松林を早足で歩いて勿来海岸についた。砂浜の上に出たとたん、熱気に包まれる。
パラソルの下には雪ノ下がチェアの上に横たわっていた。荷物番をしながらうたた寝をしているようだ。体の上にはバスタオルが被っている。
波打ち際では、四人の女子と茅ヶ崎がギャアギャアと戯れていた。すぐ近くには、砂の山もできている。
雪ノ下の隣りのチェアが空いているので、俺も寝た。
「どうだったの? 何かわかった?」
頭をもたれたまま、眠そうな目で問いかけてくる。
「収穫ありだ。とても信じられないことがわかった」
そう言って、写真を渡した。寄り目になって写真を見ている彼女の眉間にシワができた。
「由比ヶ浜さんそっくりね」と言って顔を俺に向ける。
「それが武田真結だ。その子には姉がいる。結子という名前の。今生きていれば四十歳前後だろう」
「それが?」
「由比ヶ浜の母親の年齢も、たぶんそれくらいだろ?」
「それって……」
「まだある。決定的なことが。武田真結は十六歳になったときに、自分の十四歳までタイムスリップしたと書いている。気がついたら十四歳の自分になっていたようだ。しかもタイムスリップするとき、宇宙空間を漂ったとまで言っている」
「なんですって?」
彼女の上半身が起き上がり、その目が俺を見据えていた。
「では、武田真結という子は、私たちと同じ境遇ということになるの?」
「そうなるな。そうとしか考えられない。本人は自分が人格シミュレーションだったとは思っていないようだが。あとで手紙を読んでみてくれ」
雪ノ下が手を額に当てて考え込んでいる。
「やっぱり……。今まで私たちが目撃してきた幽霊は、いわゆる心霊現象ではない可能性が出てきたわけね」
「守護天使小町がよくやる脳ハッキングかもしれない。午前中、瓦山に登った俺は、体が勝手に動いていた。運動中枢も支配できるらしいな。だが、それを誰がやっているのか不明だ。武田真結の可能性が高いとは思うが」
「ということは、小町さんみたいにシミュレーション世界にいるということになるわね」
由比ヶ浜がパラソルの下の俺たちを見ている。俺は手で合図して呼んだ。ダダダッと駆け寄ってくる。
「なに? どうしたの?」
と、由比ヶ浜がかがんでパラソルの下に入ってくる。その手や足、顔には白くなるほどの日焼け止めが塗られていた。
「由比ヶ浜、おまえの母親の名前って……、旧姓は武田か?」
きょとんとする由比ヶ浜。指をアゴに当てている。
「なんで知ってんの?」
「下の名前は、結ぶという字に子供の子だよな?」
「そうだよ。読み方は、ゆいこじゃなくて、ゆうこだよ」
俺と雪ノ下は顔を見合わせた。そういうことなのか……、と。
「午前中にタイムカプセルを掘り出しただろ? あの中の手紙に書いてあったんだ。あとで読んでみろ。それから……」
それから……と言って俺は言いよどんだ。母親の結子さんに今ここで電話して確かめて欲しい、と言いたかった。だが、由比ヶ浜の母親は昼間、働いているような気がした。そんなことを前に言っていたのを覚えている。そうなら電話しても迷惑になるだろう。夜に電話してみればいい。
「ん? 何? ヒッキー」というので、「いや、何でもない。宿に帰ったら詳しく話すよ」と返す。
「そう? 私のお母さんの名前が書いてあるの? それって変だね」
「俺も驚いた」
今、由比ヶ浜を不安に陥れる必要があるだろうか。水と風と光にまみれて楽しく遊んでいるというのに。しばらく無言でいると、由比ヶ浜が声をかけてきた。
「ヒッキーも遊ぼうよ! さっき宝探しやったんだよ? 一番面白かったときにいないし~」
「俺、山登りしたり、中禅寺さんと喋ったりして疲れちゃったんだ。それに日焼けしたくないし」
「軟弱だね~! そっか、ヒッキーは太陽の光が届かないところで暗躍するスパイに向いているんだよね。さっきめぐみんが言ってたし」
「あははは。そうか。スパイなのは俺のひいお爺さんだけどな」
由比ヶ浜が、波打ち際に戻っていく。
「で、私たちはどうしたらいいのかしら」
