わすれもの 作:ヌー
がつん、と拳にぶつかる衝撃に目を瞬いた。どうと重い音を立てて、見下ろす先、地面に巨大な熊が倒れ込む。その巨体は彼女の体の軽く十倍以上はありそうで、真っ黒な剛毛を纏った化け物はピクリともせずに、彼女が見守る中ぱらぱらと塵になって消えていく。光を喪ったその目が風に散っていくのををじっと見つめていた彼女は、お手柄じゃねーか! と掛けられた声に振り向いた。
「やったな、ロナルド!!」
快活な声と豪快な笑顔に、彼女は少しだけ逡巡して、それから笑ってぱちんとハイタッチをした。
「ありがとな! あと、ごめん。名前、なんだっけ?」
「だってよ。ひでぇよな!」
「だからマリアさんに酒奢らされてるのか、ロナルド」
「うっうっ、高い勉強代」
財布の札を数えるロナルドを横目にけらけらと笑って、マリアと呼ばれた女性が杯を呷る。呆れたようにため息をついたドレッドヘアーの男は、けれどロナルドに「ごめん、お前も名前なんだっけ」と言われて椅子ごとひっくり返った。
「おい!! このショットさんの名前を忘れたって!?」
「ごめぇぇぇぇええんんんんん!!!!」
「嘘だろマジかよ誰がお前みたいな世間知らずをわざわざ海まで超えてはるばるこんな東の端まで連れてきてやったと思ってんだ恩知らずルド野郎!!!」
「ごめんって!!! もう忘れねぇから!!!!」
「もういい、じゃあそこのアメーバの飯代もお前奢りな」
「えっあいつアメーバって名前なの? ちょっと可愛い」
「ちげーーーーーーーーよサテツだよ!!!!! もうやだこいつ呆けてんの!!!?????」
わーきゃーと始まった取っ組み合いの喧嘩に、マリアがいいぞー!と拳を突き上げつつ瓶ごと焼酎をあおり、サテツはそんな騒ぎなど目に入っていないかのような幸せな表情でもぐもぐと机の上の料理という料理を食い漁り、カウンターの中で酒場の店主が顔色を悪くしている。
取っ組み合いとはいえ(全力でやったら大変なことになることもあり)お遊び程度、ほどほどに切り上げて卓に戻ってきた二人は空っぽの皿に揃って絶望の表情を浮かべた。「あの、おかわりとかは……」とおずおずと店主を見つめても、店主は沈痛な面持ちで首を横に振るばかりである。がっくりと机に突っ伏したショットとロナルドの背中を、大笑いしながらマリアがばしん、と叩いた。
「あー、笑った笑った!! お前ら面白えな、気に入ったぜ!!」
「おう……」
「ありがとな……」
「ごめん、ロナルドたちの分も残しとくつもりだったんだけど」
「いいよ、サテツに料理を残しとけなんて無理な話だ……」
「腹へった……」
「お客さん、A型で良ければ何本かありますけど」
「今日は血とかじゃなくてガッツリ食べたい気分だった……」
「わかるぜ、痴呆ルド……」
「お客さんたち本当に吸血鬼なんですよね?」
「誰が痴呆ゴリラじゃ!!!」
「そこまで言ってないだろーが!!!」
「いいって大将、そのボトルはしまっとけよ。お前ら、今日はうちに泊まってけ。棺桶とかないけど、雑魚寝でいけんだろ?」
おら行くぞ!とロナルドの首根っこを掴んで店を出て行ったマリアの背を、男二人は慌てて追いかける。
ロナルドが倒した熊は、動物も人間も見境なく襲って食い散らかしていたトップオブ害獣だった、らしい。へぇー、とロナルドが相槌を打つと、昨日も言っただろうがよ、とマリアに頭を小突かれた。曰く、山から追い出された獣たちが畑を荒らしたり、そうでなくとも山に入った人間たちが帰ってこなかったり、そもそも近くの山にそんな怪物がいると安心して暮らせなかったりで、普段は猟師をしているマリアが退治を頼まれたのだとか。けれど知能が高いせいで罠にもかからず奴の厚い毛皮のせいで猟銃も効かず、おかげでマリアには精々足止めくらいしか出来ずほとほと困り果てていたのだそうだ。
