山があった。佳乃はそれを指差している。そこに何か埋まっているのか。
石積みの山に注意を取られたあと、佳乃のいるべき場所に目をやると、誰もいなかった。俺は驚いて周囲を見回した。下り道のほうも確かめたが、森閑として人の気配がない。
いったい、今のは何だったんだ。
俺は石積みに近づいて、山を崩し始めた。もしかして死体とかが出るんじゃないだろうな。背筋がザワザワとしたが、俺は石積みを発掘するという魅力を捨てられなかった。何が出てくるというのか。好奇心に駆られて、どんどん石の山を解体していく。
一番下から出てきたのは、二十センチほどの四角いスチール缶だった。サビだらけだったが手に持って確かめると、穴はあいていない。内容物は大丈夫だろう。
そのとき、「お兄ちゃ~ん!」「ヒッキー!」という大声が聞こえてきた。振り返ると、女子たち全員が息を切らして道を上がってきた。小町が先頭を切って走ってくる。
「お兄ちゃん。何やってんの? こんなところで!」
女子たちが社の周りに集結した。胸の上下動がかなり激しい。その中でも雪ノ下が冷静な声を出していた。
「あなたが、山道を登っていくのが見えたものだから」と言ってしばらく呼吸を整える。
「清子さんの民話をゆきのんから聞いて、みんな驚いて追ってきたんだよ」と由比ヶ浜が言う。
「ヒッキー崖から落ちちゃうと思って、みんな焦ったよ」と東雲も苦しそうにしている。
「すまん。佳乃がいたんだ。どうして出てくるのか聞こうと思ってついてきてしまった。ほとんど不可抗力だった。体が言うことを聞かないんだ」
「で、それは何をしているの?」と雪ノ下が解体された石山を指差す。
「佳乃がこれを掘り出して欲しかったらしい」
錆びたスチール缶を、みんなの前の地面に置いた。
「なにこれ」「変なものが入っているの?」「開けたら呪われたりして」と口々に不安がる。
雪ノ下が缶の近くにしゃがんで「開けてみましょうか」という。
「やめたほうがいいような気がする」と目黒が消極的な発言をしたが、それにかまわず、雪ノ下が缶をギギッと音をさせてフタを開けた。そこには、写真や手紙やらアクセサリーやら、女学生の持ち物っぽいものが、ほとんど劣化することなく詰め込まれていた。
「これか……。 佳乃さんはこれを発掘して欲しかったんだな。なんか拍子抜けした。可愛いもんだな。こんなものを気にしているなんて。女の子らしい」
俺は特に危険物じゃなかったことに安心した。それに、崖から落ちずに済んで、助かったような気がした。おそらく、清子さんというのは根も葉もないただの民話だ。