逆さまの景色の後は……暗闇だった。
真っ黒で何も認識ができないような空間。
走馬灯のようにステラとの記憶が思い出される。
『まずはメイクデビューだけど……ステラは大丈夫?』
『任せて、私は簡単には負けないわよ』
『ロンリーステラが上がる!ロンリーステラ並ばない、完全に抜き去った!メイクデビューをどうどう一着で勝ち切った!!!』
『メイクデビューで勝てなきゃ、三冠なんて夢のまた夢になっちゃうからね』
初めてしっかりと見れた彼女の走りとその笑顔はきっと忘れられない……。
相手に並ばずさらに加速する……周りがコーナーで減速しているんだ、あの驚異的な末脚があれ捉えることすらままならないだろう。
……
『今度は皐月賞か……』
『いつも通りをやってみせるわ』
『でも、メイクデビューから皐月賞までにあの走りは何度も研究されているはずだ』
『わかってる、油断はしないよ』
『よし、なら安心だな』
皐月賞の時、ロスは前を防がれたが……外から周り誰にも邪魔されずに抜き去って勝った。
笑顔のまま立てた一本指が妙に印象に残っている。
……
日本ダービー……もっとも運が良いウマ娘が勝つと言われているレース。
ステラは一瞬の油断を許さなかった。
内側は荒れていて誰も走らない……みんなそう思っていた。
ステラは内側を通り切り、さらに加速した。
一度加速して逃げたステラをもう一度差すのは至難の技だ。
ステラの手には二本の指が立った。
だが三本目の指が立つことはなかった。
菊花賞の前に骨折が発覚したからだ……
『ごめんトレーナー、三冠取れなかった』
『もとからクラシック三冠で終わる気なんてなかったんだ、──はそれで終わるつもりだったのか?』
『……もちろん、私は勝って笑うためにもう一度ターフに立つよ』
あれ?名前……なんだっけ?
忘れちゃいけない、忘れていいはずがない。
俺が支えて、俺を支えたあの子を。
まるでかけたパズルのように思い出せなくなる。
忘れちゃだめだ、俺はまだ──と走りたいんだ。
『ねぇ』
後ろから声がかけられる。
そこにいたのは──だった。
『トレーナーはもう思い出せないんでしょう?』
違う、そんなことはない、今まで共に生きてきたんだ。
『目の形は?鼻の形は?口の形は?』
そいつが言葉を発するたびに、その場所が黒に染まる。
『髪の色は?髪型は?……あなたは何も思い出せないでしょう?』
──を忘れるなんて……。
『おやすみなさい』「諦めないで」
足元がなくなる感じがして、深い深い闇の中に沈んでいく。
……
「うぅ……」
頭が痛い、ここは病院か……?
「!?トレーナー!」
横を見るとルドルフとゴルシと知らないウマ娘がいる。
「ルドルフ……ゴルシ……君は……誰だ」
目の前のウマ娘は驚きと悲しみが入り混じったような顔をする。
「え……?」
ゴルシは驚きの表情で、ルドルフが怒りの表情で言葉を放つ。
「おいおいおい……冗談にしたってもっとあるだろ!」
「さすがにそれは笑えないぞ、涙トレーナー」
何を言ってるんだ……?
俺はこの子がわからないし、冗談のつもりなど全くない。
「わ、わた……し」
何かをしゃべろうとして……彼女は部屋を飛び出した。
とっさに伸ばした手に何かが握られているのがわかる。
「花の……耳飾り?」
どうしてこんなものが?