「いやなんで吸血鬼が猟師?」
「そりゃ丁度いいからだよ。ほら、狩った獲物って血を抜くだろ? その血は俺のメシになるし、余った肉とか皮とかはあっちで好きにしてくれるしさ。なんなら肉売った金で血のボトルも買えるし。win-winじゃん」
「なんか違うぅぅぅううう……」
吸血鬼なのに全然畏怖くねぇ、とロナルドが抱えた頭を、突然マリアがぐわしっと掴んだ。びくりと肩を跳ねさせて、ロナルドが横目でマリアの様子を伺う。
「えっ、マ、マリアさん? どうなさった??」
「んー、」
ぐしゃぐしゃ、と髪を引っ掻き回した後で、マリアは破顔した。そしてまたロナルドの背中を叩く。
「いだっ」
「よかったな!! もうすっかり治ってんじゃん!」
死なねぇってのは本当なんだな、と笑うマリアを、訳のわからないままロナルドは見上げる。「治ったって、なんの話?」と声がして、振り返ると即席の衝立の向こうから男衆の頭が覗いていた。男女が同じ部屋で雑魚寝するのはどうなんだと、ありあわせのもので衝立を作ろうと四苦八苦していた彼らは、今は手を止めてこちらに怪訝そうな顔を向けていた。
「こいつさっきあの化け熊に頭半分ぶっ飛ばされたんだよ」
「「「嘘ぉ!?!?!?!?!?」」」
「「なんでロナルドが驚いてんだよ!!!!!」」
「ごめぇん!!!!」
マリアの爆弾発言に他三人が叫び声を上げる。衝立の向こうから倒れ込むように走ってきた二人に頭をぐちゃぐちゃに撫で回されたロナルドは、この中で一番状況について行けていないようだった。
「絶対そのせいじゃねぇか!!! ロナルドお前その頭ん中どこに落としてきやがった!!!」
「ごめんって!!! てか俺頭吹き飛ばされても死ねねえのかようえぇえぇぇぇぇええん!!!」
「いよいよどうにもならないんじゃ? そもそもロナルド相手に頭吹き飛ばせる相手なんて初めてなのに、それでも死ねないんだろ?」
「じゃあ無理じゃね? あーいや、銀とか杭とかならいけんのかな」
「銀は試したんだけど無理だったんだよ」
「マジかよ」
「おい馬鹿ルドお前どこまで覚えてんだ?! 俺と会った時のことは??」
「ごめん熊が倒れたあたりからしか記憶ない」
「アホーーーーーーーーーー!!!!!!!」
「うぇぇぇぇぇぇええんアホじゃないもんんんんんん!!!!!」
「死なねぇってのはわかったよ。頭の中身全部ぶちまけられてんのにこいつ普通に動いて熊殴り倒したんだぜ? 馬鹿みたいな性能してんじゃん」
「ほんとそうなんだよ馬鹿なのは性能だけじゃなくて頭ん中もだけどなぁ!!!!!」
「怒んないでよショットーーーー!!!!」
「怒るに決まってんだろうがァーーーーーー!!!!」
「ま、まぁまぁ……」
「サテツはムカつかないのかよ!!!!」
「いやぶっちゃけショットがそんなに怒ってるとこっちも冷静になっちゃうっていうか。ロナルドも反省してるみたいだしさ」
「ハァーーーーーーーーーーー」
これみよがしに大きなため息をついて、ショットはようやくロナルドの胸ぐらを掴んでいた手を離した。この大騒ぎのせいでせっかく作った衝立が壊れているのを見てがっくりと肩を落としたショットは、床に広げられた鹿の毛皮の上に寝転がる。
「じゃあ、合格ってことでいいんだな? マリア」
「「「ん?」」」
「おい忘れてんじゃねぇぞクソボケども。元はと言えばロナルドが『あそこ』に行きたいとか言うからはるばるここまで来たんだろうが」
「あー、そうだったな! いいぜ、連れてってやるよ。お前ら変なやつじゃなさそうだし。でもあんな場所、見るもんもないと思うぜ?」
「俺もそう思う。今はダムになってるんだっけ?」
「そうそう。よく怪談系ヌーチューバーが来るんだよな」
「ごめん、なんの話?」
