由比ヶ浜の恋と勿来ヶ崎奇譚   作:taka2992

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東雲志乃は俺の頬にキスマークを残して去る

 

 

 

 昼休みの短い残り時間で、パン二つをコーヒー牛乳で嚥下した。午後の授業が始ると、メールの着信があった。

 

『東雲さんからざっと事情は聞いた。比企谷君が見たのは援助交際の現場。でも、比企谷君の想像以上に事情が込み入っているようよ。

 聞き出した情報量が少ないから、はっきりしたことはわからないのだけれど、援助交際はどうやら自傷行為みたい。お金のためじゃない。自傷行為の一つとしてやっていたらしいのよ。

 彼女の手首にはうっすらと傷跡があった。あと腹部にも少し。自傷行為をするようになった原因は、ケガによる挫折ね。母親に期待されて、ずっと体操を続けて、大会に入賞して、褒められて……。

 それが、中3になったときにケガして、母親に「あなたってダメね」と言われた。母親は今度は妹のほうを溺愛するようになった。

 これがショックで、母親から見捨てられたように感じ、自分はダメだと思い込んだ。母親の愛情がなくなったという思い込みが一番大きいはず。そうして、志乃ちゃんは自傷行為をするようになったらしい。だから、援助交際を本当にしたいわけじゃなかったの。

 自傷行為は、調べたのだけれど、自分の存在感を強く感じるため、何か喪失したという事実を忘却するため、そんな自分を罰するために行われるらしい。そうした行為に依存するようになる。詳しいことはまたあとで』

 

 十分に詳しいと思える雪ノ下からのメールを読んで、やはり俺のやったことは間違っていなかったと思った。これだけのことを東雲はあの3人に話したのだから。

 

 放課後に部室へ向かい、ドアを開いていつものように「うっす!」と唸る。すると、目黒と話していた由比ヶ浜がふり返った。長机の前に座っているのは2人だけだった。

 

「あ、ヒッキー来たね。志乃ちゃんとゆきのんは先生のところへ行ってるよ」

 

「それって、援交してたって自白しに行ってんの?」

 

「ちがいますよ~! 平塚先生のところ。志乃ちゃんの入部の報告ですよ」

 

 目黒が顔の前で手を振りながら答える。

 

「あ、ヒッキー、志乃ちゃんの前で援交なんて言ったらダメだよ? 昼休み、かなり泣いてたから」

 

「わかってるって。そんぐらい」

 

 俺は、長机の一番端に座った。カバンを机の上に置いて、一息ついた。

 

「微妙な問題だからな、女のそういうのって俺には無理だから、昼休みにお前らに丸投げした。

 悪かったな。ところで、援交といえば、お前らやってないだろうな?」

 

 由比ヶ浜はシロであることは知っているが、目黒のことはまだよく知らないと言っていい。東雲が援交なんてしていたとは意外だった。だから、目黒にも意外な部分が隠れているかもしれない。

 

「わたしもめぐみんもやってるわけないじゃん。ね? めぐみん!」

 

「でもお金は欲しいかも……」

 

 目黒が微妙な顔をすると「ええ~!?」と由比ヶ浜が声を上げる。

 

「どっちかというと、由比ヶ浜のほうが援交やってそうな感じなんだがな。そう見えてしまうキャラというか……」

 

 そういうと、由比ヶ浜が急激に顔を上気させて立ち上がった。鼻から煙のような息を吐き出し、ゲンコツを握っている。

 

「ひっどい! ヒッキー最悪~! わたしはまだ……。とにかくムカツク! もう激おこだかんね!」

 

「わかった、わかった、悪かった」

 

「でも、志乃ちゃんのは援交というよりも自傷行為と考えるべきなんでしょ? ゆきのんのメールに書いてあった。つらかったんだろうなぁ~」

 

