由比ヶ浜の恋と勿来ヶ崎奇譚   作:taka2992

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守護天使小町の死

 

 

 

 八月一日。記録に残っている限り、この勿来海岸では明治時代から集団溺死事件が度々起こってきた。そして今年、十七年ぶりの、そんな現場に俺たちが遭遇するとは思わなかった。武田真結の「もうやめます」という言葉に安心して、油断していた。

 勿来海岸はパニック状態になっていた。とにかく若い女の子が沖へ沖へと向かっていく。

 海岸にいる男性は、自分の子供や恋人、友達の女を引き止めるのに躍起だが、「ウルセー! じじい、手を離せ!」なんて言われているオッサンもいる。

 小学生くらいの女の子を引き止めるのは成人男性にとっては簡単だが、成人女性ともなれば、本気の蹴りやパンチには威力がある。砂浜の上で泡を吹いてノビている若い男もいる。

 海の中では、男性のライフセーバーが女性を数人引きとめている。背が立たない場所らしく、女たちは「どかんかい!」とライフセーバーの頭の上に次々と乗っかって沈めていた。

 砂浜にいるもう一人の女性ライフセーバーも、男性の敵として機能していた。笛を「ピーピー」鳴らしながら、女を引き止める男に蹴りを入れている。蹴られた男は「ひっ」と声を上げて砂浜に倒れる。すると、女が波の上を走り出す。

 そして、陸の上にはオバサンと呼ばれる年齢の女性がたくさん残っていた。集団溺死する資格は、若い女性に限られているようだった。

 

「小町、助けてくれ、なんとかしろ!」と叫ぶと、再び制服姿の小町が現われたが、ほとんど動かない。ただ、「いま、誰がやっているのか探しているよ」という声が聞こえてきた。

 

 中禅寺さん! こんな見ものを逃すなんて、あなたらしくないですね。できれば助けて欲しい。この海岸の女性は憑き物に憑かれている。あなたの憑き物落としでなんとかして欲しい……。

 だが、それも無理っぽい。レミングの行進の一番先端にいるのが由比ヶ浜だった。海岸の右方向から左方向へどんどんと流されていく。すでにかなり沖だ。

 大正時代の新聞の文面を思い出す。

 

『勿来岬近邊の潮の流れ険しく鋭利なる巌に中りて沈歿せし舟多数の難所なれば地元漁夫の遊泳及び操漁する者あらざりしと云ふ』

 

「お兄ちゃん。わかった。誰の仕業か」という声で我に帰った。それと同時に、直径三メートルくらいの透明な球体が、俺を包み込んでいることに気がついた。

 その球体の内部には、小町もいる。茅ヶ崎は五メートルくらい離れた場所で茫然としている。

 

「この球体は何だ?」

 

「この範囲だけ時間を早めているんだよ。外を見てよ」

 

 海に目を向けると、人が動いていない。崩れかかっている波も、そのまま凍りついている。まるで人は蝋人形のようだし、動かない波も模型のようだった。しかし、ずっと見ていると、少しずつ、動いている。

 

「なんでこんなことを……」

 

「こうしないと結衣さんがどんどん沖へ行っちゃうでしょ?シミュレーション世界の反応速度よりも超遅いけれど、現実世界の人間が耐えられるギリギリまで時間を早めているんだよ」

 

「そんなことが可能なのか? 時間を操るなんて?」

 

「簡単にそれを説明するとね~、う~ん、そうだな~、さすがにお兄ちゃんでも重力場という言葉は聞いたことがあるよね?」

 

「あるな」

 

「場には必ずエネルギーの振動があるんだけど、この球体の内部だけ、それを逆に振動させているんだよ。振動といっても、虚数方向への振動だから、糸なんかの振動とまったく違うし、目に見えないし、純粋に数学的な振動なんだけど、なんて言ったらいいのかな~、とにかく、架空の振動があって、場に存在するある物理量の値が、時間によって循環的に変化していると考えて? それを逆にしているんだよ。

 そう、ヒッグス場の過冷却状態で発生するインフラトン場に近い状態。初期宇宙のインフレーションを引き起こしたのと同じような機構で発生する斥力。それもごく薄められた……」

 

「正直わからん……。それで?」

 

「そうするとね、重力は引力だよね? でも場の振動を逆位相にすると、斥力が働くわけ。だから、要するに反重力場になっているんだよ。ここだけ」

 