一人だけ話に置いていかれたロナルドが話を遮ると、「ほら、ここだろ?」と振り向いたマリアが突然ロナルドの着ているシャツの胸ポケットに手を突っ込んだので変な声が出た。苦虫でも噛み潰したような顔をしている男どもを尻目に小さな紙切れを取り出したマリアは、くしゃくしゃになったそれを開いて伸ばす。
「住人がみんな殺されたんだって?」
「いや、行方不明になったってだけだよ。ただ全員一斉に行方不明、その後音沙汰もなし、ってんじゃ多分、……死んだんだろうぜ。遺体も見つかってねぇから、多分吸血鬼の仕業だろって言われてる」
「ひでぇことしやがる」
「元々ダムになる予定の場所だったんだが、あんな事件があってから色々モメたんだよ、当たり前っちゃ当たり前だけど。まぁ散々捜査されて、この間やっとダムができたんだ」
「この間って何年前くらいだ?」
「十年は経ってないと思うぜ?」
「最近じゃん」
「そう、新しいんだよ。ダムも割と最新式」
「えっ、それは見にいくの楽しみだな」
「サテツ、機械とか好きだっけ?」
雑談を他所目に、あぁ、そうだった、と、ロナルドは口の中でつぶやいた。広げたメモには、懐かしい筆跡で場所の名前が書いてある。誰の筆跡かはどうやら忘れてしまったみたいだが、大切な人だったのは間違いない。場所の名前ともう一つ、日本語ではないけど彼女には読めた。紙の端に書かれた『幸運を。友より』の文を撫でて、彼女は小さく笑みをこぼす。遠くにいる友人が、もう今は彼女は顔も声も思い出せないけれど、それでも彼女の幸福を願ってくれているというのは、とても嬉しいことだった。
「──そんな訳でちょっと吸血鬼にはピリピリしてんだよ、このあたり一帯はさ。まぁお前らは面白いし心配もないだろ」
じゃあ明日は昼ぐらいに出発な!と電気を消したマリアに、「やめて!!!」と男共が叫んだ。なにしろ女性陣と違い、彼らは日光に弱いので。
「あそこに行くんですか? ちゃんと耳を隠して行った方がいいですよ、マリアさんたち」
男性陣が動けない日中を持て余した女性陣は、昨晩と同じ酒場で時間を潰していた。マリアが持ち込んだなんかよくわからん怖い顔をしたダチョウは、店長とマリアの手によって美味しい料理に生まれ変わって、ロナルドは久しぶりに満腹になった。
「そうなのか?」
「ええ。噂程度なんですが」
あのダムに近づいた吸血鬼は、ことごとく撃ち殺されるとか。
声を潜めて店長が言った言葉に、ロナルドは目を輝かせる。
「なんだそれ!」
「いえ、だから噂ですよ」
「……おい、店長。俺初めて聞いたぜ、そんな噂」
「マリアさんにこんな話するわけないじゃないですか……。みんなお世話になってるんだから、わざわざこんな不安にさせるようなこと」
「面白そうじゃねえか!!」
「言わなきゃよかった!!!」
マリアと二人で店長を締め上げて詳しく聞いたところによると、例のダムを訪れた人間が何度か、吸血鬼のものと思しき塵と、それに埋もれる銀の弾丸を見つけたらしい。ただしそれもヌーチューバーの動画で話だけ出てきたりだとかそういう噂に過ぎないもので、そもそも塵なんてすぐに風に散ってしまうから眉唾だしあの辺りで銃声を聞いたこともない。だから多分デマなのだが、この村の住人たちはめちゃ強猟師マリアに日頃から大変お世話になっており、マリアなら万が一にも斃れるようなことはないだろうが危険は犯してほしくないのだとかうだうだ言っているのを、
「そんな奴と戦えんのか!! おいおい楽しくなってきたじゃねえか!!」
「銃声も無いまま吸血鬼を撃ち抜く銀の弾丸とかカッコ良すぎんだろ!! えっ俺も死ねるかな!!」
「かもしれねぇぜロナルド!! どんな相手だろうなぁ、腕がなるぜ……!」
「エーンごめん村のみんな」
