わすれもの 作:ヌー
目を覚ました、その瞬間からおかしかった。
窓の外には星が瞬いている。息を吸えば、凍るほど冷たい夜の空気が肺に流れ込む。それなのに部屋は妙に明るい。昼間とそう変わりなく見える視界に戸惑って隣に顔を向けて、息を飲んで飛び起きた。と同時に、掴んだ毛布が派手な音を立てて破れる。
え、と混乱するまま、彼女は部屋を見回した。彼女は大切な家族と、身を寄せ合って眠りについたはずだった。彼女の隣、乱れた布団に手をつけばそこはすっかり冷え切っていて、それを感じると同時に床板がばきりと折れた。
ほとんど叫ぶようにして名前を呼んで、彼女は家中を探し回った。そして彼女の手に足に頭に体に触れた物は全て、たとえばもなかとか小枝とか、そんなものよりずっと脆く砕けて壊れた。彼女が四歳の誕生日にもらったぬいぐるみも、落書きだらけの本棚も、壁も戸もドアも床も天井も全部、砕けて瓦礫になって家など見る影も無くなって、それでも彼女の大切な人たちは見つからない。
足が震えて立っていられなくて、しゃがみ込めば足元にあったカメの墓がぐしゃりと潰れた。霜柱よりずっと軽いその感触が引き金だった。ずっと、夜なのに嫌にはっきりしていた視界が、ぐらりと歪んだ。喉が妙な音を立てた。必死に押し殺そうとして、でも、もう泣いても、うるさく泣きわめいても、大丈夫か、と飛んできて心配させてしまう、心配してくれる相手はいないのだと、そう思い当たって、決壊した。
月が出ていた。丸い、明るい、月だった。彼女は大声で大切な名前を呼びながら、叫びながら、泣きじゃくった。彼女は泣くのが下手だったから、喉は変な音を立て、息が上手くできずに酸欠で頭がくらくらした。
月はやがて沈んだ。東の空から太陽が昇った。彼女の周りには、もう誰もいなかった。彼女が凭れていた木も、彼女の家だった瓦礫も、捻れて弾けて砕けてすり潰されて、もはや跡形もなくなっていた。騒動を聞きつけた人間が、彼女に剣を向けて走り寄ったかと思えば、骨がゴギリと嫌な音を立てておかしな方向に曲がり、次の瞬間には内側から風船のように破裂した。ぶちまけられた赤色は彼女には飛ばなかった。水風船を投げ合ったみたいに真っ赤が彼女の周りの地面を濡らして、けれど彼女の銀色の髪も白い肌も少しも汚れはしなかった。彼女に向けて打ち込まれたたくさんの銀の弾丸は、彼女の心臓を撃ち抜く前に全部、さらさらの砂になって地面に落ちた。たくさんの悲鳴と、ぶちゅり、ぐちゃり、嫌な音と、怒号と、けれどそれらは、次第に静かになった。
そうして、また太陽が沈んだ頃。彼女の周りにはもう、なにひとつとしてなくなった。さらさらの砂の上、ぽっかりとできたクレーターの真ん中で、彼女は泣き続けた。寂しくて悲しくて、仕方がなかった。もう誰にも、抱きしめてはもらえないのだとわかっていた。
月は少しだけ欠けていた。彼女の髪のような銀色の光が、彼女の頬をとめどなく流れる涙を照らしていた。彼女は寒くて仕方がなかった。その時、不意に、さくりと砂を踏む足音がして、彼女は少しだけ、泣くのをやめた。
『ハロー、マドモワゼル』
足音の主は、読めない表情で彼女を覗き込んだ。そうして、小さく首を傾げて彼女に手を差し伸べる。
『おヒマ?』
「……うん、」
「やっと起きたか、ロナルドくん」
「……ん、あれ、ドラこ……?」
ぱちぱちと瞬きをしながらあたりを見渡す女吸血鬼に、ドラルクは聞こえないようにため息をついた。ここ最近はなかったから油断した。城中の花瓶は粉々か、よくてもひび割れて、久々に帰ってきたドラルクが城の設備で見ようと持ち込んだDVDも真っ二つに割れていた。彼女の発作めいた『癇癪』のせいだった。
ドラルク、と、いくらか意識のはっきりしたらしい声に名前を呼ばれた。視線を戻せば、彼女はいつもの熱に浮かされたような笑顔ではなく、こちらを気遣うように眉を曇らせてこちらを見ていた。いつもは天真爛漫に周りを振り回す災害のような彼女は、発作の後は少しだけ、昔のようになる。自信なさげで不器用で、行き過ぎなくらい優しかった昔の彼女に戻ったようで、だからドラルクは迷惑をかけられ続けても無茶苦茶な彼女の力に殺されそうになっても、『癇癪』を起こした彼女に近づくのをやめられなかった。
