海岸の駐車場には、いつの間にか多数の赤色灯が瞬き、砂浜には、パトカーや大型の消防車両が何台も乗り入れていた。背中に千葉県警とロゴの入った紺色の人たちが歩き回っている。
さらに、オレンジと紺のウエットスーツに、ヘルメットとシュノーケルをつけたレスキュー隊の人たちが海に入っていく。レスキュー隊は、女性の腕を抱えて次々に砂浜に運ぶ。
上空にはヘリが三機旋回し、沖には海上保安庁の巡視船が一隻見える。そこから、ゴムボートが海岸方向へ近づいてくる。
おそらく、警察や消防に通報が殺到したのだろう。海岸はパニックの第二フェーズに突入していた。大騒ぎの状態が続いている。
やがて、パトカーの拡声器がアナウンスを開始した。
「行方不明者をご存じの方、知り合い、ご家族が戻っていない方、こちらに来て知らせてください」
これが何回もくり返された。
水着の上に適当な服を着て、パラソルの下やテントの中にいた俺たちは、由比ヶ浜と茅ヶ崎がまだ戻っていないことを知らせる必要があった。その任は俺と雪ノ下が果たした。対応してくれた警察官は、二人の名前と特徴や、俺たちの連絡先も書き取った。発見次第、連絡をくれるという。そして、俺は地獄岩のあたりを指差し、あの辺に流れ着いているかもしれません、と言った。警官は「参考にさせていただきます。当然、このあたりすべてを捜索するはずです」と答えてくれた。
絶対、茅ヶ崎は由比ヶ浜に追いついている。俺は確信していた。あいつが由比ヶ浜を追いかける途中で溺れるわけがない。仮に、由比ヶ浜を発見できなかった場合でも、すでに泳いで帰ってきているはずだ。
おそらく、由比ヶ浜を発見して、溺れそうになっているのを助け、一緒に潮に流されたのだ。一人だったら茅ヶ崎は自力で帰ってこれるが、由比ヶ浜が沈まないように支えるのは苦労するだろう。二人で浮いているだけが精一杯で、激しい潮の流れに流されている……。
午前中の、遊歩道からの眺めを思い出す。海岸の右から左へ潮が流れ、それは地獄岩あたりにぶつかっているはずだった。運が良ければ、二人はそこへたどり着く。そうであって欲しい。もし地獄岩にたどり着かず、沖へ流されれば、いくら茅ヶ崎といえども体力が続かない。
午後四時過ぎとは思えないほど勿来海岸は暗くなっていた。だが、雨は落ちてこない。みんなが押し黙ったまま、待っていた。二人の帰還を。
駐車場のほうでは、テレビカメラをかついた人たちが、海水浴客にインタビューする姿も見られた。
俺は、砂浜にあぐらをかいてしばらく座っていた。そのとき、テントのほうから携帯の着信音が聞こえた。携帯電話にデフォルトで内蔵されているシンプルな着信音で、だんだんと大きくなってくる。
「誰?」と東雲が俺たちを見ますと「私じゃないよ」と目黒が答える。「私のね」と言ったのは雪ノ下だった。
リクライニングチェアに腰かけていた雪ノ下がテントの荷物から携帯を取り出し、耳に当てる。そのとたん「何ですって? 無事なの?」と驚きの声を出す。
雪ノ下が俺に駆け寄ってきて、「茅ヶ崎君から。代わってくれって」と携帯を渡す。俺も「なんだって?」と大声を出してしまった。
「もしもし、茅ヶ崎? 無事なのか?」
「無事だ。今、一番沖の岩だか島だかにいる。由比ヶ浜も無事だ」
俺が「無事だそうだ」と女子たちに言うと、「わぁ~!」「よかった~!」と声が上がった。
ザワザワと全身が総毛立った。同時に胃のこわばりが解けて、体中の緊張がほぐれていった。ふぅ~、と息が漏れた。女子たち全員が俺に注目している。
そうか。俺の携帯を茅ヶ崎に託していた。そのことをすっかり忘れていた。俺の携帯のリストに真っ先に出てくるのは雪ノ下の番号だ。とりあえず、そこにかけてみたのだ。
携帯電話からは、波の砕ける音が時々聞こえてくる。
「今いる位置を警察とか海上保安庁に連絡しろ!」