彼女たちは途中から1ミリも聞かずに盛り上がっている。テンションの上がった女吸血鬼たちは店長には止められない。肩を組んで意気揚々と店を出て行く背中を、店長はエーンと泣きながら見送るしかなかった。
「よっしゃ日が沈んだ!!!」
「行くぜ行くぜ行くぜーー!!!!」
「なんでお前らそんな元気なんだよ」
「ちょっとまだ外明るくない……? エーン明るいきもちわるい」
吸血鬼御一行は、目深にフードを被って出発した。日は沈んだとはいえまだ空は明るく、西の空が血のように真っ赤に染まっている。店長をはじめとした村の人間たちが総出で説得した結果、吸血鬼の能力は使わないで例のダムへと向かうことになった彼らは、マリアの運転する軽トラの荷台に乗せられていた。
「う゛ぇ、酔うわ俺これ」
「なーなーマリア、これもっとスピード出ねぇの? これじゃ走った方が早いじゃん」
「ガソリン代っつーもんがあんだよ。我慢してろ」
「走った方が早いのはロナルドだけだよ……ぐぇ」
日光にいっとう弱いサテツがフードを被って丸まっているのにのしかかりながら、ロナルドは「早く着かねぇかなあ」と独り言ちた。山道は険しく、トラックの荷台はそれはそれは揺れた。道に落ちている石ころや通り過ぎる木々を「689本……あれ?」「ちげぇよ今ので702本」「ロナルドそろそろ俺の上からどいてくれない?」「やだ」「ショットさんを仲間外れにしないでくれ」とかやってなんとか車酔いを誤魔化して、ようやくダムに着いたのは、もう日付も変わろうという真夜中になってからのことだった。
「なのにこの雨」
「テンション下がるな……」
「寒っ。おいお前ら、狭いけど座席の方入っとけ」
「私は遊びに行ってくる!!!」
「嘘だろ元気すぎだろ幼稚園児か?」
「おう! 迷子になるんじゃねえぞ」
目的地に着く直前に降り始めた生憎の雨に、吸血鬼であることを隠すためだったフードが奇しくも役立った。豪雨といって差し支えない激しい雨は自分の笑い声すらかき消して、何やら愉快な心地になって走り出す。
月も星も重く覆い隠した雲は、大きな雨粒を地面にも体にも叩きつける。雨とダンスをするのは好きだった。相手は世界そのもので、それはあんまりに大きくて、彼女のことなど気にも留めなかった。だから彼女も、好き勝手に遊ぶことができる。あのメモをくれた友達と彼女は、そういうところが似ていたのかもしれなかった。立ち止まっていると寂しくて仕方がなくて、誰かに遊んで欲しくて、けれど遊んでくれる誰かを困らせたいわけではなかった。
そんなどうでもいい、もうどこかに落としてきてしまった記憶や思い出も、激しい雨音の中に掠れて見えなくなる。苦しいこと、寂しいこと、つっかえていること、そんなことは全部放っておいて、彼女は雨の中を子供みたいに走って跳ねて、そうしてぴょんと、大きな水溜りに飛び降りた。ダムの水面へと。
「……んー、」
足を水面にぴたりと付けて、彼女は考えるように首を捻った。水は茶色く濁っていた。底など到底見透せそうになかった。雨の勢いが、少し弱まった。雨に掻き消されていた苦痛も悩みも寂しさも、見えなくなるだけで消えはしなかった。今までずっと。
見上げた山の大きさに見覚えがあった。風の音を聞いたことがあった。雨が弱くなってきてから、あの浮かれた楽しい気分が、どんどんどこかへ逃げて行ってしまっているのが自分で分かった。ひどく胸の奥がざわついた。
「……沈んでみたら分かっかな」
そう呟いて、しゃがみ込む。雨の跳ねる水面に手のひらを沈める。ひやりと冷たさが右手を包む。
不意に強く風が吹いた。雲が晴れ、月が現れた。水面が凪ぎ、水鏡は彼女を映さずに、彼女より遥か空高くにある満月を映し出す。思わず息を呑んだ。
と、同時に、紙袋を叩いたような音がして、彼女の肩が弾け飛んだ。
「──やっと、やっとじゃ」