「ごめんな、寝るところだったか?」
「いや? ちょうど映画を見ようとしたところだよ」
嘘はついていない。DVDは駄目になったが、ドラルクのPCは幸運なことに無事だった。あからさまに目を輝かせた彼女に、「一緒に見る?」と尋ねると、彼女は一も二もなく頷いた。見るはずだったクソ映画のDVDは壊れてしまったからと、Net○ixで彼女の好きそうな映画を選んで、プロジェクターで部屋の壁に映し出す。ドラルクのベッドに腰掛けて、わくわくとまだコマーシャルなのに齧り付いている彼女をチラリと見て、部屋の外からおずおずと様子を伺っていた父に頷いてみせた。ドラルクは一介のダンピールであるから、死んだらそれまでである。だから、父は爆発物のような彼女とドラルクが接していると心配そうにまとわりついてくる。
映画はお約束を大量に詰め込んだような内容で、しかもそれらが一向に纏まらずとっ散らかっていて、一般にはクソ映画の範疇にギリギリ、入るか入らないかというものだった。それでも隣の彼女は、昼の青空のような瞳を輝かせて見入っている。こうしていつも静かにしてくれるならいいんだけど、とドラルクは思った。時たま起こす『癇癪』は抜きにしても、彼女は厄介だった。
彼女はドラルクが生まれる少し前に、御祖父様がどこからか拾ってきたらしかった。銀の色に青空の色、吸血鬼には不吉な色を持った彼女は、太陽の光にも銀の杭にも炎にも大蒜にも傷つけられず、そのずば抜けた怪力と体力で御祖父様の遊び相手の座を獲得した。一族が押し付けたともいう。誰が呼んだか歩く天変地異。大抵歩くより祖父に抱えられて飛んでいるし、彼女単独でも走るとさながら瞬間移動のような速度を出すから、まあとにかく人知の及ばない災害のような二人だ。エベレストやら南極やら、面白そうと思ったらこちらを巻き込んでとんでいく。大抵読めない表情をしている御祖父様とは対照に、彼女はいつも楽しくて仕方がないというように笑っていた。エベレストの頂上であんなに楽しそうに笑える者など吸血鬼でもそうそういないと思う(ドラルクは仕事を言い訳に行かなかったので、これは後日見せてもらった写真の話だ)。いつも楽しそうに熱に浮かされたように、楽しくて仕方がないというように天真爛漫に笑いながら、周りを巻き込んで大騒ぎを引き起こす。そんな吸血鬼らしい享楽主義の持ち主に一見してみえる彼女はしかし、本当はそうでないことを、ドラルクは知っていた。
ドラルクが生まれてから独り立ちするまで、御祖父様はほとんど毎日ドラウスを訪れ、ドラルクと遊んでいた。当然御祖父様の遊び相手の彼女も連れて。彼女はドラルクからすれば年上で、本来ならば敬称をつけて敬語で話すべきだったのだろうが、そうしないでくれと頼んだのは彼女の方だった。呼び捨てでいい、私なんて能力もなくて未熟で、敬われるような奴じゃないんだからと、慌てたように彼女が言い募ったのをまだ覚えている。ドラルクが物心ついた頃の彼女は、今とは違って、遊んでいる時こそ楽しそうだったが、ふと目をやるとなにか考え込んでいるような、苦しそうな表情をしていた。どうかしたのかと尋ねると決まって、なんでもないと下手な笑顔を浮かべた。私にもわからないんだと、ドラルクに聞こえないくらいの声で呟いて。