「そうするとどうして時間が早く進むんだ?」

 

「重力のとてつもなく強い場所、たとえばブラックホールの中は、時間の進み方が超遅くなるでしょ? 逆に、反重力場では時間の進み方が早くなるんだよ。相対的に」

 

「なんとなくわかる」

 

「その証拠に、足元を見てよ。砂が少し浮き上がっているでしょ」

 

 下を見ると、砂がモワモワとくるぶしのところまで浮き上がっている。

 

「その現象は、物質同士の斥力が働いているからだよ。もっと斥力を強くしたら、お兄ちゃん、空中浮遊して風船みたいに破裂しちゃうよ~」

 

「こえ~な」

 

 腕を見ると、少し膨れているような気がする。若干、顔もむくんでいる。

 

「で、いま、外部の相対的な時間は、内部の五十分の一程度にまで遅くなってんの。だから、少し落ち着いて。時間的な余裕はあるよ」

 

「おまえ、そんな知識をどこから……。すげーわ」

 

「こまちはアーカイブにアクセスできるって言ったでしょ。しかも本一万冊分の情報量なんて〇・一秒で吸収できるんだよ」

 

「信じられん。さすが守護天使だ。それで、このパニック状態の元凶はわかったんだな」

 

「うん。おりょうっていう人。江戸時代初期の勝浦宿の(くるわ)の女郎。その人、十四歳で廓に売られたんだって。

 無理矢理に客の相手させられるでしょ? そういう人たちって。で、何回も脱走しては捕まってをくり返して、すぐそこの地獄岩に流されたんだよ。折檻のために。それが十六歳のとき。おりょうさんはもう、こんな苦界から逃れるために入水自殺しちゃったんだよ。地獄岩の海に……」

 

「でも、それはシミュレーション世界での出来事なんだろ?」

 

「そうだよ。でも現実世界でも同じことが起こったんだよ。そもそもシミュレーション世界は現実世界の鏡像だよ? 

 だから、おりょうさんは若い娘が楽しそうに生きているのを見るとすごく嫉妬して、度々溺死事件を引き起こしてきたっていうのが真相みたい」

 

「それで……、この海が呪われているように見えるわけか……」

 

「そういうこと。それでね、おりょうさんにやめてくれと言っても、まったく聞く耳を持ってくれなくて…。このままだと史上最悪の集団溺死事件になっちゃうよ」

 

 俺は言葉を失った。海では時間がほとんど止まっているとはいっても、確実に多数の女性が沖へ向かっている。由比ヶ浜の姿もすでに見失った。雪ノ下、目黒、東雲、小町は、おそらくフェンスあたりに浮かんでいるのがそうだろう。

 

 俺は思い出したくなかった。他の人格を攻撃して、その行為をやめさせるには、自爆しかないことを。

 小町は俺の肉親だ。いくらシミュレーションといっても、俺もかつて同じ立場だった。それだけに、小町が消滅してしまうことには耐えられそうにない。しかし、現実世界の小町も……、このままだと失うことになる。どうしたらいいんだ。

 

「お兄ちゃん、とうとうお別れの時が来たね……」

 

 少し寂しそうな顔をする小町がそこにいた。やはり、それしかないのか……。

 

「おまえ、自爆するつもりなのか」

 

「それしかないでしょ。しかたがないよ。お兄ちゃんの彼女とか友達とか実の妹を守るためには」

 

「しかし……………」

 

「大丈夫……。私が死んでも代わりはいるもの」

 

「おまえ、冗談を言っている場合じゃないだろ」

 

「冗談じゃないよ。現実世界の私がいるじゃん?」

 

「小町……」

 

 言葉が出なかった。だが、ここで小町に働いてもらわなかったら、最悪の場合、俺の知り合いや実の妹が全員死ぬかもしれないのだ。

 

「お兄ちゃん、いままでありがとう。おりょうさんへのアタックを開始したから……」

 

「おい! よせ……」

 

 やめろ! と叫びたかった。が……。できなかった…。由比ヶ浜や茅ヶ崎の窮地を救ってくれた守護天使小町が、自分を犠牲にしてこの海岸の全女性を、俺たちを、また助けようとしている。

 

「おまえがいなくなるなんて考えられない。ありえねぇよ……」

 

 涙がボロボロと出てきた。最後の瞬間にこんな顔を小町に見せたくないのに。

 