化け物、という声が聞こえた。寒くて仕方がなかった。誰も傍にいなかった。寄り添ってくれなかった。抱きしめてくれなかった。抱きしめてあげられなかった。
「やっと見つけた」
みし、ぱり、ごぎり、めしゃり、ばしゃり、いろんな音が周りからした。全部が壊れて行くのをただ見ていた。大好きな家がなくなるのも、人が赤い風船になって割れるのも。
「よくも村を、家を、家族を」
銃弾はこんな風には届かなかった。こんな風に脇腹を抉ったり、肺を破ったり、心臓を潰したりはしなかった。そうするべきだったのに。あの時も、こんな風に、自分は全部を、台無しにしたのに。
そうだ、思い出した。
私には、もう、なにも、
「よくも、よくも■■■を、っ」
「ぁ、」
銃弾が頸の骨を砕いて、がくんと首が後ろに倒れる。ずっと被っていたフードが外れて、仕舞い込んでいた髪がばさりと落ちる。見上げた先、逆さまになった空の上、まんまるの大きな月を背に、その人は立っていた。
最高にかっこいい赤い装束、ぴくりともぶれない銃の照準、憎しみと怒りと痛みでなみなみに満たされた瞳は、けれど目が合った瞬間驚愕に見開かれる。
あ、と、手を伸ばそうとして、なのに腕は今の自分にはついていなくてなにも動かなくて、そうと気づいた瞬間に体がガクンと沈む。大好きな声が悲痛に叫ぶ。もうわすれてしまった名前を叫ぶ。
「……そん、おい、嘘じゃろ、■■■、!!」
しっかりと役目を果たしていたはずのダムはいつの間にか跡形もなく壊されていて、溜め込まれた水が一気に濁流となって彼女を押し流す。
水が口の中に入ってなにがなにやら、人の言葉は喋れないし景色はすごい速度で流れていくし、でも、なんとか戻らないと、会わないと、謝らないと、と考えた瞬間に、彼女の頭が岩にぶつかり中身をぶちまけた。
* * *
ヒマリがぱちんと目を開けた時、姉はヒマリを抱きしめてすぅすぅと寝息を立てていた。ヒマリはお利口さんだから、今までは姉を起こしてついてきてもらっていたけれど、今日は自分一人でトイレに行くのだ。姉の腕の中からどうにか抜け出して、目を擦りながら枕元に視線を向ける。まだサンタさんはプレゼントを置いていないみたいだった。
オレンジ色の電灯のスイッチをカチリと押してしまったら、もうトイレは全然怖くなんてなかった。廊下だってそんなに長くない。電気を消して、よし、と真っ暗な廊下に気合を入れた時、声がした。
『おぉい』
あ、とヒマリは玄関を振り返った。兄の声だ。今日は仕事が早く終わったんだろうか。また鍵を忘れたのかもしれない。姉ほどわかりやすくはなくっても、ヒマリも兄のことが大好きだ。早く玄関のドアを開けてあげようと思った。ヒマリはお利口さんなので。
『……えい。おかえり、にい、……』
『ただいまぁ』
満月を背負って、影がゆぅらりと揺れた。流れ込んだ冷気に息が詰まって体が固まる。影はぐにゃりと笑ってヒマリに顔を近づける。
『あぁぁぁぁああ、かわいいねぇ。いい子だねぇ、わたしのかわいい小さな子』
真っ赤な三日月がヒマリを射すくめて、どうしても目が離せなかった。頭は声を上げろと叫ぶのに、ヒマリは動けなかった。叫んで、姉を呼んで、二人でどうにか逃げないといけなかった。何度も何度も、兄は口を酸っぱくして教えてくれたのに。
鋭い牙がヒマリの肌を貫いて、赤い液体が首、肩、指先を伝って、地面に落ちて、怪物がヒマリの傍から離れてようやく、ヒマリは体を動かした。ドアから手を離した。体が崩れ落ちた。
あまりの痛みに耐えられずに、ヒマリは意識を取り落とした。
その日、仕事が早く終わったのは幸運だった。けれど後悔は限りない。もう30分、いや5分だけでも、仕事を早く終わらせていれば。
玄関は開きっぱなしで、ドアに背を預けるようにして、小さな妹は倒れ込んでいた。助け起こしてその体温の低さに驚いた。呼吸は荒く、ぐっしょりと汗をかいているのに、常は火傷すると思うほど温かいヒマリの体は、今は自分のものと同じ温度に近づいていた。