名前はない。
ウマ娘用のだから自分のものでもないし……。
「おい」
「……なんだいゴルシちゃん」
「お前本当にわからないんだな?」
「本当にわからない、今の子が誰で、僕とどんな関係だったのかも」
わからない、わからないから泣いた顔がまとわりついて頭から離れなかった。
医者が入ってくる。
「軽い診断をしましょうか」
……
医者との診断でわかったのは俺が階段から落ちたことでの外傷は奇跡的に大したことではなかった。
……記憶のほうは無事ではなかったが。
ストレスから自らその記憶に蓋をしたそうだ。
治す手段がない……そう言われてしまった。
何らかのきっかけで思い出すかもしれない、でも今は彼女に会うことがきっかけになるような気がしている。
「診察結果は以上です、怪我自体は打ち所がよかったのか大したことはないので、このまま帰っていただいても構いません」
「わかりました……ありがとうございます」
診察が終わって病院を出る……。
ルドルフとゴルシちゃんは先に帰ったようだ。
トレセン学園に帰るためにタクシーを呼んだ。
ふと気が付く、携帯のメモ帳ならば何か記憶の手がかりがあるかもしれない。
……メモ帳はレースの日程などが書かれていた。
一番新しいメモには『ステラが退院する、トレーニングメニューを考える』とだけ書かれていた。
「ステラ……」
おそらく彼女の名前だろう。
やっと来たタクシーの中でさらに情報がないか探す。
マスコミの記事が大量にヒットするが……。
(俺へのバッシング……ウマ娘ロンリーステラ転倒)
なんとなくわかってきた。
ロンリーステラ……俺は彼女の担当で、レースの途中で怪我をした。
いや、おそらく俺の管理不足だったのだろう。
自分のポケットをあさる。
薬と……花の耳飾り。
薬は調べると精神安定剤だった。
「ストレスで記憶に蓋をした……か」
耳飾りはところどころ傷があって誰かが使っていたということしかわからない。
おそらく相当長く使っている……と思う。
いろいろ確認していると電話が鳴る……ルドルフだ。
「もしもし」
「涙トレーナー、今は病院か?」
「いやタクシーでトレセン学園に向かってる、怪我は大したことがなかったからな」
「そうか、彼女……ステラはどうする気だ」
どうする、か……。
俺には彼女の記憶が無い、メモからおそらく練習メニューは完成している……。
「俺には記憶が無いからな……トレーナーとして活動できても彼女のトレーナーとして再起するのは難しい、と俺は思ってる」
「……そうか」
沈黙が続く……。
「ステラはおそらく空き部屋にいる、といってもわからないかもしれないな……」
「いや、物置にもなってない空き部屋はたしか一つしかない……たぶん大丈夫だよ」
「そうか、ちゃんと話して決めてくれ」
「わかった、じゃあ切るよ」
何を話せばいいんだろうか、謝るべきなのだろうか。
頭の中を無駄な思考がグルグルとめぐり続ける。
「お客さん、つきましたよ」
「あぁ、ありがとうございます」
……考えすぎるほうがよくないかもしれない。
今の俺が考えていることをそのまま伝えるべきだろう。
……
空き部屋の前に立つと部屋の電気がつけっぱで中に誰かの影が見える。
意を決して扉を開く、中にいたのは彼女だった。
何かを集中して読んでいてこちらに気が付いていない。
「なぁ」
「ヒャッ!」
彼女が驚いて飛び上がる。
ノックしてから入るべきだったかもしれない。
「と、トレーナー」
「俺は君のトレーナーだったんだよな……すまない」
謝罪が言葉として出てきた。
「……なんで謝るの?」
「……わからない、でもそうすべきだと思った」
本当にわからない、でも彼女を傷つけたなら謝らなくちゃいけないような気がした。
「……私は、ウィンタードリームトロフィーを取りたい、まだトレーナーでいてくれるなら手伝って」
彼女はまっすぐ、鋭い目線をこちらに向けながら堂々とそう言った。
でも、俺にはそれにこたえるだけの自信もなかった。
「俺は……君のトレーナーには戻れない」
前が見れない、まっすぐ彼女の瞳を見ることができない。
怖くて仕方がなかった……。
間違いなく俺は彼女と一緒に歩んできている、メモや記事を見ればそれは間違いなかった。
「ここに戻る途中で調べた、君の足は写真で見てもひどいものだった」
言いたくない、心のどこかで叫んでいるような感覚。
止まりたいけど止めちゃいけない。
「あの怪我は俺のs「それ以上は言わないで」
言おうとしたことが遮られた。
思わず顔を上げて彼女を見る。
彼女の目には涙の後が残っている。
「言ったら私」
彼女は言いよどんだ。
次の言葉を待つ……。
「まだそう思ってるならちゃんと私と一緒に戦って、諦めてそこで終わりになんてしないで」
目に火が灯ったように感じる。
……俺はまだ終わっちゃいけない。