「とっくにしてるぞ。海上保安庁じゃなくて一一〇番と一一九番だがな。もうすぐこっちに来るって言ってる」
「そうか。安心した。茅ヶ崎………、さすがだ…。とにかくありがとう。やっぱり由比ヶ浜を助けられるのはおまえしかいない」
「何言ってんだおまえ。そんなことより、俺たちは洞窟に流されていったんだ。洞窟の入り口には岩がフェンスのように繋がっていて、ちょうど水がそこに引き込まれてるようになっている。
面白れぇことに、洞窟の中には陸地があるんだ。小さいけどな。そこでたっぷりと休めたんだが、信じられないことに、骨がいっぱいあるんだ」
骨がいっぱい……。今まで流された人たちの骨だろうか。それ以外に考えられない。
「今は洞窟にいるのか? 電波が届かないんじゃないのか。洞窟だと」
「そう。それなんだよ! 洞窟内で休んでいても、警察とか消防に連絡しなきゃどうしょもないだろ。だから泳いで出てきた。今は岩にしがみつきながら電話してんだ」
「由比ヶ浜は?」
「洞窟にいるよ。骨と一緒に。怖いから一人にしないでとか言ってたけど、しゃあないだろ?」
ここで茅ヶ崎はクスクスと笑った。笑えるほどの余裕が伝わってきて、さらに安堵した。
「その骨は陸地にあるのか?」
「そうだ。奥のほうは気味悪いから行っていないが、点々と骨がある。ちゃんと頭蓋骨の形をしたものも見た。それに、洞窟の入り口あたりの水底にもあったぞ。たくさん」
それは、江戸時代に地獄岩で投身自殺した、おりょうが祟った結果に違いなかった。
『寒いよ……。暗いよ……。助けて……。水が入ってくるよ……。ここでたくさんの人が助けを待っているよ……』
由比ヶ浜が無意識で発したこの言葉の意味が、今になって理解できた。洞窟だったのだ。武田真結の遺骨は、二人が流されていった洞窟内にあったのだ。その内部は潮の満ち引きで水の出入りが激しいに違いない。
人格シミュレーションの武田真結は、脳ハッキングを諦めたはずだが、期せずして目論見を達成したことになる。叔母である武田真結の遺骨を、姪である由比ヶ浜結衣が発見したのだから。
やがて、雪ノ下の携帯に警察からの着信があった。茅ヶ崎と由比ヶ浜が救出されたという。二人は、岩場に強い海上保安庁のゴムボートに移って、沖の巡視船に収容された。
船内での事情聴取のあと、ゴムボートで勿来海岸に運んでくれる予定とのこと。
なので、俺たちはいったん旅館に撤収することにした。まだ八月頭だというのに、あたりは暗くなっていた。
テントや荷物をまとめ、茅ヶ崎や由比ヶ浜の荷物も一緒に運んだ。獄釜旅館にたどり着いたときは、午後五時過ぎだった。
海上保安庁に救出された二人は、意外にも早く宿に戻ってきた。
俺たちの部屋に入ってきたとたん、茅ヶ崎が「ほれ」と言って俺の携帯を投げてきた。防水パックに入ったままだ。まだ水着のままだったので、足や腕などについた擦過傷が見えた。やはり、流される途中で岩にこすられたようだ。
茅ヶ崎の後ろから、水着姿の由比ヶ浜が入ってきた。だが、その体には擦過傷がほとんどない。若干気まずそうにしている。
「結衣ちゃん!」「マジでよかった!」「神様っているんだね~」と女子たちが由比ヶ浜に群がっている。
そして、「心配かけてごめんね~」と言いながら畳にペタンコ座りした。
茅ヶ崎はそそくさと服をを持ってトイレに入り、ほんの一分で着替えて出てきた。
「じゃあ、俺はバイト行くから。明日は来ないぞ? いいよな? ここ数日で疲れちまったぜ」
茅ヶ崎が出て行こうとする。遭難しかかってもバイトに行こうとするなんて、すごい根性している。驚きだ。
だが、茅ヶ崎は目黒に止められた。
「まだ、ちょっとだけ時間あるでしょ? 茅ヶ崎君も座りなよ」と目黒が言う。すると、東雲が茅ヶ崎の手を引っ張って由比ヶ浜の隣りに座らせた。
「小町ちゃん、救出後の記念写真、よろしく~!」と東雲が促すと、小町がデジカメを取り出して、並んで座っている二人に向けた。