けれど噂は聞いていた。吸血鬼化を止める薬が完成したと。なんとか間に合うのではないかと思った。今から、脇目もふらず走り続けて、そうしたら、もしかしたら、ヒマリは吸血鬼にならずに済むのではないかと思った。
だから、自分はそうしたのだ。家の奥の部屋、寝室の布団が、真っ赤な血で染まっていて、その真っ赤な血溜まりのまんなかで、もう一人の妹がすっかり血の気を失った顔で倒れていて、その妹の首筋を、あの男がぴちゃぴちゃと音を立てて貪っていたのを見ていたのに。奴の手強さは知っていた。戦っていては間に合わないからと、自分はあの子を見捨てたのだ。
間に合ってくれ、間に合ってくれと祈りながら走り続けた。間に合ってくれ。ヒマリを病院まで送り届けるまで待ってくれ。無事でいてくれ。生きていてくれ。吸血鬼でもなんでもいいから、お願いだから。
大量の出血のせいで、ヒマリの状態はひどく危険なものだった。
最善を尽くしますが覚悟はしておいてくださいと医者は言い、足が竦んで動かなかった。だからようやくヒマリが目を覚ました頃、その頃にはもう、自分たちが住んでいた村には、誰一人として残っていなかった。
それからずっと、犯人を探してきた。妹を殺した吸血鬼を探してきた。人間を何人も殺し尽くして、俺たちの家を更地にしやがった狂った吸血鬼を、殺してやろうと探してきた。妹の仇を取るために。
あいつを見殺しにしたのは、俺自身じゃというのに。
* * *
「うわぁぁぁぁぁぁやめろやめろ!!! 早まんな!!!」
「放せ、っ放せ!! 〜〜〜〜■■■!!! おい、放せと言うとるじゃろうが!!!」
「落ち着いて、っ痛、それ、銃も純銀……? あなたの手も焼けちゃってるじゃないですか」
「おいおいおい、酷い有様だなぁ。ロナルドの奴、念動力も使えたのかよ」
轟轟と音を立てて水は崩れ落ち、山肌を削っていく。マリアたちが異変を察知した時にはもう遅く、ダムは粉々、ロナルドはいない、そして銃を持った男が入水自殺をしようとしているところだった。
「──っ、はぁっ、やっと大人しくなった……。てかあんた誰だよ。さっきの銃声、あんたの?」
「あー、お前あれか。同胞殺しの」
思い出した、とマリアが指を鳴らしてそう言うと、男は今にも殺してやりたいというような目つきでマリアを睨みつけた。ショットが彼を縛りつけた木がミシリと軋む。
「誰が、同胞じゃと」
「お前吸血鬼だろうが」
「俺は人間じゃ、この化け物が!!」
「いやいやお前も十分化け物だと思うぜ? 噂で聞いただけだけどさ、お前どんな遠距離狙撃だよ。掌痛そうだな、手当てとかしねーのかよ」
男は苦しそうに表情を歪めると顔を伏せる。縄を引き千切るのではとハラハラしていたショットが、「というか」と首を傾げた。
「あんたロナルドの血縁者だよな? 顔めっちゃ似てるし」
「……」
「ああ、言われてみれば、確かに。えぇと、弟さんですか?」
「兄じゃ」
「お兄さんかぁ」
「いやロナルドって、……あいつのことじゃよなぁ……」
長く息を吐き出して動かなくなった男に、ショットたちは目を見合わせる。正直に言えばあまり状況を把握できていないが、
「アレはロナルドの仕業だよな」
「わからないけど、多分ダムの方はロナルドなんじゃないかな。なんか様子が変だったし」
「で、ロナルドがいないのがこっちの、お兄さんの仕業ってことか。銃持ってるし。問題は、なんでか知らんか後悔してそうなことだよな」
「まぁロナルドは大丈夫だろ。銃で一発や二発撃たれても死なないぜ、あいつはさ」
「……十発じゃ」
「ん?」
「十発撃って、あいつは川に沈んで、流されて行った」
「「……」」
「おいおい、殺意バッチリじゃん」