彼女の『癇癪』を初めて見たのは、ドラルクがそれなりに成長してからだった。それまで彼女は吸血鬼となってから、どうやら一睡もしていなかったのだそうだ。昼も夜も起きていられる彼女は夜の住人というには昼に愛されすぎていて、けれどその頃は流石に吸血鬼として生きることに慣れ始めて、誕生日と決めた日に彼女のための棺桶をあつらえてもらって、そうして朝日が登る頃、初めて自分の寝室で眠りについた。そしてその日の太陽が沈んで夜がやってきて、城中の家具がカタカタと音を立てたから、最初は地震でも起きたのかと思ったのだ。ドラルクは度々日本に行っていたから慣れたもので、机の下にでも潜り込もうと起き上がって、そこで遠くから聞こえる声に気がついた。どうやら誰かを呼んでいるらしい声は彼女のもので、けれど聞いたことがないくらい必死だった。そしてその声に涙が混じるごとに、部屋中の家具が音を立ててひび割れて砕けていった。彼女は常々自分には能力がないことを自虐めいた声音で話していて、それに父や親族が物言いたげにしていたことの理由を、その時初めてドラルクは知ったのだった。泣きじゃくる彼女を攫って遠く誰も傷つけないように、森の奥まで飛んでいく祖父を、その時のドラルクは見ていることしかできなかった。
実際、あの念動力を彼女は意識的には使えないようだった。それどころか、自分にそんな力があることさえ知らないようだった。彼女の発作は、年を経るごとにその頻度を減らした。彼女が苦しそうな顔をすることも減った。
きっと、次第に忘れていっているのだろうと父は言った。辛かったこと、悲しかったことを。それが果たして良いことなのか、ドラルクにはわからなかった。そして、今でもわかっていなかった。毎日楽しくて仕方がないと彼女が笑うようになってから、彼女が頻りに口にする願望があったから。
エンドロールが壁を滑っていく。はーっ、と、隣の彼女が息を大きく吐き出した。
「面白かった!!」
「そう? 本気で言ってる?」
「あったりまえだろ!! すごかったよなぁ、あの吸血鬼。あんなに死んで生き返るんだぜ」
隣に視線を向ければ、憧れています、と書いてあるような表情を浮かべている。もうすっかり、いつもの享楽主義者の、厄介な女吸血鬼の顔に戻っていた。畏怖いよなぁ、と恍惚とした表情でつぶやいて、彼女は言葉を続ける。
「私も早く、死にたいなぁ」
眉間に皺が寄るのがわかった。こうなるのはわかっていたが、それでも良い気分はしない。努めてなんでもないふうに、「そうかな?」と返事をする。
「死ぬってことは殺されてるじゃない? それって弱いってことにならないの?」
「わかってねぇな。死んだのが生き返るってのが良いんだろ。ザ・吸血鬼って感じじゃん!!」
「ザって。頭わるそ〜〜」
「なんだとこいつ!!」
うらうら、と小突いてくる拳は普通に当たったら死ぬので避ける。父が心配するだけのことはあるのだ、彼女はいまだに自分の力に無自覚で、ドラルクなど小指の先で殺せてしまうことがわかっていない。とはいえ父も、ドラルクと彼女のどちらを心配しているのかわかっていなさそうなきらいがあるが。
まぁいいや、と欠伸をする。そろそろ良い時間だ。深夜から映画を見始めたおかげで、もう少しで夜が明ける。
「あ、寝る?」
「うん。ロナルドくんも寝たら? そろそろ朝だし」
「んー、あんま眠くねぇな」
「そう? まあ私は寝るけど」
ぽすんと後ろに倒れ込めば、ふかふかのマットレスを背中に感じる。もうこのまま眠れそうだな、と目を閉じれば、不意に髪を撫でられた。
「……なに」
「久しぶりに子守唄歌ってやる。好きだったよな?」
幾つの時の話だ、とか、言いたいことはあったけれど、眠気の方が勝った。撫でる力加減だけは昔に叩き込まれたとかなんとか言うだけあって、こちらを撫でる手つきは優しかった。
「……♪」
辿々しい、温かな子守唄。お世辞にも上手いとは思わない。けれどドラルクは、彼女の子守唄が嫌いではなかった。
この子守唄は、一族の誰に教えられるでもなく、彼女が最初から知っていたものだった。恐らく、きっと、ドラルクたちの知らない誰かが、彼女に歌ったものであり、もしかしたら誰かに、彼女が歌っていたものだったのだろう。
愛おしそうに、大切そうに、彼女はいつも歌った。彼女が歌ってくれるたび、失った、忘れてしまったものが彼女にとってどれだけ大切だったのか、それを思い知らされる気がした。
そしてその数日後、日本に戻って仕事に勤しんでいたドラルクの元に『あの小娘が『ちょっと死ぬ方法探してくる』とか言って姿を眩ました』と書かれた父からの手紙が届いて頭を抱えた。