「なんだよ。これ」と、茅ヶ崎が変な状況にうろたえている。
「は~い、行きますよ~。茅ヶ崎さん、笑って笑って~」
という声に茅ヶ崎が一応作り笑いをする。が……。隣りの由比ヶ浜は若干顔を赤らめている。ちょっと気まずそうに茅ヶ崎とは反対の方へ顔を少しだけそむけている。
何か、二人の間に普段とは違った空気がある。茅ヶ崎はいつもと変わりないのだが、由比ヶ浜の微妙な雰囲気でそれがわかる。おそらく、二人を見ていた女子たち全員もそれを感知しただろう。
フラッシュと共に、シャッターが数回押された。終わると、茅ヶ崎は「じゃあな」と言って出て行った。これからバイクで帰ってバイトするなんて信じられない。
女子たちが「ありがとう、茅ヶ崎君」とか「今日ぐらいバイト休めばいいのに」とか言いながら、玄関まで見送った。
残された由比ヶ浜はまだ座っていた。
俺は、武田真結の『今回、結衣ちゃんが遭難することで、茅ヶ崎君と決定的なことが起こるはずだったんだけど……』という言葉を思い出した。その出来事が起こったのは洞窟内にいるときに違いない。
「おまえ、茅ヶ崎と何かあったな?」と、迂闊にも聞いてしまった。すると、隣りにいた小町が俺の尻をぎゅ~っとつねる。
「痛てぇ」と飛び上がる。それほどすごいつねり方だった。
だが、由比ヶ浜は依然として無言だった。救出されてからというもの、言葉が少ない。とはいっても、顔色もよく、元気そうなので、気分が悪いということではなさそうだった。
★ ★ ★
翌日の朝食後、「あなたたちが遺骨を発見したんだってね~。驚いた」と言いながら、女将が新聞を部屋に持ってきてくれた。
そこには『勿来海岸で集団催眠事件か』と見出しがあった。記事は社会面にあり、それほど大きくない。見出しは疑問形になっている。そりゃあそうだろう、あんな事件、俺たち以外の人には、何が起こっていたのかサッパリわからないはずだ。それに、俺たちはマスコミのインタビューを受けていない。もし受けて、真実を喋ったとしても、記事化されることは百パーセントありえないが。
記事を読んでいくと、幸いなことに死者は出ていないようだった。小町の自爆は奏功したのだ。
守護天使小町……。いや、今は思い出すのはよそう。だが……。もう、携帯に文字を打ち込んでも答えは返ってこない。そう思い当たると、とてつもない寂しさに襲われた。
記事には『勿来海岸に遊びに来ていた高校生が、大量の遺骨を洞窟内で発見した』と書かれていた。由比ヶ浜たちは、巡視船内での事情聴取で、遺骨のことを伝えていた。
『今日にも海上保安庁が洞窟内や周辺を捜索する予定になっている』と記事が続いていた。
これで、現実世界の武田真結が成仏できればいいのだが。
八月二日。今日はこの勿来海岸から地元に帰る日だった。
昼になると、なんと陽乃さんから、勝浦の漁港の舟を一隻チャーターしたんで、勝浦まで来なよ、と連絡があった。陽乃さんは、みんなで地獄岩近辺に行ってみようと提案していた。
「誰? 姉さんに今回のことを言ったのは」
雪ノ下が若干諦めた顔をしている。すると、「あ、ごめんなさいです。私でした」小町が手を挙げてエヘヘと笑う。
そういえば、昨晩、小町は携帯に長文のメールを打ち込んでいた。
まあ、でも、帰りは勝浦経由になることもあって、俺たちは途中下車した。それに、荷物を雪ノ下のマンションまで運んでくれるという。これは非常に助かる。
勝浦漁港につくと、赤いトヨタ86が止まっていた。そして、係留されている漁船の上に、派手なギャルファッションの女性の姿があった。手を振っている。
「お~い!」と呼んでいる。近づくと、「こっちこっち!」と舟から岸に飛び移る。
「姉さん。どうしてこんなことを」
雪ノ下が真っ先に声をかける。すると、陽乃さんは名前のとおり陽気にしゃべり始めた。