呆れたようにマリアが首を振る。ショットとサテツは頭から血の気が引いたような気がした。流石に銀の弾丸十発に、流水だ。流石のロナルドでも、流石に、
「……いや多分生きてるな……」
「なんでだろうな、死んじゃっててもおかしくないんだけど……」
過去のあれこれを思い出して大きなため息をつく。正直に言って十発の銀の弾丸は、ショットたちが知る限り一番のダメージを与えているとは思うのだが、どうにもロナルドが死んでいるとは思えなかった。なんか厳然たる事実として、あいつは死んでないだろうな……という諦観めいた信頼があった。
「まぁいいや。とりあえず後片付けして、ロナルド追いかけっか」
「マリア、後片付けって」
「そりゃこのダムのことに決まってんだろ。これはなぁ、人々の生活を守る大事な」
「あっそっち」
「そうだよなぁ。元通りにできるかなぁ。俺、力ぐらいしかないし……」
「なんとかなんだろ。ほら、兄さんも手伝え」
「……縄を解いて、どうする気じゃ」
「何回言わせんだよ。ダム元通りにするの手伝えって言ってんの。ショットさんたちだけでやれって?」
「……」
「あーーーー、長かったぜ……」
「ロナルドの実家に電話しといてよかったな。普通に俺らだけじゃ知識とか財力とか色々足らんかったわ」
「よく連絡先控えてたよな、ショット」
「そうだろ? もっと褒めてくれ。気がきくショットさんのこと」
「実家?」
「あっもしかしてお兄さんにはこれ地雷だったのでは」
多数の吸血鬼と人間の手によって、ダムはなんと数晩で元通りになった。主犯が不在なためこき使われた共犯、ショットたちは、これでようやく労役から解放されたわけである。
「……さてと。じゃあ、ロナルド探しに行くか。海まで流されてないといいんだけどよ」
「うん、多分、流れ着いてればそんなに遠くまで行ってないんじゃないか。ロナルド、寂しがり屋だし」
「なぁお前ら、ショットさんは今日ぐらいゆっくり休みたいんだけど」
各々立ち上がって、帰路へつこうと歩き出す。けれどふと、足音が続かないことを訝しんだショットは振り返った。
「おい、兄さん。早く来な」
「……俺か?」
「そうだよ。あんたも迎えに行くだろ? 妹なんだから」
気がつくと、先を歩いていたマリアとサテツも足を止めている。三対の視線を受けて、男はのろのろと立ち上がった。立ち上がっただけで、けれど歩き出そうとしない彼に、眉根を寄せたショットが口を開く。
「おい、どうした」
「……聞きたいことがあるんじゃが、いいか」
踵を返して、俯いたままの彼に歩み寄った。この数日、初めて会ったあの日からずっと、彼は俯いたままだった。
「ああ。いいぜ」
「なんでも聞いてください。知らないことは答えられませんけど」
「……あいつは、人を殺せると思うか」
ぱちん、と瞬きをした。
「あいつってロナルドのことだよな? そりゃ力の強さ的には全然できるんだろうけど、無理だろうぜ。あいつの気性的に」
「うん。だいぶ、特に人間には、気を遣ってると思う」
「最近は慣れたみたいだが、会ったばっかの頃は人間に触んのも怖がってたもんな。子供撫でんのはやけに上手かったけど」
ショットたちの知るロナルドは、少々過剰なくらいに自分の力を人間に振いたがらないお人好しだった。ショットたち吸血鬼に対しては戦いを挑んできたり無茶苦茶な場所に連れて行こうとするくせに、人間に対しては借りてきた猫並みに大人しくなる。そう口々に喋っていると、男は「そうか」とつぶやいた。
「じゃあ、……」
「おう。なんだよ、早く言えよ」
「じゃあ、あいつが、もし人を、殺していたとしたら」
ぽつりぽつりと、彼は言った。
「あいつは、耐えられると思うか。例えばあの村の人間を全員、殺していたら、あいつの心は、耐えられると思うか」
「……それって」