「わからん。どうすれば……、とにかく小町に武田真結がそっちにいるかどうか探してもらおう」
「もし小町さんがコンタクトを取れたら、武田真結さんが干渉してくるのを止められるかもしれないというわけね」
「昨日の夜は、周囲にたくさんの人格があると言っていたから、探すのに苦労するかもしれないな」
首から下がっている防水パックから携帯を取り出す。メモ帳に文字を打ち込む。
『小町、見ていただろ?』
『うん。全部。それでね、武田真結さんを探しているよ、今』
『いそうなのか?』
『わからないよ、まだ。もしかして逃げられたら、見つけるの難しいかも……』
シミュレーション世界では、人格を区別できるような目視できる外見は存在しないだろう。それに、無数の人格があるとして、それを統合するシステムなんてないはずだ。ローカルな粒子が集まって、それぞれの人格ができているようだから。そんな中で、どうやって目的の人格を探すのか、俺には想像もできない。
『よろしく頼む。発見したら、俺たちに関わるのは止めるように説得して欲しい』
『りょうかい!』
『もし拒否したら、武田真結を止める方法ってあるのか?』
『う~ん。そうだな~。あることはあるよ』
『どういう手段があるんだ?』
『自爆だね。映画のマトリクスであったじゃん。プログラムである相手に入り込んで自爆するの。あれしかないよ』
『そうすると、おまえも死ぬのか』
『そういうことになるかな~。あるいはまったく違う人格になるかも。それまでの記憶も何もかも飛んじゃうかも』
この言葉を聞いて、俺の胸中には、嫌な味のする懸念が広がった。いくらシミュレーションとはいえ、守護天使小町は俺にとっては本物の妹だ。
『それは考えたくないな。困ったな』
『まあ、見つけたら説得してみるよ!』
『おまえが予測できないことが発生する原因がわかったな。よかった。あとは原因に対処するだけだ』
『は~い! 小町は全力で事態改善につとめま~す!』
携帯を閉じた。事態が好変する気配を感じた。少しだけさきほどの嫌な懸念が薄れ、胸中に安堵感が広がった。
★ ★ ★
明るいうちに宿に戻った。今日もまた茅ヶ崎と一緒に風呂に入った。そのときに、明日も必ず来てくれと頼んだ。
そして、昨日の水合戦のような騒ぎは起こらなかった。やはり二日連続で海にいると、茅ヶ崎といえども疲れるようだ。それに、今日は女子たちと戯れて仲良くなったようなところがあるので、あまり攻撃的な発想がないのかもしれない。
茅ヶ崎はどっぷりと湯につかって押し黙っている。女子のほうからもあまり声が聞こえてこない。
やはり、部屋に最初に戻ってきたのは俺だった。薄暗い部屋の電気をつける。床の間のスチール缶に目をやったが、俺は座布団を何枚も重ねてその上に仰向けに寝た。
ものの五分でウトウト状態に陥った。やがて、女子たちの声で目が覚めるが、体を動かす気になれなかった。
体が日焼けのために火照り、異様にだるい。
「ええ~! 武田真結という子は私の叔母さんになるの~!!」という突然のでかい声で、再び目が覚めた。
「そういうことになるわね」
「意味がわからない、どうして?」「叔母さんの幽霊が呼んでいるの?」「でも、叔母さんだよ? 普通守ってくれるよね」「探して欲しいんだよ」「寂しいのかも」「どこにいるのかわからないんでしょ?」「なんか怖いね~」
俺は目を開けて体を起こした。手紙を手に持って呆然としている由比ヶ浜の背中に声をかけた。
「由比ヶ浜、その手紙は叔母さんの遺品になる。だから、お母さんに渡してやろう」
由比ヶ浜が振り向く。
「そうだね。お母さんに電話してみるよ、いま」
由比ヶ浜が携帯をバッグから取り出して操作した。
「うん、うん、へぇ~、それで? うん、そうなんだ? で? 本当? なるほど~」などという相槌が聞こえてきた。結構長い会話が続いたが、やがて由比ヶ浜が携帯を閉じるパタンという音が聞こえた。
しばしの沈黙……。