「なんか深い因縁を感じる話だよね。ガハマちゃんが流されて、そこで叔母さんの骨を発見したんでしょ? それってすごいじゃん? 絶対何かあるよ。だから、みんなで行って、献花しようよ」
献花と聞いて、雪ノ下も納得したようだ。俺たちはまず荷物を車に積み込んで、漁船に乗った。漁師のオジサンは「勿来ヶ崎近辺に行くのは億劫だけど、漁労長の命令だからねぇ」とこぼしていた。おそらく、陽乃さんが父親に頼んで、政治力を発揮したのだろう。
漁港の外海は凪いでいた。ずっと遠くまで群青色の海面が滑らかに広がっている。薄曇りの天気だった。
勿来海岸を左手に眺めながらしばし進むと、正面に地獄岩が見えてきた。その左には点々と三つの岩。そして瓦山の頂の濃い緑も視界に入ってきた。そのとたんに、漁船の速度が落ち、右に左に舵が向いた。水面に顔を出している岩が増えてきたのだ。
やがて、「もうこれ以上は行けねぇぞ」とオッサンが言う。
見れば、地獄岩まで三〇メートルくらいには近づいただろうか。海面には夥しい白波が立っている。水深の浅い岩場になっているためだ。
地獄岩の正面には、確かに洞窟があった。その右側には少し高い岩が連なっている。まだ、海上保安庁の捜索は行われていない。
由比ヶ浜が「あそこだよ」と洞窟の入り口を指差す。俺は大量の遺骨が眠っている、暗い空間を凝視した。
「あそこにいたんだ~」「大変だったね」と傍らで声がする。
「さあ、みんな花束だよ」と陽乃さんが結婚式で使うブーケみたいな花束を俺たちに渡していく。ちゃんとそういう用意をしているのが陽乃さんの偉いところだった。
「せ~の」という掛け声と共に、七つの花束が海に投げられた。すると、南風のせいか、花束の群れが洞窟の方向へ流されていく。
俺たちはしばし合掌・瞑目した。隣りの雪ノ下も白いつば広の帽子を後ろへ垂らし、手を合わせていた。
「ガハマちゃん、こっちおいでよ」と陽乃さんが言うので、そっちを見ると、手に三十センチほどの小船を持っていた。
「なんですか。それ」と由比ヶ浜が聞くと、「ここにお線香を乗せて流そう」と言う。
なんか、ギャルファッションに似合わない提案をするので、おかしくなってしまった。
小船の中にはちゃんと線香立てもあり、そこに火のついた線香の束が立てられた。それを由比ヶ浜が漁船の縁から身を乗り出して、海に放した。すると、それもゆるやかな風に乗って、煙を上げながら洞窟の方向へゆらりゆらりと近づいていくのだった。
また合掌・瞑目をした。
時刻は正午過ぎ。
俺たちはやるべきことをキチンとやったような気がした。妙にすがすがしい。
漁港に戻ると、車で帰れるのはやはり五人だった。
「車だ~、ラッキー!」と小町が飛び跳ねている。
はいはい、どうせ俺は電車だろ。荷物運んでくれるだけでラッキーだぜ。
車には来たときと同じく、由比ヶ浜、目黒、東雲、小町が乗り込んだ。
「じゃあ、またね~! お二人さん」という陽乃さんの声と共に、トヨタ86が漁港を出て行った。
「さて、私たちも帰りましょうか」と、車に手を振っていた雪ノ下がこちらを向く。
「そうだな」
この時間、漁港には人が少なかった。曇り空の下、海風がゆっくりと動いている。その香りに、ここ数日で慣れていた。
時々パシャパシャと小波が打ち付ける岸壁を二人で歩いた。勿来海岸での出来事を反芻しながら。
「あの二人、完全に仲良くなってしまったようね」
と雪ノ下が言う。由比ヶ浜のちょっと変わった雰囲気を嗅ぎ取っていたようだ。
「たぶんな。そんな感じだった」
ふふふと雪ノ下が微笑む。俺はその手を取った。
こうして俺たち創発部の合宿は終わった。いや、合宿というよりもただの旅行だったのだが。
しかし、絶対に忘れる事のできないひと夏の思い出が、たくさん残った。
とりあえず終わりですが、このあと後日譚があるような気がします。