男は真っ直ぐに、ダムの方を指さしていた。ダムに沈んだ村の住民は、一人残らず行方不明になったという。遺体も未だに、見つかっていない。
わからない、と男は言った。
「俺も、実際に見てはいないんじゃ。だが、……俺はずっと妹の仇を探していたはずで、……そう考えると、筋が通る」
「そっか。だからあいつ壊れかけてんだな」
皆が一斉にマリアの方へ視線を向ける。
「マリア?」
「なんだよ。お前らだってわかってんだろ?」
「いや、ごめんわかってないです」
「なんだよ、そうだったのか」
意外だと言わんばかりに目を丸くして、「大体なぁ、」とマリアは話を続ける。
「俺たち、吸血鬼ってのは大事なもんはすっげえ大切にするじゃん。血族とか、靴下とかさ」
「靴下?」
「靴下がどうしたんだよ。サテツのが臭いって?」
「ショット!」
「あれ、ジェネレーションギャップか? マリアさん地味にショックなんだが。おい、兄さんは知ってるよな?」
「……おう、知っとる。古くからある吸血鬼の退治方法じゃろ。吸血鬼は靴下を奪われると不安のあまり衰弱して死ぬ、とか、馬鹿みたいな」
「馬鹿みたいで悪かったな」
「えっ、マリアさんも靴下奪われたら死ぬの?」
「いや? 俺純日本産吸血鬼だし。別に靴下くらい」
「じゃあなんなんだよ」
「例えだよ有名な話だからさ。だからさ、靴下取られるくらいで衰弱するような吸血鬼が、大事なもんの名前忘れるわけねぇだろ。なのにあいつは昔の友達も、俺たちの名前もコロッと忘れちまう。おかしいだろ。あんだけわかりやすく寂しがり屋なくせに、俺たちの名前忘れるわけねぇじゃん。なのにあいつ忘れるだろ。覚えてられねぇんだ、忘れねえと壊れちまうことがあるから。だからちょっとしたことで忘れんだろ」
「頭吹っ飛ばされんのってちょっとしたことなのか?」
「あんだけ完璧に再生できといて、覚えてないってのも不自然じゃねぇ?」
「そういうもん?」
「少なくとも俺の親父は熊に体半分食われても別に記憶無くしたりしてなかったぜ」
「マリアのお父さんが気になってくるなもはや」
「俺はてっきり、お前らはわかってるもんだと思ってたぜ。ああいう壊れかけの吸血鬼って遊んでて楽しいし、」
「いや、」
「知らなかった」
「それに、そういう奴の願いは叶えてやるもんだろ。人間だって死刑囚は最後に食べたいもん食べられるっていうし、友達だったりとか、遊びたいとかそういう軽い願いだったら特にさ、叶えてやるもんだろ?」
いつほんとに壊れるかわかんねぇんだし、とマリアは締めくくった。話を黙って聞いていた男は、強く両手を握りしめていた。
「だからほら、兄さんも来いよ。あいつと遊べるのも今のうちかもしれないんだぜ?」
「……いや、」
口が渇いている、と男は思った。声が掠れていた。唾を飲み込んで、話を続ける。
「……だとしたら、俺はあいつには会わん」
「ん? なんでだよ」
「あいつは、俺を見たとき、」
迷子になった後で、迎えに行った時の顔をしていたのだ。兄を見つけて、心底安心した顔をしていたのだ。あいつを殺そうとした俺を見て、殺されそうになっておいて、そのことに心から、安心したような顔をしていたのだ。
「俺が兄じゃと、わかっているようじゃった。だから、会わん」
「いや途中経過を略すなよ。いいじゃん、兄だってわかってるなら」
「思い出すかもしれんじゃろ? 俺たちが兄弟として暮らしてたのは、そこの村がなくなる前じゃ。俺のことを思い出したついでに、あの日何があったのかも思い出してしまうかもしれん」
もしかしたら妹は、自分が人を殺したことを、思い出すかもしれない。
「そうしたら、いよいよ本当に壊れてしまいかねんじゃろ」
そう言って、へらりと笑った。
会いたくないと言ったら嘘になるが。
ヒヨシはもう二度と、妹を失いたくはなかった。