 目黒がティーカップをすぅ~と吸って、コトリと机の上に置く。その様子は、まだ息が洗い由比ヶ浜に比べて、ずいぶんと冷静に見えた。

 あの長文のメールはこいつらにも送っていたのか。東雲の行動の本質を自傷行為と見抜くところはさすがと言っていい。俺だったら、援交だけの問題にしか思えなかったはずだ。やはり、こいつらに丸投げして正解だったのだ。

 

「家庭の状況から発生する問題を俺たちが解決できるとは思えないんだが……」

 

 ドアが開いて、東雲と雪ノ下の姿が見えた。

 

「比企谷君、DVDは出してくれたの? それを聞くのを忘れていたけれど」

 

「出したよ。その帰りに東雲を見たんだ」

 

「そう。で、志乃ちゃん、もう大丈夫よね?」

 

 雪ノ下に続いて東雲も席に座った。

 

「大丈夫だと思う。もうしないと思う。でも自信がない……」

 

 少しうつむき加減の東雲は、意外にしっかりした声で答えた。

 

「そうよね。志乃ちゃんの家の事情が根っこにあるから、私たちだけじゃ、問題解決できない可能性が高いわね」

 

「そうだ!みんなで合宿しようよ。女子会! 誰かの家に泊まろうよ」

 

 由比ヶ浜が提案するとみんな思案顔になった。女子だけで話が進んでいく。女子会ということは、俺は蚊帳の外ですね。そうですか……。とはいっても俺はあんまり参加したくないのだが。

 

「うちに来る……?」

 

 雪ノ下が脳内シミュレーションを最大限に動かしているような表情で言う。こいつの家? なんかやばくないか?

 

「ゆきのんの家? 大丈夫なの? 行ってみたい!」

 

 由比ヶ浜がはしゃいでいるが、あの家で同じようにはしゃげるかどうかわからんぞ。それに、あの姉。触らぬ神に祟りなし。

 

「一応、来客の泊まる部屋は2つあったりするけれど、うちは来てもつまらないのよね。来ればわかるけれど」

 

「ヒッキーは行ったことあるの?」

 

「いや、ない」

 

「じゃあ、いい機会だよね」

 

「いや、俺はいいよ。遠慮しとく。女子会なんだろ?」

 

「私なんて行ってもいいのかな……。こんな汚い体で、迷惑のような気がする……」

 

 東雲がポツリと言った。汚い体。その言葉にいち早く反応したのは雪ノ下だった。

 

「志乃ちゃん。汚い体なんてないのよ。人間なんてどんなことしたって体が汚れることなんてない。そもそも人間の体なんて汚いものでしょ。汚いというのなら、人間なんて全員汚い。

 本当に汚い人間というのは、心が汚れている人のことをいうのよ。心さえ汚れていなければ、どんな行為をしたって汚れることはないのよ」

 

「そうかな……。そう思ってくれる人は少ないような気もする」

 

「そう思わない人こそ汚れているんですねぇ」

 

 目黒が遠い空でも眺めているように、なかばかすれた声で言った。

 

「般若心経にも書いてありますよ~、この世には汚いものはなく、逆にきれいなものもないって。ゆきのんの言葉を聞いて思い出しちゃいました」

 

 目黒の意外な一面を見た感じがした。普通、般若心経の一節をすらすら思い出すか?なんかこいつは冷静で鋭いところがあるし、変な知識も多い。

 

「みんなありがとう。でも、大丈夫だから……」

 

「それって志乃ちゃん、ゆきのん家の女子会参加しないってこと?」

 

 由比ヶ浜の問いかけに東雲が答えないでいると、雪ノ下が「じゃあ、今日やりましょうか。女子会。うちで。比企谷君抜きで」と決めてしまった。

 

 やっぱりやるんですか。女子会。

 

「ああ……。男が欲しい……」

 

 俺が無意識にそんなことを言ったとたん、部室が爆笑に満ちた。

 

「ヒッキー、そうだったんだ? ウホッの人だったんだ?」

 

 由比ヶ浜が腹に手を当てて笑っていた。その横で目黒も手の甲を目に当てている。 

 

「男の声で男欲しいなんて言っているのを聞くと、シュールですねぇ~」

 

