ブレイク・フリー 作:路傍の砂利
それは暗く、ひどく湿気た場所で産声をあげた。赤子には凡そ相応しくない、汚らわしい場所ではあったが、だとしてもそのときのことを振り替えれば美しかったと形容するだろう。
そう、それは自らを覗きこむ、微笑んだ女の顔。
それの境遇は一言で表せば特殊であった。だから産まれたばかりだというのにそのとき何を感じたか、なにがおこったのかだとかを鮮明に覚えている。
そしてそのせいか、自らが目の前にいる女とは違うものなのだということを理解していた。
女はひどく衰弱していた。そして女もまた特殊な境遇にあった。それもそのはず、特殊でないのなら、彼女はこんなところで子を産み落としはしなかったはずだからだ。
しかし、それでも女は子を産んだ。子を産めば死ぬと分かっていても。親のない子がこの先どんな目に合うとしても。たったひとつだけ、何かを願いながら。
いまでもそれは女の名を知らない。いや、名どころではない。どこで産まれ、どこで育ち、何をし、誰を愛したのか、その全てを知らぬままでいるのだ。
しかし、そいつはそれでも満足していた。
なぜなら……
なぜなら、最後に見た母のあの微笑んだ顔が美しかったから。
「おのれぇ!おのれ承太郎ッ!忌まわしきジョースターの血族!」
まるで死者の怨念のように響き渡る怨嗟の声。それが響く場所もまた、暗く湿気たところだった。
「このままではすまさんぞッ! 必ず、その血筋に産まれてきたことを後悔させてやる!」
そこには、かつて悪の救世主《カリスマ》とまで呼ばれた吸血鬼の王の姿などは
もはやなかった。あったのは、あの最凶の男の姿など見る影も残さない、矮小で醜悪な肉塊だった。
このDIOが何故……何故こんなところを醜く這いつくばっているのだ。
あぁ、憎い。承太郎。いや、あの血族だ。やつらに復讐さえできれば、もはやなにも要らない。あれだけ求めた天国も、この憎しみに比べればもう霞んで見える。
しかし、それは実現するはずのない望み。いまの自分にはそんな力がない。そんなことは分かっているのだ。むしろ、最盛といってもいい自分をあの憎き承太郎は打ち破ったのだ。
しかし、その事実がなおさらDIOのプライドをひどく傷つけた。あの一族さえいなければ、自分は時間を支配し、あの天敵であった太陽ですら克服し、誰もが恐れてやまない死すらも克服していたにちがいない。だというのに自分はいまなにをしているのか。太陽なぞとどくことのない、薄暗く湿気た場所を惨めに這うているのだ。まさに便所の虫以下の存在。自分が見下してやまない、そんな存在になってまで惨めにも生きているのだ。
しかし、彼はそれでも進むことをやめない。
そして、それは唐突に訪れた。
響き渡るおそらく産まれたばかりの赤子の泣き声。それを聞いたときDIOは自分の幸運を確信した。
やはり運命はこのDIOに味方している。思わず漏れでそうになる笑い声。
そして、思い出す。
そうだ。俺は保険をのこしていたのだと。
こんなときのためにと、温存していた力を解放する。
するとどうだろうか。
あの醜い肉塊がたちまちもとの姿を取り戻す。その姿はまさに悪の救世主、吸血鬼の王の再来といえた。
「感謝するぞ我が"息子"よ!これで俺は再びっ……!?」
しかし、彼が言葉を言い切ることはなかった。なぜなら、それはすでにいまの彼の手に負えるものではなかったからだ。
「グチャッ、ぐちゃぐちゃ」
くぐもった咀嚼音が部屋にこだまする。時折あがる血飛沫と、もはや叫びとすら呼ぶことの出来ない断末魔。
仮に誰かがその姿をみたならば、それが誰であろうとこう表すだろう。
悪魔……と。