「どうしたの?」という雪ノ下の声。俺も、由比ヶ浜の近くにあぐらをかいて座った。目黒、東雲、小町も由比ヶ浜に注目して言葉を待っている。
「お母さん、言ってた。真結ちゃんは十四歳のときに急に雰囲気が変わって、予言みたいなことを言い始めたんだって。この子大丈夫? ってずっと思ってたらしいよ。でも、悪いことをするわけじゃないし、普通だったし……。ちゃんと良い高校も行ったし、心配だったけど、慣れて行ったんだって。
お母さんは、この旅館に来て、泊まってたんだって。行方不明になってからしばらく。お婆さんとお爺さんも一緒に。
遺品が出てきたよ、って言ったら喜んでた。お爺さんとお婆さんに連絡するって……」
「まだ遺骨が発見されていないから、供養のしようがないよな」
俺がそう言うと、「そうだね……」と由比ヶ浜が俯く。
トントンと扉を叩く音と共に、三十代半ばくらいの仲居さんが入ってきて、「夕食の用意ができました。食堂へどうぞ」と言う。
食堂は小さめなので、宿泊客を順番に案内しているようだ。疲れと同時に、強い空腹も感じる。メシのことを思い出すと、俺の腹がグゥーと鳴った。
食堂のテーブルは、すでに人数ぶんの食事がセットされていた。もう一つのテーブルには、他の客がすでに座って食べていた。
小さな燃料が下に置いてある鍋。刺し身の盛り合わせ、揚げ豆腐、山菜の小鉢、海藻の酢の物、肉じゃが、生卵などが並んでいた。
俺たちは、早速置いてある長い着火用のライターで、固形燃料に火をつけた。鍋のフタを開けると、すき焼きだった。宿代は安めなのに、これだけ食えればお得感が半端ない。
再び腹がグゥーと鳴るので、鍋ができる前から、周りのものにパクついた。女子たちも同様だった。
満腹で部屋に戻ると、布団が敷かれていた。それを、俺たち専用の配置に直す。俺が一番廊下側だ。
それを終えると、雪ノ下が提案する。
「あの遺品のことだけれど。あの中にはここの娘さんのものも混じっているから、女将さんに渡すべきだと思うのよね……」
座布団の上に座った俺も賛成する。
「それがいい。これから渡しに行こうか。食事も終わったから、今だったら忙しくないかもしれない」
「それって私の叔母さんのぶんも渡すの?」と由比ヶ浜が聞いてくる。
「最初だけ見せたほうがいいと思うのだけれど。こんなふうに、瓦山の上で見つかりましたと。事情を話して、武田真結さんのものを引き取りましょう」
「そうだね」
「皆川美由紀と藤木めぐの遺品は、俺たちにはどうしようもないし。その二人のものは女将に託そう。連絡先も知っているかもしれない」
スチール缶を持って、女将の居住区画を訪れた。訪れたのは俺、雪ノ下、由比ヶ浜の三人だった。
迎え入れてくれた女将は、瓦山の頂上で遺品を発見したことを告げると、「あらぁ~~」と驚いた顔をしていた。
六畳間のお膳の上に缶を置く、その中から手紙や写真、小物を取り出して広げた。
女将は、まず写真を一枚一枚、じっくりと眺め始めた。
「あらぁ~当時のままだね~。こんなもの残していたなんてね~」と潤いを含んだ小声を出す。松下佳乃の手紙を読み始めると、少し涙ぐんだ。
「女将さん、この由比ヶ浜結衣が、亡くなった武田真結さんの姪に当たります」
俺がそう言うと、女将は「ええ~!」と声を上げた。由比ヶ浜を見つめている。
「本当なの? どういう因縁なんでしょう!」
「私も手紙を読んでびっくりしたんです。さっきお母さんに電話しました。そしたら、お母さんとかお爺さんとかお婆さんも当時、この旅館に泊まっていたそうです」
由比ヶ浜の発言が当時の記憶を刺激したらしい。女将は「ああ、武田さんたちよね。覚えている……。この部屋で一緒にわんわん泣いちゃったのよね。皆川さんや藤木さんもいた。あれから十七年か……、早いものね」と言って遠い目をする。
女将は、武田真結の遺品を除いたものを預かり、藤木家と皆川家に連絡してくれるという。
由比ヶ浜は、武田真結の手紙と写真をいくつかピックアップした。小物もいくつかあったが、どれが誰のものなのかわからない。わからないものは、この旅館で保存すると女将が約束してくれた。