「比企谷君、男が欲しかったら連れてくればいいじゃない。あなたの人望がなくて誰も入ってくれないから、女だらけになっているんでしょ」

 

 見れば、東雲も笑っていた。その姿を見て俺はほっとする。小さなケガの小さな功名だった。

 

 

★    ★    ★

 

 

 

 女子会の詳しい顛末は知らないが、あれ以降、東雲の表情が明るくなり、陰鬱な影がなくなって行った。

 創発部の初仕事である「あの人どんな人新聞」も届いた。下駄箱の柱の前に机を置き、その上に「ご自由におとりください」と注意書きを添えおくと、あの人どんな人新聞は3日で無くなった。

 ずっと残っていたらどうしようと、みんなソワソワしていたが、とりあえず杞憂に終わった。

 その日の放課後、平塚先生が鼻息も荒く、竹刀をバチンと鳴らして入ってきた。放任主義もいいところで、部室に顔を出すのはこれが初めてだった。

 

「君たち! これは一体なんだ?」

 

 平塚先生は新聞をヒラヒラさせている。おそらくだが、平塚先生がお怒りの原因はわかっていた。

 

「なんでしょう?」と俺が応じた。

 

「これだ、これ!」

 

 そこには、創発部の顧問として、平塚先生の全身写真が掲載されていた。いつも通りのスーツに白衣姿。写真の下には、丸い文字で『ただいま彼氏募集中(ハート)』というピンク色の文字が入っていた。

 

「あはは。気がつきました?」

 

「比企谷、君の仕業だな? 職員室で笑われてしまったじゃないか。生徒にも指を指されたぞ」

 

「でも事実でしょ? いいじゃないですか、それくらいのギャグは」

 

「これで婚期を逃したら、比企谷、君に責任を取ってもらうぞ!」

 

「それはいけません。教師と生徒は禁断の関係ですから。そのうち、いい人現れますから。先生は、竹刀なんか振り回さず、暴力も振るわず、普通にしていれば美人なんですから」

 

「そ、そうか。ところで、問題児を一人、この部で引き受けてもらいたいんだが」

 

「それって男ですか? 問題児ならお断りです」

 

「比企谷、君には言っていない。ちなみに、男だ。雪ノ下、引き受けてもらえないか」

 

「どういう人でしょうか」

 

「今まで猫を被っていた不良だ。とうとう尻尾を出しやがった。どうにも手に負えんやつで、困っている」

 

「総武高に入ってくるくらいですから、不良と言ってもたかが知れているんでしょ?」

 

 俺の質問に、平塚先生はニヤリとした。

 

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。とにかく、雪ノ下、頼んだぞ」

 

「しかし、不良の扱いはこの部では慣れていませんし」

 

「部の活動内容には、校内の人的資源の開発というのがあっただろう。それに、援助を希望している人への知識および能力の貸与。これに該当するな。彼は明らかに援助を希望している。決して口には出さないが」

 

「そうですか。比企谷君が男の部員が欲しいと言っていたので、いいかもしれません。そうでしょ? 比企谷君」

 

「男が入るのは嬉しいけど」

 

「じゃあ、比企谷君、新入部員の面倒は、当分あなたが見てね。平塚先生、新入部員を受け入れます」

 

「そうか。そのうち連れてくる。よろしくな」

 

 平塚先生が出て行った。結局、写真の件はどうでもよかったようだ。

 

 

 翌日の昼休みのチャイムが鳴ると、扉に東雲が現れた。俺に向かって手招きしている。その雰囲気がすごく明るく、昼飯を一緒に食おうと近くに来ていた秋川暁人と、東山善哉(ひがしやまよしや)の目も引いていた。

 

「比企谷、何あの人。お前に用があるわけ?」

 

 秋川が恨めしそうな目をしていた。

 

「そうらしいな」

 

「お前、雪ノ下さんとも付き合っているんだろ? 次はあの美人かよ! どうしたらそうなるんだよ! お前ばっかり」

 