「すでに半分くらい侵食したよ。お兄ちゃん、おりょうさんと一緒に自爆したら、すぐに体が動くと思うよ。茅ヶ崎さんも」

 

「わかった……」

 

 小町の姿に変化が現われている。液晶画面のドット欠けのように、微細な穴が空き始めたのだ。総武高の夏服の、白いスクールシャツの部分を見ると、それが如実にわかる。

 そして……。微細な穴が小町を侵食していく。その速度が早くなった。

 

「小町、俺は……」

 

「お兄ちゃん、泣き顔じゃなくて、笑って見送って」

 

 それを聞いたとたんに、涙の量が一気に増えた。ボロボロと頬を伝って落ちていく。だが、俺は無理して笑顔を作った。だいたい、俺なんて笑顔に慣れていない。俺の笑顔なんてちっとも見てくれのいいもんじゃない。だが、俺はひきつりながらも無理して笑った。

 

「そろそろ、本当にお別れだよ。お兄ちゃん、元気でね。ゆっきーにもよろしく。お兄ちゃんやゆっきーと過ごした時間は小町…に…とってと………ても幸せ…………でし…た。ど………うも……ありがとう……………ご……………ざいまし………………………た」

 

 小町の姿がうっすらと輪郭を残すだけになった。顔の表情も、すでにない。あるのはボーッとした煙のような影だけだった。そして、最後に、その輪郭が強烈な光を放った。思わず目を瞑ったが、それでも目の中が真っ赤になり、強烈な痛みが走った。

 俺は「こまち~!」と叫んでいた。守護天使小町はこの海を呪っていた悪霊と一緒に自爆したのだ……。

 

 しばらく、視界が暗くなった。よく見えない。それでも、俺を包んでいた球体が消滅し、周囲の時間も普通に戻っているのがわかった。

 小町を失った感傷に耽っている場合ではない。この海岸全体を覆う危機は、強烈なスピードで進行している。

 涙を手の甲で拭った。体が動く。隣りの茅ヶ崎も同じように我に帰っている。

 

「茅ヶ崎、由比ヶ浜を追って助けろ!」

 

「おう!」

 

「これを持って行ってくれ」と、俺は防水パックに入った携帯を投げた。それを受け取って首から下げ、茅ヶ崎は全速力で海の上を駆けて行った。深いところまで達すると、クロールで泳ぎ始めた。すごい速度だった。

 

 海岸では我に帰った女性たちが茫然としている。自分たちが何をしていたのかわからないようだ。

 海の中でも、今度は女性たちが逆に、陸の方向へ泳いでいた。遊泳ゾーンの外に出ていた女性たちも、こっちに向かって泳いでいる。だが、みんな右方向へ流されている。強い潮流があるのだ。

 もう少し陸側には、雪ノ下、東雲、目黒、小町の姿があった。足が立つ場所まで泳いで来ると、ヨロヨロしながら歩き始めた。その中に、由比ヶ浜の姿はなかった。

 

 沖を見ると、ジェットスキーが三台くらい、小型のモーターボートが二隻、救出活動に当たっていた。海に浮かんでいる女性たちに救命胴衣や浮き輪、ロープを次々に投げている。

 

 砂浜で待っている俺のもとに、四人の女子が戻ってきた。みんな青い顔をしている。寒そうだった。雪ノ下に声をかける。

 

「危なかったな。大丈夫か」

 

「少し冷えているけど、大丈夫みたいね」

 

「小町が自爆した。それで、脳ハッキングが解除されたんだ」

 

「自爆?」

 

 不思議そうな顔をしている雪ノ下に、今までの小町とのやりとりを説明した。そのあいだ、俺は必死に涙を堪えていた。

 

「まだ、由比ヶ浜が戻っていない。かなり沖まで流されているようだ。茅ヶ崎が追っているが……」

 

 雪ノ下、小町、目黒、東雲はブルブル震えながら、沖のほうを眺めた。

 

「結衣ちゃん、茅ヶ崎君が助けてくれるよ、きっと」

 

 東雲が凍えるような声で言った。俺もそう願った。南の空から迫ってきていた黒い雲の塊は、すでに上空まで達していた。今にも雨が降り出しそうだ。

 俺の足の力が抜けた。砂の上にひざをついていた。自然に涙がまたこぼれ始めた。

 その様子を見た小町が「お兄ちゃん大丈夫?」と心配そうに声をかけてくる。

 俺は、その手を握った。握らずにはいられなかった。

 

 

 

 

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