その夜、俺たちは十一時前には全員寝てしまった。
まず最初に俺が布団に入って横を向いた。だが、明日は八月一日だ。きっと何かが起こる。そう思うと、変な緊張や不安感が襲ってきて、なかなか眠れなかった。
そのうち、「私も眠いから寝るわ」という雪ノ下の声が聞こえた。続いて「私もねるし~」と由比ヶ浜の声。
最後まで喋っていたのは東雲と目黒と小町だったが、やがて声が聞こえなくなった。小町は俺の隣りなので、布団に入るときの風が俺の首の後ろをくすぐった。
俺は、また由比ヶ浜が武田真結に脳ハッキングされ、外に出ようとする可能性のあることに気づいた。豆電球の明かりに目が慣れているので、近くの俺のリュックをたぐりよせた。そこから、小型のノートを取り出し、数枚破いて折って行った。それをふすまの下に力でねじ込んで、開かないようにした。もし、これを開けようとすると、すごい力が必要になり、開いたとしても大きな音がするはずだった。こうしておけば、誰かが気づくだろう。
そんな仕掛けをすれば安心するはずだが、どうしても俺は眠れなかった。寝返りを打って小町のほうに顔を向けると、また口を開けて寝ていた。さすがにイビキはかいていないが。
陰になって見えないが、小町のすぐ向こうには雪ノ下が寝ているはずだった。きっとあの平和な寝顔なんだろうな、と思ったとき、小町の顔の上に人影が盛り上がった。ん? 人影の上半身が起き上がる。そして立ち上がる。その人影は雪ノ下だった。
そろそろと音を立てずに歩き、ふすまのところに来た。俺の頭の上だ。
なんだと? 今度は雪ノ下が脳ハッキングされているのか?
襖が開かないことに気づいたようだ。すると、カンのいいことに、すぐにかがんで俺が差し込んだ紙を抜いた。
するりと開く襖。そろそろと出て行く雪ノ下。
いったいどうしたんだ?
ドアが開く音がする。トイレではない。外に出て行くようだ。
この時間に外に出て行く用事が想像できず、俺はその後を追った。おいおい。あの雪ノ下までが武田真結に操られるのかよ。
ドアから顔を出すと、廊下を音もなく歩いていくのが見える。俺もツッカケをはいて廊下に出る。雪ノ下は勝手口を開けて、裏庭に出た。どこへ行こうというのか。
白いパジャマがぼんやりと闇に浮かぶ。それに長くて黒い髪。知らない人が遠くから見たらそれこそ幽霊に見えるかもしれない。
やがて、雪ノ下は裏庭のベンチに座った。近くには対面式のブランコや鉄棒もある。あのブランコは松下佳乃が乗っていたやつだ。
雪ノ下に近づく。すると、彼女は星空を見上げていた。小さな鼻歌を鳴らしながら。
「どうした? こんなところで何してんだよ。こんな時間に。まさか脳ハッキングされてんのか?」
彼女が俺に顔を向けて、微笑む。なんか雰囲気が違う。
やっぱり……。小町、助けてくれ。早く武田真結をなんとかしてくれ。こうもたやすく操られてしまうとお手上げだ。
ここへいらっしゃい、と彼女が手でベンチを示す。俺はその通りにした。
「あの? 雪ノ下さん? 大丈夫ですか?」
そう問いかけても無言だった。やがて、彼女が俺の手を引っ張って、自分に引き寄せる。ふんわりとした髪と肌の香りに包まれた。そのまま、彼女が俺の上に覆いかぶさってくる。
「どうしたんだ?」
ちょっとこのシチュエーションが信じられずに、俺は周囲を見回す。旅館の二階の窓も見る。誰もいない。
仰向けになり、彼女の体をしっかりと抱いた。髪が俺の顔に落ちてきて……。その大きな目が近づいてくる。やがて、唇と唇が合わさる。
だが、どうしても拭えない疑問……。
しばらくして、再び訊いた。
「気は確かか?こんなところで」
少し顔を離して、彼女が初めて小さな声を出す。
「脳ハッキングなんてされているわけないじゃない。あなたは絶対ついてくると思った」
俺のすぐ上に笑顔があった。その言葉に安心した。
すると、押さえきれない欲情が沸き起こった。
「文句は夏に言いなさい」と彼女が囁いた。