 東山善哉は完全にむかついた顔をしていた。

 

「いや、俺にも事情がわからんが」

 

 とりあえず、東雲の方へ行った。「ちょっと屋上付き合って」というので、ついて行った。そういえば、あれから一週間が経過していた。

 

 屋上には、あのときと同じように、数人の生徒がいた。やはり、声が聞こえないほどの距離はあった。

 変な影の払拭された東雲からは、……そう、……思い出した、フェロモンが一層濃く染み出していた。肩から腕のブラウスが風にそよぎ、肌の色や腕の形を顕わにしたり隠したりしている。

 髪が撓って、耳をくすぐっている。細い両足から、腰にかけての線、ウエストから肩にかけてのカーブ。さすがに体操をしていただけのことはあった。こうして向かい合うと、正直、しばらく見とれてしまった……。

 

「比企谷君、いえ、ヒッキー、ありがとう。ちゃんとお礼を言っておくね」

 

「別に大したことはしていないと思うが。結局、お前を助けたのはあの3人だろ」

 

「少なくともそのキッカケは作ってくれた。私、やっぱり誰かに助けて欲しかったんだと思う」

 

「そうか」

 

 金網に手をかけて、校庭に視線を投げた。校庭では遊びでテニスが行われていた。俺にならんで、東雲も同じように金網に手をかけ、校庭に視線を投げた。

 

「あれから、もう変なことはしていないし。みんなが仲良くしてくれるから、寂しさも感じないし。このまま大丈夫そう」

 

「よかったな。でもそれは、結局お前がしっかりしていたからだと思うぞ」

 

「みんながいてくれなかったらしっかりもできなかった。だから、みんなにも、ヒッキーにも感謝している。

 ところで、ゆきのんに昔、あなたには関係ないでしょ、って言われたのって、どんな状況だったの?」

 

「どうしてそんなこと気にする?」

 

「あの人がそんな状況に陥る? というか、そんな言葉を吐くなんて信じられなくて」

 

「そんなに知りたかったら雪ノ下にも聞いてみてくれ。雪ノ下が話してもいいというのなら、話すが」

 

「そうよね。なんか二人だけの秘密みたいだし」

 

「秘密か。秘密といえば、お前の秘密を今回、暴いてしまったんだな。その点では悪かったと思っている」

 

「いいの。感謝してます」

 

 東雲の体が不意に俺に寄ってきた。まず最初に、フワリと髪の毛が俺の首すじに触れ……、次に、頬に柔らかくて少し圧力を伴った感触が起き………、吐息が耳にかかった。

 

「おい、今のも何のマネだ?」

 

 予想もしなかったことが起こったため、俺はうろたえた。

 

「そんな程度のことで驚く人だとは思わなかったけど? お礼のつもりよ。いま、そうする以外に思いつかなかった」

 

「欧米かよ!」

 

 うふふと東雲が笑う。

 

「欧米か! でしょ?」

 

 俺は、動揺しながら周囲を見回した。とりあえず、誰にも見られていなかったようだ。

 

「大丈夫。ゆきのんには内緒にしておくから」

 

「お前なぁ……。ちょっと色気ありすぎだろ、それ。勘違いされるぞ」

 

「勘違い? 今のところ、勘違いされるとすっごく困るよね。ゆきのんにふられたら、勘違いしてくれてもかまわないけど」

 

「あのな……」

 

「ふふふ。適当なこと言ってごめんなさい。そろそろ戻りましょ。どうしてお昼部室に来ないの?」

 

「女子会の邪魔だから」

 

「そう。じゃあ、また放課後ね」

 

 階段を下りて、それぞれ左右に分かれるとき、東雲が気がついたように振り返る。

 

「言い忘れてたけど、ほっぺたに口紅ついてるから。目立つよ。それ」

 

「なんだと?」

 

 俺は必死に手で頬をこすった。東雲が体を翻して歩き始める。俺は、頬を確認するために、トイレに駆け込んだ。

 

 

 

 

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